暮れの総選挙を振り返って思うのは、日本からリベラルの灯が消えつつあるのかな、ということだ。どの党がどうというわけでなく、政界ではリベラルの旗手と言えそうな人物がすぐに思い浮かばない。この事態は有権者の選択がもたらしたものなのだから、いまどきの言い方にならって、重く受けとめるほかないのだろう。ただ、僕が心配するのは「世の中が悪い」論の衰退だ。
大いに結構なことではないか、という声が聞こえてきそうだ。たしかに、戦後の日本社会では、なんでもかんでも世の中のせいにする人たちのわがままぶりが目立った。その能天気な責任転嫁を指弾するのはよい。だが、一方で「世の中が悪い」がゆえに窮地に追い込まれた人が確実にいる。そこから過ちや失敗も産み落とされてきた。当事者の責めを問うのは当然だが、だからと言って、悪い世の中を放っておいてよいわけはない。
リベラルという言葉は、もともとの「自由」という意味から離れ、「弱者の擁護」や「社会の公正」を重んじる立場を指すことが多くなった。米国で定着して、日本にも広まった用語法らしい。このリベラリズムに立てば「世の中が悪い」をもっと堂々と言ってよい。世の中の「悪い」ところを正すことで、過ちや失敗の根っこを絶てるからだ。政治の役割とは、そこにこそあるはずだ。だが最近は「世の中が……」とは言いにくい。
30年前、40年前はどうだっただろうか。僕が新聞記者になったころ、小さな交通事故を取材するときでも、その背景に「世の中が悪い」があるかないかを見てとろうとした。現場にカーブミラーがきちんと置かれていたか、クルマのブレーキに欠陥はなかったか、運転手が過重な労働を強いられていなかったか――。新聞記者の仕事は、問題をひき起こす構造をあぶり出すことにある、とたたき込まれていたのである。
この思考法に落とし穴があることは認める。たとえば、「世の中が悪い」論のもっとも安直な解の一つに「行政がなんとかしろ」がある。交通安全対策であれ、医療であれ、教育であれ、公費を湯水のように使えた時代は、お役所がいろいろ面倒をみてくれた。だがそれができない今、何事も行政まかせにすべきではないだろう。だが、それでも思う。「世の中が悪い」と言わなくてはならないことは世の中にたくさんある。
そんな感慨と響き合うのが今週の1冊だ。長編ミステリーの『火車』(宮部みゆき著、新潮文庫)。これが書かれた1990年代初め、日本のバブル経済がはじけて潰れたあのころは、まだ「世の中が悪い」論が健在だったことがわかる。
1993年の直木賞候補作。受賞は逃したが、その選考結果に対して文学ファンからブーイングの声が上がったらしい。ちなみに、著者は99年に『理由』でこの賞を手にした。そんな『火車』絶賛論を別の宮部本のあとがきで知って、どうしても読みたくなった。読んでみると既視感がある。野球場の照明灯を背景にした住宅の写真が出てきたあたりだ。またも意図せざる2度読みかと思ったが、違った。テレビの2時間ドラマで見ていたらしい。
謎を追う側の主人公は本間俊介。刑事だが、足に被弾して休職している。追われる側の主人公は「関根彰子(しょうこ)」。本間の親類の銀行員栗坂和也の婚約者だ。結婚を前にクレジットカードをつくることになって申し込んだところ、カード会社から発行できないという答えが返ってきた。自己破産を申し立てていたのだ。和也がその証拠を見せたところ、彰子は姿をくらます。そこで、捜してほしいと頼んできたのである。
この小説は、バブル経済真っ盛りの1980年代、消費者金融やクレジットカードが広まって多重債務地獄に陥る人が続出したころを近過去としている。地獄の実態を語るのは、「彰子」が相談に駆け込んだという溝口悟郎弁護士だ。本間を相手に持論を展開する。「現代のクレジット・ローン破産というのは、ある意味では公害のようなもの」「金融市場は、もともとが幻」「現実社会の『影』としての幻なんですよ」
