「産婦人科の世界」 2005.Oct. 第57巻10号 医学の世界社
−−現在政府は、生殖医療を著しく制限する法律を成立させようと目論んでいます。その法案は、2003年4月にまとめられた厚生労働省の審議会である生殖補助医療部会の報告書に基づいていますが、その法案の内容たるや、代理懐胎は全面的に禁止、違反した医師には刑事罰を科す、といった極めて厳しい内容になっております。聞くところによると、今期の通常国会(第159通常国会)において、この法案は提出される予定でしたが、年金改革法案など重要法案が目白押しだったために見送りになったそうですが、実情はどうだったのでしょうか。
野田 「他に重要法案があったために、今国会での法案の提出・成立が見送りになったというのは正しくないですね。それは、厚生労働省の官僚たちの負け惜しみでしょう。実際には違います。時間がなくて法案として提出できなかったのではなく、提出させなかったのです。それが事実です。
官僚がまとめる法案は、国会に提出する前に、事前に与党に原案を見せることになっています。今国会が開会される前、厚生労働省の担当官が、この法案について、自民党の『脳死・生命倫理および臓器移植に関する調査会』に、事前説明に来ました。この調査会は、医師でもあられる参議院議員の宮崎秀樹先生が会長をされており(注・今回の参院選をもって引退)、私は正式なメンバーではないのですが、この調査会に担当官が説明に来ると小耳にはさんだので、その席に顔を出しました。そして法案の内容の説明を聞いた上で、この法案は、不妊当事者にとって、あまりに厳しい内容であり、到底、受け入れることはできないと強く反対し、今国会の提出が見送られることになったのです。『国会の日程上の都合で見送りになった』というのは負け惜しみにすぎない、というのはそういうことです』
−−野田先生が先頭に立って反対され、その結果、今国会への法案提出が見送りになったわけですね。野田先生は、この法案の内容のどこに問題があるとお考えなのですか。
野田 「そもそも、不妊患者というのは、サイエント・マイノリティーなんです。いつの時代でも多数派にはなりえない。万年少数派であり、しかも世間の偏見にさらされるため、不妊当事者としてカムアウトし、声を上げることがなかなか難しい。厚労省の部会には、フィンレージの会という、不妊当事者の女性団体がメンバーとして入ってはいますが、この団体の主張が、大多数の不妊当事者の声なき声を代弁しているとは思えません。意見にかなり偏りがあると思います。不妊当事者の方々の多くは、医学の進歩によって何とか自分の子供が授からないものか、藁にもすがる思いでいるものです。しかし、この会の意見は、どちらかというと政府寄りで、生殖医療の進歩に制約を課すことに同調している。彼女らの意見は意見として尊重しますが、それが不妊当事者の大多数の意見を代弁していると思われたら困ります。
今回の法案は、問題だらけだと思っています。そもそも、なぜ代理懐胎を禁止しなくてはいけないのか? 私は代理出産に賛成しております。子宮の機能を失ってしまった気の毒な女性が、代わりに子供を産んであげようというボランティアの支援を得て、自分の子供を授かろうとすることのどこが問題なんでしょうか!? 誰に迷惑をかけるわけでもないのに、実施した医師を刑事罰の処すべきだなんて、私には理解できません。産めない人のために、代わりに自分の子宮で産んであげるという行為が、『女性を専ら生殖の手段としている』というならば、臓器提供も許されない行為になるのではありませんか? 代理出産とは、子宮の機能の一時的な提供に他ならないわけですから。強制されたら問題ですが、本人の自発的意志に基づくならば、それは、臓器提供と同じく、ボランティアとして認められるべきでしょう。
代理出産は、この手段以外に、子供を授かるすべがないという方にとって、最後の最後に残された救済手段です。そうした最後の希望を、法律を制定してまで奪い取るという過酷さが理解できない。法律と国家権力によって、弱者の人権が侵害されることがあってはなりません。
また、この法案では、精子・卵子・胚の提供について、第三者からの提供は認めるが、姉弟姉妹間の提供は認めないとしています。この点も理解できません。親子関係は、『血のつながり』がすべてではないにせよ、精子・卵子・胚を提供されるなら、できるだけ自分の血に近い、つまり自分と遺伝的なつながりがある精子・卵子・胚を提供されたいと願うのは、自然な感情でしょう。親子関係が混乱すると言いますが、それは当事者同士が解決すべきことで、法をもってはじめから厳格に禁じるべきことではありません。兄弟姉妹の間で、産まれた子供を養子縁組することが許されているのに、なぜ、産まれる前の段階では許されないのか、理屈にあいません。財産相続などを巡って争いが起きる可能性は、養子縁組でも、第三者の精子・卵子・胚の提供によっても起こりうることです。そうした争いが起きた場合は、これまでと同様、民事の範囲で解決すればよいことでしょう」
−−野田先生の言われることは、もっともだと思います。不妊当事者というマイノリティーの人権を尊重した上で、「常識的」に考えれば、そうした考えにたどりつくと思うのです。法律は必要でしょう。しかしそれは生殖医療技術の進歩にあわせて、不妊当事者がその恩恵を最大限受けられるよう、産まれてくる子供の親権の確定を明確にするとか、不妊当事者とその子供の福祉の向上に資する方向に向かうべきだと思うのです。ところが、なぜか部会の委員達も、厚生労働省の官僚達も、不妊当事者の権利を擁護するのではなく侵害する方向に向かって法を制定しようとする。こうしたベクトルは、どこから生まれてくるのでしょうか?
