それは、
あたたかくて、やわらかいもの。
それは、
やわらかくて、やさしいもの。
それは。
「ふむ」
「『ふむ』、じゃ分からないわよ」
携帯の画面から視線を外す。
「やっぱり。これは、デートのお誘いなんじゃないの?」
そう言って、携帯を菜穂に返して目の前のアイスコーヒーをストローでひと口飲む。
「お姉ちゃんも、そう思う?」
菜穂は嬉しそうな表情で、私の顔を覗き込んでくる。
私もその菜穂の顔をじーっと見ながら、わざとズズズッ――と音をたててアイスコーヒーを飲んだ。
「だいたいさぁ、メールのアドレスなんて交換しちゃってさ。つまりは、結構仲がいいってことじゃない。その学くんとやらと」
私がそう言うと菜穂は、ぽっと可愛い音をたてて顔を赤くした。
いいなぁ。そんなことが出来て。
私になんて到底出来ないワザよね。
ほんと、バカバカしい。
「えへへ。デートかぁ」
「ハイハイ、よーござんしたね」
やってられないわよね、と思って店内に視線を移す。
日曜の午前中のコーヒーショップは、あくびが出そうなくらい呑気で平和で退屈な空気を醸し出していた。
時間がゆっくりと流れて。
お店の中にいる人みいんながおめでたいくらいに優しい顔をしていた。
こんな、ズッチャカ、ブッチャカ音を立ててアイスコーヒーを飲んでいる奴は私くらいなものだ。
あぁ、荒んでいる(すさんでいる)なぁと思う。
そんなの、自分でも分かっている。
菜穂を見る。
可愛い。
落ち込む。
ふいに、パタリと携帯を閉じて菜穂が私を見た。
「でもさ、どう思う? 『お姉さんも一緒に来て下さい』って」
そうなのだ。
菜穂の愛しの学くんからのメールには『お姉さんもご一緒に』なんていう一文があったのだ。
だから、妹のデート現場に、私も来た訳だけど。
「菜穂が未成年だからじゃない?」
菜穂の話だと、学くんとやらは真面目な同級生らしかったし。
「そんなこと言ったら学くんだって、未成年よ」
「じゃぁさ、『ボクは安全ですよ』ってな、真面目人間ビームを出しているとか?」
「そんなの出さなくても、学くんはもとから真面目でしっかりとした人よ。二年前に学くんのお父さんが事故で怪我して大変だった時も、お母さんと協力して家族を支えてがんばったっていう伝説まで残っているんだから。あっ。……学くんってお母さんと仲がいいっていうし」
「なに?」
「年上好きで、お姉ちゃん狙いとか?」
ぶっ。
「やだ、お姉ちゃん! ほら、拭いて、拭いて」
菜穂は、鞄からテッシュを出して私の顔を拭きだした。
「ご、ごめん。口からコーヒーが出ちゃったわさ。あぁ、さんきゅ、さんきゅ。し、しかし、あんたね。社会人のお姉さんにそんな、滅多なことを言うんじゃありませんっ!」
「ごめんなさい」
なぁんて、道徳的な会話を妹としながらも、実は『それも有りかなぁ』なんて鬼姉は思ってみたりもしている。
菜穂から見せてもらった、修学旅行での集合写真。
学くんってば、かなり良かった。
顔は、ね。
まぁ、顔は大事だけどさ。
「あっ。学くんが来た!」
菜穂の弾んだ声につられてガラス窓の向こうを見た。
そこには、修学旅行の写真と同じ顔した菜穂の学くん(こういう単語にしないと、私の怪しい希望が入りそうなので)と、もう一人。
「なんで、あの男が」
私も、良く知っている男。
坂向井 公って奴が何故か並んで歩いて来ていた。
間近で見る菜穂の学くんは、写真で見るよりも背も高くて(伸びたのでしょうね)、写真で見るよりも硬派な感じがした。
硬派。
そう、硬派の名にふさわしく、学くんの顔は怒っていた。
一方、坂向井 公は良くしゃべった。
「えぇ! なぁんだ、菜穂ちゃんのお姉さんって、美穂だったんだぁ。おおっ、久しぶり、元気かぁ」
その滑らかな坂向井のしゃべりは、私たちの上空遥か一万メートルを滑りに滑って滑りぬいた。
そして坂向井他の三名は、誰もこの滑った会話に絡むことが出来ず、坂向井の声をBGMに聞きながら、ただただじっと葬儀場でのお見合いの様に黙って座っていた。
「木下。出られる?」
ふいに学くんが、菜穂に話し掛けた。
菜穂は真っ赤になりながら、コクンコクンと頷いてそして私をちらっと見た。
