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栃木の仙人 古本と温泉の日記

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2010年09月14日
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鈴木宗男氏を擁護する

カテゴリ:政治

 本日の曲

ウルトラセブンOP

これは二重の意味でかなりマニアックな作品。見たらわかります。

ウルトラセブンOP

みなさんよくご存じ本来のオープニング

ウルトラセブン ウルトラ警備隊の歌(インストルメンタル)

子供のころドラマの最中でこの曲がかかりますと、これから一体何がはじまるのだろうとわくわくどきどきしたものであります。

本日のテーマ


小沢さんは敗北し、鈴木宗男衆議院議員には判決下るとのこと。

残念としか言いようがありませんね。

これで現実政治に対する私の期待と興味が確実に減殺された・・・と。

北方領土この先どうなるのよ、と思ってしまいます。

こんな大事な時期にこんな有能な政治家をムショに入れちまって、国家の損失ではないですか。あくまで私個人の考え方ですが。

昔から、検察が狙い打ちにするタイプの政治家・実業家というのは、大体傾向が決まっている

古くは、田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫。近年に至り村上正邦氏、鈴木宗男氏、浜田幸一氏といったあたり。善悪・正邪は問いません。

正規の学歴がない、あったとしてもエリートコースからかけ離れ、学歴ギルドではなく、実力だけでのし上った苦労人の「異能者」タイプが多いことに気づく。

彼らは、大変な実力者たちなのだけれど、皆受験秀才タイプではありませんね。苦労してどん底からのし上がったタイプの偉人たちであります。しかし、独自の「人間力」みたいなもの、魅力的な磁力を持っていて、カリスマ性があったりする。

検察官僚はこういうタイプを非常に怖がる、と同時に、嫌悪するみたいです。

鈴木議員に関しては、罠にはめられたという感じがする。外務官僚たちの罠でしょうなぁ。

この分野に関しては、自身、体験も交えた専門家である佐藤優さんの見解が一番的確であります。

また元特捜地検所属の郷原信郎氏の検察批判。このあたりは、「法」と「倫理」を考える上で参考になります。

最近では注目すべき論考でもありますところの「談合文化論」など書かれている宮崎学さんの検察批判も同様。

鈴木さんは、「月刊日本」に連載をお持ちなので今後とも楽しみ。この雑誌けっこうおもしろいです。

強力な政治力の根源が必ず「議員」や「肩書き」でなければならない・・・ということはありません。カール・マルクスも宮崎滔天も、頭山満もみな国会議員ではありませんでした。

たとえ議席を失うとも、一時的にムショ暮らしになろうとも、今後とも鈴木宗男氏の活躍に期待したいところです。


雑記 

毎日仕事仕事で朝から晩までぱんぱんになる。

本業以外で、コンピューターに関係する実務についても膨大な時間と投下資本が消えていく。一般で言えば企業秘密にあたることですので詳しくは書けませんが。

ヴェーダ、ウパニシャッド関連の資料を読み込む。

名著だと思われたのが、「ウパニシャッド」辻直四郎著(講談社学術文庫)。「古代インドの神秘思想ーー初期ウパニシャッドの世界ーー」服部正明著。

前者は基礎的知識の確認・点検に役立ち、後者はその背景にあるものを押さえるのに役立つ。フランスにてゾロアスター教の聖典「アヴェスタ」の翻訳を手がけた東洋学者のデュペロンとウパニシャッドの関連などその人物ドラマの描写がすばらしい

イスラム教と関連して、キリスト教もその起源まで遡って調べてみたくなる・・ということで読みはじめたのが、グレゴリー・J・ライリー著「神の河ーーキリスト教起源説ーー」。初期キリスト教にどんな要素が入り込んでいるのか徹底的に解剖し、分析してみたくなった。シュライヘルマッハー、バルトやシュバイツァー、ボンヘッファーの資料も大量に買ってきてあるのですが、基礎の基礎をきちんとふみ固めてからでないと進めない、いきなり無理なこと無茶なことはやらない、このあたりは、私個人はーー基礎から応用へという本居宣長の学問方法論にあくまでも忠実なのであります。

(ちなみに本居宣長は、江戸時代の人物なのですが、古風な外形的形態とは裏腹にその本質を見てみますと「うひやまぶみ」における学問方法論といい、「玉くしげ」における政治政策論考といい驚くほど近代的な学者であります)

ジャズ・ピアニストのエディ・ヒギンズにはまる。精神的に激疲れ状態のときは、モダン・ジャズが最高です。

i padは、仕事面でも大活躍。買ってよかったとの感想。こんなものを発案できるスティーブ・ジョブスというのはやはり天才。クラウドコンピューテングサービスにワンクリックでアクセスでき、記録を参照したり、ネットで調べものを即座にやりたいとき、i padは驚異的な力を発揮します。この手軽さはたしかに革命的であります。ゲームなどもいろいろやってみたくなる。


ばたばた忙しい毎日なのですが唯一の息抜きが近場の温泉探索。宇都宮に在住のころ、那須塩原が以前は、パラダイスであったのが、また喜連川近辺の温泉にもつかりたくなる。地底深く閉じ込められた古代海水系の濃い温泉でとても健康に良いのであります。

 

 






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Last updated  2010年09月14日 19時03分27秒
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2010年06月28日

都市土地問題の専門家としての菅直人

カテゴリ:政治

 本日の曲

Duran Duran - All She Wants Is (2003 Digital Remaster)

Duran Duranは、昔から私は大好きでありまして、このミュージッククリップビデオは、特にすばらしい。まるでポール・デルボーの幻想絵画を見るようであります。

さて本題へ

仕事のやりすぎでここしばらく精神的に不調でした。

休みをとらない、とれないことの影響が、おかしな変形バージョンで現れる。特殊な疲れ方をする仕事ゆえ、あちこちが機密事項だらけ、人に説明するのも難しい、理解してもらうことのほうがどだい無理なのかも知れません。

グルジェフや出口王仁三郎といった人たちは、一種の霊媒体質で、簡単に言ってしまえば人に元気を与える霊的触媒だった。第三帝国おかかえの建築家アルバート・シュペールやヘルマン・ラウシュニングの回想録を読むかぎり、ヒトラーもそのような体質だったらしい。歴史上の人物のみならず、沖縄のノロやユタ、青森のイタコ、祈祷や霊能に関連する職種はすべてそうなのでしょう。彼らがその種のストレスをどう処理していたかは不明ですが、そのやり方を間違えると、精神科の医者が毎日、重症の患者と関わるうちに、みずからも精神を深く病んでしまう・・・みたいなことになりかねない。人に何かを与えた分、自分からは何かが奪われる、その霊的エネルギーの交換と質的変換に関わるメカニズムが、力動精神医学の研究課題と重複するのであります。


