特集:ランス・アームストロングHISTORY
LANCE ARMSTRONG HISTORY
自転車ロードレース史上に燦然と輝く大記録、ツール・ド・フランス7連覇。かつて誰もなし得なかった偉業を誇るランス・アームストロングは2010年夏もまた、フランス一周の旅に出る。狙うは新たなマイヨ・ジョーヌか、それとも・・・!?
38歳にしてなお、プロトンの先頭で戦い続けるアームストロングの波乱に満ちた半生を振り返る。
第1部:誕生〜1996年
「いや、オレは初代ランス・アームストロングだ」
ランス・アームストロングの名前が初めて世界中をかけめぐったのは、1993年7月11日のことだった。ツール・ド・フランス第8ステージで逃げを打ち、小集団スプリントを制しての区間優勝。この年のツール最年少参加者にして(21歳)、しかもアメリカ選手の優勝に、世間は「第2のグレッグ・レモン誕生か」と騒ぎ立てたものだ。しかしアームストロングは、優勝記者会見でこうきっぱりと言い放った。「いや、オレは初代ランス・アームストロングだ」
こんな負けず嫌いな男は、複雑な家庭環境で生まれ育った。父親不在のなか誕生し、両親は2歳で離婚。母の再婚でアームストロング姓を名乗るようになったが、義理の父親との関係も決して良好ではなかった。そんななかランス少年は水泳を始め、さらには12歳で本格的にトライアスロン競技へと打ち込むようになる。
13歳でアイアンキッズ・トライアスロン大会(7〜14歳対象)を制したアームストロングは、16歳という若さでプロのトライアスリートへと転向した。その後も快進撃を続け、年代別ランキングで国内1位に上り詰めたことも。さらに18歳、19歳の時には国内選手権スプリント部門で2連覇を果たす。
ただしトライアスロンと平行して、実はアームストロングはアメリカ五輪委員会の自転車育成チームで「自転車」に特化した練習も積んできた。早熟なアスリートは自転車でも徐々に才能を開花させ、1989年には自転車のジュニア世界選手権にアメリカ代表として出場。さらに1991年にアメリカ自転車選手権アマチュア部門を制し、同年の夏季五輪ロードレースで14位に入ると、翌年、モトローラチームにてプロの自転車競技の世界へと飛び込んだ。
史上最年少で世界チャンピオンへ、そして突然の病に倒れる
初めてのツール区間制覇直後、アームストロングはキャリアで勝ちたいレースの名前を挙げている。クラシカ・サンセバスチャン、チューリッヒ選手権、ジロ・ディ・ロンバルディア、さらには世界選手権!この21歳の大胆な望みは、わずか1ヵ月半後にあっさりと叶えられることになる。
現在とは違い8月末に行われていた世界選手権で、1993年、アームストロングは史上最年少のアルカンシェルジャージを獲得した。オスロに降り続く大粒の雨に打たれながら、ツール5連覇インドゥラインや五輪金メダリストのルードヴィッヒ、さらにキャプーチ、チミル、ムーセウ、リースというそうそうたるメンバーによる追走を振り切って。
持ち前の勝気さとパワフルな肉体を武器に、その後もアームストロングは好成績を出し続けた。1995年ツールでは、3日前にレース中の転倒事故で命を落としたチームメイトのカサルテッリに捧げる、感動的な優勝を手に入れた。上述した目標のひとつ、クラシカ・サンセバスチャンは1995年に勝ち取った。また1996年にはラ・フレーシュ・ワロンヌも制し、実力派ワンデーハンターとしての名声を確実に築いていった。
ところが1996年の秋、アームストロングは体の不調を感じる。医師の診断は悪性の精巣腫瘍。すでに肺や脳にも転移しており、生存率は50%以下と宣告された。25歳になってわずか2週間目に、突然襲い掛かってきた試練だった。
第2部:1997年〜2005年
絶望の淵から奇跡の生還、そして復活へ。
毛髪がすっかり抜け落ち、両頬がこけ、落ち窪んだ瞳をたたえた当時の写真が、化学療法の厳しさを物語る。選手としても人間としてもまだまだこれからという25歳で、アームストロングは絶望の淵に立たされていた。
