言うまでもないことだが、子どもというのは身体だけでなく心も未成熟であり、経験も不足している存在だ。それは、いろいろな意味で子どもは弱い立場にある、ということでもある。 子どもが子どもらしくあることができるというのは、彼らに与えられた最大の権利である。 幼い子どもでさえ「子どもらしく」振る舞うことが否定されるのですから G楽しんだり、子供らしく自然に振舞うことが許されない。 まず虐待について関心をもった方、虐待の被害者、或いは加害者、傍観者でも、げんじょうをみていて違和感を覚えたり、 疑念が強くなったなどというひとたちが、自分なりの言葉を使って意思の表明、経験の公開等積極的なしせいを取ることが、全てを滑らかに動かす基になると思います。 これは、至急始めなければこどもたちの近未来に大きな問題となってくるものと考えています。 @ 虐待の被害に気付く事ができたなら、しっかりと記憶と向き合い認識すること。  つらさを伴うのですが、この過程を抜いては何にもならないと思います。 未確認のまま放置されている多くの被害者たちの把握と継続的な聞き取りなどによる密着調査を早急にしていくことが、 一般の大人からは見えにくい虐待の実態を知りその連鎖など弊害を断ち切る一歩になるのではないでしょうか。 それは虐待の連鎖を断ち切るというのはいかに大変な事かわかっているからです。実際に被害を受けてきた方たちなら分かってもらえると思います。 前回まで書いてきたことは、「虐待の経験者が『まず』重要な役割をになうと思っている」ということです。 なぜか?社会的にも、そして被害者自身にもこの虐待は『見えにくい』『認識しにくい』ため。 「虐待に気付いた人(被害にあった人)は自身の虐待の記憶と向き合う必要がある。」 もしかして・・・といった漠然としたものではなく、記憶の中からひとつずつ取り出してそれを確認していく作業。・・・はっきり言ってとてもつらいものが付きまとうと思う。 しかし、虐待による心の傷のつらさから逃げるのは嫌で、何とかして何が原因か、納得できる事がほしい、 などの思いが抜けずくるしい人は、一度はとおらなくたてはならないみちだと思います。 けれどこれには先ほど言ったように苦しくつらい。 出来るならば、よき話し相手理解者の存在が望ましい。この存在の有無は記憶の確認にもその後にも大きな差が生まれることになるかもしれません。 ひとりで悩みを抱え考えていくのはつらいもの。 私たち夫婦は、その点に関しては満点とおもえるパートナーをえられました。自己評価でも専門医やカウンセラーの評価でも高得点を得ています。 だってそうでしょう。反論すらできない子供にたいして、知恵も力も持った大人が、のしかかるように威圧し、 声を荒げるなどして恐怖を煽り、こどもはもうそれだけで降参なのに、それでも行為は延々とやまずにつづく。これが精神的虐待の姿。 大人達は、それを決して虐待とは認めない。 @ 被害者をまず孤立させる。周囲外部と遮断する閉鎖的環境を作る。 A つねに被害者には高圧的な態度で圧迫し続ける。 B 被害者を侮蔑的な言葉、脅迫、皮肉、存在の全否定などのことばによって自己喪失においつめる。 C あえて人前で被害者をさげすみ貶めるような行為をつづける。 D 日常的に『繰り返し刷り込む言葉』により、一種の催眠効果、或いは洗脳作用により支配コントロール 加害者は被害者を支配支配し、或いは自分に有利なようにコントロールして、自分の優位を誇示し被害者を貶める事が目的なのです。 加害者のは支配コントロールにたいする思いは強く、またしつこいものであり、完全に満足できるところまで続けられます。 しかも、支配コントロールについても、加害者の多くは人目につかないよう注意を払い、慎重に自分は前面に出ずに、まわりの関係者をひきこんで代わりに利用し代行させるなどカモフラージュまでする。 彼等加害者たちははじめから自分たちの子どもと妻とを比較し妻を貶め辱める事を目的に全ての虐待行為等を計画し、手配して共犯者を募り実行していったと考えられます。 その虐待も、彼女の成長と社会とのかかわり方が変わるのにつれて、形も方法も変えられ、 最終的に彼女からすべて奪い去り徹底的に貶めておいて自分等の身の保全だけは図りました。許しがたい自己中心的な変質者といえると思います。 そして加害者本人達は公立学校教員という立場の陰に隠れ、職場仲間、教え子を共犯者にしたて周囲の関係者の協力も取り付けていたと 考えない限り、一教員などには出来ないと思われる事実の隠蔽工作まで仕上げたのです。わたしが見るところ、彼らの中には個人の立場でそこまで出来る能力を持つものはいないと考えています。 妻の受けた虐待事例は、きわめて不透明な社会性と、強い犯罪性を持つ事例と考えています。 それらの事を申し出ても、現在に至るまで地元自治体ほかの行政部門がその事実究明作業すらしないまま放置している事は間違いであり、児童虐待防止活動にも逆行するものであろうと思います。 地方自治体などによくみられる責任回避の姿勢を現しているのだろう。