「お姉さん。木下さんと映画に行ってもいいですか?」
学くんに聞かれる。
「うん、あっ、はい。ええと、菜穂はお金あるよね」
菜穂がまたまた真っ赤になりながら、コクンと頷く。
菜穂ったら全く。
憎たらしくなるほど可愛いじゃないの。
「えっ? 映画? 俺たちも行くよ」
坂向井が学くんに言う。
「おじさん、止めてください。いい加減、邪魔です」
学くんが坂向井を冷たい目で見下ろしている。
『おじさん』って言われた坂向井は、しゅんとした顔になった。
「申し訳ないですが、お姉さん。この人のことは適当に放り出して帰って結構ですから」
そう言うと、学くんは席を立って歩き出し、その後を菜穂がちょこちょこと続いて歩きだした。
見た目にも、とっても可愛いお似合いのカップルに見えた。
そんな二人の姿がお店を出るのを確認した後、私は坂向井に話し掛けた。
「坂向井って、学くんの『おじさん』なの?」
「うん、学は姉貴の息子」
そう言うと、坂向井は黙ってしまった。
さっき四人でいた時のやかましかった様子とはうって変って、坂向井は大人しくなってしまっていた。
坂向井と会うのは久しぶりだった。
多分一年か、そこいらぶり。
そして、久しぶりに見た坂向井は、坂向井は。
「あんた、また痩せた?」
坂向井は「うん」と言うと、ますますしょぼくれてしまった。
そんなにしょぼくれられると、なんかまるで、私がいじめているみたいな気がしてきてしまう。
困ったなぁ、と思いお店の時計を見ると、まだ十一時にもなっていなかった。
今から図書館に予約していた本をとりに行ったら、午後からはずっと読書が出来る。
ざっとこれからの予定を頭の中でイメージした。
まぁ、このまま坂向井とお茶を飲む理由もないし、明日からはまたお仕事が始まるし。
貴重な休日は有効に使わないと損をしてしまう。
そして何よりも、私は坂向井とは二人っきりにはなりたくなかったし。
「じゃ、私は帰るからさ」
そう言って私はテーブルの上の氷だけしか残っていないカップを持ち、立ち上がった。
じゃらりとカップの中にあった氷がずれる音がした。
「待って」
いきなり坂向井が私のカップを持った手首を掴んできた。
「美穂に話がっ」
「―― んなもん、ないっ!」
なんて言って坂向井が掴んできた手首をぶんと振り切ったら。
「あらら」
「うっ、冷たい」
「ご、ごめん」
ストローとプラスチックの薄い蓋と、オマケにカップに残っていた薄茶色した細かな氷が、坂向井の顔のど真ん中にめがけて見事ヒットしてしまったのだ。
ハンカチを坂向井に渡す。
お店のお姉さんが、塵取りとほうきで氷を拾ってくれた。
そして私は坂向井の為に、温かな紅茶を買った。
「これ飲んで温まりな」
「うん」
やせっぽちの犬みたいに、坂向井が両手でそのカップを持ち紅茶を飲み始めた。
「美穂は、優しいなぁ」
坂向井が言う。
「ご冗談」
昔から、この男は『美穂は優しい』なんてことをぬかしおる。
その言葉を、一度心底弱っている時に私はこの男から頂戴してしまい。
少しだけ付き合ったことがあった。
この男と。
けどその後、きっちりと振らせて頂いたけど。
「彼女、出来た?」
坂向井に聞く。
「出来ない」
ふーん。
「坂向井って、まぁ無駄に明るめだけど、いい奴だしさ。それに高校の時とかよく女の子連れてたじゃない?」
間が持たずに、今度は私が饒舌になってしまう。
事実、坂向井は、学くんのオトコマエさには足元にも及ばないけど『いいやつ攻撃』で結構それなりに女子からの人気はあったのだ。
「振った癖して、よく言うよ」
ぼそりと、坂向井がそんなことを言い出した。
びっくりした。
心臓が跳ね上がった。
「あんた、それ。もう、一億光年くらい前の話しでしょ? 別れたあとも、何回かみんなで遊んだりしてたよね」
振ったとか振られただとか、昨日今日じゃないことを。
そんなことを、しかもこの坂向井が言い出すなんて。
「美穂と付き合ってから、誰とも付き合えない」
ぶぅと膨れた顔を坂向井がする。
「……二年、も?」
二年、誰とも付き合っていないって?
「それは、心身ともにやばいでしょ?」
「やばい、だから美穂、責任とって」
はっ?
責任、とな?