野田 「厚労省の担当官が、不妊当事者の現実についても、生殖医療技術の進歩についても、理解していないからだと思いますよ。医療部会などの審議会の委員を選ぶのは官僚です。この審議会に限らず、およそ審議会というものは、官僚のお手盛りというのが相場です。どんなに立派な肩書きのついた学者であっても、官僚が自分たちの描いたシナリオ通りに発言し、導いてくれる人間が選ばれているにすぎません。
実質的な主導権を握っているのは役人なのですが、問題なのは彼らが無理解であるとか、歪んだ考えの持ち主ではなく、ただ単に関心がないという点です。信じられないかもしれませんが、彼らは真剣な関心がないんですよ。それが現実なんです。
だいたい、不妊症の問題って、今までアンタッチャブルだったでしょう。議論の積み重ねの歴史が浅いんですよ。権力を握っている官僚が、不妊当事者の苦しみや実態を深く理解しているとは、到底思えません。それに対して、生殖医療を受けようという不妊当事者は皆、自分の生命、人生を賭けているんですよ。生半可な覚悟でやっているわけではありません。
私自身も、体外受精にトライし続けていますが、本当に大変です。精神的にも肉体的にも、きついものがあります。ましてや、代理出産ともなれば、もっと大変に違いありません。自分の代わりに子供を産んでくれるよう依頼する方も、そんな大変なことを他人に頼むということがどういうことか、充分わかっているはずです。気軽に出産を頼む人間なんて、まず、いませんよ。また、気軽に引き受ける人間もいるとは思えません。女性にとって、代理出産を引き受けようという方が、生半可な気持ちでやろうとしているはずがありません。お金目当てだとか、頼まれたので断れなかったとか、そんなことはまず、ありえませんよ。臓器移植と同じくよほどの思いで、相手を助けてあげよう、という気持ちがなければできることではありません」
−−部会の報告書では、基本的な考え方として、「人を専ら生殖の手段としてはならない」という項目を挙げていますが、この時代に、力ずくで強制されることでもない限り、他人から子供を産んでくれないかと依頼されて、「専ら生殖の手段として」利用されてしまう女性がいるとはちょっと思えません。部会の委員が想定しているのは、一体どんな女性なんでしょうか(苦笑)。前提が、現実離れしていますよね。力ずくで妊娠・出産を強制されたら、新たな法律をわざわざ制定しなくても、犯罪に決まっていますし、何を考えて、こんな理屈をこねるのか、首をひねりたくなります。
野田 「その通りですね。諏訪マタニティークリニックの根津八紘院長が手がけた国内第一号の代理出産は、妹さんがお姉さんに代わって産んであげたというケースでしたけれど、これは姉妹間の強い絆があったからこそ、できたんだと思います。代理出産だけでなく、精子・卵子・胚の提供もそうですが、ドナーになることを引き受けようという人は、兄弟や姉妹や親子など、身内の方であることの方が多いと思うのです。それを許さないというのは、事実上の、障壁を設けているということですよ」
−−不妊患者をいたずらに苦しめているとしか思えない、こうした法案が作られる背景というのは、何なのでしょうか?
野田 「まず第一に、不妊治療そのものが、日本では歴史が浅く、社会全体に理解が行き届いていないということが挙げられます。だいたい日本では、不妊症がずっと病気として認められてこなかったでしょう。そのため健康保険の適用もされてきませんでした。つい最近ですよね、保険が適用されるようになったのは。それもまだまだ不十分です。体外受精などの、生殖補助医療技術(ART)に対しては保険が適用されず、不妊患者は重い経済的な負担を強いられています。もちろん、何でもかんでも、保険を適用すればいいというものではありません。質の高い医療を受けるには、自費診療の方がいいという場合もあります。また、保険適用に反対する医師もいる。保険適用されると、診療報酬が安くなってしまうから反対だというのです。そういう声に配慮する必要もあります。その場合、成功報酬という形にしたら、いいのではないか。いずれにしても、工夫の余地はあります。現状はあまりにも不妊当事者の個人的な負担が重すぎる。保険適用が認められることは、社会全体で不妊へのリスクを背負うことを意味するわけですし、ひいては不妊当事者が肩身の狭い思いをせずに、カムアウトし、自己主張できる環境を形成することにつながります」
−−保険の適用は、経済的負担の軽減だけでなく、不妊症に対する根強い偏見を払拭し、不妊症を社会的に広く「認知」させるためにも、意味がありますね。
野田 「そうですね。ただ、もうひとつの問題は、技術の進歩が非常に早いという点です。技術の進歩に、厚労省の官僚達が追いついていない、理解が追いつかない、という現状があるのです。年金や介護については、それなりに長年の議論の積み重ねがあり、歴史の堆積があります。日進月歩の不妊治療には、そうした議論の歴史の蓄積がありません。