政治は激変し、菅政権ということですが、20年以上前でしたか、当時、建築や都市計画を学んでいた私は、環境問題・エコロジー建築といった視点から、都市の土地問題、住宅政策等にも興味があり、或る人の紹介でそのころはまだ少数党派に属していた菅直人氏の講演会兼パネルデスカッションを聴きに国会の議員会館まででかけたことがありました。

何ごとにも凝り性の私は、都市の土地問題を研究した菅氏の著書や、学者仲間であるところの五十嵐敬喜氏の都市法に関連した著書、菅氏の国会における質疑資料集成などを、片っ端からむさぼり読んだもので今だに菅氏というと土地問題の研究家というイメージから抜けられません

菅氏がその著書の中で台湾・香港・中国の土地政策に触れた部分が印象深かった。

孫文の思想的影響を受けた台湾や香港の土地国有化政策・そこにおける独自の資本主義の生成が土地バブルの横暴にさらされ、居住者の生存権が脅かされた日本と比べどこがどう違うのか触れた箇所が非常に斬新でありました。

これはあくまで土地問題の専門家としての菅氏への評価。

政治思想としてなら小沢一郎のほうがおもしろい、というのが私の率直な感想。無責任なマスコミのレッテル貼りとは違い、小沢氏は、策士というよりも健全な政治思想家としての素質を持っているのであって、「日本改造計画」に関しては、以前から重要な問題提起であると考えておりました。

「日本改造計画」は、ヴォルフレン氏の世界的名著「日本的権力構造の謎」への保守の側からなされし明確な回答として読解してみたならば極めておもしろいのであります。

過度な官僚制への制度改革・対策という側面では、菅氏と小沢氏はむしろ共通する部分が多い。しかし、官僚も悪の抵抗勢力ばかりとは限らない、それなりに優秀な人たちも多いのであって、すべて切り捨てればいいという話は極論でありましょう。たとえば何が問題点で何を変革すべきなのか、極辛口の質問趣意書にて、外務官僚たちに向け執拗な問題意識を提起し続けている鈴木宗男氏の営みは貴重なのであります。


ただし、菅氏は経済政策面が弱い。ブレーンの学者である小野善康氏の話をイコール菅氏の思想と短絡的に理解してはいけないのだろうけれど、小野善康氏の場合、経済的波及効果の伴う経済政策において、その産業分野の絞込み方にやや疑問符が残る。社会福祉分野への進展が、国策的必然だとしても、「一対一対応ではない、経済的波及効果及び真の景気循環を伴う経済的分野なのか」は厳密に見ておく必要性があるのではないか。
もちろん宮本太郎氏のような論客の主張は、今後の日本を考える上では、我々共通のプラットフォームであることは大前提ではあります。

株式市場こそが究極の民主主義なのであって、投資家の選択こそが、投票による選別と比肩すべく、前途有望な産業と成長分野を見極めるもっとも賢明な選択だという意見もちらほら聴く話。

先を見る目をまるで持たない政治家や官僚たちの無益な選別を招き寄せるのならば悲しいかな、たしかにそのほうがましなのかも知れない。

菅氏の市民運動家としての経験側から導き出される資質的限界でもあるところの

「学習能力は高いけれども経済効率を前提とした対社会的企業活動とは一体何かがよくわかっていない」

菅氏の現時点における企業対策への貧弱を突いた元防衛大臣石破茂氏の論説はなかなか鋭い部分を突いていたのでありました。













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Last updated  2010年06月30日 12時51分53秒
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2010年03月31日

東郷和彦さんの国会証言ーー勇気ある発言ーー (2)

カテゴリ:政治

本日の曲

007は二度死ぬYou Only Live Twice(1967)

私が小学生高学年のとき生まれてはじめて見た007シリーズがこれ。映画館の大スクリーンで見たので非常に印象深く焼きついています。まだオカルトおじさんになる以前、カッコよかったころの丹波哲郎も出演。ところで007の原作者イアン・フレミングは、諜報関係の仕事を実際に体験した人でアメリカのCIA創設にも少なからぬ寄与をしたと言われています。諜報活動に従事していた当時の彼を知る人たちはイアン・フレミングが頭の切れる有能な実務家でとても小説など書くタイプとは思えなかったと証言しています。

007 ロシアより愛をこめてFrom Russia With Love(1963)

007 ゴールドフィンガーGoldfinger(1964)

本日のテーマ

元外務省条約局長東郷和彦さんが衆議院外務委員会にて核密約について証言をされた

東郷さんの発言は、様々な伏線を含蓄したところの政治的に極めて重大かつ勇気ある発言と言わねばなりません。

第二次世界大戦における日本の壊滅的敗北、そこから僅か二三十年の後奇跡の経済復興を成し遂げ、世界第二位と言われる経済大国へと変貌をとげた日本。

その原動力となったのは、国民一人一人の克明な労働と旺盛な学習意欲であり、官僚も民間企業もそれぞれが過酷な労働現場にて残業につぐ残業を遂行した、その実直な勤労精神にあることは明らかであります。

それを可能としたのは、日米安保条約下での、軍備ではなく経済を主力において政治参加できる政治的体制基盤であり、「エコノミックアニマル」等賛否両論ありつつも、曲がりなりにも日本は、貧困と背中合わせの警察国家や、軍人が肩で風を切って闊歩する準戦時体制国家ではなく、最も極端な意見の持ち主や少数派にも「言論の自由」が保障され、人権が守られ、だれしもが最低限「めしを食って生きていける」経済や文化における大国へと脱皮成長できたのであります。

しかし、日米安保条約下における日本という国家のあり方は様々な政治的矛盾や複雑な葛藤をかかえることになりました。

大戦における壊滅的敗北への地政学的戦略的反省もさることながら「憲法第九条」と「世界で唯一の被爆国」としての心情的核アレルギーが、民意と諸々の政治思想に与えた影響は計り知れない。

為政者としての政治家レヴェルでは、しかし、日米安保条約のもとで核が通過することをも暗黙裏に認容しつつ、国民の核アレルギー・絶対平和主義にも配慮するという曲芸めいた作法が必要とされたのであります。

その結果、政治家も官僚も「日本の経済的繁栄と安全・平和」を担保するために国民に対し核に関わる通謀虚偽表示を余技なくさせられた。

経済的繁栄を担保するための日米安保条約下での集団的安全保障体制及び自衛権の確保、その代償が国民に対し嘘をつき続けるという結果となった訳であります。

それは仕方のないことであったのかどうか。

東郷和彦さんの今回の発言は、現時点においてその国民に対する通謀虚偽表示の内実を開示し、同時になぜそれがなされ続けたのか、そのやむをえざるところの政治的意図を国民に対し明らかにする意図が含まれています。

