たいむかぷせる。
「空の境界the Garden of sinners」
・7/殺人考察 not nothing heart.(完)
街は四年ぶりの大雪に見舞われていた。
三月に降る雪は、季節を凍らせるように冷たい。
夜になっても白い結晶は降りやまず、街は氷河期のように死んでしまった。
深夜零時。道には人の姿はなく、ただ街灯の明かりだけが雪のヴェールに抵抗している。
暗いはずなのに白く染まったその闇の中で、彼は散歩に出かける事にした。
とりわけ目的があった訳ではない。
ただ予感だけがあって、その場所へ歩いてみた。
黒い傘をさして、降り積もる雪の中を歩いていく。
果たして、そこに彼女は立っていた。
四年前の日と同じように。
誰もいない白い夜のなか、着物姿の少女はぼんやりと闇を見つめている。
彼は四年前と同じように、やあ、と気軽に声をかけた。
着物姿の少女は振り向いて、にこりと微笑う。
「―――久しぶりね、黒桐くん」
見知らぬ少女は、もうずっと彼を知っていたような、柔らかな笑みをうかべていた。
…
「―――久しぶりね、黒桐くん」
両儀式という少女は、彼に馴染みのない口調をしていた。
そこにいるのは彼が知っている式でも、まして織でもない知りえない誰か。
「やっぱり君か。……ああ、なんとなく会えると思ってた。それで、式は眠ってるの?」
「そうね。今は、わたしとあなただけ」
にこりと微笑う。
それは女性という存在が形になったような、完璧な微笑みだった。
彼は尋ねる。
「君は、誰なんだい」
「わたしはわたしよ。どちらのシキでもない、ただガランドウの心の中にいるわたし。それともガランドウのココロがわたしなのかな」
自らの胸に手をあてて、瞼を閉じる。
……彼女は言った。
なにもかも受け入れるのなら、傷はつかない。
自分に合わないことも、自分が嫌いなことも、自分が認められないことも、反発せずに受け入れてしまえば、傷はつかない。
けれどその逆だって同じこと。
なにもかもはねのけるのなら、傷つくしかない。
自分に合っていることも、自分が好きなことも、自分が認められないことも、同意せずにはねのけてしまえば、傷つくしかない。
……それは、かつて彼女自身だった、式と織という人格の在り方だった。
「肯定と否定しかない心は完全であるが故に、孤立してしまうの。そうでしょう? 汚れない完全な単色は、混ざりあえないかわりに変色する事もできず、ずっと同じ色のままだもの。それが彼女たち。シキっていう人格は一つの土台の両端にある極点みたいなものかしらね。その間には何もない。だから、そのなかに、わたしがいるの」
「そっか。まんなかにいるのが君なんだ。じゃあなんて呼べばいいのかな。その、やっぱりシキでいいの?」
はて、と首をかしげる彼の仕草がおかしくて、彼女は思わず笑ってしまう。
「いえ、両儀式がわたしの名称よ。けれどシキと呼んでもらえるなら嬉しいな。それだけで待ってた意味がでてくるもの」
微笑む彼女は、こどものようにも、おとなのようにも思えた。
…
彼と彼女はとりとめのない、わずかなコトを語りあった。
彼はいつもどおりに話して、彼女も楽しそうに聞いている。
ふたりの関係はいつもの関係と変わらない。
けれど、ただ、彼女だけが違っていた。
彼女は彼との違いを悟っていく。その、決して混ざりあえない絶望だけを。
「ねえ。四年前の事を、式は覚えていないの?」
唐突に、彼はそんなことを尋ねた。
そう、まだ彼が高校生だった頃の話だ。彼は彼女に以前一度会ったことがある、と言ったのに、式はそれを覚えていなかった。
「ええ、わたしと彼女たちは違うから。織と式は隣りあってる者だから、お互いの事はよく覚えている。けれどわたしは彼女たちが知覚できない自分だから、今日のことも式は覚えていないでしょうね」
そうか、と彼は残念そうに呟いた。
―――四年前の一九九五年の三月。
彼は、彼女に出会った。
きっかけは、ほんとうに些細なこと。
雪が降った中学生最後の夜、彼はこの道を通って家に帰る途中、ひとりの少女を見かけた。
少女はこの道に立っていて、ぼんやりと空を見上げていた。
彼はそのまま帰って、寝ようとした時にふと少女のことを思い出した。そうして散歩がてらに外に出てみたのだ。
すると少女はずっとそこに立ったままで、彼は少女に声をかけた。
こんばんは、と十年来の友人のような気軽さで。
きっと、あんまりにキレイな雪だったから。
見知らぬ誰かとでも、一緒に遊びたくなったのだろう。
…
「黒桐くん。わたしもね、あなたに尋ねたい事があるの。少しだけ残念だけど、お話はそれでおしまいにしましょう。わたしはそのために出てきたんだから」
彼女は見かけより何倍も大人びた瞳で彼を見つめる。
「あなたのほしいものは、なに?」
質問は漠然としすぎていて、彼には答えられない。
彼女は感情のない機械のような表情。
