慰安婦対日非難決議案が米議会外交委に上程され可決
日本国会議員や有志がワシントンポストに出した意見広告が
逆効果になったとか言っているマスコミもいるけど
別に誤解されてもいいから言うべきことをきちんと言っていく姿勢は正しい。
それでアメリカ人が逆上しようが関係ないのだ。
小林よしのりが「今回の決議案が下院で採択されれば
慰安婦問題で国際的非難が巻き起こるのは必至」と言っていたので
ああオランダあたりが何か言ってくるかもなと思っていたら
本当にオランダが言ってきたので爆笑した。
オランダ下院議長が河野衆院議長に釈明求める書簡を送付
第二次大戦中の従軍慰安婦問題で、オランダ下院のフェルベート議長は28日、
日本の国会議員らが、女性を慰安婦として強制的に動員した事実はなかったと
反論する意見広告を米紙に掲載したことなどに関し、釈明を求める書簡を
河野洋平衆院議長に送付した。
日本占領下のインドネシアで慰安婦にされた国民がいるオランダでは、
安倍晋三首相の3月の「(動員に)強制性を裏付けるものはなかった」との
発言や意見広告を受け、バルケネンデ首相が「あまりにも不適切だ」と不快感を
表明している。(ブリュッセル共同)
「釈明を求める書簡を送付」てのが偉そうでいい。
いかにもオランダ人である。
日本人は面白がってオランダ村ハウステンボスやら作ってみたり
オランダは見晴らしのいい丘に風車が回って、赤や黄色のチューリップが咲き乱れている
のどかで牧歌的な国、と信じてる人が圧倒的に多そうだが大変な誤解である。
はっきり言うがオランダは朝鮮人など比較にならない重度反日国家だ。
第二次大戦中に日本軍はオランダが350年間植民地支配していたインドネシアに侵攻
在留していたオランダ軍をあっという間に撃退した。
戦争が終わった後オランダは再度インドネシアを支配しようと戻ってきたが
日本軍は戦時中、インドネシア民兵に兵法を指南し軍隊を設立させており
このインドネシア軍に残留日本兵までも荷担してオランダと独立戦争を展開
インドネシアはオランダ軍を退け東南アジアの中でいち早く独立を成し遂げた。
そんなアホなと思うかもしれないが
このことでオランダ人は今でも激しく日本を憎んでいる。
戦時中日本軍占領下のインドネシアには15万人のオランダ人が在留していたが
戦争で働き手を失って貧困にあえぐ女性たちの中には
売春婦に身をやつす人もいたりした。
やがて戦況が悪化するとすべての敵性外国人は軍抑留所に入れられたが
当然食事や衛生管理などは行き届かず不満が高まる。
この時のオランダ人はこの抑留所での生活の不衛生さを
「思い出すだけで我慢ならない屈辱」などと言うが
この施設はオランダ人が現地でインドネシア人奴隷のために作った宿舎だったりする。
それだけでもオランダ人がインドネシアの人々を植民地支配で
どのように扱ってきたかがわかるわけだが
戦況が悪化してることもあり、確かにひどい状態ではあったらしい。
日本人さえ食うに食えないのだから捕虜が食えないのは当然ではあるのだが
これに目をつけた軍の担当者と慰安所の業者が
好条件を提示すれば慰安婦が集めやすいと考えたようだ。
抑留所を管理していたジャカルタ第16軍軍政監部は、慰安所設立や慰安婦募集に関して
強制の禁止、自分の意思で慰安婦に応募したと同意書を取るよう通達していたが、
違反する部隊もあったらしい。
「白馬事件」と呼ばれたスマラン慰安所の強制売春事件はこの時起こった。
白馬事件
担当将校・警察・業者は、各地の抑留所から17才から28才の合計35人のオランダ人
女性を強制的に集め、スマランの慰安所に連行した。3月1日から営業を始め、
女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、
妊娠した者がいる。しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーの訴えにより、
陸軍省から捕虜調査に来た小田島董大佐の勧告により軍司令部は、1944年4月末に
4箇所の慰安所を閉鎖した。
しかしながら、日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。
