2006-09-29 10:07:25

第112回 静かな飛行場

テーマ:国道226号
●枕崎空港 【地図】

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 飛行場が好きだ。送迎デッキから1日中飛行機の発着を見ていても飽きない。時間をもてあましたときなど、ふらっと飛行機を見に出かける。「子どもみたいなやつだなあ」と友人は笑うが、事実好きなのだから仕方がない。
 「枕崎空港」という案内板を国道の上で見つけたとき、ためらうことなく道をはずれた。その飛行場は田園の真ん中にぽつんとあった。フェンスにしがみつくようにして滑走路と空を交互にながめていた。空はまっ青だった。遠くに東シナ海の水平線も見えている。ここから飛び立つ飛行機は、海をめざして飛んで行くみたいな気分なんだろうなと思ったりする。
 しかし、いくら待っても飛行機は現れなかった。アカトンボが飛びまわっているだけだ。気をゆるめた瞬間に、のどかな空気が飛行機のエンジン音でふるわされるのではないかと、しばらくその場を離れることができなかった。が、あきらめて、ターミナルビルに入った。
 送迎デッキという案内板を見つけて階段を上る。しかし、デッキへのドアには鍵がおろされていた。掃除をしていた男性に、ここは入れないのかとたずねた。
 「入れるよ。下の事務所に言って。今日は飛行機が来るよ。もう来るんじゃないかな」
 あわてて事務所に下り、デッキに入れてくれと頼む。案内してくれた男性に、今日は飛行機が来るのですかとたずねた。
 「ああ、もう飛び立ちましたよ。外灯の、侵入角度の検査ですよ」
 ほかには来ないのかとたずねると、来ませんねと申し訳なさそうに言った。
 デッキで滑走路をながめながらしばらく話を聞いた。
 枕崎空港は枕崎市が管理・運営していること、エアタクシーが運休したので飛行機はほとんど飛来しないこと、県の防災ヘリコプターの基地になっていること、ヘリコプターは時々やってくることなどをていねいに説明してもらった。
 「でも、飛行機はほとんど来なくなっても、常に飛行場として使える状態には保たれています。今日の検査もそのためのものです」
 階下のロビーに行った。そこには指宿でのトーナメントの帰りにこの空港から帰路についたタイガー・ウッズや、自家用飛行機で飛来した桂文珍などの写真パネルが飾られていた。
 滑走路近くの草の上に寝ころんで、空をながめていた。いつまでたっても飛行機は現れなかった。ただ空だけがまぶしかった。
 
【写真】 滑走路の先には東シナ海がひろがっていた
【撮影場所】 枕崎空港送迎デッキ 【地図】
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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こしき海洋深層水株式会社
2006-09-28 09:07:55