日米安保条約に関する私自身の個人的見解は実際のところ、未定であります。

私の周辺には、極左的革命論者、強硬な反米論者から以前、書いたことのある、親安保・日米同盟の積極的推進論者で熊本神風連等「サムライ」と「武士道」の研究家にして三島由紀夫の崇拝者・アメリカ海兵隊の精神的イデオローグ兼ライシャワー門下きっての俊英だった故ジョン・ロジャース氏にいたる様々異なる政治的意見の持ち主たちがいました。

政治が、到達不能か、100年後にしか実現しない完璧な理想論ではなく、様々な現実的諸条件を斟酌しつつ、そのプラスとマイナスの貸借対照表の中から、最も実現可能な、現時点においてベターな政策を模索する「可能性を模索する技術」である・・・・

としたならば、好き、嫌いの主観的情緒を排した「安全と平和、経済的繁栄」へと至る最短距離となるべき便宜的手段としての方法論をその実現可能性と優先順位の高い順から慎重に少しずつ実現していく、という流れになる筈であります。

西田哲学の流れを汲む故高山岩男氏が、名著「国際的中立の研究」の中で言おうとしていたことは、日米安保条約下における集団的安全保障及び自衛権への積極的な肯定論ではなく、では中立政策を選択した場合に日本が背負わねばならなかった政治的リスクを貸借対照表を元に勘案した場合、

先の敗戦により、名誉においても経済においても壊滅的負荷を背負った資源の乏しい日本が、狭い国土の制約下、消去法の中から、やはり岸信介氏のごとき政治的決断を選ばざるをえない場合の「消極的肯定論」、

それの持つ冷徹なリアリズム、そのことに対する深められた政治的哲学的考察のあり方やいかん、ということでありました。


高山岩男氏の考察は、武装中立のスイスやスウェーデンの事例、インドの事例、それらと比較した場合、日本の非武装中立論、武装中立論がいかなる問題点をはらんでいるかメリット・デメリット含め実に詳細であります。

単純な中立批判論でもなければ日米安保条約肯定論でもない、ギリギリ醒めた認識がそこには横たわっている。

岸信介にかぎらず、少なくとも当時の責任ある立場におかれた日本の為政者たちは、
故高山岩男氏のごとき、その冷徹なリアリズムといった流れの中で苦渋の選択と決断をせまられた筈であります。

その当時にあった時代の制約性と、その選択(日米安保条約下における集団的安全保障及び自衛権)をしたことによるプラスとマイナス、これを現代の時点において正しく位置づけ、再検証し直すことは重要であります。

歴史を検証し、痛苦な失敗から学び取った貴重な教訓を過去から未来へと伝える。

そのような子孫へと伝承さるべき歴史の総体を考察する場合、大前提とすべきルールとして、今では安全地帯となってしまっている事後知識の中から過去を断罪してならないのは当然であり、当時の時代において、その制約の中で人々は一体何を感じ、一体何を信じて、いかなる環境下、いかなる意図において一体何を決断したのか、ときにギリギリの選択を断腸の思いと共にせねばならなかったのか、慎重な考察がなされるべきは当然であります。

そのとき重要になるのは、歴史の生成現場で記録として残された文書というものの重みであり、官僚や政治家たちが一身上の階級的自己保身のためでないとしても政治的御都合主義の風向きや政治権力の恣意的操作によって、歴史の生き証人とも言うべき記録が改竄されたり、廃棄されるなど断じてあってはならないことであります。

東郷和彦氏の今回の証言は、外務官僚のみならず、この国の、為政者たちの、「記録」や「文書」に対する歴史認識の甘さ、文書保存への怠慢や政治的御都合主義への、さらに言えば行政システムや官僚組織の持つ暗愚な不条理性(幾十にも重なった「バカの壁」)への激しい「怒り」と「弾劾」を含んでいるものかと推測されます。

この勇気ある証言は、これから先、歴史的記録を含む重要文献につき、政治家や官僚はいかに処遇すべきなのか、あってはならないこととは一体何かにつき、裁判での重要判例にも比すべき重大な問題提起を投げかけたものかと思われます。

行政法や行政組織法の改変・外務省の組織変革も含め、問題提起が教訓となって生かされるべきは当然でありましょう。

興味深いのは、当事者として現場で歴史の生成に立ち会った東郷和彦氏が、きわめて健全かつ良心的な保守的政治思想の持ち主として、戦後日本の、プラスの遺産のみならず、従軍慰安婦問題や、経済成長によりもたらされたひずみの部分、環境破壊や古き良き日本の喪失といったマイナスの側面にも果敢に取り組まれている姿勢であります。

これらはA級戦犯で獄死した悲劇の外務大臣故東郷茂徳氏から流れる政治思想としての遺伝的血脈・・・先の大戦が開戦から敗戦へといたる歴史プロセスで、ナチスとの同盟に反対し、最初期においては戦争を回避するため全力を尽くし、いったん戦争が開始された後は、それを終末へ、一番損失の少ない安全地帯と着地・誘導させるべく命を賭けて頑張った、その結果として昭和天皇の和平へといたる意志と信頼を最も身近で体現していたといわれる東郷和彦氏の祖父・故東郷茂徳氏の血脈を感じる部分にほかなりません。

参考文献

「祖父東郷茂徳の生涯」 東郷 茂彦著 

日本の運命の決定へと参与した歴史上の人物でもある東郷茂徳の伝記。精彩あふれる感動的名著と思われます。

東郷 和彦さんの国会での証言






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Last updated  2010年04月03日 02時30分50秒
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2010年02月12日

国家社会主義の可能性

カテゴリ:政治

本日の一曲

ヤプーズ バーバラ・セクサロイド

今年、涙が出るほど感動的な年賀状を浅羽通明さんからいただいた。私と約一名がそれを読んで思わずほろりとなったのでした。


これまた二十数年前になります。昔、戸川純のコンサートを浅羽通明さんと一緒に見に行ったことがありました。(今から考えるとかなり濃密な付き合いだった)私と蝋人形の製作者H氏と浅羽さんの三人でした。当時、浅羽さんとは、我々の共通の師匠であった竹中労さんのこと、北一輝や大川周明についてかなり突っ込んだ深い話をしたことがありました。彼の結社「乱調社」主宰による知のトークイヴェントのみならず浅羽さんと仲間数人で年末をはさんで徹夜で飲みまくったり、浅羽さんが自腹を切って20万円近く出費した夏の大花火大会等々・・・・一年中「お祭り騒ぎ」のようでありました。まだ浅羽さんは本も出しておらず世間的には全く無名の人だった。