生殖医療に限ったことではありませんが、技術革新はとどまるところをしりません。それが技術というものの本質であり、理解しようとしない人、できない人が、自分が置き去りされてゆくという疎外感から、技術の『進歩』や「革新」を、『暴走』だと批判して、自分の理解できる範囲、管理できる範囲にとどめようとする。これはいつの時代にも、どんな分野でもみられた現象で、珍しいことではありません。私は、技術の進歩を無軌道のまま認めよ、と主張しているわけではありませんが、その進歩を認め、理解しながら、そこから危険な要素を慎重に取り除きつつ、技術革新の成果を社会に還元するようにすべきだと申し上げているのです。
生殖医療技術の進歩に追いついていけないのは、官僚や学者だけではありません。政治家も同じです。政治家の方が、もっとひどいかもしれない。自民党の国会議員の大多数は、不妊症の現実や不妊治療の最前線について無知・無理解なままだと思いますよ。生殖医療技術の現状について、ある程度の知識があり、重要な問題であるという認識を持っているのは、自民党の議員の中では、私と私の夫くらいのものでしょう。何しろ不妊当事者の夫婦ですから。野党だって同じだと思います。民主党の中に、この問題に真剣な関心を持つ議員がどれだけいるでしょうか? 不妊症患者に保険を適用するよう主張してきたのは、公明党の一部議員くらいのものではないかと思いますよ。『何も知らない、わからない』からこそ、『わからないものはなんだか不気味』なので、とりあえず『禁止にしてしまえ』ということになりやすい。それが一番怖いんです。皆、深い知識と理解があり、信念や確信を持って、生殖医療に制限を加えるべきだ、と主張しているわけではないんです。よくわからないまま、何となく不安だから、とりあえず禁止しておこうか、というくらいの程度なんですよ。それが実態なんです。
しかし、いったん成立した法律は一人歩きしてゆき、がんじがらめに国民と政府を縛るようになる。一度決めた法律を柔軟に見直し、変えてゆくというのは、日本ではとても難しい。だから、厚生労働省の動きを察知した私は、強い危機感を感じて、党の調査会に、レギュラーでもないのに出席したんです。説明する官僚も、説明を受ける議員も、とにかく何もわかってないんですから。
私は、自分自身が不妊治療を受けている当事者として、こうした厳しい内容の法案が提出されることに慎重にならざるをえません。法案以前に、そもそも部会でまとめられた報告書の内容自体がおかしい。先に述べた論点以外では、『出自を知る権利』の問題もあります。ここに来て急にクローズアップされている権利ですが、果たしてどれほど重要な権利なのか、疑問があります。生殖医療、特に精子・卵子・胚の提供によって生まれた子供が、ドナー、つまり自分と遺伝的なつながりのある親が何者か知りたいと思う、そういう権利を否定するつもりはありません。ですが、ドナーの匿名性が担保されないと、現実問題として精子・卵子・肺の提供者は激減してしまうでしょう。『生まれてくる子供』の権利について真剣に考えるなら、ドナーの権利についても考慮すべきです。臓器提供の場合も、近親者間の移植以外の、第三者からの提供の場合は、アノニマム(匿名)であることが前提条件になっています。そうでないと事後に利害関係が発生してしまう怖れを排除できません。精子・卵子・胚の提供も同じことです。トラブルを避けるためにも、第三者からの提供を認めるべきです。
戦後すぐに開始され、半世紀にわたって実施され続けているAID(非配偶者間体外受精)も、匿名の第三者から精子の提供があったからこそ、可能だったはずですよね。匿名性が保てないとか、将来、提供した精子によって誕生した子供が自分をたずねてきて、子としての認知を求めるかもしれないということになったら、『不妊症の人のため』、善意で精子を提供していた人も、ためらうようになるでしょう。うがった見方をすれば、不妊治療が、事実上、できあいようにするための法律なんじゃないでしょうか。
私はあくまで、国外で可能な生殖医療は、日本国内でもできるようにすべきだ、と考えます。グローバル化のこの時代、アメリカでできる医療行為を、日本国内ではできないようにするルールを断じて作ってはなりません。国内で代理出産を禁じたところで、アメリカや韓国まで行って代理出産を行うことまで禁じることはできません。しかし、アメリカまで行って代理出産を行うとなると、費用は莫大なものにならざるをえない。自国で代理出産を禁じることは、国民にただ単に無意味な負担を強いるだけの結果を招くだけです。誰のメリットにもならない。デメリットをもたらすだけです。
代理出産に限りませんが、海外でできることは、日本国内でもできるようにすることが重要です。国内で自己完結できることは、自己完結すべきです。そうでないと、国内の活気を削ぐことになりかねません」
−−代理出産反対派の中には、依頼を受けて出産した女性が、子供に愛着を感じて手放さないなどのトラブルができることに懸念を示す人も少なくなりません。たしかに、代理出産を始めたばかりの試行錯誤の頃は、アメリカでもそういうトラブルがありました。ですが、今はトライ・アンド・エラーを重ねて、そうしたトラブルが起きないようなノウハウが確立されています。にもかかわらず、理由にもならない理由で、代理出産を禁じようとする日本政府と一部の「有識者」の姿勢は、アメリカの進取の精神と比べて、まことに見劣りがします。「前例のないことは禁じる」というだけのことにすぎないのではないでしょうか。