例に挙げるのは、28歳サラリーマンの借金苦。月給は手取り20万円、とりたてて資産もない。それなのに「クレジットカードを三十三枚持ち、負債総額はなんと三千万円にまで達していました」。幻の温床に「過剰与信、過剰融資」があるという。それなのに役所は縦割り行政をしていてきちんと手を打たない。学校はカードの使い方を教えない。世間には「個人の問題」と片づける人が多い。これが、溝口のいらだちだった。
交通事故になぞらえる話も出てくる。本間には妻が運転中に事故死したという過去があった。トラックが過労居眠り運転で反対車線からはみ出してきたのだ。それを知って、溝口はつらい話に入り込んだことを詫びつつ、ひるまずにその事故のことを論じる。
「無論、居眠り運転のトラック野郎には過失があった」「が、彼をそういう勤務状態においた雇い主にも問題はあった」「中央分離帯をつくらなかった行政側も悪い」。道を広げられないのは「都市計画が悪いからだし、地価が途方もなく高騰(こうとう)しているからでもある」。事故と地価との間にはだいぶ距離がある。暴論ととる向きもあろう。だが、そこまで掘り下げて物事を根底から問い直すのがリベラルなのだ、と僕は思う。
溝口は、多重債務に追われる人を「ひとまとめにして『人間的に欠陥があるからそうなるのだ』と断罪する」のは、交通事故のドライバーに「前後の事情も何も一切斟酌(しんしゃく)せずに、『おまえたちの腕が悪いからそうなるのだ。そういう人間は免許なんかとらないほうがよかったんだ』と切って捨てるのと同じこと」と断じる。債務禍の根に、バブルの幻想を野放しにしていた世の中のありようをみてとっているのだろう。
ちなみに、この溝口弁護士にはモデルがいるようだ。著者の「あとがき」には、「クレジット・サラ金問題の現状について有益なお話を聞かせてくださいました弁護士の宇都宮健児先生」への謝辞がある。総選挙と同日の投開票となった東京都知事選で、二番手ながら大差で敗れた宇都宮弁護士である。
この小説はミステリーなので、筋にはあまり立ち入るまい。だが、これだけは言ってもよいだろう。「関根彰子」は一人ではないらしい、二人いてどこかで一人の「彰子」が別の「彰子」に代わったらしい、という疑いが物語の中心にある。
読んでいて頭をかすめたのは、「彰子」が入れかわるのも、休職中の刑事がその真相に迫るのも、2013年の今なら難しいだろうということだった。個人情報保護法ができて、別人になりすまそうにもその人物のデータを入手しにくくなった。これは、なりすましを暴く側にとっても、証言や証拠を易々と集められないことを意味する。だが、それでもこの小説のモチーフは、今の僕たちを惹きつける。
理由の一つは、ネット上のなりすましという新種の脅威が出てきたことだ。自分でない自分が仮想空間を勝手にうろうろして悪さをしているかもしれない。これほど気味の悪いことはない。
もう一つは、役所などで本人確認を求められたとき、本人であることを立証できるのかどうか自分でも不安になる瞬間があることだ。最強の証明は運転免許証だが、その顔写真と名前が正しく対応しているのかどうか、危ういと言えば危うい。免許証を初めてもらうときは別の本人確認書類が必要で、その書類を得るにも別の書類が要る。最後の最後は、自分で「僕が僕」と言うか、周りに「彼が彼」と言ってもらうしかないのだろうか。
だからこそ、僕たちは「あなたがあなた」と言ってくれる人がほしい。本間の周りで言えば、息子の智や近所の井坂夫妻、刑事仲間の碇たちがいる。だが、この小説で最も印象に残るのは、最初に消えた「彰子」を「しいちゃん」と呼ぶ幼なじみの青年、本多保だ。保が「彰子」の軌跡を追う姿は胸に迫る。保には妻がいて彰子は恋人でも愛人でもないが、「しいちゃんはしいちゃん」と言える関係がそこにはある。
宮部みゆきのリベラルは、そんな情愛に満ちた人間関係と表裏一体のように思う。
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