荻原 栄 はじめに
よく最初の一行で読むに堪えないという本がある。これもその一つである。 冒頭から、 「われわれ日本人は歴史を改訂した「忠臣蔵」の物語に洗脳されている」 と、刺激的な言葉を並べた後で、改訂していない歴史として、江戸時代の史料である「梶川氏筆記」を挙げて、その現代語訳を示している。 「梶川氏筆記」を知らない読者は、この現代語訳と解釈をそのまま信じてしまうことになるのである。しかし、少し読める人であればすぐにわかる。まったく嘘なのだ。改訂していない歴史として挙げられている史料を歪曲して理解し、歴史を改訂してしまっているのである。 この本の全般を通しての井沢氏の意図は、 「浅野は、老人を不意打ちするような卑怯者で、しかもそれだけ卑怯な手を使ったのに、老人一人殺せなかったダメなヤツということになる」(「逆説の日本史」十四近世爛熟編 十二頁 以降本の表題は略す) に集約される。ここでは「浅野は老人を不意打ちするような卑怯者」と言った後に「しかもそれだけ卑怯な手をつかったのに」と続けた見事なレトリックで、浅野内匠頭がいかに卑怯者であるかを強調して見せている。 そして浅野内匠頭をバカ殿様、そのバカ殿様の仇をなにも知らずに討った大石内蔵助は大バカ者と言って、読者をあっと言わせるのである。 歪曲した解釈に始まって、論理的に成立しない話しを進める。この手法は見事に最初から最後まで貫き通されていて、これでもか、これでもかと繰り返される。嘘の上に嘘を塗り固め、最後は嘘の大塗りとなってしまっているのである。 おまけに、井沢氏は、「学者なんだから、もう少し厳密に史料を見なさいよ」とも言っている。完璧に史料を厳密に読んでいないのがその本人なのだ。自分の主張していることとやっていることが完全に矛盾しているのである。
史実の曲解
なぜこのような本になるのか。 引用している江戸時代の史料はわずか「梶川氏筆記」一つだけである。沢山ある一級史料は読んでいないか、あるいはわざと無視しているのだ。また最近の研究結果も知らないからなのである。現代の学者の本も引用しているが、その学者も「赤穂事件」の素人で、数々の失態を犯し、専門家からは無視された存在なのだ。 どんなにひどい嘘だらけの忠臣蔵本でも、こんなことはない。
お粗末な梶川氏筆記の理解 「梶川氏筆記」は大奥御広敷番の梶川与惣兵衛が、御台所の代理として勅使に挨拶をする、その当日の自分が遭遇した事件を書き残したものである。 井沢氏が歴史としての「赤穂事件」を語るに使用している史料はわずかにこの「梶川氏筆記」一つである。しかも、その「梶川氏筆記」でさえ理解できていない。
井沢氏は、朝から現場はごったがえしていたとか、刃傷事件は勅使の登城前に起きたものなどと言っている。 よく「梶川氏筆記」を読んでからこのような本は書くべきなのだ。「梶川氏筆記」には、すでに勅使が到着していることが書かれている。 「最早公家衆には御休息の間へ被参候由に付、左候はば大廊下には高家衆被居可申哉と申候へば、如何可有之哉と被申候間、然らば大廊下へ参り見可申と申捨て」 これは井沢氏が本の十頁で引用した「梶川氏筆記」のわずか十二行前の記述である。 梶川は、勅使が既に登城し大廊下(松之廊下)に面した御休息の間に入っているから、大廊下には高家衆も居るだろう、と言っているのである。 唯一利用している「梶川氏筆記」の分量は、わずか三頁半の短い文である。このような史料さえも満足に読んでいないことが分かる。 なぜ松之廊下に高家衆もいて、内匠頭もいたのか、そんなことさえ井沢氏は分かっていないのだ。 三月十四日は将軍から勅使への御返答日である。