しかし自転車選手としての心肺機能を損ねないために、彼はあえて通常より厳しい化学療法を選択した。また1997シーズンに向けて入団サインをしていたコフィディスからの契約解除という冷たい仕打ちにもめげず、辛抱強く治療とリハビリを続けた。そして実際の生存率は50%どころか数パーセントしかなかったにも関わらず、アームストロングはその強靭な精神で、奇跡を引き寄せた。癌からの生還――。
1998年、ついにアームストロングは自転車選手としてついに復活を果たす。春先のパリ〜ニースでは最後まで走りきることすらできず、地元テキサスで自棄酒をあおり引退さえ考えたというが、初秋のブエルタ・ア・エスパーニャでは総合4位に食い込む大健闘をみせた。しかも自転車界全体を驚嘆させたこの大会で、アームストロングは自信を取り戻しただけでなく、選手人生を大きく変える人物と再会する。彼こそのちにあらゆる栄光を分け合うことになる、ヨハン・ブルイネールである。
現役時代からプロトン内の「参謀」として名を馳せていたブルイネールは、翌年からUSポスタルの指揮官に就任した。パワーとやる気だけでがむしゃらに勝利をもぎ取ってきたアームストロングに、冷静な戦術眼や計画性を徹底的に叩き込んだ。ルートはうんざりするほど綿密に下見させた。走り方にさえ口を出し、より軽く、より速いペダリングを求めた。なにより選手本人がかつて夢にさえ見ていなかった目標を定めさせた。「ツール・ド・フランスの総合優勝を狙え」と。
鉄人となったランスは、前人未踏の記録に向け初めてのマイヨ・ジョーヌに袖を通す。
1999年7月3日、ル・ピュイ・デュ・フーのプロローグ6.8kmを制して、アームストロングは生まれて初めてツール・ド・フランスのマイヨ・ジョーヌに袖を通した。2日後に一旦ジャージは手放したが、第8ステージのタイムトライアル優勝で再び総合首位に躍り出る。さらに翌日は小雨降るセストリエール(イタリア)への上りで、おなじみの軽快なダンシングスタイルでライバルたちを振りほどくと、アームストロング時代の扉をこじ開けるような堂々たる山頂制覇。パリ前日の個人タイムトライアルさえも超高速ケイデンスでさらい取ると、アメリカ国旗を肩にシャンゼリゼを凱旋パレードする権利を手に入れた。
2位アレックス・ツーレには、7分37秒という大差をつけていた。
ところが前年のフェスティナ事件を引きずる関係者のなかには、奇跡の生還者のクリーンな走りを信じない者もいた。また当時全盛を誇った1998年ツール王者マルコ・パンターニや、1997年マイヨ・ジョーヌの若き神童ヤン・ウルリッヒが不出場だったことを指摘する声も上がった。ドーピングの噂は残念ながらアームストロング個人というよりも、現代の自転車界に常につきまとい続ける影のようなものだ。もちろんアームストロングは現役中一度たりとも禁止薬物を使用したことはないと断言しており(闘病中に治療目的のEPO使用は認めている)、またその言葉を裏付けるようにドーピング検査で問題を起こしたこともない。そして2番目の声――ライバル不在だったのでは――は、翌年7月、圧倒的な強さと存在感であっさりとひねり潰すことになる。
伝説の戦いーVS.海賊パンターニ
モン・ヴァントゥーにおけるパンターニとの一騎打ちは、100年以上を越えるツールの長い歴史の中でも、伝説のひとつに数えられる。2000年ツールの第12ステージ、最初に仕掛けたのは「イル・ピラータ(海賊)」パンターニだった。3日前の山頂フィニッシュで大きくタイムを失った稀代のヒルクライマーは、自らの誇りを取り戻すために渾身のアタックを決めた。ところがアームストロングも負けじと加速し、まるで弾丸のように突き進みパンターニを捕らえた。さえぎるものの何もない恐ろしき禿山に、南仏特有の激しい風が吹き付ける。沿道を埋め尽くす観客の声に押されながら、2人は延々2.5kmにわたって1対1の壮絶な死闘を繰り広げた。せめぎ合いはゴールライン直前まで続き、最終的にはパンターニが区間を制し、アームストロングが総合首位をさらに確かなものとした……。