「願いを言って、黒桐くん。わたしは人の望むものなら大抵のことを叶えてあげられるわ。式はあなたが好きみたいだから、わたしの権利はあなたのものだもの。
―――さあ、あなたは何を望むの?」
手を差しのべた彼女の瞳は透明で、どこまでも深い。果てまで見渡せてしまえそうな瞳には人間性というものが欠けていて、なんだか神さまを相手にしているみたいだった。
そうだね、とわずかに思案して彼は彼女の眼差しに応える。
無欲というものでもなく、信用していないというわけでもなく。
いらないよ、と彼は答えた。
彼女は瞳を閉じて、そう、と吐息を漏らす。それはひどく残念そうで、けれど安堵するような慈しみをおびた翳り。
「……そうね、わかりきっていたことだった」
そうして彼女は彼から視線を逸らして、白い闇をぼう、と見つめた。
「君は、シキじゃないんだね」
彼は哀しそうに言って、彼女はええ、と頷いた。
「―――ねえ黒桐くん、人格ってどこにあるのかな」
明日の天気を尋ねるみたいな、素朴な質問。
それは答えになんてこれっぽっちも関心がなさそうな、空っぽな気持ちだった。
だっていうのに、彼は口元に手をあてて真剣に考える。
「……どうだろう。人格っていうのは知性のことだから、やっぱりあたまのなかにあるんじゃないのかな」
頭の中、つまり脳に知性は宿る。
彼はそう口にして、彼女はいえ、と首を横に振った。
「……魂は脳に宿る。脳髄だけ生かしきれるコトが可能なら、人は肉体なんかいらない。ただ外部から電気を流してやればずっと脳だけで夢を見て生きていける―――そう、式に語った魔術師がいたわ。あなたと同じね。人格は頭の中にあるって答え。
でも、それは間違いなの。
例えばね、黒桐くん。あなたという人間、あなたという人格、あなたという魂をカタチにしているのは遍歴をつみかさねた知性と、そのカラである肉体なの。知性を生む脳だけでは人となりを表す人格は作れない。……そう、脳だけで生きていけるというけれど、わたし達は肉体があって初めて自己を認識できる。肉体があって、それと一緒に育ったから今の人格があるの。自分の肉体が好きなひとは社交的な人格を持つだろうし、嫌いなひとは内向的な翳りを持ってしまう。人格は知性だけで育つけれど、知性だけで育った人格は自己を省みない、およそ人間の心とは別の物に成長してしまうわ。それじゃあ人格じゃなくて、ただの計算機と変わらなくなってしまうでしょ?
脳だけになるというのなら、その人は“脳だけの自分”という新しい人格を作らないといけない。肉体という大我を捨てて、知性という小我を大元にしなくちゃいけない。
知性があって肉体がある、ではないの。
肉体のあとに、知性が生まれる。
でも知性の元になった肉体には、やっぱり知性なんてものはない。肉体はただあるだけだから。けど肉体にだって人格はあるわ。だって一緒に育って、知性を生んだわたしなんだから」
あぁ、と彼は声をあげた。
……聞いたことがある。人間は三つの事柄で出来た生物だって。精神と魂、それに肉体というもの。
精神は脳に、魂は肉体に宿るものだとしたら、彼女はシキの本質なんだ。
シキという心がない、肉体という名前の人格。
彼女はゆっくりとうなずいた。
「つまりはそういうコトよ。わたしは知性が作り出した人格じゃなくて、肉体そのものの人格なの。
式と織は、結局『両儀式』という大元の性格の中で行なわれる人格交換。それらを全て司っているのは『両儀式』よ。彼女たちが両儀であるのなら、太極があるのは道理でしょう? 太極をかたどるもの、円という輪郭がわたしなの。
わたしは、わたしと同格のわたしを作った。いえ、意志という方向性がある以上、彼女たちはわたしより高位なわたしかしらね。ふたりが異なる人格であろうと思考回路が同一だったのは、彼女たちが結局『両儀式の中の善と悪』だったから。発端はわたしであり、また、その結論もわたしにある。そうしなければ異なる方向性の彼女たちが両立できるはずはないものね」
くすり、と両儀式は笑った。
彼を流し見る視線は、今までのどんな時より―――冷たく、殺意に満ちている。
「……よくわからないけど。つまり、君はふたりのシキの原型なんだ」
「そう。両儀式の本質よ。そして決して表に出ない本質。肉体にすぎないわたしは考えるコトができないから、そのままで朽ちるはずだった。「 」であるわたしは「 」であるが故に知性も意味も有り得ないから。
けれど両儀の家の人たちは、そういった空っぽのわたしに知性を与えた。彼らは両儀式を万能の人間にするために色々な人格を組み込もうとしたの。そうして知性の原型であるわたしが起こされて、その後に全ての地盤になるものとして、式と織をわたしは作った」
あぁ、と彼は息を漏らす。
式と織、陰と陽、善と悪。それは相反するから分かれたものではない。蒼崎橙子という魔術師は語っていた。そう分かれたのは、それらがもっとも多くの属性を内包するからだ、と。
