格闘技というものは本来、一定時間あたりで体内に蓄積できるダメージの総量を競う競技なのだと思う。
ダメージが限界を超えた選手は動けなくなってしまうし、どれだけの攻撃を受けても受け止められるダメージに限界がない、不死身の選手が競技に参加してしまうと、もはや格闘技はゲームとして成り立たなくなってしまう。
ダメージには「与えかた」と「受けかた」とがあって、技術としてそれぞれ確立されている。技術を学んだ選手は、相手に与えるダメージをより大きく、受けるダメージをより小さくすることで、結果として、時間あたりに受け止められるダメージの量を、相手に対してより大きく保つ。結果としてこれが、勝利確率を向上させる。
囲碁や将棋といったゲームもまた、一定時間あたりで体内に蓄積できる「認識の総量」を競う競技なのではないかと思う。認識は、身体にダメージこそ与えないけれど、ある時間で頭の中に保持できる認識の総量には恐らくは限界があって、限界を超えた選手は、やはりそれ以上考えることが難しくなってしまう。
認識は節約できる。
目を開ければ、否応もなく景色が飛び込んでくるけれど、景色が本来持っているであろう情報を全て受け止めたら、頭はそれを処理できなくなってしまう。視覚を通じて頭に入る情報の量は制限されているはずなのに、その割に人間は、見たものを「現実だ」と受け止めるし、目で見た何かはたいてい、それなりに現実っぽく認識される。
現実感というものはたぶん、「こういう世界であるはずだ」という過去の経験を、視界を通じて入ってきた情報に重ねることで生み出されているのだと思う。現実の基礎部分は「思い込み」であって、視力を通じて得られた情報は、思い込みを検証したり、差分情報を更新したりすることに使われる。更新に失敗する、あるいは更新の錯誤を引き出すのが「錯視」であって、分かっていても、あれを正しく見るのは難しい。
自動車で通勤していて、なにか考え事にふけってしまうと、「気がついたらこんなところまで来ていた」ことにびっくりすることがある。車はもちろん普通に運転されていて、交差点があればブレーキを踏み、歩行者がいれば避けているはずなのに。何年も同じ道、同じ時間を通っているがゆえのことだとはいえ、「思い込み」と「差分情報」を突き詰めると、認識に必要な情報量は相当に少なくできる。
何かに習熟することは、その領域の問題解決に必要な認識量を減らすことでもあるのだと思う。
交響楽団で実際に楽器を演奏している人たちは、高価なオーディオ機器などなしに、安いラジカセで音楽を楽しんでみせる。楽器の音は、ふだん嫌というほどに本物を聞いているから、楽譜さえあれば、あとはラジカセでリズムを追うことで、オーケストラの演奏を十分に楽しめるのだと。あれは負け惜しみなんかではないように思える。
絶対音感を持つ人達は、あらゆる音が音符で聞こえる。恐らくは後天的に身につける技能であって、「絶対」という割には、国が異なると、絶対音感の基準となる音程が異なって、その国の「正しい」音が、絶対音感を身に着けた人には居心地の悪いものに聞こえたりもするのだという。
絶対音感は、演奏家に必ずしも必要な技能ではなく、それを持たないプロの演奏家も多いらしい。プロの演奏家の練習量は莫大だろうけれど、演奏というものが、囲碁や将棋みたいに「練習時間の制限」を設けられて、制限された練習量あたりの技量を競うようなものであったら、あるいは絶対音感という技能が演奏者を有利にするのではないかと思う。
「盤上の夜」という、ゲームを題材にした短篇集には、ゲームに対する自らの感覚を形容する言葉が足らず、世界の言語を探索する棋士が描写される。作者の人がプログラマだという経歴も手伝って、この描写が興味深かった。
言葉で表現することが難しい何かに対して、「これ」という表現を当てはめることができれば、認識は符号化される。問題解決に必要な認識量は、それだけ少なくなる。「言語設計者たちが考えること」という本でインタビューを受けていた、様々なプログラム言語を設計した人たちにも、どこか共通する問題の認識があったような気がする。
ゲームを競う人たちは、一定時間あたりで体内に蓄積できる認識の総量を競う。非凡な手を相手に示せば、相手に蓄積されるであろう認識量は一気に増えるだろうし、定石を学習したり、あるいは認識の符号化といった手順を踏むことで、自身に蓄積される認識量をより少なくすることもできる。こうした発想や工夫といったものが、恐らくはゲーム競技者の勝利確率を向上させるのだと思う。
ゲームは実世界を簡略にしたものではあるけれど、同時にそれは、認識を表現するためのメディアでもある。
実世界はまさしくリアルであるその代わり、表現すべきことは多すぎて、認識を言語化するのは難しく、同じ風景を見ている状況であっても、同じ認識を共有することなどできるわけがない。
ゲーム競技者は、ゲームというメディアを通じたあらゆる認識を抽象化、符号化して蓄積する一方、相手が予期できなかった一手を通じて、ゲーム盤に新しい認識を喚起してみせる。
短篇集の終盤、「ゲームで現実が変えられるなどと本当に思っているのか ?」と問われた棋士は、「王様を取ったら終わりだなんて、あなたはまさか、ゲームをそんなものだと考えているんじゃないでしょうね ?」と返答してみせる。
ゲームの達人は、技量を突き詰めた状況でお互いにぶつかり合う。認識の限界に挑んだその時、あの人達はたしかに、同じ認識を共有できたのだろうと思う。
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