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時論公論 「対ロシア情報収集強化」2010年11月11日 (木)
石川 一洋 解説委員
リード
ロシアのメドベージェフ大統領が北方領土の国後島を訪問した問題で、日本の対ロシア情報収集能力の低下が露わになりました。きょうは北方領土問題を抱えるロシアへの情報収集能力を高めるために何をしたらよいのか考えてみます。
官邸とメドベージェフ国後訪問
ロシアのメドベージェフ大統領は、今月1日北方領土の国後島を訪問しました。官邸には外務省からメドベージェフ大統領の北方領土訪問の可能性は低いと言う判断が事前に伝えられ、訪問当日も報道で大統領の北方領土訪問を確認すると言う事態となりました。
前原外務大臣「NHK等で報道されていることは存じていますが、まだ事実確認はしていません」菅総理「私もNHKによればメドベージェフ大統領が国後島に着いたと言う報告を受けています。大変遺憾なことだとおもっております」(11月1日衆議院予算委員会)
対ロシア情報収集強化を指示
こうした事態を受けて前原外務大臣は、河野ロシア大使を情勢報告のため、一時帰国させました。河野大使は前原外務大臣、菅総理大臣に対して、メドベージェフ大統領の北方領土訪問は国内的な要因が強いとの報告をしました。
これに対して菅総理は次のように指示しました。
菅総理大臣「もうちょっとしっかり情報収集しろと指示した」(11月4日衆議院本会議)
分かりやすく言えば今の情報収集、分析能力はなっていないと叱責したと言うことです。
NHKでは、メドベージェフ大統領の北方領土訪問の日程について前日までにはほぼ詳細な予定を把握し、事前に報道しました。新聞各紙、通信社なども同様の報道をしています。 大統領府など権力中枢と接触するモスクワの大使館、サハリン州政府など現地に網を張るユジノサハリンスクの総領事館など、外務省の情報収集体制はもちろん我々報道機関よりも人員、予算とも遥かに充実しています。また入省以来ロシア語を学ばせ、対ロシア外交を行う人員としてルシアンスクールと呼ばれる外交官を系統的に育てています。
外務省では訪問の可能性も伝えていたとしていますが、これだけの体制がありながら正確な情報を掴めなかった責任は免れないでしょう。
周到なロシアと準備不足の日本
ロシア側はメドベージェフ大統領の国後島の言動を見ても日本での反応も見越して周到に準備してきたのは間違いありません。
それに対して日本の総理、外務大臣は大統領が訪問した場合、どのように抗議を伝え、そしてどのような具体的な措置を取るべきか十分な準備のないまま、その場しのぎの苦しい対応となったことは否めません。
外務省では何故「訪問の可能性は低い」との判断を取ったのか、ある外務省の幹部は、今回はロシア側にミスリードされたと述べており、外務省では「訪問はしない」という情報に信頼を置きすぎたのかもしれません。
いずれにしても厳密な検証が必要でしょう。
対外情報外務省一元化・ダブルチェックの態勢を
日本はアメリカやロシアのように対外情報の収集を専門とする機関は持っていません。
外国での情報収集については他の機関も行っているものの、外務省が圧倒的な人員と予算と伝統を持っていることは言うまでもありません。
大使館には警察庁、公安調査庁、財務省、内閣情報調査室、などの職員が外交官として出向していますし、また防衛省から駐在武官も主要国に派遣されています。
しかし公式の電報の形での情報は大使館から外務省に一元化して送られ、それから官邸などに届けられます。それだけに現地の大使館あるいは外務省の担当部局が判断を誤れば、取り返しのつかないミスとなりうるのです。
外務省の情報収集能力を強化するためには、例えば現地大使館に他省庁出身の情報担当官を任命し、日本の情報機関との直接の伝達ルートを導入したり、あるいは外務省以外の情報機関の対外情報収集を強化したりして、情報収集とその判断に置いてダブルチェックできる態勢を造ることも必要でしょう。
官邸の情報能力強化