野田 「向井亜紀さんの例を見れば明らかです。向井さんご夫婦が出産を依頼したアメリカ人女性が、何かトラブルを引き起こしたでしょうか? 円満に子供は引き渡され、依頼した向井さんと、代理母との間に、温かいヒューマンな関係が築かれたではないですか。『子供をお腹で育んでいるうちに、母性が目覚めて執着心がわき、子供を手放さなくなる』などというのは杞憂にすぎません。誰の目にも明らかなことです。『分娩した女性を、子供の母親とする』という、古い法律によって、裁くのはおかしい。昔は、親子関係は、分娩の事実をもって確定するしかなかった。でも、現代は違います。親子関係は、現在ではDNA鑑定でほぼ100%同定できます。今は、科学も、医学の進歩のレベルも違うし、テクノロジーも違う。古い時代に制定した法にあわせて、テクノロジーを規制するのではなく、逆に、日進月歩で進歩してゆくテクノロジーを基礎において法を組み替えてゆくべきでしょう。現在の法律は、医学技術の進歩から取り残されて、ずれまくっている。ずれている上に、現在の法律よりもさらに厳しい法律をつくって、技術の進歩に背を向け、制約を課そうというのは本末転倒です。
つい先日も、子宮内膜の培養が可能になりつつある、という記事が新聞に出ていました。生殖医療の進歩のスピードは、ITの比ではない。ドッグ・イヤーどころではない速度です」
−−今回の法案のような、生殖医療を頭から否定するような反動的な代物は問題外ですが、生殖医療技術の進歩に伴い、多くの人が漠然たる不安を抱くことについて、理解できないことはありません。特に親子関係の確定は、先程、野田先生が言及されたように、現行の民法では、生殖医療技術の進歩に追いつかず、このままでは問題が残ります。生殖医療技術の進歩を原則として肯定し、不妊当事者の期待に応えながら、親子関係の確定に混乱を来さないような法整備は必要なのではないでしょうか。
野田 「契約制にすればいいと思うのです。現行法では、分娩した女性が無条件に戸籍上の母親となってしまう。そうではなく、高度な生殖医療を受ける不妊当事者の間で、契約を交わしておき、その契約に基づいて、誰が生まれてきた子供の親権を持つのか、きちっと決めておく。何を基準に親と子の関係を定めるか。誰がその子を分娩したか、という事実以上に、現代においてもっとも手頃な『親の資格』は、『自分がその子供の親となる意志』であると思います。その意志を明確に持っている人に、親権が与えられる、ということでいいのではないでしょうか。代理出産に反対する主張の論拠のひとつに、『女は自分で子供を産んでこそ、母性が芽生え、親としての自覚が生まれるものだから代理出産は認められない』というものがあります。しかし、昨今では、自分のお腹を痛めて生んだ子供を虐待したり、ひどい場合には殺してしまったりする母親だって珍しくないでしょう。お腹を痛めて産んだら、必ず母性愛が芽生えるというものではないことは明らかです。産みの母ならば、誰もが親としての資格を満たしているかといったらそうではない。親として失格の者もいる。大事なのは、親としての自覚を持っているかどうかです。子供を欲しいと心底願い、子供を愛し、親としての責任を果たそうとする意志があるかどうかではないでしょうか。それが親としての資格の一番大事な要件であろうと思います」
−−お腹を痛めて子供を産まないと親としての自覚が生まれないというなら、すべての養子縁組を否定しているようなものですし、継父・継母も親として失格ということになる。そもそも男性はお腹を痛めて子供を産むことができないので、男性はみんな、親の自覚が生まれないことになる(苦笑)。お話にならない理屈だと思います。ですが、こうした理屈が、厚労省の用意した法案と、その土台となった医療部会の報告の中には、書き込まれている。
たとえば、「基本的な考え方」として6ヵ条挙げられているのですが、その第1条として、「生まれてくる子供の福祉を優先する」とあるのです。いったい誰が、これから「生まれてくる」子の福祉について、判断するのでしょうか? 生まれてくる子供が幸福になるか、不幸になるか、政府の役人なり、部会のお偉い学者達が決めるのでしょうか。生まれてくる子の福祉の水準をどこか一定の線で区切り、水準以下の子供の出生は認められないと、彼らが裁断を下すのでしょうか。これはファシズムでしょう。驚きべきことに、彼らは同じ「基本的考え方」として、第4条に「優勢思想を排除する」と掲げている。厚かましいのか、頭が悪いのか、あきれる他ない。「生まれてくる子の福祉を優先」したあげく、不幸になるかもしれない子供の出生は認められないとして、妊娠・出産の自由に制限を課すのは、優性思想そのものです。こうしたデタラメな「考え方」を基本として、この法案は組み立てられているのです。
野田 「子の福祉という言葉は、響きのいい、便利な言葉ですからね。そういう美辞麗句というのは、往々にして、意味するところはカメレオンのように変わるものです。都合のいい、きれいな言葉なので、多用されるけれども、それが何を意味するか、おそらく用いている当の学者も、役人も、何の疑問も抱いていないのではないかと思いますよ」