「いやぁ。ほら、私は、なんて言うかさぁ」
視線が泳いでしまう。
「ほら、私言ったよね。お別れする時も。私だめなんだって。痩せている男の子って、ダメ、ダメ、絶対にダメって。私は、自分より肉がついている人がいいんだぁ、って」
だってさ、男が女を抱きしめて『壊れてしまいそう』って思うのはありだけど、その逆は。
どう? どうよ?
ねぇ、ねぇ、どうよ?
「オレ、太るから」
じーっと、坂向井が私を見る。
私も、じーっと坂向井を見る。
以前よりも痩せた体。
Tシャツから出た骨ばった腕。
指。
「いやぁ、坂向井さぁ。つまりがさ、太るとか痩せるとか、そんな簡単なモンダイでもないんだなぁ」
つまりが。
私が言いたい事は。
私は頼りたいのだ。
気持的にも。
肉体的にも。
その両方が欲しいのだ。
よしよしと、男の人にしてもらいたいのだ。
けど、坂向井と一緒だと、私が坂向井をイイコイイコしないといけなかった。
それは、坂向井が太ったってきっと同じなんだと思う。
だた、坂向井と別れる時には、それが一番彼に響く言葉だと思ったから。
だから、そう言った。
そして、事実、私は逞しい人のほうが好きでもあるし。
あぁ、なんだか、こっちまで混乱してきた。
男の人を、イイコイイコするのは、はっきり言って、まぁそれは、決して嫌ではないんだけど。
うん、嫌ではないのよ。
ただね、そればっかりっていうのも、あんまり好ましくも無くて。
うーんと、なんだろう。
なんて説明したらいいんだろう。
言葉が上手くみつからない。
つまり、坂向井はいいやつ。
だけど、私の理想とは全く違う。
付き合ったのも、たまたまのことで。
凄い情熱があってのことではない。
偶然。なんとなく。成り行き。気休め。はし休め。つまりが、おしんこ。
そうそう、おしんこ男。
そんな付き合いだったはずなのに、付き合うにつれ坂向井の存在が、私の中で黄色のシグナルを発し出したのだ。
こいつといると。
坂向井といると。
私は、私の道を歩けなくなってしまいそうになったから。
「あのさ、もしかして。もしかしてさ。今日のって。坂向井が計画したとか?」
恐る恐る、坂向井に聞く。
「うん。学が菜穂ちゃんのアドレスを聞いたって聞いたから」
ついメールを、と。
学くんの表情の硬い理由がわかった。
アドレスを聞いたってことは、学くんだって菜穂に少しは気があるんだと思う。
だからって、勝手にそんなメールを出されたら、そりゃ怒るわよね。
「それ、犯罪っぽいよ、坂向井。だめだよ、もう勝手にそんなことしちゃ」
その私の言葉を聞いて坂向井がにっこりと笑う。
「美穂ならそう言うと思った。美穂の、そういうところが好きなんだなぁ」
ガクッとくる。そこ、突っ込みどころ違いますってば。
それに。
そんな痩せた犬みたいな顔でこっちを見ないで欲しい。
「お願いします! 美穂、付き合ってよ。大事にするから」
そう言って坂向井が私に拝んでくる。
私は観音様か。
「困る」
「男、いるの?」
「いないけど」
やばいっ、と口を塞ぐ。
なんで、私ってこう正直なんだろう。
「ラッキー。じゃぁ、オレが太ればOKってことか」
そう言うと、坂向井は席を立って、レジのところに行って、チョコチップのクッキーを十枚も買ってきた。
「なにそれ」
「食べるの。食べて太るの」
そう言いながら、坂向井がバクッバクとクッキーを食べ出す。
目の前で、どんどんクッキーがなくなっていく。
「ちょっと待ってよ、どうしたのよ。坂向井らしくない。そんなに必死にならないでよ」
二年前、私が「別れて」って言った時、坂向井は二つ返事でOKしてくれた。
坂向井は私のことをちっとも引き止めなかったし、動揺もしていなかった、と思う。
邪気の無い明るさで「いいよ」って言ったのは、坂向井だ。
その後、友達同士の飲み会でお互い顔をあわせても、私としてみれば多少色いろ思いはあったのだけど、全く変らぬ明るさで私に接してきたのも坂向井だった。
その坂向井が。
私の為に、クッキーを食べ出している。
「止めてよ、坂向井。今更なによ」
そうよ。
「今更、なんでよ」
そういうことは、二年前にすることだと思った。
こんな、甥っ子をだしに使ってすることじゃないと思った。
坂向井の手が止まって、私の顔を真っ直ぐと見た。
「あの時は。家の事情が色いろあって。美穂と付き合っていける状況じゃなかったから」
それだけ言うと、またモグモクとクッキーを口に運び出した。
「そ、そんなんじゃわかんないわよ」
坂向井は、私の言葉を聞きもせず、うぇ、うぇと言いながらクッキーを食べている。
うぇ?
