たいむかぷせる。

  「空の境界the Garden of sinners」
・4/伽藍の洞 garan-no-dou.(完)

#11【境界式】

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いつもと何も変わらない、変わるはずのない病室のベッドの上で、彼女は衰弱した体をびくんと震わせた。
 面会人など迎えるはずのない扉が開く。
 足音も立てずに、けれどこれ以上ないというほどの存在感をもって、その人物はやってきた。
 来訪者は男性だった。長身で、がっしりとした体格をしている。その表情は険しく、永遠に解けない命題に挑む賢者のように曇っていた。
 おそらくは―――それがこの人物の変わることのない貌なのだろう。
 男は険しく厳しい眼差しで彼女を見据える。
 その、恐ろしいまでの閉塞感。
 病室が真空になったのではないか、と錯覚するほどの束縛。
 死ではなく束の間の生だけを怖れる彼女でさえ、この人物に死への畏れを感じさせられるほどの。

「おまえが巫条霧絵か」

 重い声は、やはりどこか苦悩の響きがあった。
 彼女―――巫条霧絵は視力のない瞳で男に応える。

「あなたが、父の友人ですか」

 男は答えもしなかったが、巫条霧絵には確信があった。家族がいない自分に、ずっと医療費を与えていたのはこの人物に違いないと。

「何をしにきたの? わたしは何もできないのに」

 震えながら霧絵は言う。男は眉さえ動かさない。

「おまえの望みを叶えにきた。自由になるもう一つの体、欲しくはないか」

 その、ひどく現実性からかけ離れた言葉には魔力が籠っていた。少なくとも巫条霧絵にはそう感じられた。何故なら何の抵抗もなく、この男にはそれが可能なのだと受け入れてしまったのだから。
 わずかな沈黙の後、喉を震わせて彼女は頷いた。
 男は頷く。その右手があげられる。
 霧絵の長年の夢と、
 ずっと続く悪夢を同時に与えられる。
 だがその前に―――彼女はひとつだけ問うた。
「あなた、なに?」と。
 その質問に、男はつまらなげに答えた。

   ◇

 廃墟になった地下のバーから解放されて、彼女は弱々しい足取りで帰路についた。
 呼吸のリズムがおかしく、目眩がする。
 何かにより掛かっていないと、巧く前に進めない。
 おそらく、原因はさっきの凶行によるものだろう。いつも通りに彼女を凌辱しようとした五人の少年のひとりが、何を思ったのか野球のバットで背中を殴りつけたのだ。
 痛くはなかった。いや、もとから彼女に痛みはなかった。
 ただ、重くて。背中からこみあげる悪寒が彼女の顔を苦悶させ、背中を打たれたという事実が彼女の心を歪ませる。
 それでも涙は流さず、彼女は凌辱の時間を耐えて、こうして学生寮へ帰ろうとしている。
 けれど、今日はその道が果てしなく遠かった。
 巧く体が動いてくれない。
 ふとショーウインドウを見れば、自分の顔色が蒼白になっている事が判った。
 痛みのない彼女には、どんな傷を負っていようがそれがなんであるか判らない。背中を殴られた事も、ただそれだけの事実だ。その事実によって背骨が折れかかっている事なんて気付かない。
 そんな彼女でも、今の自分の身体がひどく苦しんでいる事だけは読み取れた。
 病院には行けない。両親に内緒で通っている町医者は遠すぎるし、電話で呼び付けても何故こんな傷を負ったのかと質問されるだろう。嘘が下手な自分では、医者の追及を誤魔化す自信はなかった。

「―――どうしよう。わたし、どうしよう―――」

 喘ぐ呼吸のまま、彼女は地面に倒れこむ。
 それを―――太い、男の腕が引き止めた。
 驚いて彼女は顔をあげる。そこにあるのは、険しい表情をした男性だった。

「おまえが浅上藤乃か」

 男の声は否定を許さない。
 彼女―――浅上藤乃は全身が凍りつくような畏れを、この時初めて体験した。

「背骨に亀裂がある。このままでは家に帰れまい」

 家に帰れない、という単語が手品めいた鮮やかさで藤乃の意識を縛る。
 それは、嫌。家―――寮に帰れないのは厭だ。今ではあそこだけが、浅上藤乃が休める場所なのだから。
 助けを請う瞳で藤乃は男を見上げる。男は夏だというのにコートのような上着を着ていた。
 上着も中着も、全て黒色。翻るマントめいた上着と男の厳しい眼差しは、なぜか―――藤乃にお寺のお坊さんを連想させた。

「治してほしいか」

 催眠術じみた魔をもった声がする。
 藤乃は、自分が頷いている事さえ気付かなかった。

「承諾した。おまえの体の異常を治そう」

 表情を変えず、男は右手を藤乃の背中に当てる。
 だがその前に―――彼女はひとつだけ問うた。
「あなたは、何ですか……?」と。
 その質問に、男はつまらなげに答えた。

   ◇

 だがその前に―――彼はひとつだけ問うた。
「あんた何者だ」と。
 黒い外套の男は眉一つ動かさずに答える。

「魔術師―――荒耶宗蓮」

 言葉は神託のように、重く路地裏に響き渡った。




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