第111回 最果ての駅

テーマ:国道226号
●枕崎市JR枕崎駅 【地図】

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 鹿児島中央駅始発の指宿枕崎線の終着駅、枕崎駅。
 指宿枕崎線は数年前まで日本最南端を走る鉄道だった。2003年8月に沖縄都市モノレールゆいレールが開通し、その地位を譲ったという。
 226号を歩くにあたって、私はよく指宿枕崎線を利用した。朝一番、鹿児島中央駅発5時過ぎの始発電車に飛び乗り、指宿駅で乗り換える。5分ほどの時間待ちだ。そして枕崎駅までおよそ2時間。あるときは本を読み、あるときは居眠り、そしてあるときは車窓からのながめを楽しみながら家人が持たしてくれた昼食用のおにぎりを頬張り、汽車の旅を楽しんだ。枕崎駅からはバスに乗り換え、その日の出発点に向かう。何度も汽車に乗るうちに、沿線の風景をすっかりおぼえてしまった。
 もう30年以上前のことになるが、この国の最果ての鉄道を乗ってまわったことがある。特段理由があったわけではない。この国のすみっこを走る鉄道に乗ってみたかっただけだ。
 最北端は旭川と最北端の駅稚内を結ぶJR北海道宗谷本線。最東端は滝川と根室をつなぐJR北海道根室本線。最東端の駅は東根室駅。最西端は長崎県を走る松浦鉄道。最西端の駅はたびら平戸口駅。そして最南端がJR九州指宿枕崎線で、最南端の駅は西大山駅だった。松浦鉄道とたびら平戸口駅も、その地位をゆいレールと最西端の駅、那覇空港駅に譲っている。
 最南端の駅は同様に、ゆいレール赤嶺駅となっているが、西大山駅には「日本最南端の駅 北緯31度11分」と書かれた示標が立っているし、枕崎駅には灯台をかたどった「日本最南端の終着駅」の示標が立っている。それを見上げるたびに、「鉄道というなら、やっぱり2本の軌道がないとね」と私はつぶやく。「それに、都市モノレールっていうのは、最果てってイメージじゃないよね」と。
 最果ての鉄道はどこも、本数も少なく、乗る人も少なかった。が、沿線の人々や旅行者にとっては大切な「足」だ。最南端の駅、最南端の終着駅などと標榜するのは、地元の人々の愛着と誇りのあらわれだろう。
 枕崎駅で上り電車の時刻表を見た。午前中2本、昼1本、夕刻2本の5本だけだった。「少ないわね」隣で見上げていた旅行者らしき女性がつぶやく。「廃線にならないだけましだな」と連れの男性が言う。「でも、各停の汽車の中で地元の人とふれあうのがも楽しい」と私が言うと、「それに、なんといっても、汽車の旅はビールがうまい」と彼は笑った。

【写真】 ぬけるような青空に堂々と立つ示標
【撮影場所】 JR枕崎駅前広場
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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こしき海洋深層水株式会社
2006-09-27 10:04:00

第110回 みんながふれあう市場

テーマ:国道226号
●枕崎市折口町 【地図】

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 国道から通りをのぞき込みながら歩いていると、思いもよらない風景に出くわすことがある。折口市場もそんな風景のひとつだった。何にひかれたかというと、入り口の横に掲げられた小さな看板だ。
 「老人も みんながふれあう 折口市場」
 ふれあいの空気の中に身を置きたくて、市場に入った。小さな間口の店が肩をならべている。果物屋と花屋が多かった。昼食時だったので、どの店も食事の最中だったが、なじみの顔でもない私に、みんな手を止めてあいさつしてくれた。
 折口市場の歴史は50年以上になる。昔は野菜のセリ市場だったそうだ。生花や野菜をひろげていた前田チヨコさん(76)に話を聞いた。
 「いなかからね、農家のおばさんたちがリヤカーにいっぱい野菜を積んで来てたの。そらあすごいにぎわいで、それこそ人の行き来ができないくらいだったよ。カツオ漁に出る船の食料調達の場でもあったし」
 チヨコさん自身、この市場に店を出して50年になるという。
 「主人と二人でずっとやってきたの。休みなしで毎日。ずっとだよ」
 しかし、そんなチヨコさんだが、4年前に1度店をたたんだという。ご主人が亡くなったのだ。
 「主人が死んで2年間、休んだのよ。何にもせず、ずっと家に閉じこもって。そうなると人間だめだね。どんどんさびしくなっちゃって、老け込んじゃって」
 思い出すのは店とこの市場のことばかりだったという。あのお客さんはどうしてるだろうか、あの人は市場に来てるだろうか、元気にしてるだろうか…。そんなことばかり考えていたそうだ。思い切って2年前に店を再開した。
 「主人がいたころは商売だって力が入ってたけどね、親しい人のたまり場になるくらいの感じで、のんびりやってこうって」
 実際チヨコさんの店にはいつも人が集まっている。真ん中に置いたテーブルで、いろんな人がお茶を飲んで、一時おしゃべりを楽しんで帰っていく。集まってくるのは女性だけではない。漁師や警察官や、男性も多い。
 「市場って、そういうところでしょ。1日いると世間がわかるよ。買い物だって楽しいよ。値切れるし、サービスもつくしね。私もね、からだの続くかぎり、遊びにくるつもりで店を開けるよ」
 そう言ってチヨコさんは笑った。ふれあいは、元気の素でもあるのだ。
 