当時から私はゾロアスター教徒を名乗り、オカルト大好き人間で、浅羽さんは「ムー」のライターとして、やはりオカルトや神秘思想と深い関連性があった。今の彼は、「革命的封建主義者」だそうです。その浅羽さんの師匠が封建主義者の呉智英さんで呉智英さんの早稲田大学法学部における学友かつ親友が宮崎学さんという風につながる。(「突破者」に呉智英さんの話が出てきます)浅羽さんの親友でBSマンガ夜話でおなじみの大月隆寛さんが、私の大学時代の親友で、後に北朝鮮の工作員に暗殺されたジャーナリストのK氏(一時かなり話題となる)と密接な交流がありK氏と私の共通の師匠が竹中労さんだった。世間は広いようで狭いです。

さて本日のテーマ


国家社会主義の可能性

およそ国家社会主義ほど左翼から忌み嫌われている思想も珍しい、それが天皇制と結びつくとなると反動である、疑似ファシズムである、と昔なら糾弾されたものでしたが、今や左翼にはそのような思想的活力すらもなくなってしまいました。

左翼の論壇で思想としての国家社会主義をその最高レヴェルで解明していると思われるのは、滝村隆一氏の仕事でありましたが、「試行」を熱心に読んでいた吉本隆明一派以外では、あまり読まれていたとは言えない。(三十年かけて書いたという一千ページ近い未完の大著「国家論大綱ーー権力と国家の基礎理論ーー」(勁草書房)は、一見難解な印象を与えがちですが、よく読みこむと実際はユニークでおもしろい政治学的論考です)

国家主義につきものの、民族排外主義・社会主義の構造的欠陥であるところの権力システム論の不在これらを引きずったままでの国家社会主義の再生ということでは、たしかにアナクロニズムにしかすぎないとは思います。


滝村隆一の用語にならえば、共同体ー内ー国家社会主義こそが論述の対象でなければなりません。


これだけ失業者が増加し、新自由主義が行きずまり、共産党や新左翼が低迷する中、ロバート・オーエン、トマス・モーア、ラスキン、モリス、バーナード・ショーと続くイギリス社会主義(フェビアン社会主義)の系譜など、本来の良質な社会主義思想の伝統が、マルクス主義の没落とともに、その流れの中で無理心中させられている、消滅の危機に直面している、そこの部分を救出せねばならない、としたならば、国家社会主義も一つの新しい可能性と言えなくもないのであります。


この文脈からも明らかなように私の言う国家社会主義という概念はナチスよりもムソリーニ、北一輝よりも高畠素之に近似していることは明らかであります。

国家主義の復権においては、何よりも新自由主義における節操のない規制緩和や自由競争の過多が抑制されると共に「富をかせぎ出す有能かつ機敏な国家」がそのような国家を支持する人たちにその富を公平分配する、ただし、勤労の評価基準は、その重度の功績順に配慮される、その流れの中でベーシック・インカムも実践されねばなりません。

有能な国家が国家と一体となった国民を救済し育成する・・・といった思想であります。

国家が強力な主導権を発揮する中で、経済活動の明確な舵取りをして、強権をもって景気へと導くべきであり、ケインズ政策ともそこでつながる。


社会主義の復権においては、弱者救済と貧困者の社会復帰へと向けたプログラムが取り込まれる。


平等で均質で退屈な最低生活の保障ではなく、多様で活力のある、一時の安楽と若干の怠惰も許される、けっして贅沢はできないがそこそこ魅力的な最低生活(経済的に費用をかけないという意味で)が提案されねばなりません。


ここまで書いた時点でそれは強力な指導者や統制的経済思想への盲従を前提とする思想ではないのかという嫌疑がすぐにかかってきそうですが、その種の思想の善悪如何ということよりも、まず、アノミー的分裂症状を呈しつつある現代社会でその種の実験が仮定形としてすら成り立ちうるのだろうかとの強固な障壁のごとき難問、屈強な大前提が立ちはだかるのでありましょう。

私の用意している回答としましては、宗教的共同体においてのみ、この種の実験が意味あるものと化すとのみ答えておきましょう。

オウム真理教を賛美するつもりは全くありませんが、思想的にはマルクスに傾斜していた京大トップ卒業のエリート弁護士青山吉伸やジャン・ジャック・ルソーの研究家としての著書もある早川紀代秀が、その思想的幻影を彼らの宗教共同体に仮託したことそれ自体はーーその仮託の対象を間違えていたとはいえーーー理解できないことではありません。

この辺に関する、宗教思想の鋭利な分析ということでは、吉本隆明氏、島田裕巳や鎌田東二氏、中沢新一氏などよりも現茨城大学の教授で宇野経済学に関する若手の研究者新田滋氏がペンネームで「コンセプトノワール」という個人雑誌に連載で発表されていた濃密な諸論文がずば抜けていたのでありました。


新田滋さんは宇野弘蔵及びマルクスに関する若手の研究家という公的な顔をお持ちですが、実際はかなりディープな宗教学の研究家であり、同じくマルクス主義者でありつつ仏教のかなりマニアックな研究者でもあった故さらぎ徳二氏と似ています。


中野正剛の「東方同志会」などよりも出口王仁三郎の「昭和神聖会」が私のイメージするところと近い。さらに言えばイスラム教スンニ派の思想家故バーキルッツ・サドルのイスラム哲学とイスラム経済学に関する論考が考えが私の理想とするところと酷似しているのであります。(浅田彰の師匠だった故今村仁司教授が解説を書かれている。おもしろいですよ)

 

 

 

 






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Last updated  2010年02月12日 15時15分23秒
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2010年02月06日

旧皇族の社会的復権について

カテゴリ:政治

那須高原のおしゃれな喫茶店ドミヤン

コーヒーもうまい。ケーキもおいしい。店員さんたちも親切。趣味もいい。格調の高い、おしゃれなお店でありまして、よく勉強部屋代わりに使わせていただいております。こんな場所で思索し、読書に没頭し、勉強できるとは非常な贅沢ではあります。

最近、ある方から、那須高原の名物医師だった故見山鯛山氏の「医者ともあろうものが・・・」という本を貸していただき実に感銘深く読ませていただいた次第です。(その方の体調が一刻も早く回復するとを祈念しております)何しろ破天荒で型破りな庶民の中に生きる献身的な医師の物語でありました。具体的なことは書きませんが、実はこのドミヤン店生成のプロセスにも、医療従事者の方の、尊敬すべき社会貢献の物語が隠されています。このお店に行くたびに、日本の医療の抱える問題とは何か、天職としての医療現場とは一体何なのか、どうあるべきなのか、また、どうあってはいけないのか、政治問題としての医療制度とか、深く考えさせられる次第であります。