「おかしいでしょ? 本当は未熟児として消えてしまう筈のわたしは、そうして自分というものを得てしまった。
生まれたての動物は、赤子の体とそれに見合った知性の芽をもっている。けどわたしのように何も持たずに生まれたものはね、そのまま死んでしまうのが決まりなの。もともと「 」に近いものは体をもって生まれてはいけない。トウコさんに聞いたでしょう? 世界は、世界自身で破滅の原因になる出来事を防いでいるって。だから普通ならわたしは発生しても生まれる事さえなかった。
わたしのように「 」から直接流れ出た生き物は母親の胎盤の中で死ぬだけ。―――けど、両儀の血族はそれを生かす技術を持っていたのね。そうして生まれたわたしは、けど知性の芽さえない。「 」は無だから、知性だって無なんだもの。わたしはそのまま、外界を認識することなく生きていくはずだった。
けれど彼らはわたしを起こした。出来合いの人格をわたしに植え付けたのではなく、「 」というわたしの起源を起こしてしまった。無理遣りに外の世界を見せつけられたわたしは、面倒くさくなってその後のことはシキに押しつけることにしたのよ。
―――当然でしょう? だって外の世界のことなんて、判りきったことばかりでつまらないんだもの」
無邪気な瞳が笑いかける。
それは冷酷な、どこか嘲りを含んだ仕草だった。
…
「―――でも、君には意志がある」
彼には彼女が痛ましいものに見えて、そう口にした。
彼女は頷く。
「そうね。どんな人にだって肉体そのものに人格はあるけれど、それ自体が自己を認識する事なんかないわ。だってその前に脳が知性を作り上げるもの。
脳の働きによって生まれた知性は人格になって、肉体そのものを統括する。その時点で肉体に宿っていた人格なんて無意味になってしまう。脳だって体の一部にすぎないのに、知性というものは自身を生み出す脳だけを肉体と切り離して考えて、特別なものとして扱うでしょ? ソフトウェアはハードかなくちゃカタチにできない。けど、ハード自身もソフトウェアがなければ機能してくれない。人格という知性は、自らを作りあげた肉体のことなんか知らず、人格が肉体を作ったって思うのよ。わたしはその順序が人とは違っただけ。
それでもね、いまこうしてお話をしているわたしだって、シキという人格があるから話していられるの。シキがいなければ、わたしは言葉さえ理解できない。だってただの肉体にすぎないんだもの」
「……そうか。式っていう人格がいないと君は外の世界を識る事ができないんだ。だって―――」
「そう。わたしは電源のはいっていないハードで、シキというソフトウェアがなければただの匣よ。
ただ内側ばかり見つめるしかない、死に通じているだけの器。魔術師たちは根源に通じているといっていたけど、そんなコト、わたしにとっては何の価値もないことだった」
彼女はそっと一歩だけ前に出て、彼の顔に手をのばした。
白い指がさらりと彼の前髪を揺らす。髪の下にはひとつの傷あと。
「……でも、今はすこしだけ価値があるって思ってた。わたしだったらこんな傷ぐらい治してあげられるからって。誰かの力になって、外の世界と関われるんだって。……なのに、あなたは何も望まないのね」
「うん、式は壊すのが専門だからね。無理をしてよけい酷いめにあったら、こわいよ」
どこまで本気なのか、彼は穏やかに笑顔をする。
彼女は陽射しから逃れる蝶のように目を背けて、降りしきる雪より緩やかに指を下ろした。
「……そうね。式は、壊すことしかできないもの。あなたにとっては、やっぱりわたしは式なんだわ」
「―――式?」
「……わたしの起源は虚無だから、その肉体を持つ式は死が視える。二年前―――昏睡状態で外界を見ることもできず、ただ両儀式という虚無を見つめ続けてきた式は、死の手触りを知ってしまったから。
式はね、ずっと根源の渦と呼ばれる海に浮いていたのよ。ただひとり、「 」のなかで式というカタチをもって」
……たしかに虚無というものが起源であるのなら、彼女は全てのものを無に帰したいと思うのだろう。
だから例外なく、式はあらゆるモノを殺せた。式という人格が否定しようと、それが彼女の魂の原型なのだから。虚無であるが故に、あらゆるものの死を望む方向性―――。
「そう、それが式の能力よ。浅上藤乃と同じ、人とは違ったモノが見れる特殊なチャンネル。根源の渦という世界の縮図を垣間見れる特別な眼。
けど、わたしはもっと深いところまで潜っていける。いえ―――わたし自身が、その渦なのかもしれないわ」
彼女は彼を見据えたまま不安定な声で続ける。
誰にもわからない、淋しい感情を吐露するように。
「……根源の渦。すべての原因が渦巻いている場所、すべてが用意されていて、だから何もない場所。それがわたしの正体。ただ繋がっているだけだけど、わたしはソレの一部だもの。それって同じ存在ってコトでしょう?