【写真】 あんたもお茶のんでいかんね。元気なチヨコさんだ
【撮影場所】 枕崎市折口町折口市場
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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こしき海洋深層水株式会社
2006-09-26 08:53:14

第109回 あっさりかつおラーメン

テーマ:国道226号
●枕崎市松之尾町 【地図】

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 かつおの町枕崎に着いたらぜったいに食べたいと思っていたものがあった。かつおラーメンだ。なんでも国道沿線に4軒の店があるという。どこがいいかわからなかったので、とりあえずいちばん最初にたどり着いた店に入ろうと決めていた。
 おお、のぼりが見えるではないか。歩くスピードを上げる。だが、あいにく最初の店は定休日で閉まっていた。仕方がない、次だ。ぜんぶ定休日が同じだったらどうしようと不安がひろがる。完全にラーメンの、しかもかつおラーメンの腹になっている。それ以外は受け付けないぞ、と。
 花渡川(けどがわ)の長い橋を渡る。次ののぼりが見えてきた。3階建てのビルに「ラーメン専門あじひろ」という大きな看板。営業中だ。躊躇なく入り、カウンター席に腰を下ろし、かつおラーメンを注文する。昼食時は過ぎていたのに、7人の先客がいた。
 聞いたところでは、このラーメンは、料飲業組合枕崎支部の有志が苦労を重ねた果てに完成したという。特徴はカツオをふんだんにつかったスープはもちろんだが、麺にはカツオに多く含まれるDHA(ドコサヘキサエン酸)が練り込まれているという。こいつは脳の働きを活発にしたり、記憶力や学習能力を高める働きをする不飽和脂肪酸の1つで、認知症の予防とか、キレやすい子どもをおとなしくするとか、そんなことが言われている。私も最近少々物忘れがひどい…。
 具は4軒ともそれぞれ工夫していて、いろんな味が楽しめるという。ええい、いっそのこと4軒ともいってもたろうか。と、ラーメンを思い浮かべるとなぜか関西弁になる私だ。
 待つこと15分あまり。ようやく出てきたかつおラーメン。親父さんが説明してくれた。「具はね、カツオの竜田揚げとヅケ。ワカメに、ニンジン、ショウガを刻んだもの。ショウガを全体にひろげて食べてね。それから、コショウじゃなくて七味があうから」。
 まずスープをすする。本枯れ節と野菜でとったあっさり味だ。どこからハシをつけようかと迷っていると、さらに親父さんから「ヅケは生だから早く食べてね」と適切なアドバイスが飛ぶ。ふつうラーメンといえば塩からいと相場はきまっているが、とてもあっさりしている。
 「でもね、麺もちがうし、別にして湯がかないと…。でも、おいしいでしょ」
 おいしい。これなら何杯でもいけそうだ。よおし、あと2軒いってもたろ。かつおラーメンのはしごをすることにした。
 
【写真】 澄んだスープに、ヅケの赤がはえる。これで700円
【撮影場所】 枕崎市松之尾町ラーメン専門あじひろ
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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こしき海洋深層水株式会社
2006-09-25 11:34:44

