2011-05-23
KGBをかばった住田良能社長−レフチェンコ事件を清算しない産経新聞(5)
昭和50(1975)年から54年にかけて東京に駐在していたKGB(ソ連国家保安委員会)工作員、スタニスラフ・レフチェンコが米国亡命後の1982(昭和57)年、「サンケイ新聞の山根卓二編集局長らはKGBエージェントだ」と明らかにした「レフチェンコ事件」は、翌昭和58年4月にKGBコードネーム「カント」こと山根卓二氏が引責辞任し、夏以降はほとんど報道されることはなく、人々に忘れ去られていた。
歳月が過ぎ、サンケイ新聞が題字を産経新聞に変えた後の平成5年、レフチェンコの名前が10年ぶりにクローズアップされた。
産経新聞は平成5年3月19日付朝刊1面トップで、レフチェンコがワシントンの古森義久特派員との会見に応じ、社会党への資金提供などの工作の実態を明らかにと報じた。3面にはレフチェンコとの一問一答が掲載された。
連載の冒頭で紹介した通り、レフチェンコ事件発覚の発端は昭和57年12月2日付毎日新聞の見事なスクープ記事であり、その筆者は古森義久ワシントン特派員である。古森義久記者は昭和62年に毎日新聞を退社してサンケイ新聞に移籍。ロンドン特派員を経てワシントン特派員に返り咲いていた。
産経新聞は翌20日付で「社党自ら『ソ連資金』解明を」と題した主張(社説)を掲載し「社会党は自ら血を流す覚悟で徹底的に事実関係を究明すべきだ」と追及姿勢を見せた。5月9日付では、レフチェンコの社会党への300万円の提供先が今正一・元東京都本部副委員長だとする古森義久特派員の記事を掲載した。ソ連批判、社会党批判は産経新聞の真骨頂である。
ところが、文藝春秋が6月号でレフチェンコのインタビューを掲載すると産経の態度は変わった。
このインタビューでレフチェンコは、社会党への工作だけでなくカントこと山根卓二氏についてもあらためて「スパイ」だと証言した。
内容的には目新しくないのに、産経新聞はなぜか神経質に反応した。
5月12日付朝刊3面で「レフチェンコ発言と本紙中国報道」と題する住田良能編集局次長の署名入り記事を掲載した。
「『文芸春秋』誌の読者が、本紙に関する彼の発言を多少なりとも信じては気の毒なことになる」とするこの記事の内容は意味不明で、“レフチェンコはカントこと山根卓二氏を通じて「反中国」のサンケイ新聞を取り込んだと言っているが北京支局の閉鎖とレフチェンコは関係ない”とか“産経新聞は反中国ではない”とか、カントこと山根卓二氏がKGBのエージェントだったという本筋とは関係ないことを延々と書いている悪文である。
そして、それ以降、社会党へのソ連資金(菅直人の比ではない外国人献金)に関する産経新聞の追及報道はストップした。
これまで解説してきた通り、レフチェンコ証言は日本の警察当局が「きわめて信憑性が高い」とし、カントこと山根卓二氏をエージェントだったと認定し、サンケイ新聞を含むメディアも国会も取り上げてきた事実である。そもそも発覚の発端は古森義久記者の毎日新聞時代のスクープであり、サンケイはその古森記者を引き抜いたのである。住田良能編集局次長の記事は、つまりは古森義久記者の10年越しの渾身のスクープを否定し、レフチェンコの言っていることは信用できないと主張したのだ。一体なぜ産経新聞社はそうまでしてKGBエージェントだったカントこと山根卓二氏をかばったのか。
実はカントこと山根卓二氏は、KGBエージェントと名指しされて引責辞任しながらも生活に困ってはいなかった。
退社後、西友の顧問に就任した。西友はレフチェンコが「ソ連に好意的な人物」と暴露した堤清二氏(KGBコードネーム「ツナミ」)の会社であり、実に分かりやすい再就職である。そして、日本衛星放送取締役や日本船舶振興会理事も務めた。もちろん産経が世話をしたのだ。
住田良能氏がカントこと山根卓二氏を必死でかばう記事を書いた1年後の平成6年6月、カントこと山根卓二氏はテレビ埼玉の社長に就任した。いくらエロ番組で知られる田舎UHF局とはいえ、メディアである。KGBエージェントと名指しされて新聞社の編集局長を引責辞任した者が社長になるなど本来あり得ない。しかし産経新聞社は一生懸命面倒を見たのである。
カントこと山根卓二氏はテレビ埼玉社長を6年務めて平成12年に会長に就任し、翌年退任。平成20年9月5日、肺炎のため80歳で死去した。
KGBエージェントをかばった関係者(例えば住田良能社長)を処分して責任を追及しない限り、産経新聞社には国際共産主義の脅威も国益も語る資格はない。日本に必要なメディアとして生き残ることはできないだろう。
(ひとまず終わり)
第1回 編集局長はKGBエージェント…レフチェンコ事件を清算しない産経新聞(1)
第2回 外交機密も漏らす…レフチェンコ事件を清算しない産経新聞(2)