勅使は既に白書院に近い大廊下(松之廊下)に面した、御休息の間に入っている。高家衆も、接待役の総責任者の浅野内匠頭も御休息の間の前で控えている。松之廊下は、儀式に参列する関係者の控え室も兼ねているのである。 もうじき奉答の儀式が始まるので、勅使は白書院へ出る直前。高家衆も浅野内匠頭もそこで、勅使が出てくるのを今かと待っている。しかも、松之廊下は、大広間から白書院に通ずる廊下であって、将軍、御三家、勅使などの人間以外は通らない廊下なのである。そのような時と場所に、大勢の役人や大名がどうしてかっ歩しているのか。 井沢氏が「もう少し厳密に史料を見なさいよ」と書いているが、なんと空々しいことか。 このように自分が引用している史料の数行前さえも読まず、嘘の上に嘘を重ねていくのが、この本の特徴なのである。 本当の現場は松之廊下ではない? どうしてまたこのような大石慎三郎氏の説を持ち出してくるのだろうか。 大石慎三郎氏の、事件は松之廊下ではなく柳の間の廊下で起こったという、既に否定された説を担ぎ出している。 大石慎三郎氏は江戸時代史の専門家であったかもしれないが、「赤穂事件」の専門家ではない。数々の失態を犯して「赤穂事件」の専門家からは無視された存在なのである。 この柳の間の廊下説も、多くの専門家がその過ちを指摘し、否定されているのだ。井沢氏が引用している大石慎三郎氏の文章は間違いだらけなのだ。その間違いだらけの文章を次に示す。長いので途中は略して引用する。 「事件当日・・・(略)・・ただ、彼は打ち合わせをするために、吉良が白書院あたりから出てくるだろうと見当をつけて待っている。吉良の控えの間、その仕事からして黒書院か白書院あたりに居たはずで、実際、白書院の方から出てきている。しかし、その場合も、松の廊下を通ることは有り得ない。・・(略)・・柳の間の廊下の辺りで二人が立ち話をしている時に、事件が起きたのではないかと思われる。・・(略)・・芝居で演じられるように松の廊下で事件が起こったのではないことは、百ハーセント確実である」(三十六頁) 井沢氏と同じく「梶川氏筆記」を真摯に読んでおらず、他の史料も読んでいないためにこの時の状況が理解できていない。従って当て推量で書いているのである。 「梶川氏筆記」に書いてあるのは、 ・梶川は自分の出番が早くなったことを吉良に確認しに来た。 ・既に勅使は登城して休息の間に入っていることを、お目付の多門伝八郎に確認したので、 高家衆もそこにいるだろうと、休息の間の前の大廊下(松之廊下のこと)まで来た。 ・そこで、廊下の向こうから来た坊主に吉良を呼んできてくれるよう頼んだのだが、坊主 が戻ってきて、吉良は老中のところへ行って居ないと言われた。 ・内匠頭が大廊下に居たので、また坊主に内匠頭を呼んできてくれるよう頼み、内匠頭と 話しをし終えたところで、白書院の方の杉戸が開いて吉良が現れたので、再度坊主に吉 良を呼んでもらった。 ・梶川も大廊下に入り、角柱から六、七間の所で吉良と会い、立ち話をしていた。 そして事件が起こるのである。 このどこに、梶川が白書院の辺りから出てくるだろうと見当をつけていたとか、吉良が自分の控えの間に居ただろうとか、吉良が柳の間の廊下に現れた、などということが書いてあるのか。 最後に書いてある「松の廊下で事件が起こったのではないことは、百パーセント確実である」は、百パーセント確実に間違いなのである。 大石慎三郎氏が、歴史学者としてはやってはいけない決定的な間違いを犯して、専門家から批判された例を挙げる。 「今日では元禄十四年の殿中刃傷事件は、いわば元禄十五年十二月十五日の、討入りの前奏曲のように見なされている。