第108回 海の墓標

テーマ:国道226号
●枕崎市火之神公園 【地図】

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 火之神公園の一画に、平和祈念展望台はある。入り口の「青海のほとりに哭す」と刻まれた石碑が、そこを公園の他の施設とあきらかに異なった「場」にしている。
 そこからの東シナ海のながめは壮大だ。水平線のあたりだろうか、太平洋戦争の末期、戦艦大和を旗艦とし、巡洋艦矢矧(やはぎ)、駆逐艦冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霧、初霜、霞の10隻からなる第2艦隊が、米軍上陸後の沖縄に水上特攻を試みる途中、米軍機の攻撃を受け撃沈した。第2艦隊は、大和、矢矧、磯風、浜風、朝霧、霞の6隻を、3700人以上のいのちとともに失った。展望台の石碑、銅像、案内版、灯籠、そして周囲の草木のすべてが墓標に見える。
 大和の最期は、さまざまに伝えられている。もっとも克明に最期の時が記録されているのは『戦艦大和ノ最期』(吉田満 講談社)だだろう。著者は乗組員の生き残り。はじめて読んだのは20年以上前だが、極限の有様が淡々とつづられた文章に衝撃を受けた。
 第2艦隊の出撃は、昭和20年4月6日。その5日前、米軍は沖縄本島に上陸していた。著者は作戦について「日本海軍最後ノ艦隊出撃ナルベシ」「我ラ国家ノ干城トシテ大イナル栄誉ヲ与エラレタリ」と記すが、出撃の朝には「ワレ、タダ俯シテ死スルノミ ワガ死ノ実リアランコトヲ願ウノミ」と記している。20歳そこそこの青年士官の覚悟だ。出撃は死をもって米軍に挑む海上特攻だった。
 「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ (中略)敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ (中略)俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」敗戦必至と思いながらも、自分たちが死ななければならないその意味を、極限でなお直視しようとしてする別の青年士官のことばだ。
 「お元気ですか。私たちも元気で過ごしてゐます ただ職務にベストを尽くして下さい そして、一しよに、平和の日を祈りませう」ある学徒兵に届いた母親からの手紙だ。アメリカ移民2世が、故国日本に留学中、学徒兵として招集されたのだ。手紙は中立国スイスを経由して、出撃の朝ようやく届いた。短い文面の行間には、愛情や哀しみやあきらめがあふれていると思った。
 展望台から西南約200キロの海底に、大和ともに多くの兵士たちの思いも沈んでいる。
 
【写真】 それから60年たった東シナ海。薄暮の波は穏やかだった
【撮影場所】 平和祈念公園下海岸 
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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こしき海洋深層水株式会社
2006-09-24 11:51:14

第107回 ああ、勘違い

テーマ:国道226号
●枕崎市大塚 【地図】

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 「枕崎に行くのなら、デンショウギクを見てくるといいわよ」と出がけに家人が言っていた。デンショウギクか…、と私の雑学の箱が開きはじめる。
 菊の歴史は、とても古い。中国では50万年から100万年以上前地層から、菊の原種の化石が発見されている。古くから不老長寿の霊草、つまり薬草とされていたそうだ。日本には、7世紀から8世紀にかけて、中国から朝鮮を経て伝えられたとされている。
 菊の原種とは、いったいどのような花なのだろう。デンショウギクというからには、その原種に近い形で「伝承」されているのだろう、と浅はかな私は思いこんでしまった。
 耳取峠を越え、枕崎市に入った。家人の話によると、国道226号沿いにビニールハウスがならんでいるのですぐにわかるということだった。ことばのとおりだった。
 そのひとつに、ビニールをかけていない、骨組みだけのハウスがあった。菊はまだ背が低く、苗といった感じだった。その上に、いくつもの電球がぶら下がっていた。近くで作業をしていた男性にたずねた。
 「あれがデンショウギクですか」。男性は、そうだ、と作業の手を休めることなく言った。「あの電球は、なんのためにぶら下がっているのですか」。すると今度は作業の手を止めて、不思議そうな顔をして私を見た。「なんのためって、デンショウギクなんだから…」。
 それは「伝承」ではなく「電照」だったのだ。
 男性は何も知らない私に、デンショウギクについてていねいに教えてくれた。
 菊には春から初夏にかけて咲く夏菊、秋から初冬にかけて咲く秋菊、冬に咲く寒菊などがあったが、正月用の菊をつくろうとはじめられたのが電照菊だそうだ。昭和10年代に愛知県ではじまったのが最初で、枕崎ではじまったのは昭和30年代になってからだった。電照菊に使われるのは主に秋菊だ。秋菊は、日長時間が短くなると花の芽ができ、蕾が膨らみ開花する。つまり花の芽ができる前の時期に電灯で照らし、人工的に昼の時間を長くすることで、自然の開花時期より遅らせて花を咲かせ、正月にあわせることができるのだ、と。
 「菊の生物リズムを狂わせるんだ。勘違いさせるんだよ」
 日にあたる時間が長ければ、早く花が咲くもんだというのも、私の思い込みだった。そういえば、夜に咲く花もあったっけ。
 「伝承」と「電照」。勘違いさせられた菊に、勘違いさせられた。
 