しかし、いつまでこうした責任回避を続けていくつもりなのか わたし達は加害者・関係者達の罪を訴える事も考慮していますし、補償請求についても加害者一族に世代を超えて求めていくなど考えています。 しかし、それよりも先にすべきは、いまだに放置されている被害者たちの状況の把握などの救済策の為の準備を急ぐ事。 子ども達の事を真剣に心配し考える時に、こうした社会の持つ矛盾を忘れず、妻の事例を最悪の部類として考えて、 これからの子どもに何を用意としてやれるか、おとなの立場でなにをすべきか考えていく必要があると思います。 見えにくいという特性も、個人と社会の甘えかかりの強い日本社会のなせるところかも知れません。 もうこれ以上無責任な考え方で子どもを作り育てるようなことを続けてはならない。子どもだけに責任を負わせる様な社会はあってはならないと思う。 なぜ被害者のみ可能考えるのかと言うと、加害者は事が露見しないようにまず隠蔽します。たとえ知られそうになっても言い逃れ・言い訳もよういしています。 また、社会も精神的虐待が家・施設・学校というような外部と遮断された環境で起こる為、そのないぶの問題として追求しないのが通例となっているかのようです。 この無理やり押し付けられる『我慢ならない嫌さ加減』は被害者しか分からないつらさであり、これを言葉で表すことができるのも被害者だけではないでしょうか。 誇張などで無く加害者を呪い殺したいとの怒り・恨みは精神的虐待の被害者は皆さん持っていると思うのです。 何しろ、加害者の心無い言葉などによって、一生を台無しに去れその上省みられず捨て去られているのがほとんどの被害者の置かれている実態なのですから それも虐待の恐ろしさ、苦しみを身をもって知らされた被害者こそ、忌まわしい連鎖に立ち向かえるのではないかと思います。 ギャクタイの連鎖をとめるのは頭で考えても難しい。 被害ほょを実際に受けて後遺症のくるしみも知っている被害者がその連鎖をたちきる事が唯一可能なのかもしれないと思っています。 何故か吐き説明しなくても分かってもらえるでしょう。ほんとうに苦しみを嫌というほどしっているから。ココが虐待を受けた人とソウでない人との大きくぜったいてきにちがっているところ。 社会的に隠そうとしても、被害者は存在するのです。精神的な虐待ですからなかなか死に至ることはないのも、また、極めて残酷な事だと言えるでしょう。 いつまでもこのような子どもや女性の人権を無視していくというのでしょうか。黙っていてはいけないのです。何も言わずにきたから、不公平かつ不健全な状況になったのです。 1. 目立ち難い、理解されにくい、証拠が残らないといった精神的虐待の特質を利用している おとなは子どもの立場など無視しきって攻撃する。子どもは逃げる事も許されない。 子どもの中に「封印」されていた「心の傷 = トラウマ」が、成長と共に増す周囲との関係の中で「再現的」に現れて悩まし始めるのです。 B 成長して自立する頃(18才)をすぎてしまうと現行の児童虐待防止法の 保護から外れ、相談窓口すら望めなくなっている。 破滅的であったり、完ぺき主義であったり、対人関係が苦手である等いくつかの特徴がある。 自己愛・自尊心、他者への共感、他者の苦しみ に対する理解等ができにくい(学校などでの集団生活に馴染めない) 社会と健全な関係を築くことができない大人が増加してくる 社会も機能不全に陥ってしまう 『親の保護下という身分』のため不幸な状況から逃れられない 誤ったルールの下で影響されながらの生活 子供としての時期に学ぶべき社会ルールや愛情を学び取れない (学校でも) 周囲との断絶感・矛盾感→拒絶・混乱等(精神的な負担がさらにかかる) 周囲の児童が自由奔放に振る舞えるのか理解できない 他の児童から見ると非常に大人しくみえ、他者とは異なる価値観が原因でいじめの対象とされやすくなる 社会・公衆に受入れられない(「異様だ」等) さらに疎外感が強くなる(⇒非行や過剰な性行動の逃避)(引きこもり・登校拒否等) 社会的な偏見・差別的取り扱いがあるとさらに孤立させられていく 正常なモデルパターンを経験していないから、歪んだ思考形態を自力で修復する事は不可能 成人後も社会適合ができにく、一生涯苦しみの中で独り生きていくしか  なくなる。 そして、その中でも学校という初めての外の世界でも、そして社会でも、何時も『孤立させられている』ことに注目して欲しい。 公衆として、親として、教師として本当に考えてきただろうかと反省するところから再出発しない限り、この機能不全家族・アダルトチルドレン・虐待の社会的負の連鎖は、到底止まらないだろう。 子供の持っている輝く可能性も、純な心も、大人のつまらない欲望などのために踏みにじってしまうのが 子供に対する虐待です。そして壊わされた子供の心は、もうもとには戻せません。 今、機能不全家族が恐ろしい勢いで広がり増えているようです。そしてインターネツトにもアダルトチルドレン・機能不全家族を取り上げているものが多い。 そこに、この国の家族関係と社会のゆがみの大きさと問題の深刻さとを感じます。 もっとも弱い子どもをいたぶるような卑怯なものたちには、ゆっくりとした罰も向いているかもしれない。