−−しかし、法をつくろうとする人間が、そういういい加減なことでは困ります。野田先生の言われる通り、ただ単に無知や無理解、浅慮から生み出されたものだとしても、一旦制定されてしまえば法律は、生み出した人間の意図を離れてひとり歩きしてゆきます。
野田 「その怖れは、あります。子供の福祉という便利な言葉で、とりあえずその場しのぎをし、逃げているのでしょう。深く考えているとは思えない」
−−妊娠・出産の自由という、基本的な人権の根幹に関わる権利を、ずさんな言葉で侵害し、制約する法律をつくられたらたまりません。「生まれてくる子供の福祉を優先する」という言葉は、「生まれてきた子供の福祉を最大限に尊重する」と改めるべきだと思うのです
野田 「生まれてくる子供の福祉について、不十分になる可能性があるから、代理出産や、兄弟姉妹間の精子・卵子・胚の提供は禁止すべきだという理屈になっているのは、私もおかしいと思います。当事者ではない人間が、生まれる前から、差し出がましい口出しをすべきではない、と思います。生まれてから、その結果、不都合が生じ、当事者ではどうにもできなくて、子供が犠牲になりそうな場合、救済措置をとる。それが政治や行政のすべきことでしょう。
私は根本的に、そもそもなぜ生殖医療をこんなに目の仇にするのか、彼らの考え方がわからない。たとえば代理出産にしても、望む人は、真剣なケースが多いと思うのです。その気持ちをなぜ踏みにじらなければならないのか。医学者によほどリスクが高いならば別ですが」
−−通常の体外受精と、身体的リスクは変わらないと言われています。
野田 「でしょう? 人間関係の問題は残るでしょうが、それ以外のリスクがあるわけではない。代理出産のような一大事をやろうとしている人は真剣ですよ。特に、代理出産を引き受けようとしている人は、真剣で真面目です。生半可な覚悟で、出産を引き受けるなど、できるものではない。そういう人が、お互いの合意の下に代理出産を行おうとすることに、当事者でもなんでもない人間が反対するなんていうことはどう考えてもおかしい。私は、学会の反対を押し切って、国内初の代理出産を行い、そしてその人を支えたいという気持ちを大事にするのは、当然のことではないでしょうか」
−−代理出産に反対の報告書を出した医療部会の委員の中には、名誉毀損かつ人権侵害ものの暴言を吐いている委員もいます。根津院長が手がけた2例目の代理出産のケースを、私自身が取材し、『とくダネ!』という情報番組で放映しました。不妊の悩み、代理出産へのとまどいと決意について、依頼した夫婦と、引き受けた義理の姉に当たる女性にインタビューし、当事者としての肉声を伝えたのですが、この番組を見た部会の委員の一人、慶応大学医学部の渡辺久子専任講師(精神保健)は、部会の会議の席上、この当事者達を指して『家族病理の一つの典型として、もし国際学会で精神分析学会や家族学会で出せば問題になる』と発言し、直接、当事者と会ってもいないのに、勝手に『分析』して、『診断』を下している。精神科の医師として許されることなのかどうか。しかも、その自己流の『診断』を公開してしまっている。守秘義務があるはずの医師としてのモラルが問われます。
野田 「オープンにしているというのは、ネット上で公開されているのですか? どういう内容なのですか?」
−−ネット上で、部会の議事録は公開されています。そこには『結局は、自分がお腹の中で育てた赤ん坊を奪われた体験を、義理の兄嫁にも同じように味あわせないと、あんたは兄弟でないよという無意識の怨念を向けているのです。その怨念を向けられた兄嫁は、自分がすでに産んだ子どもを自分の親戚の義理の妹の怨念から守るために、いわば無意識の母性本能からあえて同じ体験をかってでているのです。そして自分のおなかの中で大きくなって出産した子をぱっと差し上げているわけですね。これは人身御供だと思うのですね』などという渡辺発言が、削除されることなく今でもアップされており、国民すべてが見ることができます(第26回 厚生科学審議会生殖補助医療部会 議事録 平成15年3月26日)。当事者に一度も会うことなく、よくここまで適当なことが言えるものだと呆れる他ありません。私は、依頼した夫婦には6時間、引き受けた義理の姉にも3時間のインタビューを行っています。テレビのオンエアで使ったのは、そのうちほんの数分にすぎません。そこには、たしかに感情が高ぶって、涙を流すシーンが含まれていますが、そうしたわずかな場面から、憶測だけで『家族病理』とまで断定しているのです。代理出産の経験者でなくても、不妊症の患者さんが、自分の体験を話す時は、感情的になるのがむしろ普通のことで、涙を流しもするし、自分の運命を呪うような嘆きを口にするものです。それだけで、ここまで言うのか、不妊当事者をここまで傷つけるのかと、怖ろしさと怒りがわいてきます。
野田 「(はぁーっと嘆息)もう、言葉もないですね。信じられない。不妊患者の苦しみなど、まったくわかっていないですね。私だって、自分が不妊と知ってから今まで、何回、涙を流したかわかりませんよ。その医者から見ると、きっと私も精神科の患者なんでしょうね。私にも精神科の治療が必要である、と。そういう医者と何を話し合っても無駄という気がします」