本日の曲

宇多田ヒカル - traveling -

これはミュージック・クリップ・ビデオの天才的傑作であります。だいぶ以前にこの曲をこの独創的映像と共に聴いて以降、曲と映像が強烈に癒着。分離不能な記憶と化し、この映像媒体なしでは聴けなくなってしまいました。

さて本日のテーマ

皇室とりわけ天皇陛下が関与する宮中祭祀や儀礼は、悠久の時の流れを旅するタイム・カプセル的文化の伝承・その濃縮されたDNA情報の作為的保存継承という重要な役割を持っております。

形式や儀礼的作法において保存されているものは、単なる形骸ではなく、その一つの作法を解読することで何十、何百ページもの活字に匹敵する圧縮された情報・シンボル的儀礼なのでありまして、太古から未然形の未来永劫へ向け伝承されし「今だ解読されえない」神学的・民俗学的・秘伝的要素も数多い。熟達した「知」の達人といえども、実に官僚制度における儀礼的形式的役割と混同しやすい部分でありまして注意深い識別が必要とされるのであります。

これに関しては、シュタイナーと並び今世紀最大の神秘思想家と称されるグルジェフのスーフィズム解釈が参考になるほか、「古事記伝」をはじめとする本居宣長の諸著作川面凡兒等大正から昭和初期の日本神道・神道系の新宗教における神秘思想家の系譜に触れてみることをぜひおすすめします。

世界に類を見ない日本に唯一とも言ってよい天皇制には、独自の社会的機能があってしかるべきでありまして、先ほども論及しました祭祀権力としての働き以外にも神道的伝統の継承を斟酌する中での自然保護へと至る働きや社会から差別され、抑圧された社会的底辺や社会総体から充分なフォローがなされていない身体障害者の方・精神障害者の方たちとの連帯的な支援・交流ということ、力のある政治家や有能で良心的な一部の外務官僚でも解決が難しい政治的事案を背後に見据えつつ側面から(抜本的解決と至らずとも)儀礼的外交的交流において日本の文化への理解を促進し親日人脈を確保・育成すること等々・・・皇室ならではの決して税金の無駄使いではない絶大な効力を有するところの社会的・外交的機能が期待・要請されている訳であります。

旧皇族の社会的復権という事柄も社会から隔絶した特権を有する「超階級者たち」の再建や税金の無駄使いということではなく、あくまでも日本国家ーーその内外にわたる膨大かつ難解な諸問題ーーにとって必要な尊厳ある皇室の使命として政治家や官僚たちと決して競合しない、「スペシャルな特務機能」との関連において、日夜過密な重労働を強いられている天皇陛下や皇太子殿下を側面から強力に補佐する公的役割という角度から再検討されてしかるべきではないかと考える次第であります。

天皇陛下と密接な関わりのある旧皇族の方が、社会的な役割を担うべく派遣村に行き、失意と絶望の最中にある失業者の方たちに「陛下のお言葉」を伝達し、激励して歩く・・・・このようなことがあってもいいと思うのであります。

 






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Last updated  2010年02月07日 00時14分04秒
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2010年01月03日

田中智学・里見岸雄の天皇論2

カテゴリ:政治

冬の那須山

本日の曲

Pet Shop Boys - West End Girls (2003 Digital Remaster)

West End Girlsは名曲であり、私はかなり好きなほうです。

この曲において歴史に燦然と輝くPet Shop Boysもひょっとしたら偉大なる一発屋かもしれません。

さて本日のテーマ

里見岸雄の天皇概念は、明治天皇への信仰的とも言える特殊な傾斜や三笠宮問題への政治的言及から見る限りにおいて、私が理想とするものよりも方向がかなり右であります


前に書きました浅野和三郎同様これまた「科学主義」「科学的天皇観」を標榜しつつ、濃密な「右」と言ってもよい。

憲法問題への法理学的探求も「改正」・大日本帝国憲法への原理主義的復元ということを明確に指向しているのであって復古主義と科学的天皇観の奇妙な混合とも言うべきでそられを無条件に肯定することはできません。


昭和天皇がお嫌いになった「神かがり右翼」ではないにせよ、里見の法思想は、立憲君主思想の枠からはみ出る啓蒙専制君主への志向を含み「危険な(左翼から見た危険性ではない・制度としての天皇制にとって危険と考える)」要素を多分に含んでいるのであります。


しかし、ベルリン留学中の石原莞爾に影響を与えどちらかと言えば右翼嫌い・左翼びいきの石原が生涯、敬意を感じ続けた里見の論考には、やはり石原と同じ擬似マルキスト的傾向が存在したのであります。


昭和初期のベストセラーであり、里見の思想を圧縮した名著でもあるところの「天皇とプロレタリア」には、明確に国家社会主義的な発想が見られる。


マルクス主義への共鳴と労働者階級の悲惨な現状への熱いシンパシー、それらに鈍感かつ頑迷な「国体論」及び旧来の「国体論者」たちへの生理的反発、そして、貧困にあえぐ労働者階級・国民一般と真に同盟し階級的搾取を打破すべき「超越的絶対権威」としての天皇ということを里見は考え続けた。

この部分は、最近また再評価の機運にある、日本における国家社会主義の開祖にしてマルクス「資本論」の最初の翻訳者でもあるところの高畠素之とよく似た部分であり私が特に共感するところでもあります


(あくまでも歴史上の人物、歴史的現場への目撃証人としての赤尾敏、津久井龍雄、児玉誉志夫に関し、私の感じる興味というのは、高畠の思想的門下生といった側面に関してであります。この分野では、著作家・猪野健治さんの尊敬すべき先行研究があります。)

 






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Last updated  2010年01月03日 17時11分19秒
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2009年12月26日

田中智学・里見岸雄の天皇論1

カテゴリ:政治

すばらしい充実した楽しい時間が持てましたことを心より感謝申し上げます。

さて本日の曲

Madonna Human Nature [HQ] 1995

マドンナによるマスコミ批判であります。何ごともバランスが大事であり、有名になりすぎるとこのような世界が待っている・・と言っているようにも解釈できる。

天皇家全般、さる皇室のお方の深刻な苦悩も、極端な話、こういう世界なのじゃないでしょうか。

勿論、良心的でまじめなマスコミとそうでないマスコミはきちんと峻別されるべきであり、少なくとも私が身近に知るマスコミ関係者は、例外なく誠実でまじめな人たちであります。


「・・・・からの自由」を極端に追求した結果「・・・・への自由」といった限界が、他者の人権侵害にまで及ぶようになった近代民主主義のモラルハザードをそこに見ることもできます

同時に、ブログに象徴されるネット社会の発達した現代、情報発信者は、良い意味でも悪い意味でもマスコミだけではないのであって、誰しもが被害者にも加害者にもなりうる両側面を持っており、極端な話、世の中全体がこのビデオみたいになってしまっている。