もう一つ重要なのは官邸の情報能力、判断能力の強化です。自民党政権の時代から官邸の情報能力の強化が言われ、各省横断的な情報を精査して、政策サイドに報告する内閣情報官制度はできました。今回の場合、メドベージェフ大統領は近い将来北方領土を訪問すると9月終わりには述べています。訪問への懸念は官邸から外交ルートを通じて様々な外交レベルで伝えたとしていますが、どの程度官邸が危機感を持って情報収集の指示を出すなど情報コミュニティとのやり取りをしたのでしょうか。政治の側の「訪問して欲しくない」との願望が情報の取捨選択に影響を与えたことは無かったでしょうか。
現場にのみ責任を負わすことになれば、ますます現場のやる気を奪い、情報収集能力の劣化が進むことになるでしょう。
外務省の対ロシア情報収集能力の低下
しかし当面、低下した外務省の対ロシア情報収集能力を再構築する必要があります。
北方領土問題を抱えるロシアは隣国でもあり、また巨大な領土と軍事力を抱える大国でもあり、常に日本外交にとって重要な対象でした。それだからこそルシアンスクールと言われる専門家集団を系統的に育て、対ロシア外交にあたらせてきました。
過去において、例えばソビエト時代アンドロポフ書記長の死亡を世界に先駆けて掴んだのも当時の在モスクワ日本大使館でしたし、あるいはロシアになってからもエリツィン時代、後継者と見られたチェルノムィルジン首相の解任をイスラエルで得た情報を基にいち早く予想したのも外務省の対ロシア情報チームでした。
こうした対ロシア情報収集能力はどこにいったのでしょうか。
対ロ外交対立の後遺症
2001年小泉政権の時に対ロシア外交をめぐる外務省内部の争いの中で、対ロシア情報を担っていた専門家グループが排除されました。その事件の後遺症は未だに深く残っています。今クレムリン中枢と直接話が出来る外交官がどれだけいるでしょうか。
ロシアのような国を見るためには、やはり長い年月、継続的に人脈を築き、情報を収集し、分析を続ける地道な作業が不可欠で、その担い手としての専門家の存在は欠かせません。この10年間の断絶は大きなものがありますが、アカデミズムとも連携しながら世界的なロシア専門家を系統的に育てる必要があります。
適材適所の人事体制
それでも外務省の中には私自身もロシアに関する情報と分析については教えられることの多い外交官はいます。しかし外務省内部で中堅、若手を含め優れた人材が適材適所で活かされているのか、疑問があります。優れたロシアの専門家の多くが対ロシア関係の部署から遠ざけられており、いわば宝の持ち腐れという状況が続いています。
そう急に今ある人材の中で対ロシア情報収集強化のために適材適所の配置をただちに行うべきでしょう。
対ロシア外交の再構築
正確な情報と分析は対ロシア政策の組み立てにも必要不可欠です。
今の日本の対ロシア政策は基本的には、安倍政権の誕生とともに、外務省の対ロシア政策責任者が、「当時のプーチン政権が本格的に極東開発に乗り出す、その中で日本との関係を重視するとの政策決定をした」との情報を基に組み立てました。
極東シベリア開発への協力などロシアのアジア太平洋経済圏入りに協力する中で北方領土問題の解決を目指すという基本方針で、今もその方針を踏襲しています。
今回のメドベージェフ大統領の国後島訪問は、大統領府での意思決定プロセス、大統領の性格、2012年のロシア大統領選挙をめぐる動きなどについて貴重な分析の材料となります。
外務省は、今後は、アジア太平洋に向かうロシア、北方領土で進むロシア化、そして中ロ関係と言う三つのベクトルについてしっかりとした情報収集と分析を進めるとしています。国後訪問がロシアの対日政策の根本的な変更を意味するものかどうか、そして日本にどのようなメッセージを伝えようとしたものなのか、情報を集め、詳細に分析することが新たな対ロシア政策の組み立てに不可欠です。
APECで日ロ首脳会談を行う方向で調整が進んでいますが、メドベージェフ大統領の国後訪問の後、何の戦略もなくただ会うためだけの会談であるならば会わない方が良いでしょう。APECでの日ロ首脳会談は領土交渉を再構築するための外交的戦いの場であるべきです。
菅総理、前原外務大臣のリーダーシップの下、外務省では今度こそ情報戦に負けないように詳細で正確な分析に基づき、緻密な戦略を立てて、日露首脳会談に臨むよう求めます。