−−渡辺氏は『こういうことは、私ども専門家はわかりますけれども、一般の方はわからない』などと、得々と語っています。思い上がりもはなはだしい。わずかな時間のインタビューを見ただけで、精神科医ならば人の心のすべてをわかるとでも言うのでしょうか。非常に危険だと思います。彼女はさらに暴走して、この義理の姉妹関係をSMとまで表現しています。『その兄嫁のお子さんが赤ちゃんのときから、そういう母を見ていくというサディズムですよ。サドマゾの関係ですね。弟嫁が子宮の中の赤ちゃんを奪われたという被害者としての体験を今度はサディスティックに兄嫁に、無意識に強いて、そして兄嫁がそこにマゾヒストになることによって、無意識に強いて、そして兄嫁がそこにマゾヒストになることによってのみ家族が円満になっていくという、これは私の読みなので、ちょっと強調して申し上げますけど』などと語っている。好き勝手に『読み』をして、『家蔵病理のSM物語』を1人でつくり上げ、公表する権利が、この人にあるのでしょうか。そのあげく、『国が責任を持たないと、これは誰も責任を持たないで命をつくるとか、命をいろいろ選択するとかということになっていきかねないと私は思ったのです』と、愕然とするしかない結論につなげています。子供をつくることに、国家が介入することを積極的に提唱しているのです。不妊当事者とその関係者に対し、直接会って診断もせずに、サドだのマゾだのと侮辱的なレッテルを張り、そのあげく、生殖の国家統制を公然と唱える。こんな暴挙が許されていいのでしょうか? しかも他の委員の誰一人として、彼女のこの暴言に反論せず、沈黙によって事実上の承認を与えている。これが厚労省の部会の議論の実態であり、それが白昼堂々、ネット上で公開されていて、誰も異議を唱えないというのは、異様な光景です。
野田 「異議を唱えるのが、馬鹿馬鹿しい、不毛だということなんじゃないでしょうか(苦笑)、どうしようもないですね。次は私を精神科の患者として診断してくださいと、その委員に言っておいてください。
しかしこうした話を聞くと、不妊症の患者は、不妊という事実だけでなく、こうした周囲の無理解や偏見で二重、三重に苦しめられているという現状がよくわかります。過去の歴史を振り返ると、多くの女性が不妊症に苦しめられ、泣かされてきたわけです。不妊治療の進歩によって、そうした悲劇から救われる女性の数が増えてきた。あきらめずに、幸せを求めていいのだと、勇気づけられてきたのです。そうした不妊当事者の思いを踏みにじることがあってはならないでしょう。しかし、まだまだですね。不妊症患者への偏見が完全に払拭される日が来るのは」
−−不妊当事者の痛みを理解しない人間が、役人の中に大勢いることは、まだ驚きませんが、日頃、不妊症の患者さんと接していて、その痛みを知っているはずの産婦人科医の集まりである日本産科婦人科学会が、不妊当事者に対して冷淡な会告を頑迷に維持し続けているのはどういうことなのか、首を傾げざるをえないのですが。
野田 「私の知る限りでは、産婦人科医とひと口にいうけれど、専門がそれぞれ違う。産婦人科が全員、不妊治療を手がけているわけではありません。かつては不妊治療はマイナー扱いされていた時期が長かったけれど、最近は技術の進歩もあり、非常に勢いがある。そのため、生殖医療技術を手がけることに乗り遅れた医師らが、やっかみを持っているんでしょう。産婦人科医の世界全体の中では、先端的な生殖医療を導入しているのはまだまだ少数派なので、『出る杭は打たれる』で、多数派である守旧派から、バッシングされているんだと思いますよ。政治の世界と同じ構図です。厚労省の役人は、産婦人科医の世界の勢力構図を熟知し、足並みをそろえようとします。生殖医療を制限する法案には、背景にある、こうした業界内のパワーバランスが投影されている、と考えて間違いありません」
−−患者不在の構図ですね。業界の多数派の思惑と官界が癒着している他の業界の構図と変わるところがない。消費者の利益がおろそかにされている点でも同じです。患者は、医療サービスの消費者です。そうした医療サービスの消費者たる患者の利益を犠牲にして、産婦人科の業界の多数派の既得利権を守ろうとしている点が、この法案の隠された問題点ですね。
野田 「そう思います。もっと根本的なことで言うと、がんじがらめに人を縛る法律をつくることが、人々を幸福にするだろうか、ということです。昔は、法律が人を幸せにすることができました。法律によって悪事を禁じることで、加害行為から被害を受ける人を守り、救済することができたからです。しかし、そうした法整備はすでにほとんど整備しつくされています。今は、法によって何かを禁じることで、必ずしも国家が人々に幸福を約束できる時代ではありません。政府が行政指導で国民を一方向に導いてゆくやり方にも限界が見えてきた。そういう時代です。これからの時代は、自己責任で選択の幅を広げていかないと、日本は前進できません。先進諸国から取り残されてしまう。