つまり、事件としての評価は、吉良邸討入りのほうが圧倒的に大きいのである。しかしこのような状況になったのは、事件当時からのことでは決してない。さきに引用した名古屋藩士の日記『鸚鵡籠中記』には、殿中刃傷事件と赤穂城請け取りの件は、追加記事の形で記入されているが、吉良邸討ち入り事件については一行の記載もないのである。(途中略) つまり今日のように、殿中刃傷事件より吉良邸討ち入りが事件の主役になるのは、『仮名手本忠臣蔵によって、これが芝居化されてからなのである』(江戸転換期の群像)
大石慎三郎氏は、鸚鵡籠中記には一行も討入りについては書かれていない。従ってこの当時の人々は、討入りについてはほとんど問題にもしなかった。これが大きく取り上げられるようになったのは、仮名手本忠臣蔵という劇によって広まったからだ、と論じているのである。歴史学者としてはあまりにもお粗末な史料の読み方をしたのだ。大石慎三郎氏はこの当時、鸚鵡籠中記を保管している徳川林政史研究所の所長をも兼ねていた、にも拘わらずにである。。 これは史料の読み方を間違えると、事件そのものの本質的な理解も間違うという、よい例である。井沢氏も同じである。 尾張徳川家の家臣朝日文左衛門の日記「鸚鵡籠中記」の元禄十五年十二月十四日には次のように書かれている。 「夜、江戸に而浅野内匠家来四十七人亡主の怨を報ずると称し、吉良上野介首を取り芝専(泉)岳寺へ立退。評(詳)見塵点録廿五雑言部」(名古屋叢書続編第十巻) 四十七士の討入りについて二行だが書いてあるのだ。だが、この日記はこれだけではない。最後に「評(詳)見塵点録」と書いてあることをも大石慎三郎氏だけではなく、多くの赤穂義士批判の学者や作家は見落としている。 朝日文左衛門は日記に書くと膨大な量となる大事件は、「塵点録」に別出しして書いていたのである。だから、詳細は「塵点録」を見よ、と書いたのだ。事実、「赤穂事件」について「塵点録」には三冊にも及んで書かれている。 大石慎三郎氏はこれを見過ごしたために、大変な曲解をしたのである。これによって、あらゆる研究者から批判され、ついには「赤穂事件」の専門家からは無視される存在になったのである。 さらに、この当時の人々が討入りについてどれくらい注目していたかが分かる手紙が残っているので次に挙げる。 元禄十五年十二月十六日の浅田孫之進より浅田金兵衛宛ての手紙。 「且又此十四日此夜七ツ時、吉良上野介殿屋鋪本庄ニ御座候、此所え浅野内匠頭殿御家来都合四十七人、主人此敵討ニ、表并裏両方よりはしこ掛、内へ入、首尾能上野之(ママ)介殿打仰、芝え引取申候、(途中略)彼上野之(ママ)介殿首ヲ引さけ、帰候由、江戸中之手柄ニ御座候」(浅田家文書 東京大学所蔵) 四十七士が吉良邸に討入り、上野介の首を取って泉岳寺に引き上げた、これは江戸中の手柄だと誉めあげているのだ。江戸では討入りは大評判となっていたのである。 これらの手紙を読んでいないと、大石慎三郎氏や井沢氏などのように赤穂事件全体を曲解してしまうのである。 上野介は内匠頭の悪口を言ってない? 井沢氏は吉良の正当性を訴えるために、「梶川氏筆記」には、吉良が浅野内匠頭の悪口言ったことは書かれていないことを挙げている。 おまけに、この三百年間で誰も吉良が悪口を言ったと、書いた者はいない、と言っているのである。これは先に挙げた大石慎三郎氏も、後で挙げる中島静雄氏も共通して主張している事柄である。 史料を何も読んでいない証拠である。 元禄十六年には室鳩巣が弟子をレポーターにして調査を行い書き上げた「赤穂義人録」を著していて、ここにははっきりと、吉良上野介が言った悪口が書かれている。 