伝説の戦いには、後日談もついてくる。「最後は力を抜いたんだ。あえて区間勝利を譲ったよ」というアメリカ人王者の正直すぎる発言に、暗黙の了解を美徳とする欧州プロトンで育ってきたイタリア人は「屈辱的だ」と怒りをあらわにした。するとアームストロングは「勝ちを譲るのは間違いだった。彼はもっと品格のある選手だと思ったのに」と逆切れ。3日後にパンターニは単独で山頂フィニッシュを制すと、そのままツールを後にした。アームストロングは2度目のマイヨ・ジョーヌを手に入れて、この場外乱闘から教訓を得た。「No Gift」。
永遠のライバル−VS.ウルリッヒ
パンターニとの思い出が少々苦いまま幕を閉じてしまった一方で、ウルリッヒとは長きにわたってよきライバル関係を保ち続けた。たとえ2001年第10ステージ、ラルプ・デュエズへと誘う上りで、アームストロングがとんでもないブラフ――体調が悪いふりをして集団後方に下がりライバルチームを散々働かせた挙句、絶好のタイミングで加速。アタック時に背後のウルリッヒのほうへあえて振り返る余裕付きだった――をかまして勝ちを引き寄せたとしても。同年の第13ステージでウルリッヒが草むらに落ちたときは、速度を大幅に緩めてライバルの帰還を待つ紳士的な態度も見せた。
記録的な猛暑となった2003年にはタイムトライアルでウルリッヒにギリギリまで迫られ、わずか1分1秒というタイム差で100周年記念大会の総合優勝をもぎ取った。最終的に2人は4度表彰台を分け合い(ウルリッヒは2000、2001、2003年2位、2005年3位)、引退後にアームストロングは「ウルリッヒのことは選手として本当に大好きだった」と愛の告白に近い賞賛さえ贈っている。
ツール7連覇を手中にするも鉄人アームストロングは引退へ
2003年に「5勝クラブ(=ツール5勝のアンクティル、メルクス、イノー、インドゥライン)」に入会し、翌年にあっさり史上最多優勝記録を塗り替えると、2005年には前人未到のツール7連覇を成し遂げた。そして7年連続シャンゼリゼ大通でアメリカ国歌を歌い、7度目の凱旋パレードを終えた2005年7月24日、マイヨ・ジョーヌを着たままアームストロングは自転車を降りた。33歳で、新しい人生に飛び出していくために。
第3部:2006年〜2010年へ
ランス・アームストロング財団の活動
引退してからのアームストロングは、しばらくは子供たちと共に過ごす時間を満喫したようだ。ただし決してビールと庭いじりだけの日々を送っていたわけではない。むしろ1997年に自らが設立したランス・アームストロング財団の活動に、よりいっそう精力的に取り組み始めた。
ランス・アームストロング財団とは、ガンからの生還を果たしたアームストロングが、ガン患者とその家族を支援するために設立した財団である。さらに世間一般の人々に対してガンへの関心と理解をさらに広げるために、2004年には黄色いリストバンド「Livestrong(リブストロング)」の発売を開始した。プロトンや自転車ファンの間から火がついたイエローバンド現象は、アームストロングのツール連覇効果に乗って世界中にあっという間に広がり、現在までに7000万本以上を売り上げた。売上金は財団の主な活動であるガン患者・ガン生還者の支援と、ガン治療の研究資金に使用されている。
トップアスリートのアームストロングは、財団活動にスポーツも大いに利用した。リブストロングチャレンジと銘打って、自転車やマラソン、トライアスロンなどのイベントを積極的に開催している。さらに自らの肉体を使って、2006年11月にはニューヨークシティーマラソンへと乗り込んだ。結果は2時間59分36秒で完走。しかも大チャンピオンのフルマラソン挑戦をTVカメラが一部始終とらえ、おかげで60万ドルもの収益金を集めることに成功したという。その後もNYマラソンやボストンマラソンを走るなど、アームストロングは自転車以外のスポーツ活動を続けていった。
一方で財団代表のアームストロングが、スーツ姿でメディアに登場する機会も増えてきた。財団の方針上、ときには政治的発言を口にすることもあった。「アームストロングは政治家への転向をもくろんでいるのではないか?」こんな声があちこちから上がり、アームストロング州知事がそう遠くない未来に誕生するとの憶測さえも飛び出した。