【写真】 「夜はきれいだよ」電照時間は深夜4時間くらいだそうだ
【撮影場所】 枕崎市大塚付近 
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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こしき海洋深層水株式会社
2006-09-23 14:27:02

第106回 希望の色

テーマ:国道226号
●南さつま市坊津町泊梅崎春生文学碑の道 【地図】

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 「七月の初め、坊津にいた」
 梅崎春生の名を世に送り出した『桜島』の冒頭だ。
 舞台となる昭和20年7月、坊津には震洋特別攻撃隊の発進基地があった。震洋は250キロもの爆薬を積んで敵船に体当たりする水上特攻兵器だった。梅崎はその舞台に派遣された暗号通信員だった。そこが敵の本土上陸を阻止するための自身の死地になるという思いは、のちに梅崎に坊津を「冥府」とまで呼ばせている。
 「目に見えぬ何ものかが次第に輪を狭め、身体を緊めつけて来る」
 そこから逃げるようにアルコールを痛飲し遊び呆ける梅崎に、桜島転勤の命令が下りる。歩いて枕崎に出る途中、ふたたび見ることはないと峠からふり返った坊津の風景は「おそろしいほど新鮮だった」。戦争という極限の中で気づかなかったが、自然はずっと美しいままだった。そのことが自分の失った生への希望の大きさを、余計に感じさせる。
 「かねてから私を悩ます、ともすれば頭をもたげようとするのを無意識のうちに踏みつぶし踏みつぶして来たあるものが、俄かにはっきりと頭の中で形を取って来るらしかった。私は、何の為に生きて来たのだろう。何の為に?−−」
 踏みつぶしてきたのは、生への希望なのだろう。希望の半分は戦争で国家につみ取られ、残りの半分は自分で踏みつぶした。『桜島』には、戦争への憤怒、戦争の醜悪さが、人間そのものの醜悪さに引きつけて描かる。それは桜島へ移動する途上の町で、右耳のない妓(おんな)を抱こうとする梅崎自身の醜悪さにつながる。
 そして戦争そのものに対する憤怒、抗う姿勢よりもさらに強く顕れているものがある。それは、梅崎の文学の底流にながれる死というものの理不尽さに対するあきらめと喪失感であり、その裏返しである生への執着・渇望、生きていくことの孤独感、そして希望だ。
 ほぼ20年後、梅崎は最後の作品『幻化』で、五郎という主人公となり坊津を再訪する。枕崎から徒歩で坊津をめざした五郎は、峠で立ち止まりふたたび「すさまじい青さでひろがる」坊津の海を見る。美しい自然はそのままにあった。死に場所を桜島に求めた自分は死なずに、ふたたびその海を見ている。だが梅崎は、自ら希望を踏みつぶした場所にもどるのに、20年を費やした。
 その海の青さを私も見た。希望ということばを思い出させるにふさわしい、汚れのない鮮やかな色だった。
 
【写真】 この記念碑は、「冥府」への入り口なのかもしれない
【撮影場所】 坊津町泊輝津館近く梅崎春生文学碑への途上 
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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こしき海洋深層水株式会社
2006-09-22 11:05:18