戦後オランダ人女性の告発によりこの事件はB,C級法廷で裁かれ、
死刑を含む10数人の有罪者を出す。
しかしこの裁判では、スマラン慰安所の慰安婦集めに重要な役割を果たした
オランダ人のスマラン州長官や役人は逮捕もされず、証人として呼ばれてもいないし
証言もしていない。要するに女性たちの証言のみで一方的に「すべてが日本軍の強制」
として断罪されたことになる。
そして再三の要求にも関わらず、オランダ政府は現在まで
この事件を扱った裁判の記録を一切公表していない。
つまり、スマラン事件は「慰安婦強制連行」の事件として有名ではあるが
実はその証拠となるものは出ていない。
ちなみに東京裁判でのオランダ判事によって出された日本人への絞首刑判決は226件
これは他戦勝国出身判事に比べても抜きん出ている。
第2次大戦における日本のオランダに対する賠償問題は、1951年のサンフランシスコ
講和条約と1956年の「日蘭議定書」により法的には解決され、日本側は当時の金額で
1千万ドル(36億円)を「見舞金」名目で元捕虜や民間人へ支払った。
(現在の価格で1000億円以上)
この時の日蘭議定書には「オランダ王国政府は、同政府又はオランダ国民が、
第二次世界大戦の間に日本国政府の機関がオランダ国民に与えた苦痛について、
いかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことを確認する」とある。
しかし、1990年に対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対して法的責任を
認めて一人当たり約2万ドルの補償をもとめる運動がはじまった。
これに対し日本は2億5500万円を支払い、2001年「償い事業」が終了した。
これらオランダの日本に対する要求は、実際に支配を受けていたインドネシアを
初めとする東南アジア諸国から強い反発がある。(→Wikipedia)
2005年に国連常任理事国入りのために各国をロビー訪問した小泉がオランダに渡り
バルケネンデ首相と会談したが、バルネケンデは、特に理由はないが日本の国連常任
理事国入りを支持しないと明言。
第二次世界大戦中のオランダ人捕虜の待遇に関して謝罪を要求した。
ちなみに竹下元首相も海部元首相もオランダを訪問しているが
2人ともその都度オランダ首相との会談で謝罪を要求されている。
天皇陛下も外遊でオランダを訪問したことがあるが
車列に生卵を投げつけられ罵声を浴びている。
1991年ヴェアトリクス女王が来日したが、宮中晩餐会で「太平洋戦争で数多くの
オランダ人が犠牲になり十万の民間人が何年もの間勾留された」と発言した。
ヴェアトリクス女王は事前に天皇との会見で謝罪を要求している。
その後この女王は1995年にインドネシアを訪問して、謝罪はおろか
「植民地支配は互恵的であった」とスピーチし、インドネシア人を唖然とさせた。
ちなみにインドネシア独立に際し、オランダは60億ドルの代償金を請求し
スマトラ油田の開発費を弁償させ不動産などの資産を保全させている。
つまりオランダは
自分たちがインドネシアで350年間何をしてきたかは棚上げした上で
「何度謝ろうと何度でも謝り続けろ。そして賠償金のおかわりをよこせ」と
日本に言い続けている狂信的な反日国家であり
その意識は一般国民にまで深く浸透している。
浸透しているというより、もともとそういう人たちなのだと考えたほうがいい。
ルディ・カウスブルックというオランダ人評論家は
こうしたオランダ人の反日感情を自ら次のように分析している。
「自分たちオランダ人が350年間にわたって享受してきた“優雅”な植民地支配を、
突然“醜い劣等人種”によって打ち砕かれたことへの屈辱感」
ここまで来れば冒頭の僕の爆笑の意味がおわかりだろう。
別にオランダごときを不用意に敵視する必要はまったくないが
こうした事実を知っているのといないのとでは
阿漕な要求が突きつけられたときの対応に微妙な温度差が生じる。
要するに、オランダが何か言ってきたら
ああまたオランダか、くらいに思っとけばいいのである。