待って。
「坂向井、あんた確か甘いの苦手じゃ」
坂向井の口は、次から次へと詰め込まれたクッキーが口一杯に入っている状態だった。
モゴモゴと私の顔を見て何かを言っているみたいだけど、当然の様に何を言っているのか分からない。
あっけにとられて見ている私の前で、坂向井がそのクッキーをモゴモゴと飲み込みだしだ。
そして、机の上に載った紅茶をガブガブと飲み干した。
「坂向井、水もいるよね?」
坂向井の返事を待たずに、私はカウンターに水を貰いにいった。
「お水二つください。氷は抜きで」
ガブガブ飲むのに氷は邪魔だと思った。
両手に水の入ったコップを持って、坂向井のいる席へと向う。
坂向井は、またクッキーをモゴモゴと食べていた。
私は水を机に置くと、今度は紙ナプキンを何枚か取りに行き、そして再び席に戻った。
「ねぇ、坂向井。無理しないで。ほら、クッキー出していいから」
私は両手に紙ナプキンを持って、それを坂向井の口の前に差し出した。
涙目になりながらも、坂向井はクッキーを頬張る。
その姿は、リスがどんぐりを口一杯に頬張っている姿にも似ていた。
やめて欲しい。
そんな姿を私に見せないで欲しい。
そうなんだ。坂向井は、そうなんだ。
坂向井は、私の理想とはかけ離れた存在の人なのに、ことごとく私の弱いところを突いてくる男でもあった。
私は、守られたいの。
私は、頼りたいの。
私は、自分よりも体格のいいオトコノヒトがいいの。
その全部を、無視した坂向井なのに。
坂向井といると、心があたたかくてなって。
坂向井といると、表情が柔らかくなって。
坂向井といると、優しい気持ちになれた。
それは、反則だと思った。
それは、違うだろうって。
ここで、坂向井でゴールしてしまったら、私は私の理想とするところ全てを捨てることになってしまうと思った。
凄く焦った。
まさか、坂向井が。
よりによって坂向井が。
私にこんな感情を抱かせるなんて、予想外、予定外、問題外だった。
だから、私は逃げてしまった。
坂向井から。
友だちに戻りたかった。
まだ間に合った、二年前なら。
黄色いシグナルで、ギリギリセーフだった。
でも、だめだ。
もう。
「美穂。泣くなよ」
クッキーを食べ終わった、坂向井が言う。
口の周りに、クッキーの粉がたくさんついている。
「バカ向井」
「その呼び方、久しぶりだなぁ」
そう言いながら、坂向井が水をゴクゴクと飲む音が聞える。
「兎みたい」
坂向井が私の目を見ていう。
「もう、真っ赤っかだよ」
真っ赤。
シグナルも赤。
私は、歩みを止められた。
坂向井に。
坂向井と別れてから、何人かの人とナカヨクなる機会があった。
体格も私よりも良くて、年上で。
包容力のある人だっていた。
でも、あの時坂向井に感じた感情の数々を誰に対しても抱くことが出来なかった。
坂向井が、私と別れてから誰とも付き合えなかったって言ったみたいに、私だって誰とも坂向井とのようには付き合えなかった。
そのうち、どんどん心が荒んできて。
トゲトゲしてきて、カサカサしてきて、イライラしてきて。
もう、どうしようもなくなっていた。
拒否しながらも、否定しながらも、私はどこかで坂向井を求めていた。
「坂向井のせいだ。責任とれ」
そう言って、私は坂向井を睨んだ。
「喜んで」
坂向井ったら、もう。
粉だらけの口で大きく笑いながら、そんな台詞を吐いた。
―― その後 ――
相変わらずガリガリくんの坂向井は、へらへらりんの笑顔を隣りにいる私に向けてくる。
だって、太らせたところで、坂向井が化学変化を起すとは思えないし。
それに体重を増やす為だけに食べさせる食事代ももったいないから、それは早々に止めてしまった。
別にいい。少しくらい私の方がぽっちゃりしていても。
今ごろになって坂向井が、「なんか、不思議なんだけどさ。どーいう訳か、美穂といるとさ。なんか、こう、あったかくて優しい気持になれるっていうの?不思議だよなぁ」なんて言ってきた。
やっぱり、こいつはバカ向井。
私なんて、そんなの。
とっくに気がついて、坂向井を選んだっていうのに。
でも賢い私はそんな坂向井の言葉に「ほんと、なんでだろうねぇ」なんて相槌を打ってみたりする。
ちっとも理想の王子様じゃない坂向井。
でも、こいつだけが。
私が一番欲しいものを持っている男だった。
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