他人事みたいにマスコミ批判をしていられる時代ではもはやない。

アートとしても「傑作」の部類に入るこのマドンナのミュージッククリップビデオは意図せずして現代を正しく予見したと言うべきであります。

 

これを書いている最中、ある方からフランク・ザッパのCDの素敵なセレクトをいただきました。とてもよかったです。ありがとうございました。

関連ですが、私が20代の前半に聴いていたザッパの門下生「 Missing Persons(ミッシング・パーソンズ)」のミュージッククリップビデオを紹介させていただきます。


一見、ビジュアル系ではないかと思ってしまいがち。かなり過激な衣装ではありますが高度な技術力を兼ね備えた実力派でありまして音楽的にも完璧ですばらしい。ザッパの血縁だとすぐに解かると思います。

ちなみにメンバーの一人ウォーレン・ククルロはのちにDuranDuranに参加しております

Missing Persons - Words

Missing Persons - Noticeable One (1982)

Missing Persons - Windows 1983

参考文献)

Missing Persons(ミッシング・パーソンズ)について1

Missing Persons(ミッシング・パーソンズ)について2

 

さて本日のテーマ

天皇論に関する様々な錯誤、とりわけ左翼の天皇制批判に根拠を提供したのは、かの有名な32年コミンテルンテーゼというやつであります。

ドイツにカイゼルがいてロシアにツアーがいるように日本にも反動的絶対専制君主であるところの「天皇」がいる。人民のためにこれを打倒すべきである・・・・と国際共産主義運動・コミンテルンの指導者でもあるところのスターリンとブハーリン及びその側近官僚たちは考えた。ずいぶん昔の話であります。

これはよく考えてみますとかなり粗雑な歴史認識でありまして、日本の天皇の独自性、他に類例を見ない歴史的起源、祭祀権力として日本にしか存在しない儀式的なりわい、その祭祀者として「祭る者」と「民」との関係、権威と権力の違いなど細密な検討がすべて抽象されてしまっております。

左翼の諸党派によって、その立論の根拠には違いが見られ、日本共産党の天皇論と、革共同中核派の天皇論、解放派、ブント(共産主義者同盟)諸派のものとではまるで違う。

天皇制に反対する立場から深く歴史を研究していると思われるのは、菅孝行氏と最近著作集が発刊されはじめたさらぎ徳二氏の諸論文でありますが、今の私は、むしろ大川周明及び葦津珍彦の天皇論や里見岸雄の国体論から導き出されたところの天皇論にむしろ興味をひかれます。

菅孝行氏は御自身のことを「奇矯なナショナリスト」とみずからお書きになっておられるように「裏返しの昭和天皇絶賛」みたいな不思議な右翼体質をお持ちですし、故さらぎ徳二氏も二・二・六の熱血青年将校「磯部浅一」や三島由紀夫を「敵ながらあっぱれ」と論じる部分など左翼イデオロギーというエネルギー転換装置によってその性質を変えられてはいるがもともとあった原型はと言えばきわめて日本的な恋閥的情念ではないかと思える部分がないではない。

故宮本顕治氏が、その体質において良い意味において封建的サムライや任侠の世界にあい通じるのと同じ話であります。

(そもそも、亀井さんがゲバラを尊敬し、鈴木さんが塩見さんと仲が良く、佐藤さんが右のようでもあり左のようでもある、情況と日本の読者がともに模索舎的ガラパゴスの住人である・・・みたいな今日、左右のイデオロギー論争はもはや現代的な存在の意義及び価値を失いつつあります。)

さて、明治期以降日本の天皇制は、きわめて早い時期から、イギリスをモデルとする立憲君主主義へと移行したのであって、昭和天皇が、「独白録」の中で言っているように美濃部達吉の天皇機関説にむしろ共鳴していた事実があったりします。

北一輝が、そのきわめて独創的な天皇論を含む体系的論述であるところの、「国体論及び純正社会主義」の中で述べておりますように祭祀権力としての天皇のあり方「神道のローマ法王」といったありかたは、すでに明治天皇のころから潜在していた、というのが私の見方なのであります。

では、政治と深く関わりつつも、厳密には政治権力ではないあくまでも祭祀権力としての天皇のありかたが、今後どうあるべきか日本国民の総意と国民の勤労によるところの税金によって成り立っている天皇・皇室の公的社会的機能とは一体何なのか、その祭祀的・外交的役割につき実は田中智学や里見岸雄の国体論が大きなヒントを与えてくれております。

また、そのような思想媒体に触発された私独自の意見もあります(続く)

 

 

 






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Last updated  2009年12月27日 01時47分35秒
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2009年11月17日

北方領土問題と鈴木宗男衆院議員の復権

カテゴリ:政治

この時期銀座の夜景がきれいです。

昔の職場の近くなのですが時間がなくて立ち寄れず。

またそのうちお邪魔させていただきます。その節はよろしく。

 

北方領土問題は、歴史的に複雑な起源を有し、簡単に四島一括返還が高圧的な外交交渉かないしは戦略的武力行使において一挙同時的に解決するみたいな時代状況に現在はない。


プーチン政権下のロシアは、日露戦争当時の帝政ロシアでもなくソ連邦崩壊直後の飢餓線下にあったロシアではないのは勿論のこと、「脅し」や「高圧外交」で屈服するような「頭の悪い」「柔(やわ)」で「臆病な」相手でもない。


ドストエフスキーの神かがり的愛国主義やベルジャーエフの救世的メシアイズムが復権され、資源ナショナリズムを背景に大ロシア主義の台頭すら予感させる誇り高き、したたかで手ごわい相手、ナポレオンとヒットラーを打ち破ったところの文句なしに世界有数の強国なのである。

彼らと五分対五分で渡り合うためには、威嚇的手段ではなく、資源と技術の人的交流をもとにしたお互いの国民にとって利益になるところの説得力のある対話、相互の文化や歴史に対する深い理解、人間対人間の自然な信頼関係、(東郷和彦さんも書いておられるように)政治論理以前の直感的な相手との信頼関係こそが基礎となる。


私見によれば、政治的失脚へといたる以前の鈴木宗男衆議院議員、東郷和彦元外務省欧亜局長・オランダ大使、佐藤優元主任分析官の仕事こそが最も現実的かつ柔軟な対ロシア政策として、北方領土返還に近接できた方法論的実践だったのであり、時間はそこで停止したまま今日の民主党政権下、鳩山政権となり、さらに鈴木氏の政治的復権(衆議院外務委員長就任)によってまた新たなる歴史形成へといたる創造的仕事が再開されたのだという感じがする。

鈴木議員のアイヌ民族との連帯や東郷和彦さんの、地道な異文化接触に関する学的蓄積とその展開は、やはりロシアをも含めた国際スタンダードにおいて高い説得力を持つものだと考えられる。