大事なことは、人々に多様な選択肢を与えることです。先端的な生殖医療を受けたい人には、国内で、安く、安全な技術によって受けられる自由を与え、受けたくない人には受けない自由を保障する。ということです。代理出産を認めると、代理出産してでも子供を産めという圧力が女性にかかり、産みたくない女性の自由を侵害するから、禁止すべきだという主張がありますが、これはおかしい。本末転倒の論理です。『産みたくない女性の自由』を侵害してはいけないが、その自由を求める人達が、『産みたい女性』の自由を抑圧しようとするのは、明らかに間違っている。先程の、フィンレージの会の主張は、まさにそのようなものです。自分と違う生き方をする女性を認めない、というのはおかしい。こうした女性団体の主張は、心情的にはわかる部分もあるけれど、女性をすべてひとくくりにして語る傾向がある。女性とひと口に言っても、考え方も、生き方も、それぞれに違う。女性というカテゴリーで、ひとくくりにし、ひとつの生き方だけを押しつけるのは認められません。
また、少子化対策と、生殖医療を結びつけるのは問題だという批判もありますが、私は問題だとは思います。リンクさせていいじゃありませんか。国家が女性を生殖の道具にしようとしているとか、『産めよ、殖やせよ』という戦前の時代に戻るなどというのは言いがかりですね。女性団体も、被害者意識をふりかざすのは、いいかげんにやめた方がいい。被害者意識を脱して、女性の多様な生き方を認め、建設的な提言をしていっていただきたい。そうでないと、女性の自由を主張する女性達によって、他の女性達が抑圧されるという、悲喜劇的な構図になってしまう」
−−「産めよ、殖やせよ」という時代に回帰させようとしているのではないかという懸念に、わざわざ口実を与えるような発言が、自民党大物議員から出ました。2003年の6月27日に行われた公開討論会の席上、太田誠一議員が早大サークルの集団強姦事件に関して「集団レイプをする人は、まだ元気があるからいい」と言い放ち、森喜朗前首相が、「子供をたくさん産んだ女性は将来、国がご苦労様といって、たくさん年金をもらうのが本来の福祉のあり方だ。(中略)子供を生まない女性は、好きなことをして人生を謳歌しているのだから、年をとって税金で面倒をみてもらうのはおかしい」などと、問題発言を行いました。これに対し、同じ自民党ながら、野田先生はただちに批判の声をあげましたね。
野田 「集団レイプという犯罪を容認する発言は論外ですが、『産まない女』が悪い、という発言も容認することはできません。自民党の中には、『古きよき日本』への回帰を求める議員が少なくありません。しかし、そんな『家制度』への郷愁に浸ることで、現在の日本が抱える問題を解決できるわけではありません。女性の権利の拡大が、少子化の進行や家庭の荒廃につながっているとみなすような考えには断固反対です。私はこうした右からの主張にも、先程述べたような、女性の権利拡大を叫びつつ、自分と違う考え方・生き方を求める女性達を認めない、偏狭な左からの主張にも反対です。もっと、大らかに、他人の権利を認めながら、自己責任でそれぞれが自己実現していけるようにすべきだと思います。私は、左でも右でもない、中道で、プラグマティストだと自認しています。
今は、イデオロギーをふりかざして、社会を引っ張っていこうとする時代じゃない。イデオロギーは必ず硬直してゆきますが、社会は変化し続けてゆくのです。その変化にあわせて、法も制度もメンテナンスし続けていかなくてはなりません。
少子化のことについて言えば、生殖医療と切り離して論じても、大変大きな問題です。少子化というと、すぐに労働力の不足という話になりますが、問題はそこにあるのではない。外国人労働者を入れたとしても、稼いだお金のほとんどを母国に送金してしまい、日本国内で使ってくれません。少子化のもっとも重要な問題は、国内の消費需要が減少してゆくことです。消費需要のパイがどんどん小さくなってゆく。そうなれば、供給サイドがどんな努力を払っても、ジリ貧は避けられません。それに加えて、高齢化は社会の活力を確実に奪ってゆく。若い人にとってこの国が魅力的な国でないと、どんどん衰退してしまいます。
誤解されてはいけないので、つけ加えて言いますが、私は女性の『産まない権利』を認めていますよ。それは女性の権利のひとつです。子供を望まない男性もいますから、カップルの権利のひとつと言いかえた方がいいかもしれません。
他方、産みたいのに、環境が整わず、産めないでいる人達の権利も尊重されるべきだと申し上げているのです。そして、産みたいのに産めずにいる障害をひとつずつ取り除いてゆくべきです」
−−次世代を育成するための障害を取り除く、バリアフリー化ですね。
野田 「そうです。ですから、わざわざ新たな障害を設ける今回の法案のようなものは、絶対に認められません。障害は、いろいろなところにあります。夫婦別姓が認められないことが結婚の障害になっているケースもあります。私は、選択的夫婦別姓を認めるべきと主張していて、『自民党の中の左翼』とか、さんざん批判されてきました。でも、大事なことはバランスであり、マイノリティーの権利の尊重であり、多様性の確保と、選択の自由です。人々から、選択の自由を奪っている状況を変えていくことが、少子化の進行に歯止めをかけることになるはずです。