ところが2008年秋、上述したような予想は根底から覆されることになる。ブエルタ・ア・エスパーニャ会期中に、「アームストロング現役復帰」の一報が飛び込んできたのだ。そして9月9日、ロードレース界への復帰が正式に発表された。
「皆さんに喜んでお伝えしたい。ボクはプロ自転車界への復帰を決めた。ガンの苦しみ対する世界的認識を上げるために。今年だけでも、世界中で約800万もの人がガンで命を失っている。今こそ、地球レベルでガンへの認識を訴えかけるときなんだ」
自転車界への電撃復帰、新チーム結成!全ては8度目のマイヨ・ジョーヌのために
1月のツール・ダウン・アンダーで現役復活を果たしたアームストロングは、行く先々でファンの熱烈歓迎を受けた。3月のカスティーヤ・イ・レオンで鎖骨を折るアクシデントに見舞われたが、5月には生まれて初めてジロ・デ・イタリアに出場し、総合12位という上々の成績を収めた。
そして2009年7月4日、7連覇時代から良く知るお気に入りのアシストたちを引き連れて、ついにツール・ド・フランスへの帰還を果たした。2005年にマイヨ・ジョーヌのまま別れを告げて以来、約3年11ヶ月ぶりの大舞台。華やかなモナコで行われた初日15kmの個人タイムトライアルでは、スタート台で何百台ものカメラに囲まれ世界中の視線を完全に独り占めすると、区間10位で好調な滑り出しを切った。
37歳のツール再挑戦には自転車界はもちろん、各界から賞賛の声が多く上がった。ただしアームストロングはブランクや年齢以外にも、少々厄介な問題を抱えていた。恩師ブルイネールが運営するアスタナに迷いなく加入を決めたのはよいが、チームにはすでにアルベルト・コンタドールという絶対的リーダーが存在していたのだ。コンタドールは拒絶反応を示し、一時は移籍さえも訴えた。アームストロングは一歩譲って、「ツールではコンタドールを助ける」との声明を出した。かつて「ボス」と呼ばれた男と、現役で唯一3大ツール全制覇を成し遂げたばかりの若きチャンピオンの同居問題は、沈静化したかのように思われたが……。しかしツール期間中、2人の確執ははっきりと形になって現れた。
第3ステージの横風区間では、リーダーのコンタドールが遅れているにも関わらず、アームストロングが前方で執拗に加速し続けた。第17ステージでは総合首位コンタドールがアシストのアンドレアス・クレーデンを置き去りにするアタックを仕掛け、その影響でアームストロングは総合2位から4位へと陥落した。果たして故意だったのか、偶然か。「確かにボクとアルベルトの間には緊張関係があった」とアームストロングは認めている。最終的にはコンタドールがマイヨ・ジョーヌを獲得し、アームストロングは総合3位。チームのアスタナにとっても、復活のアームストロングにとっても、非常に素晴らしい結果で2009年ツール・ド・フランスは幕を閉じた。
実はそのツール期間中にも、アームストロングは2010年へ向けた準備を着々と進めていた。
そしてコンタドールが個人タイムトライアルを制した第18ステージの夜、アームストロングは新チームの設立を発表した。スポンサーにアメリカの家電量販店レディオシャックを迎えて、自らの手でチームを作ることに決めたのだ。もちろんチームマネージャーに就任したのはブルイネール。アスタナからは強力アシストやスタッフを大量に引き抜いた。世界各国から選り抜きの選手たちをチームに招き入れ(日本からは別府史之が加入)、強力な資金力をバックに初年度から早速UCIプロツール入りも果たした。全ては8度目のツール・ド・フランス優勝のために――。
「もしもボクが優勝できたとしたら、かなりの驚きだろうね!でも自分でツールに勝てないと思っていたとしたら、未だにレースなんか走っていない。今年ももちろんツール優勝が、第1目標だ」
5月にツアー・オブ・カリフォルニアを走った後、アームストロングは欧州へ乗り込みツール前最後の調整を行う。2010年7月25日、38歳の大チャンピオンは、ツールの終わりをどんな風に迎えているのだろうか。