大川周明風に言えば、「真の愛国者にして真の愛国者を知る。」とでもなるのだろうか。

日本の愛国者の論理は、ロシアの愛国者をも説得できるレヴェルでなければ有効性を獲得できない。

地政学的計算のみでは相手からは尊敬されず戦略的威嚇的手段のみでもダメであり、相手からも理解され、尊敬され、共感を持たれる高い倫理性が要求されている。

それなら俺にもわかる。俺があんたの立場ならそう考えたろうし、あんたみたいに行動しただろう」と相手に思わせるようでないとダメなのである。


ロシアとの関係において、最も警戒すべきなのは、むしろ日本国内における強硬論の台頭ということだろう。

日本において「力」を至上とする排他的強硬論が台頭すれば、ロシアにおいても「力」を至上とする排他的強硬論が台頭する。


ベクトルが正反対のロシア版桜井よしこ氏はロシア国内にも多数存在しているし、両者がぶつかり合えば、お互いを強硬に主張し合って妥結点はついにみつからず、永遠に問題は解決しなくなる。


その間、北方領土はロシア内(日本ではない)にて凍結されたままである。

プーチンが「柔道」や「空手」など武道の哲理に奥深い理解を持つサムライ型KGB・独自の心情的親日派だったとしても、多数派世論としての強硬論が台頭してきた暁には、みずからの政治的失脚を覚悟してまで政治的妥協をはかることはできなくなる。

民主主義といっても「民」が「主」になる構図の「民」の質を問わない民主主義であってみれば、強硬論的「民」・愚民的な「民」その代表者たちによる圧倒的多数派勢力の議会における台頭に、強権政治家といえども対抗手段は持ち得ない。

この点は、日本もロシアも多分同じである。


であるならば、正しい立脚点に基づく、上からではない世論の自発的、草の根的、啓蒙的な言説の合意形成こそが緊急の課題なのであり、その礎になるものこそが、相互の民族の歴史や文化に対する奥深い理解であり、鈴木宗男議員が北方四島で長年にわたり地道に築きあげてきた民衆レヴェルでの交流・四島ロシア住民と日本との「実践」や「行動」「心と心の交流」を伴う草の根的友好的信頼関係なのであるが悲しいかな今後に残された時間はそれほど多くはないというのが実情だろう。

参考文献)

『北方領土交渉秘録--失われた五度の機会』 東郷和彦(新潮社2007)
『歴史と外交 靖国・アジア・東京裁判』東郷和彦 (講談社現代新書2008)

『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』佐藤優 (新潮社2005年 )

『闇権力の執行人』鈴木宗男 (講談社2005)
『宗男の言い分』 鈴木宗男(飛鳥新社2002)
『鈴木宗男の国会質問主意書 全255本』鈴木宗男(にんげん出版2006)

『月刊日本』掲載「対日包囲網の打破に向けて」鈴木宗男

鈴木宗男衆議院議員のサイト

東郷和彦さんのオフィシャルサイト

 

 

 






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Last updated  2009年11月17日 13時08分49秒
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2009年05月06日

北一輝と労働者階級 (2)

カテゴリ:政治

北一輝は、著名な右翼の革命思想家として政治的立場の左右を問わず右翼思想史に興味ある人たちにとりわけ人気のあるカリスマ型イデオローグであります。

北一輝のテキストは、同時にその高度に複雑な思想の持つところの独自の攪拌力のため様々な誤解にさらされて今日へと至っております。

北の思想を読み解くためには、信頼の置ける研究書や解説書の類を紐解くのみでなくまずは北の原典そのもの著作集のすべてをはしからはしまで精読する必要があります

思想史や近代の歴史にマニアックな興味のある人ならそれほど苦行ではない

一度読んでみますと難解な文体ではありますが、強力な電磁石みたいに読者を引き込む独特の魔力的文体であり大川周明とはまた別個の格調高き美文であることが解ります

北一輝には、明治天皇に対する崇拝的信念がありましたから「天皇」を背後から政治的に操縦する意図があったかどうかは論者により意見の分かれるところでありましょう。

確かに昭和天皇とのおり合いはあまりよくなかった。

私の見るところでは、オットー・ワイニンゲルに比すべく(三島由紀夫がそう言った)天才の著作といわれた若き日の処女作「国体論及び純正社会主義」の中にすでに北にある独特の右翼的信念と、独自の社会民主主義、天皇機関説国体論への歴史的読み解きなど、後年に至る彼の思想のすべてが圧縮・展開されております。

とりわけ私が注目するのは、後期の作品に属する「日本改造法案大綱」に見られる労働者の権利を法律によって守護する部分であります。

「国体論及び純正社会主義」にも過酷な労働現場にて酷使される労働者大衆に関する論及は随所にて散見されます。

北一輝の思想的直系をもって自認したのが、戦後右翼に実力者として君臨したかの児玉誉士夫でありました。

児玉はいろんな場所で自分の思想は共産主義と紙一重であることを語っております。

獄中にあっては、児玉はむしろコミュニストたちに強いシンパシーを感じていた。

児玉の著作選集は、劣悪な環境下、極貧の青年労働者が、差別と抑圧の中から階級意識に目覚め左翼に走るか右翼に行くかぎりぎりのところで迷いつつ、最後の土壇場で右へと舵を切り極北地帯へとつっ走ってしまった危機的人間の真摯な自己検証の記録であります。

笹川良一の再評価、再検討がすすむ昨今なのですが相変わらず児玉誉士夫に関しては歴史上のブラックな人間という以上には出ない。

この人物に関し、賛否両論あることを私はよく理解していますが、清濁合わせ持ちつつ危険と背中合わせの極限状態にて生成する「血ぬられた思想」こそが、真に思想の名に値するとしたならば、児玉誉士夫もその師匠たる北一輝の思想も共に真の危機から生まれ出た極限の思想たる名誉を分担するものに違いありません。

参考文献)

北一輝著作集

児玉誉士夫著作選集「風雲」

鈴木清順監督の映画「けんかエレジィ」の一場面

鈴木清順監督の映画「けんかエレジィ」に緑川宏演じる北一輝が出てきます。

カフェに出没する謎の人物。

バンカラな若者たちのけんかを微笑みながら静かに見守る北一輝。

右翼の大物だとは誰も知らない。


やがて二・二・六事件が起きたときこの謎の人物の顔写真が青年将校たちの指導者として新聞のトップを飾ることになる。


「あのおじさんじゃなかとか。」と若者は驚愕する。
「けんかじゃ。けんかじゃ。国を二分するほんもののけんかじゃけ」

若者は若き血をたぎらせつつ一路戒厳令下の東京をめざす・・・・大体そんな場面だったと思います。


カフェの女性から「何をしている人なの」と聞かれたときの緑川宏演じる北一輝の表情が、なんとも意味ありげで非常にいい。


これは当時の緑川宏でないとできない絶妙の演技であります。


「抜刀隊」行進曲

右翼と言えばこの曲「抜刀隊」なのですが、最近、街宣車もこの曲もあんまり聴かなくなりました

事情通の方によりますと警察の取り締まりがかなりきびしくなっている、とのこと。「うっとおしいやつらがいなくなってせいせいした」と思う人もいるかもしれませんが、思想の多様性や少数異端者の政治的表現の自由が担保されない社会は危険だということを知っておく必要があります。