「義央列に言ひて曰く、鄙野の子、しばしば礼に曠し。また司賓の選を辱めざらんやと。長矩これを聞き、憤怒に勝へず、乃ち反りて義央を呼ぶこと一声、刀を以て冠を撃つ」(近世武家思想 岩波書店) 上野介は高家衆の列に向かって内匠頭を田舎者とあざけったのである。内匠頭は怒って上野介に声を掛け斬り掛かったのである。 「赤穂義人録」を大石慎三郎氏も中島静雄氏も、単に君臣・忠孝を広める手段として作り、金沢にいた室鳩巣は、町の評判、噂話しを聞いて書いたにすぎないと主張している。 「赤穂義人録」は、室鳩巣の弟子が「鳩巣先生義人録後話」で書いているように、江戸へ人をやり、また各藩邸にいる門下生、京都にいる友、四方の僧侶などから尋ね、その虚実を質してまとめたものであると、明言している。これも知らずに「赤穂義人録」を噂話とする愚挙を犯しているのである。 さらに、陽和院書状には、 「十四日御しろの事めつらしき事、きら殿人かわろく申候事ニて御さ候、仰せのことくさいさい御くたりあそハし候へとも、しせんよき時分ニて御さ候つる、何事もわれからの事とそんし候」(広島大学所蔵猪熊文書) 吉良上野介は人柄が悪く、浅野に斬られたのは、身から出た錆だ、と明言している(傍線部)。陽和院とは、鹿児島島津家の正室で、島津家には吉良上野介の娘が嫁いでいて、吉良をよく知る人間がそう書いているのだ。 大石小山系譜には、 「義央ハ殿中ニ於テ、長矩ノ聴クヲ顧ミズ、大言シテ長矩ヲ毀ル、長矩、怒りニ堪ヘズ、小刀ヲ抜キ義央ヲ撃ツ」(東大史料編纂所) はっきりと上野介が、大声で内匠頭の悪口を言ったと書いてある。 他にもまだいくらもある。井沢氏は、江戸時代の史料は「梶川氏筆記」以外何も読んではいないのである。 浅野内匠頭と吉良上野介は喧嘩ではない?
井沢氏だけでなく、吉良びいきの人々は、上野介の悪行を認めず、内匠頭が遺伝的な総合失調症で、理由もなく上野介に斬り掛かったのだ、と主張し、だからこれは喧嘩などではない。と強弁するのである。 しかし、浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷は喧嘩であることは、この当時の誰もが認めていたことで、それは次の史料によっても明らかである。 幕府の浅野内匠頭への切腹申渡書には、 「吉良上野介江意趣有之由ニて折柄と申不憚 殿中理不尽に切付之段重々不届至極に被 思召依之切腹被 仰付者也」(赤穂義士史料) と、「意趣これあり」と書いているのである。意趣ありとは、恨みを持っていたということである。 柳沢吉保のの三月十四日の日記(楽只堂年録)にも、 「浅野内匠頭長矩内々意趣を挟むによりて小さ刀をぬきて吉良上野介義英をうしろり二刀きる」(赤穂義士史料) 隆光大僧正の護持院日記にも 、 「公家御馳走役浅野内匠頭吉良上野介ニ意趣有之大廊下ニ」(赤穂義士史料) と幕府も、この当時の人間は、浅野内匠頭が吉良上野介に恨みがあって斬りつけたことを認めているのである。 元禄十六年三月二十二日の野宮定基の日記に、 「此時柳営戒其怯弱、奪其帯剣、追放之、則大石亦無所憤、容之不問、可謂卿失也」(宮内庁書陵部) とあり、幕府が吉良上野介の怯弱(卑怯)な振る舞いをとがめ、刀を奪って追放していれば、大石が怒って討入りをすることはなかった。これは幕府の失態である、と言っているのである。野宮定基は浅野内匠頭と吉良上野介をかなり公平に見て、両者を批判している人物である。それが、吉良上野介に卑怯な振る舞いがあったと、はっきり言っているのだ。 