また、個人の権利の拡大は、社会の支え合いを崩壊させると頑なに信じている人も少なくありませんが、個人の自己決定権の尊重と、社会の構成員としての相互扶助は決して矛盾しません。子供を産む、産まないは個人の自由ですが、生まれた子供を育ってゆくコストを分かちあうことは可能であり、産まない自由を選択した人にとっても利益となる、必要なことです。ですから、私は以前から『育児年金』の創設を提唱しているのです。みんな、子供を育てる苦労を分かちあう、その子供達が、年金や介護保険などの社会保障制度を通じて、将来の自分達を支えてくれるということが広く理解されるようになれば、『産まない人』と『産む人』との間の不毛な対立もなくなります。育児年金の保険料を支払うという形で育児負担を背負うならば、『産まない人』も、堂々と胸を張っていられるでしょう」
−−育児年金の創設、賛成です。私も数年前から、その必要性を主張してきましたので、大変心強く思います。しかし実現には困難が伴うことが予想されるので、是非とも野田先生には頑張っていただきたいと思います。ひとつおたずねしたいのですが、議員立法というのは難しいのでしょうか? 厚労省が用意した生殖医療を制限する法案に反対するだけでは、不十分ではないかと思うのです。カウンターで、先端的な代理出産などの生殖医療を認める法案を出してゆく積極策に打って出る必要性があるのではないでしょうか? 育児年金についても同様です。役所まかせにしていても、埒があかないのではないでしょうか。
野田 「議員立法で、生殖医療に関する法案を提出するならば、あくまで基本法という形にすべきでしょうね。細部に入り込んで、禁止や規則を盛り込んだりせず、国民の、各人のモラルにまかせるようにして、『産みたい人』と、それを応援しようとする家族、医療従事者らを励ますような法律にすべきです。処罰規定で縛るのではなく、基本法をベースにして、医師も、患者も、当事者としてのモラルを醸成してゆくことが必要です。
そもそも、今、代理出産を国内で禁じたところで、将来、必ず代理出産は認められるようになります。これは、断言してもいい。世界の流れに、日本国内だけ抵抗し続けることに何のメリットもありませんから。将来、認められるようになることがわかっているならば、最初から国内で実施できる方向で法整備を進めていった方が、はるかにポジティブです。
厚労省の役人と御用学者の言う通りにしていたら大変なことになるという危機感はありますから、議員立法で基本法の成立を目指したいのはやまやまなのですが、何しろ、国会議員の中にこの問題についての認識が足りなすぎる。自民党内だけでなく、野党まで見渡しても、議員立法に必要な20人の代議士を集めるのは至難の業だと思います。誰か、いい人いませんか? いたら教えてください。
もうひとつの問題は、今のような状態で基本法の法案を提出した時に、『寝た子を起こす』ことになるのではないか、という懸念があることです。自分がよくわからないものは、とりあえず反対する、という人間が出てくることが予想される。新しいものに対する拒否感というのは、強いですから、現在でも代理出産などに反対している人の多くは、その中身をわかっていないんです。理解が広まらないうちに、拙速で出していいものかどうか、ためらいがあります。
もっと生殖医療への理解を広めることが重要ですよね。不妊のメカニズムについてすら、わかっていない人が国民の大半を占めているんじゃないでしょうか。この点については、厚労省だけでなく、文部科学省の責任も大きいでしょう。学校教育できちんと教えてこなかったツケです。
これだけ寿命が伸びているのに、卵の寿命は伸びない。40代なると、卵が劣化して妊孕性がガクッと落ちる。そういうことが案外知られていない。かくいう私も、知りませんでしたし、誰も教えてくれなかった。私達の世代の女性は、ほとんど知らないと思いますよ、卵の寿命なんて。私は結婚して、自分の不妊の問題に直面して、初めて知ったんです。婦人科に行くようにならない限り、こんな基本的な知識を得ることができないなんて、絶対におかしい。そう思いませんか?
これからは男女平等の世の中だ、女性も男性と同じように高等教育を受け、社会でバリバリ働くことができるのだ、そういう希望に燃えてキャリアを重ねてきた女性達が、生物学的な限界の壁に突然突き当たり、呆然とする。これは私だけの体験ではないと思うのです。卵の老化についての基礎的な知識もないまま、自分なりにライフプランを立てて、働き続けてきた女性達の中には、いつか子供も持ちたいと思っている人も少なくない。ところが、いざ、という時になって、思いがけない一撃を受けて、自分の生涯プランが狂ってしまった現実を思い知らされる。これは、とても残酷なことです。
国会議員の中で、現在、不妊治療を続行中で、それをカムアウトしているのはたぶん私だけでしょう。プライバシーに関わることですし、夫の反対もありました。仮に子供が生まれたら、その子供が偏見の目で見られるのではないか、という懸念もありましたが、それでもオープンにしてきたのは、こうした現状に警鐘を鳴らし、後に続く女性達に注意を促したいという思いもあるからなのです。独身の小渕優子議員に、『結婚はいつでもできるけれど、歳をとると子供は産めなくなるのよ』と言っているんです。教育は大事なんです」