昭和維新の歌

背後に流れるている映像は、226事件をテーマにした映画のようです。






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Last updated  2009年05月06日 18時05分52秒
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2009年03月18日

東京地検特捜部の暴走について

カテゴリ:政治
最近、東京地検特捜部が暴走ぎみのようです。組織全体がまるで昔の帝国陸軍、とりわけ関東軍作戦参謀の「辻政信中佐」みたいになっているようです。

法を守る執行機関として警察組織も検察官も必要ではありますが、その職域は、あくまでも「法の番人、厳正中立な執行機関」であるべきであります。

花形プレイヤーとしてその挙動が社会の脚光を浴びる、「大きな仕事をやりたい」「手柄をたてて名前を残したい」みたいな血沸き肉おどるヒロイズムが、組織の暴走の背景にあるとしたら恐ろしいことだと言わねばなりません。

ドイツにラードブルックという法哲学者がいて「法」と「道徳」の違い、とりわけそのことから生じる法律(ルール)として持つべき公平な価値中立性とは一体何かを論じました。

「価値観」や「道徳」は社会や個人により様々であります。キリスト教社会とイスラム教社会でも違います。同じ日本の社会でも家によって会社によって価値観は微妙に違うことでしょうし、「正義」や「悪」といった価値観も場所ごとに違う筈であります。

ある社会では「善」とされている価値観でも別の社会では必ずしも「善」でないかも知れない。Aという社会の価値観=善悪の基準でBという社会を裁くことはできないし、その逆もまた然りであります。

そこで道徳という価値基準とは別に厳正中立な「ルール」というものが出てきます。A社会もB社会も、国家という社会集団に帰属する以上、お互い言いたいことが山ほどあったとしても、そして独自の価値観を持っていたとしても、とりあえずこの「ルール」を守らなければなりません。

これこそが「法」でありまして、善悪=道徳と密接な関連、相互の影響関係を持ちつつも、道徳とは微妙に違う

この違うという部分が実に重要なのであります。

偉大な法学者ラードブルックはこの違うという部分を法哲学的角度から深く細かく分析したのであります。

もちろん国家も国際社会に属する以上、国際法や条約などの拘束を受けます。

善悪=道徳の宣教者と法の守護者とでは、プレイヤーとしての社会的役割が違うのは当然であります。

宗教家や社会思想家、教師をはじめとする啓蒙的役割を担う人たちは、当然、自分たちが独自に信じる「善」や「悪」を語ることができますしそれが公的な仕事でもあります。

人々を導き、指導し、何が善で何が悪かを表明し、影響力を行使することで、社会の道徳や秩序の価値形成に強力に参与するわけです。

道徳や倫理、社会のルールを厳守する、「相手に対するやさしさ」「思いやりの気持ち」「弱者救済」「ひとりひとりの公的役割」などの教育が行き渡った社会では犯罪など起きない、起きたとしてもごくわずかである筈です。

ここにおいて宗教家や社会思想家は法律家とともに「秩序を守る」という社会的役割を分担します。

しかし、宗教家や社会思想家は自分たちが語る「善」「悪」に反することがらに遭遇した場合、相手に「刑罰」を課すことはできません。

そこまでやると越権行為となってしまう。

それは法の守護者たちの役割であります。

逆に法の守護者・番人たちが、法以外の特定の恣意的主観的倫理にもとずき、市民生活に過度な干渉を加えることは「越権行為」となります。

あいつは虫が好かない、あいつはきらいだから監獄にぶちこんでしまえ、みたいな行為は、あきらかに行き過ぎであります。

警察が法にもとづいて違法行為を取り締まるのとは違い、地検の特捜部が「巨悪」を追求するのは、それを行うことによって、それとよく似たその他大同小異の「群小諸悪たち」に警告を与え、犯罪行為を未然に思いとどまらせるという「見せしめ」的な役割、警告としての社会的機能が認められます。(刑法総論に出てくる規制的機能と同じです)

「あいつと同じことをやったらこんな目にあう。だからやめよう」という訳です。

社会正義に燃えた検察官や法律家の存在、それはそれとして重要であります。

しかし、それが行き過ぎてしまうと、地検の特捜部が「社会の善悪を俺たちが決定する」「俺たちこそが世の中を動かす力の源である」みたいな方向、本来与えられた役割を超越し、モンテスキュー的三権分立のバランスをあきらかに欠いた、おかしな方向へと行きかねません。

犯罪だらけの社会も当然よくありませんがいたるところ警察官や検察官だらけ、彼らか肩で風をきって闊歩する中みんなが、いつ告発され、逮捕されるか解らない、魔女狩りみたいなものにびくびくおびえて暮らさねばならない警察国家なども息苦しい社会であり考えただけでもぞっとします。

寛容の精神にもとづく多様な価値観の共存、市民社会の自由と権利としての平等はきちんと確保されたうえで必要最低限度の「警察」「検察」の働きは必要ですし、同時に彼らが暴発しないような監視システムも必要なのです。

また組織が総体として同じ過ちを繰り返している実情があると仮定したならば「どこかにおかしな奴がいる」という「悪者さがし」的発想でなく組織それ自体の機構的問題点の抽出と法的整備にもとづく抜本的再発防止策が必要となることでしょう。

論じはじめるときりがないのでやめますが最近の東京地検特捜部、法の番人としてあるべき彼らの役割は、あきらかにバランスを欠いた不自然な方向へと暴発している印象であります。

なをここに書いた問題提起は検察のありかたを論じる主旨であって特定の政党の肩をもった論理展開ではありませんので、くれぐれも誤解のありませんように。

 

この問題を論じる上で参考になる古典的文献が、元外務省の分析官だった佐藤優さんの「国家の罠」という書籍です。政治家の鈴木宗男事件にからんだ佐藤さんの活躍がもとになって「国策捜査」という言葉が一般社会に定着することになりました。

法の役割、国益と公益の違い、その優先順位はいかにあるべきか、検察の本来あるべき役割をめぐって今だ興味深い問題提起を投げかけています。






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Last updated  2009年03月18日 16時28分03秒
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