だからわたしはなんだってできる。……そうね、目に見えないほど小さな物質の法則を組み替えたり、遡って生物そのものの系統樹を変えてしまうことだって可能だわ。今の世界の秩序を組み替えることだって簡単よ。この世界を作り直すんじゃない。新しい世界で古い世界を握り潰すの」
言って、彼女は小さく笑った。
自身を蔑むように、ばかばかしいと口元を歪めて。
「……けど、そんなのに意味はないわ。疲れるだけ。そんなこと、夢をみるのと変わらないもの。だからわたしはなにも見ず、なにも考えず、夢さえ見ないという夢をみる。……なのにわたしとシキの見る夢は違ったみたい。
シキはひとりはイヤなんですって。つまらない夢だと思わない? そう、なんてつまらないシキ。なんてつまらない現実。なんてつまらない―――わたし」
呟いて、彼女は遠くの夜を見つめた。
大切な、二度と見つめることのできないもののように。
「でもそれは仕方のないことよね。わたしは体にすぎないんだから。どうせ同じものなんだから、彼女の夢につきあわなくっちゃ。
シキは外を、わたしは内を見つめている。両儀式の体はね、根源と呼ばれる場所に通じているでしょ? 内側しか見れないわたしは、だから全ての出来事を知ってしまってるの。それが苦痛で、退屈で、無意味で、わたしは瞼を閉じていた。……それがまた続くだけだから、結局は以前となにも変わらない。
ずっと、眠っていればいい。夢も見ないで、何も考えずに、ずっと。いつかこの体が朽ちて消えてしまうときも、夢の終わりに気がつかないように」
言葉は降りつもる雪に埋葬されるように、静かに闇のなかに溶けていく。
彼は何も言えず、彼女の横顔を見つめる。
彼女はそれを窘めるように、小さく、華やかな声で告げた。
「ばかね。こんなコトを気にしないでよ。……でもうん、嬉しいからもう一つだけご褒美をあげようかな。
式はね、殺人が好きなわけではないの。彼女は勘違いしているのよ。だって彼女の殺人衝動はわたしから生じるものなんだから、それは彼女本人の嗜好じゃないでしょう? だから安心なさいな、黒桐くん。殺人鬼がいるとしたら、それはわたしのことなんだから。あなたを殺したがっていたのは、他でもないわたしだったってことなんだ」
式には内緒にしてね、と彼女は悪戯っぽく微笑む。
彼には頷くことしかできない。
……器でしかない肉体。
けれど自己を形成し、成長させる大元の存在。シキという様々な知性を統括する無意識下での知性。
そんなこと、話してもきっと誰も受け入れない。結局人間は自分というカラの中で夢見ているものにすぎないなんて、そんな、あたりまえのことなのに。
…
「……そろそろ行くわ。ねえ、黒桐くん。あなたはほんとうに何も望まなかった。白純里緒と対峙した時も、死と隣り合わせだったのに中立を選んだ。わたしには、それが不思議で仕方がなかったの。あなたは今日よりもっと楽しい明日がほしくないの?」
「……ああ、今だって楽しいからね。それで十分だって、思えるんだ」
そう、と彼女は呟く。
あくまで普通な彼を、羨望に似た眼差しで見つめながら。
……彼女は思う。
何の特徴もなく、自分が特別であろうと希望する事なく生きられる人間なんていない。
人間は誰だって複数の考え、対立する意見、相反する疑問を抱えて生きている。
その化身が両儀式という人間だとすると、彼はそれが極めて薄い人物―――。
誰も傷つけないかわりに、自分も傷つかない。
何も奪わないかわりに、何も得られない。
波風をたてず、ただ時間に融けこむように人々の平均として暮らしていって、静かに息をひきとっていく。
平凡な、当たり障りのない人生。
けれど社会の中でそういう風に生きていけるのなら、それは当たり前のように生きているのではない。
何とも争わず、誰も憎まずに暮らしていくことなんて不可能だ。
多くの人々は自分から望んでそんな暮らしをしているわけではない。特別になろうとして、成り得なかった結果が平凡な人生というカタチなのだ。
だから―――初めからそうであろうとして生きるコトは、何よりも難しい。
なら、それこそが“特別”なこと。
結局、特別ではない人間なんていないんだ。
人間は、ひとりひとりがまったく違った意味の生き物。
ただ種が同じだけというコトを頼りに寄りそって、解り合えない隔たりを空っぽの境界にするために生きている。
そんな日がこない事を知っていながら、それを夢見て生きていく。
きっとそれこそが誰ひとりの例外もない、ただひとつのノーマリティ。
……長い、静寂のあと。彼女はゆっくりと、白く広がる夜の果てに視線を戻した。
誰にも理解してもらえない特別性と、誰もが理解しようとしない普遍性。
誰から見ても普通な存在故に、誰も深く彼のことを理解しようとしない。
誰にも嫌われないかわりに、誰も惹きつけることのない誰か。
幸せな日々の結晶みたいな彼。なら独りきりなのは、はたしてどちらだったんだろう……?