第105回 生涯ドライバー

テーマ:国道226号
●南さつま市坊津町久志 【地図】

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 私が坊津にひかれる理由は、風景や歴史だけではない。実は家人の母方の祖父が坊津久志の出身なのだ。
 渡瀬正之助、明治15年(1882)生まれ。その人は坊津にあって、とてもユニークな人だったらしい。
 まず、鹿児島県で2番目に運転免許証を取った人として有名だった。1番がだれかはわからない。だが、2番ということで多くの助手、いわば弟子を抱えていたそうだ。そして、枕崎・坊津今岳間のバス運転手としても有名だった。
 最終的に坊津4浦が道路で結ばれたのは昭和30年代だ。それまでは船が主な交通手段だった。枕崎から坊、泊、久志と結び、秋目まで開通したのは昭和35年(1960)だったと聞いた。
 バスは南薩鉄道が運行していた。南鉄バスと呼ばれていたそうだが、後に鹿児島交通と名前を変える。道路が秋目まで延びても、今岳までの折り返し運転だったという。祖父は枕崎の営業所に勤務していた。
 「車掌さんが乗っていたわ。いまでいうバスガイドみたいなもんだわね」と家人の母は言うが、その役割は重要だった。幅員も狭く舗装も十分でない曲がりくねった岬の道路を、ボンネットバスが走るのだ。「鼻っ先を崖に突き出して走ってたって、おじいさんはよく言ってたわ」。車掌は左右の確認には欠かせない存在だったに違いない。
 梅崎春生の小説『幻化』を思い出した。
 梅崎は昭和38年(1963)鹿児島、熊本をまわり、2年後遺作となるこの作品を書く。その中で主人公五郎が枕崎のバス停で車掌とことばを交わすシーンが登場する。あと25分でバスが出ると聞きながら、結局五郎はバスに乗らず、歩いて坊津をめざす。
 梅崎のその旅は妻を伴ってのものだった。バスに乗ったのかどうかはわからない。病弱だった彼のことを考えると、おそらくタクシーを使った旅だったのだろうが、もしバスを選んだとしたら祖父正之助の運転するバスに乗り合わせたかもしれない。
 その後祖父は川辺営業所勤務となり、家族ともども川辺に引っ越しす。さらに鹿児島市内の営業所に移り、そこで定年を迎える。定年後も個人タクシーの運転手となり、生涯ドライバーを貫いて83歳で他界した。
 祖父正之助の墓は鹿児島市内にあるが、家族が暮らした家は住む者のないまま、いまも久志の海を見下ろす山の斜面に立っている。
 
【写真】 祖父もこの風景を見ながら運転していたのだろうか
【撮影場所】 丸木浜展望所から泊、坊を望む 【地図】
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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こしき海洋深層水株式会社
2006-09-21 15:05:05

第104回 007の島

テーマ:国道226号
●南さつま市坊津町秋目 【地図】

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 秋目は鑑真や遣唐使船だけではない。
 ここはスパイアクション映画、007シリーズの第五作『007は二度死ぬ』(原題 YOU ONLY LIVE TWICE)のロケ地としても有名(?)だ。
 1967年制作の英国映画だが、日本で公開されたのは68年だっただろうか。映画好きの父親に連れられて行った。当時10歳にも満たない私には意味もよくわからず、あまりおもしろくなかった。ただ、ジェームス・ボンドの乗るスポーツカーがすごくかっこよくて、それがTOYOTA2000GTという日本の車だったということ、女性の水着姿やキスシーンが出てくると父の手が私の目を覆ったことが印象に残っている。
 それに横に座った父が、ずいぶんと大きな声で文句を言いながら見ていたこともおぼえている。「日本の女はあんな着物の着方せえへんわい」「瀬戸内海になんで火山島があるねん」「なんでボンドがスポーツカーで、なんで日本のボスが地下鉄やねん」。
 父のいう瀬戸内海の火山島とは、映画の中では世界征服を狙う秘密結社スペクターの基地、ロケット工場として描かれていたが、それに秋目から見える沖秋目島の遠景が使われた。もちろん沖秋目島は火山島ではない。霧島新燃岳の火口を別に撮り、さも沖秋目島にあるかのように見せたのだそうだ。日本の秘密警察のボス、丹波哲郎が移動に使う地下鉄は丸の内線。開通したばかりの地下鉄をアピールしたかったようだ。父が唯一うれしそうな声を上げたのは「若林映子はええなあ」だけだった。私は、海から上がってくるもう1人のボンドガール、浜美枝のセパレーツの水着は印象に残っているのだが…。
 気になったので家にもどってからDVDを借りて見た。完成したばかりのホテルニューオータニをはじめとする高度成長期の東京の風景や富士スピードウェイなどが印象的に描かれていた。父親が言ったとおり若林映子は、不思議な美しさを秘めた女優だった。いまはどうしているのだろう。
 鑑真記念館の真下にロケ地であったことを記念する石碑が立っている。ショーン・コネリーと丹波哲郎のサインがならんで刻まれている。
 広い日本の海岸線からこの風景を探し当てるのに、スタッフたちはどれほど歩いたことだろう。本来刻まれるべきは、ここをロケ地の候補に上げた舞台裏の仕事をした人々の名前ではないだろうか。
 