さらに大高源五の元禄十五年九月五日付の母宛の手紙には、 「殿様御らんしんとも無御座上野介殿へ御いしゆに御さ候由にて、御切つけ被成たる事にて候へは、其人ハまさしくかたきにて候」(涙襟集) 赤穂にいた侍は、殿様が乱心ではなく、恨みがあったから刃傷に及んだのだ、吉良上野介はまさに仇である、と考えていたのである。 徳川吉宗が書いたとされる「紀州政治鏡」には、(実際には後に紀州家内部で書かれたものと考えられている) 「廿一 先年浅野内匠頭吉良上野介と於殿中 勅使登城の節喧嘩は所と云時節と云短慮之致し方と諸人申事に候得共全く左に不可在候諸大名之見る所にて高家の小身者に法外之悪口被致大名たるもの堪忍難成處誠に武門之道なり(途中略)早速片落の御片付誠に時の老中かた愚味短知之事なり吉良は同罪の中にも重き不調法不可勝計子細は指図致し候はゝ首尾能く相勤済可申處欲心非道の者故段々不法の挨拶にて切掛候得は吉良は重き科に極たり(途中略) 廿二 意趣有て切掛るを意趣討と云ものなり是を浅野計片落被仰付致候事は吉良へ御荷担同様の御政事なり」 紀州徳川家では内匠頭の上野介への刃傷は、上野介の法外な悪口によるもので喧嘩である、大名たるものこれを忍ぶこともせず、斬り掛かったのは武門の道だと評価しているのである。しかも、上野介は子細を指図して、内匠頭が首尾良く勤められるようにすべきところを、そうしなかったのは、欲心があって非道の者だ、と非難しているのである。さらに老中に対しても、片落ちの処分で、愚かだと非難しているのだ。意趣があって切り掛かるのを意趣討ちといって、これを片方だけ処分するのは、上野介への荷担も同様だとも言っているのである。 これらの史料は、吉良上野介が浅野内匠頭に恨まれるようなことをした、だから浅野内匠頭が吉良上野介へ刃傷に及んだと言っているのである。これはまさに喧嘩なのである。野宮定基も書くように、二人の喧嘩はこの当時の誰もが認め、幕府の処分を不当だと考えているのである。 武士の法である喧嘩両成敗とは、喧嘩の背景・原因がどうであろうとも、理非を問わず両者を成敗する、ということである。 問題は、喧嘩を認めている幕府が、この喧嘩両成敗を無視したことなのである。
勅使饗応役はなぜ浅野内匠頭になったのか 井沢氏は桂昌院の叙位問題を出してくるのである。そのためにこれまでに経験したことのある大名を、慎重に選んだ、さらに、吉良は勅使の接待役を誰にするか、綱吉や老中柳沢吉保から下問を受けただろうと、何の知識も無いことを露呈している。 徳川実紀で誰が勅使饗応役をやったか調べるといい。直ぐにわかる。大名は平均でこの役を二回近くは勤めているのである。中には、溝口出雲守のように五回もやった大名がいるのだ。三回、二回はざらにいる。浅野内匠頭は貴重な経験者などではないのだ。
また吉良がどうして将軍や柳沢から下問を受ける立場にあって、さらにその時間があるのか。勅使饗応役を決めるのは老中の専任事項なのだ。 老中は饗応役を誰にするのか、老中の秘書役である奥右筆に下問するのだ。下問された奥右筆は徹夜で適切な大名を調べ上げ、老中に回答するのである。だから大名は競って、このような金がかかり面倒な役に付かないよう、奥右筆に賄賂を贈るのである。 浅野内匠頭が江戸城に呼ばれて、饗応役を命じられたのは、元禄十四年二月四日である。吉良上野介は一月十一日に江戸を発ち、京都へ行っていた。実際には二月一日には用事を済ませて京都を発ち、二月四日はまだ四日市にいたのである(四日市清水本陣文書)。江戸に帰ってくるのは二月二十九日、この吉良がどうやって将軍の下問を受けることができるのか。当て推量もいい加減にすべきだ。 浅野内匠頭の総合失調症説
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