―――そんなこと、きっと誰にもわからない。
たゆたう海を見つめる彼女の瞳には、その波のように密やかな悲しみがある。
誰に語るのでもなく、囁きが漏れた。
「あたりまえのように生きて、あたりまえのように死ぬのね」
ああ、それは―――――。
「なんて、孤独―――――」
終わりのない、始まりさえない闇を見つめて。
別れを告げるように、両儀式はそう言った。
◇
そうして、彼は彼女を見送った。
もう永遠に会えないことはわかっていた。
雪はやまず、白い破片は闇を埋める。
ゆらゆらと、羽根のように、落ちていく。
―――さようなら、黒桐くん。
彼女はそう言って、彼は何も言えなかった。
―――ばかね。また、明日会えるのに。
彼女はそう言って、彼は何も言えなかった。
彼はいつかの彼女のように、ただ雪の中で空を眺めた。夜が明けるまで彼女のかわりに見続ける。
雪はやまず、世界が灰色に包まれた頃、彼はひとり帰路についた。
黒い傘はゆっくりと、行き交う影さえない道を流れていく。
白い雪のなか。
朝焼けに消えていく黒はこの夜の名残のよう。
ゆらゆらと、独りきりで薄れていく。
けれど寂しげな翳りもみせず、彼は立ち止まることなく帰り道を辿っていった。
四年前、初めて彼女と出会った時と同じように。
一人静かに、ただ、雪の日を唄いながら。
三月に降る雪は、季節を凍らせるように冷たい。
夜になっても白い結晶は降りやまず、街は氷河期のように死んでしまった。
深夜零時。道には人の姿はなく、ただ街灯の明かりだけが雪のヴェールに抵抗している。
暗いはずなのに白く染まったその闇の中で、彼は散歩に出かける事にした。
とりわけ目的があった訳ではない。
ただ予感だけがあって、その場所へ歩いてみた。
黒い傘をさして、降り積もる雪の中を歩いていく。
果たして、そこに彼女は立っていた。
四年前の日と同じように。
誰もいない白い夜のなか、着物姿の少女はぼんやりと闇を見つめている。
彼は四年前と同じように、やあ、と気軽に声をかけた。
着物姿の少女は振り向いて、にこりと微笑う。
「―――久しぶりね、黒桐くん」
見知らぬ少女は、もうずっと彼を知っていたような、柔らかな笑みをうかべていた。
…
「―――久しぶりね、黒桐くん」
両儀式という少女は、彼に馴染みのない口調をしていた。
そこにいるのは彼が知っている式でも、まして織でもない知りえない誰か。
「やっぱり君か。……ああ、なんとなく会えると思ってた。それで、式は眠ってるの?」
「そうね。今は、わたしとあなただけ」
にこりと微笑う。
それは女性という存在が形になったような、完璧な微笑みだった。
彼は尋ねる。
「君は、誰なんだい」
「わたしはわたしよ。どちらのシキでもない、ただガランドウの心の中にいるわたし。それともガランドウのココロがわたしなのかな」
自らの胸に手をあてて、瞼を閉じる。
……彼女は言った。
なにもかも受け入れるのなら、傷はつかない。
自分に合わないことも、自分が嫌いなことも、自分が認められないことも、反発せずに受け入れてしまえば、傷はつかない。
けれどその逆だって同じこと。
なにもかもはねのけるのなら、傷つくしかない。
自分に合っていることも、自分が好きなことも、自分が認められないことも、同意せずにはねのけてしまえば、傷つくしかない。
……それは、かつて彼女自身だった、式と織という人格の在り方だった。
「肯定と否定しかない心は完全であるが故に、孤立してしまうの。そうでしょう? 汚れない完全な単色は、混ざりあえないかわりに変色する事もできず、ずっと同じ色のままだもの。それが彼女たち。シキっていう人格は一つの土台の両端にある極点みたいなものかしらね。その間には何もない。だから、そのなかに、わたしがいるの」
「そっか。まんなかにいるのが君なんだ。じゃあなんて呼べばいいのかな。その、やっぱりシキでいいの?」
はて、と首をかしげる彼の仕草がおかしくて、彼女は思わず笑ってしまう。
「いえ、両儀式がわたしの名称よ。けれどシキと呼んでもらえるなら嬉しいな。それだけで待ってた意味がでてくるもの」
微笑む彼女は、こどものようにも、おとなのようにも思えた。
…
彼と彼女はとりとめのない、わずかなコトを語りあった。
彼はいつもどおりに話して、彼女も楽しそうに聞いている。
ふたりの関係はいつもの関係と変わらない。
けれど、ただ、彼女だけが違っていた。
彼女は彼との違いを悟っていく。その、決して混ざりあえない絶望だけを。
「ねえ。四年前の事を、式は覚えていないの?」
唐突に、彼はそんなことを尋ねた。
そう、まだ彼が高校生だった頃の話だ。彼は彼女に以前一度会ったことがある、と言ったのに、式はそれを覚えていなかった。
「ええ、わたしと彼女たちは違うから。織と式は隣りあってる者だから、お互いの事はよく覚えている。けれどわたしは彼女たちが知覚できない自分だから、今日のことも式は覚えていないでしょうね」
そうか、と彼は残念そうに呟いた。
―――四年前の一九九五年の三月。
彼は、彼女に出会った。
きっかけは、ほんとうに些細なこと。
雪が降った中学生最後の夜、彼はこの道を通って家に帰る途中、ひとりの少女を見かけた。
少女はこの道に立っていて、ぼんやりと空を見上げていた。