【写真】 古代の鑑真上陸の記念碑と向かい合わせに立っているのがおもしろい
【撮影場所】 鑑真記念館前 
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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こしき海洋深層水株式会社 
2006-09-20 09:30:25

第103回 鑑真と遣唐使船(5) 足と汗に支えられた合理性

テーマ:国道226号
●南さつま市坊津町秋目 【地図】

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 「鑑真一行が着いたという歴史的事実が大きな意味をもつと考えます。そのことを過小評価してはいけないと思います」鑑真は秋目をめざして着いたと唱える橋口亘氏(坊津町教育委員会生涯学習課文化財係)は強く言った。
 「唐大和上東征伝」には「着」と記されているだけだが、これを「漂着=たまたま着いた」ととるか、「寄港=めざして着いた」ととるか、専門家の間では議論の分かれるところだ。
 私は、前2回の本欄で、鑑真一行は秋目を意図的にめざしたと推測した。その理由に大浦潟と秋目をつなぐ秋目峠の存在をあげた。実際に歩いてみて、それがいちばん安全で、いちばん早い道だと実感したからだ。鑑真は急いでいたのだ。秋目に着いて6日後には大宰府に入っている。出航の日和をうかがう余裕はなかったのではないか。
 一行は秋目で小型船に乗り換え、海路笠沙半島をまわり九州西岸沿海を北上したと考える研究者も多い。このことを周辺海域に詳しい野元尚巳氏(冒険家/シーカヤックガイド)たずねると、「日和を選ばないとしたら、海をよく知っている者からすれば合理的じゃないな」と返ってきた。
 笠沙の海岸線を歩き秋目に着いた私が見てきたものは、険峻な断崖の連続だった。沖を小型船で航行し、何かあってもそれこそ漂着できるかどうか。ましてや冬の東シナ海は北西の季節風が吹きつける。しけると野間岬付近には近づけないと、ある漁師から聞いた。岬にぶつかる波といっしょに岩礁に激突することを恐れてだ。腕っこきの船乗りほど避けたい海ではないだろうか。しかも古代の船で、国賓級の要人を乗せるとなるとなおさらだろう。
 鑑真一行は、秋目に上陸し秋目峠を越えた。小型船に乗り換えるのは大浦潟からだ。こう考えるのが合理的だろう。とすると、やはり一行は時間短縮とその後の移動の安全を考えて、当初から秋目をめざしていたと、私は思いたい。
 地道な研究の積み重ねで史実を明らかにしていく研究者には、私の説などただの戯言にすぎないだろう。だが、たったひとつ鑑真が秋目に着いたという史実からだけでも、実際に自分の足で旅をする私には、歩いた印象を積み重ねてさまざまに推測・推論できる。そして自分の足と流した汗がその合理性を支えてくると信じている。

【写真】 しける冬の坊津の海。「ましなほうだ」と地元の青年は言った
【撮影場所】 笠沙町唐瀬付近から坊津沖を望む 
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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