あなたは大丈夫?「頭が悪い人の話し方」

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2013/01/21


実は未読だったベストセラー本。怨念がこもっていてぼくは大好きです。面白かった部分をピックアップしてご紹介。


道徳的説教ばかりをする

「努力が大事」「真心をもって行動すれば、必ず報われる」「思いやりの心が大切だ」などと、誰もが反対できないようなことをいう。そして、がむしゃらにがんばれば物事は解決すると信じている。いや、信じるだけならまだしも、がんばることを人々に押しつけ、そうしない人間を非難する。

実効性のない道徳を説く人たち、あるあるですね。彼らは結局、自分の体験を絶対のものと捉えており、それでいて鈍感なのでしょう。物事についてよく考えていれば、道徳的説教が実行力を持たないことは明白です。道徳的説教を繰り出す人は、よほど恵まれてきたか、適当に生きてきたかのどちらかでしょう。


自分を権威づけようとする

この種の人は、自分の権威をことあるごとにちらつかせようとする。学歴のある人は学歴をひけらかそうとする。「私の東大時代の後輩に……」というように、必要もないのに自分の出身校を示したりする。

(中略)権威をいくら増したところで、知性が増すわけではない。それどころか、自分を権威づけようとすればするほど、その人の知性の底が割れて、愚かに見える。それを忘れてはいけない。権威とは、自分で高めるものではない。人が認めてくれてこそ、権威になるのだ。

こちらも見かけますね…。ここは猿山じゃないんです、と申し上げたい限りです。


自分の価値観だけですべてを判断する

教養とは、自分とは別の価値観も許容するということだ。自分だけの狭い価値観にとらわれず、別の価値観を理解し、広い立場に立って判断できるということだ。自分の価値観から一歩も出ないで、別の価値観で行動する他人を断罪するのは、いわば、別の国の法律で罰するようなものだ。それでは、知的な態度とはいえない。

多様な価値観を認めず、ことさらに他者を排撃しようとする人たち、ぼくは大嫌いですね。こういう原始的な人たちが無駄な争いごとを生み出すのです。

そう書くと「”多様な価値観を認めない”という価値観をおまえは認めていないじゃないか!」と屁理屈が飛んできそうですが、ぼくは無駄な争いを起こすのは賢くない、と申し上げているのです。「いじめをする自由を認めないのか!」的な主張であることにお気付きくださいませ。


根拠を言わずに決めつける

誰かが「なぜなんですか」とたずねると、この種の人は「そんなこともわからんのか」「自分で考えてみろ」「とやかく考える必要はない。悪いに決まっている」「そんなことは当たり前だ」などと、答えにならない答えを言う。

これもありますねー。自分の頭を動かせ!とでも言いたいつもりなのでしょうけれど、、そうやって考えることを強要するあなたの方が脳みそ使ってないじゃないか、というケース。

こういう人に「分からないので説明してください」というのは「失礼」なことなんですよね。「目上の人間に説明させるなんて何事か!」と。裏を返せば「おまえは低レベルな人間なんだからオレの命令を聞け!」という態度なわけです。こういう猿山的リーダーはすぐに人望を失うことでしょう。


低レベルの解釈をする

何かにつけて、低レベルの解釈をする人がいる。いわば何についても「下種の勘繰り」解釈をする人だ。

(中略)誰かが社交ダンスなどのサークルに行くと「女が欲しいんだろ」と決めつけ、誰かがクラシック音楽の演奏会に行くと「趣味がいいと思われたいんだ」などと評する。誰かがお見合いを自分から断ると「あの人、理想が高いんだ」などという。医者になりたいという人がいると「尊敬されたいんだ」と言い出す。このように、もっとも単純でわかりやすい、いかにも低俗な欲望に基づいた解釈を示す。

ぼくも情報発信をしている人間なので、これは超あるあるですね。思い出せるところではmたとえばぼくはノマドワーキング礼賛派ですが、「イケダがノマドについて語るのは、目立ちたいからだ」とか。言いたいことを言っているだけで、目立ちたいなんて欲求はありませんよ。それはあなたのコンプレックス(目立ちたいけど目立てていない)の裏返しではないでしょうか?……と言いたくなりますね。


こんな感じのテイストで、著者が思う「頭の悪い人」の話し方が延々と紹介されています。

読みながら「この本は評価嫌いな人嫌いだろうなぁ」と思ってレビューを見てみると、すごいことになっていました笑

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ぼくは星5つですね。「あるある…笑」と楽しむこともできますし、我が身を振り返る反省も提供してくれます。ベストセラー本なので中古も安いです。ぜひ好きか嫌いか、リトマス的にお試しあれ。



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