彼はそのまま帰って、寝ようとした時にふと少女のことを思い出した。そうして散歩がてらに外に出てみたのだ。
すると少女はずっとそこに立ったままで、彼は少女に声をかけた。
こんばんは、と十年来の友人のような気軽さで。
きっと、あんまりにキレイな雪だったから。
見知らぬ誰かとでも、一緒に遊びたくなったのだろう。
…
「黒桐くん。わたしもね、あなたに尋ねたい事があるの。少しだけ残念だけど、お話はそれでおしまいにしましょう。わたしはそのために出てきたんだから」
彼女は見かけより何倍も大人びた瞳で彼を見つめる。
「あなたのほしいものは、なに?」
質問は漠然としすぎていて、彼には答えられない。
彼女は感情のない機械のような表情。
「願いを言って、黒桐くん。わたしは人の望むものなら大抵のことを叶えてあげられるわ。式はあなたが好きみたいだから、わたしの権利はあなたのものだもの。
―――さあ、あなたは何を望むの?」
手を差しのべた彼女の瞳は透明で、どこまでも深い。果てまで見渡せてしまえそうな瞳には人間性というものが欠けていて、なんだか神さまを相手にしているみたいだった。
そうだね、とわずかに思案して彼は彼女の眼差しに応える。
無欲というものでもなく、信用していないというわけでもなく。
いらないよ、と彼は答えた。
彼女は瞳を閉じて、そう、と吐息を漏らす。それはひどく残念そうで、けれど安堵するような慈しみをおびた翳り。
「……そうね、わかりきっていたことだった」
そうして彼女は彼から視線を逸らして、白い闇をぼう、と見つめた。
「君は、シキじゃないんだね」
彼は哀しそうに言って、彼女はええ、と頷いた。
「―――ねえ黒桐くん、人格ってどこにあるのかな」
明日の天気を尋ねるみたいな、素朴な質問。
それは答えになんてこれっぽっちも関心がなさそうな、空っぽな気持ちだった。
だっていうのに、彼は口元に手をあてて真剣に考える。
「……どうだろう。人格っていうのは知性のことだから、やっぱりあたまのなかにあるんじゃないのかな」
頭の中、つまり脳に知性は宿る。
彼はそう口にして、彼女はいえ、と首を横に振った。
「……魂は脳に宿る。脳髄だけ生かしきれるコトが可能なら、人は肉体なんかいらない。ただ外部から電気を流してやればずっと脳だけで夢を見て生きていける―――そう、式に語った魔術師がいたわ。あなたと同じね。人格は頭の中にあるって答え。
でも、それは間違いなの。
例えばね、黒桐くん。あなたという人間、あなたという人格、あなたという魂をカタチにしているのは遍歴をつみかさねた知性と、そのカラである肉体なの。知性を生む脳だけでは人となりを表す人格は作れない。……そう、脳だけで生きていけるというけれど、わたし達は肉体があって初めて自己を認識できる。肉体があって、それと一緒に育ったから今の人格があるの。自分の肉体が好きなひとは社交的な人格を持つだろうし、嫌いなひとは内向的な翳りを持ってしまう。人格は知性だけで育つけれど、知性だけで育った人格は自己を省みない、およそ人間の心とは別の物に成長してしまうわ。それじゃあ人格じゃなくて、ただの計算機と変わらなくなってしまうでしょ?
脳だけになるというのなら、その人は“脳だけの自分”という新しい人格を作らないといけない。肉体という大我を捨てて、知性という小我を大元にしなくちゃいけない。
知性があって肉体がある、ではないの。
肉体のあとに、知性が生まれる。
でも知性の元になった肉体には、やっぱり知性なんてものはない。肉体はただあるだけだから。けど肉体にだって人格はあるわ。だって一緒に育って、知性を生んだわたしなんだから」
あぁ、と彼は声をあげた。
……聞いたことがある。人間は三つの事柄で出来た生物だって。精神と魂、それに肉体というもの。
精神は脳に、魂は肉体に宿るものだとしたら、彼女はシキの本質なんだ。
シキという心がない、肉体という名前の人格。
彼女はゆっくりとうなずいた。
「つまりはそういうコトよ。わたしは知性が作り出した人格じゃなくて、肉体そのものの人格なの。
式と織は、結局『両儀式』という大元の性格の中で行なわれる人格交換。それらを全て司っているのは『両儀式』よ。彼女たちが両儀であるのなら、太極があるのは道理でしょう? 太極をかたどるもの、円という輪郭がわたしなの。
わたしは、わたしと同格のわたしを作った。いえ、意志という方向性がある以上、彼女たちはわたしより高位なわたしかしらね。ふたりが異なる人格であろうと思考回路が同一だったのは、彼女たちが結局『両儀式の中の善と悪』だったから。発端はわたしであり、また、その結論もわたしにある。そうしなければ異なる方向性の彼女たちが両立できるはずはないものね」
くすり、と両儀式は笑った。
彼を流し見る視線は、今までのどんな時より―――冷たく、殺意に満ちている。
「……よくわからないけど。つまり、君はふたりのシキの原型なんだ」
「そう。両儀式の本質よ。そして決して表に出ない本質。肉体にすぎないわたしは考えるコトができないから、そのままで朽ちるはずだった。「 」であるわたしは「 」であるが故に知性も意味も有り得ないから。
けれど両儀の家の人たちは、そういった空っぽのわたしに知性を与えた。彼らは両儀式を万能の人間にするために色々な人格を組み込もうとしたの。そうして知性の原型であるわたしが起こされて、その後に全ての地盤になるものとして、式と織をわたしは作った」
あぁ、と彼は息を漏らす。
式と織、陰と陽、善と悪。それは相反するから分かれたものではない。蒼崎橙子という魔術師は語っていた。そう分かれたのは、それらがもっとも多くの属性を内包するからだ、と。
「おかしいでしょ? 本当は未熟児として消えてしまう筈のわたしは、そうして自分というものを得てしまった。
生まれたての動物は、赤子の体とそれに見合った知性の芽をもっている。けどわたしのように何も持たずに生まれたものはね、そのまま死んでしまうのが決まりなの。もともと「 」に近いものは体をもって生まれてはいけない。トウコさんに聞いたでしょう? 世界は、世界自身で破滅の原因になる出来事を防いでいるって。だから普通ならわたしは発生しても生まれる事さえなかった。
わたしのように「 」から直接流れ出た生き物は母親の胎盤の中で死ぬだけ。―――けど、両儀の血族はそれを生かす技術を持っていたのね。そうして生まれたわたしは、けど知性の芽さえない。「 」は無だから、知性だって無なんだもの。わたしはそのまま、外界を認識することなく生きていくはずだった。
けれど彼らはわたしを起こした。出来合いの人格をわたしに植え付けたのではなく、「 」というわたしの起源を起こしてしまった。無理遣りに外の世界を見せつけられたわたしは、面倒くさくなってその後のことはシキに押しつけることにしたのよ。
―――当然でしょう? だって外の世界のことなんて、判りきったことばかりでつまらないんだもの」
無邪気な瞳が笑いかける。
それは冷酷な、どこか嘲りを含んだ仕草だった。
…
「―――でも、君には意志がある」
彼には彼女が痛ましいものに見えて、そう口にした。
彼女は頷く。
「そうね。どんな人にだって肉体そのものに人格はあるけれど、それ自体が自己を認識する事なんかないわ。だってその前に脳が知性を作り上げるもの。
脳の働きによって生まれた知性は人格になって、肉体そのものを統括する。その時点で肉体に宿っていた人格なんて無意味になってしまう。脳だって体の一部にすぎないのに、知性というものは自身を生み出す脳だけを肉体と切り離して考えて、特別なものとして扱うでしょ? ソフトウェアはハードかなくちゃカタチにできない。けど、ハード自身もソフトウェアがなければ機能してくれない。人格という知性は、自らを作りあげた肉体のことなんか知らず、人格が肉体を作ったって思うのよ。わたしはその順序が人とは違っただけ。
それでもね、いまこうしてお話をしているわたしだって、シキという人格があるから話していられるの。シキがいなければ、わたしは言葉さえ理解できない。だってただの肉体にすぎないんだもの」
「……そうか。式っていう人格がいないと君は外の世界を識る事ができないんだ。だって―――」
「そう。わたしは電源のはいっていないハードで、シキというソフトウェアがなければただの匣よ。
ただ内側ばかり見つめるしかない、死に通じているだけの器。魔術師たちは根源に通じているといっていたけど、そんなコト、わたしにとっては何の価値もないことだった」
彼女はそっと一歩だけ前に出て、彼の顔に手をのばした。
白い指がさらりと彼の前髪を揺らす。髪の下にはひとつの傷あと。
「……でも、今はすこしだけ価値があるって思ってた。わたしだったらこんな傷ぐらい治してあげられるからって。誰かの力になって、外の世界と関われるんだって。……なのに、あなたは何も望まないのね」
「うん、式は壊すのが専門だからね。無理をしてよけい酷いめにあったら、こわいよ」
どこまで本気なのか、彼は穏やかに笑顔をする。
彼女は陽射しから逃れる蝶のように目を背けて、降りしきる雪より緩やかに指を下ろした。
「……そうね。式は、壊すことしかできないもの。あなたにとっては、やっぱりわたしは式なんだわ」
「―――式?」
「……わたしの起源は虚無だから、その肉体を持つ式は死が視える。二年前―――昏睡状態で外界を見ることもできず、ただ両儀式という虚無を見つめ続けてきた式は、死の手触りを知ってしまったから。
式はね、ずっと根源の渦と呼ばれる海に浮いていたのよ。ただひとり、「 」のなかで式というカタチをもって」
……たしかに虚無というものが起源であるのなら、彼女は全てのものを無に帰したいと思うのだろう。
だから例外なく、式はあらゆるモノを殺せた。式という人格が否定しようと、それが彼女の魂の原型なのだから。虚無であるが故に、あらゆるものの死を望む方向性―――。
「そう、それが式の能力よ。浅上藤乃と同じ、人とは違ったモノが見れる特殊なチャンネル。根源の渦という世界の縮図を垣間見れる特別な眼。
けど、わたしはもっと深いところまで潜っていける。いえ―――わたし自身が、その渦なのかもしれないわ」
彼女は彼を見据えたまま不安定な声で続ける。
誰にもわからない、淋しい感情を吐露するように。
「……根源の渦。すべての原因が渦巻いている場所、すべてが用意されていて、だから何もない場所。それがわたしの正体。ただ繋がっているだけだけど、わたしはソレの一部だもの。それって同じ存在ってコトでしょう?
だからわたしはなんだってできる。……そうね、目に見えないほど小さな物質の法則を組み替えたり、遡って生物そのものの系統樹を変えてしまうことだって可能だわ。今の世界の秩序を組み替えることだって簡単よ。この世界を作り直すんじゃない。新しい世界で古い世界を握り潰すの」
言って、彼女は小さく笑った。
自身を蔑むように、ばかばかしいと口元を歪めて。
「……けど、そんなのに意味はないわ。疲れるだけ。そんなこと、夢をみるのと変わらないもの。だからわたしはなにも見ず、なにも考えず、夢さえ見ないという夢をみる。……なのにわたしとシキの見る夢は違ったみたい。
シキはひとりはイヤなんですって。つまらない夢だと思わない? そう、なんてつまらないシキ。なんてつまらない現実。なんてつまらない―――わたし」
呟いて、彼女は遠くの夜を見つめた。
大切な、二度と見つめることのできないもののように。
「でもそれは仕方のないことよね。わたしは体にすぎないんだから。どうせ同じものなんだから、彼女の夢につきあわなくっちゃ。
シキは外を、わたしは内を見つめている。両儀式の体はね、根源と呼ばれる場所に通じているでしょ? 内側しか見れないわたしは、だから全ての出来事を知ってしまってるの。それが苦痛で、退屈で、無意味で、わたしは瞼を閉じていた。……それがまた続くだけだから、結局は以前となにも変わらない。
ずっと、眠っていればいい。夢も見ないで、何も考えずに、ずっと。いつかこの体が朽ちて消えてしまうときも、夢の終わりに気がつかないように」
言葉は降りつもる雪に埋葬されるように、静かに闇のなかに溶けていく。
彼は何も言えず、彼女の横顔を見つめる。
彼女はそれを窘めるように、小さく、華やかな声で告げた。
「ばかね。こんなコトを気にしないでよ。……でもうん、嬉しいからもう一つだけご褒美をあげようかな。
式はね、殺人が好きなわけではないの。彼女は勘違いしているのよ。だって彼女の殺人衝動はわたしから生じるものなんだから、それは彼女本人の嗜好じゃないでしょう? だから安心なさいな、黒桐くん。殺人鬼がいるとしたら、それはわたしのことなんだから。あなたを殺したがっていたのは、他でもないわたしだったってことなんだ」
式には内緒にしてね、と彼女は悪戯っぽく微笑む。
彼には頷くことしかできない。
……器でしかない肉体。
けれど自己を形成し、成長させる大元の存在。シキという様々な知性を統括する無意識下での知性。
そんなこと、話してもきっと誰も受け入れない。結局人間は自分というカラの中で夢見ているものにすぎないなんて、そんな、あたりまえのことなのに。
…
「……そろそろ行くわ。ねえ、黒桐くん。あなたはほんとうに何も望まなかった。白純里緒と対峙した時も、死と隣り合わせだったのに中立を選んだ。わたしには、それが不思議で仕方がなかったの。あなたは今日よりもっと楽しい明日がほしくないの?」
「……ああ、今だって楽しいからね。それで十分だって、思えるんだ」
そう、と彼女は呟く。
あくまで普通な彼を、羨望に似た眼差しで見つめながら。
……彼女は思う。
何の特徴もなく、自分が特別であろうと希望する事なく生きられる人間なんていない。
人間は誰だって複数の考え、対立する意見、相反する疑問を抱えて生きている。
その化身が両儀式という人間だとすると、彼はそれが極めて薄い人物―――。
誰も傷つけないかわりに、自分も傷つかない。
何も奪わないかわりに、何も得られない。
波風をたてず、ただ時間に融けこむように人々の平均として暮らしていって、静かに息をひきとっていく。
平凡な、当たり障りのない人生。
けれど社会の中でそういう風に生きていけるのなら、それは当たり前のように生きているのではない。
何とも争わず、誰も憎まずに暮らしていくことなんて不可能だ。
多くの人々は自分から望んでそんな暮らしをしているわけではない。特別になろうとして、成り得なかった結果が平凡な人生というカタチなのだ。
だから―――初めからそうであろうとして生きるコトは、何よりも難しい。
なら、それこそが“特別”なこと。
結局、特別ではない人間なんていないんだ。
人間は、ひとりひとりがまったく違った意味の生き物。
ただ種が同じだけというコトを頼りに寄りそって、解り合えない隔たりを空っぽの境界にするために生きている。
そんな日がこない事を知っていながら、それを夢見て生きていく。
きっとそれこそが誰ひとりの例外もない、ただひとつのノーマリティ。
……長い、静寂のあと。彼女はゆっくりと、白く広がる夜の果てに視線を戻した。
誰にも理解してもらえない特別性と、誰もが理解しようとしない普遍性。
誰から見ても普通な存在故に、誰も深く彼のことを理解しようとしない。
誰にも嫌われないかわりに、誰も惹きつけることのない誰か。
幸せな日々の結晶みたいな彼。なら独りきりなのは、はたしてどちらだったんだろう……?
―――そんなこと、きっと誰にもわからない。
たゆたう海を見つめる彼女の瞳には、その波のように密やかな悲しみがある。
誰に語るのでもなく、囁きが漏れた。
「あたりまえのように生きて、あたりまえのように死ぬのね」
ああ、それは―――――。
「なんて、孤独―――――」
終わりのない、始まりさえない闇を見つめて。
別れを告げるように、両儀式はそう言った。
◇
そうして、彼は彼女を見送った。
もう永遠に会えないことはわかっていた。
雪はやまず、白い破片は闇を埋める。
ゆらゆらと、羽根のように、落ちていく。
―――さようなら、黒桐くん。
彼女はそう言って、彼は何も言えなかった。
―――ばかね。また、明日会えるのに。
彼女はそう言って、彼は何も言えなかった。
彼はいつかの彼女のように、ただ雪の中で空を眺めた。夜が明けるまで彼女のかわりに見続ける。
雪はやまず、世界が灰色に包まれた頃、彼はひとり帰路についた。
黒い傘はゆっくりと、行き交う影さえない道を流れていく。
白い雪のなか。
朝焼けに消えていく黒はこの夜の名残のよう。
ゆらゆらと、独りきりで薄れていく。
けれど寂しげな翳りもみせず、彼は立ち止まることなく帰り道を辿っていった。
四年前、初めて彼女と出会った時と同じように。
一人静かに、ただ、雪の日を唄いながら。
~ Comment ~