有政 一昭
『文治政治と忠臣蔵の謎』(1)
井沢元彦氏は私には貴重な存在です。
褒めているのではありません。忠臣蔵を研究して新しい学説を主張するには、膨大な第一次史料を読破しなくてはなりません。読破しても先人が唱えている説が殆どです。 こんな地味なことを厭って、簡単に目立つ方法があります。以前、ここで取り上げた岳真也氏の『吉良上野介を弁護する』であったり、井沢元彦氏の手法です。
先ず、人気があって、定説になっている問題を、否定的・批判的に取り上げて、著作物として販売します。当然、人気があるということは、関心がある人が多いということですから、このグループもその本を買います。人気があれば、アンチ派もいます。アンチ派も当然購入します。これが井沢元彦氏の狙いです。出版社は、売れればいいので、当然、仕事を依頼します。
逆説の日本史で、デビューした頃は、多くのTVメディアにも井沢氏は売れっ子でした。天下のNHKにも出演して、得意げに語る井沢氏を見たものです。
しかし、所詮、動機が不純です。メッキが直ぐ剥げます。今は、TVで井沢氏を見ることはありません。出版社も小学館以外ほとんど引き受けていません。
そういえば、小林よしのり氏の出版元も小学館です。
歴史を自分の都合よいように解釈するこの2人には、歴史修正主義という共通点があります。
歴史修正主義のグループである「新しい歴史教科書を作る会」の会員名簿には、この2人も名を連ねていました。
「作る会」はフジサンケイグループの扶桑社から絶縁されました。小学館がその後を引き受けるのでしょうか。
専門家の前では平身低頭する井沢元彦氏
井沢元彦氏は『激論 歴史の嘘と真実』(祥伝社黄金文庫)で、東大史料編纂所に長らく勤めていた松島栄一早稲田大学教授と対談しています。
■松島栄一「井沢さんには僕の本のこともいろいろ書いていただいたようだね(笑)」
●井沢元彦「忠臣蔵研究にはやはり、松島先生のお書きなった 『忠臣蔵−その成立と展開』(岩波新書)が定本になりますから。なにぶん小説の上での推理、ご無礼の段はお許しください」
■松島栄一「いえいえ、気にしていませんよ」
*解説(忠臣蔵の専門家の前では、自分の忠臣蔵論は「小説の上での推理」であると弁解しています。プロのノンフィクション(歴史)学者に、私はフィクションの小説家であることを主張しています)
井沢氏は「老人と後から不意打ち」持論を展開
松島氏は「前から斬ったという史料もあり、後からとは断定できない」と反論
井沢氏は「そうですか」とあっさり持論を撤収
●井沢元彦「主君の無念を晴らすために集団で討ち入るということはそれまでに例がないんです。多少は危ないと思っても、前例がないわけですから用心はしていなかったでしょう。この赤穂事件、いわゆる忠臣蔵に関しては、善玉と悪玉がはっきりわかるように美談にしてしまったフィクション作成者の罪は大きいと思います。その美談が一般常識として刷り込まれたわけですから。だから、討ち入りを起こすに至った殿中での刃傷事件にしても、ドラマでは浅野内匠頭が吉良上野介に「この間の遺恨、覚えたか」と言って正面から斬りかかりますけど、本当は後ろからなんですよね。それについては、事件現場に居合わせ、浅野内匠頭を抱き留めた梶川与惣兵衛の『梶川筆記』にはっきり書いてあるんです。つまり、老人を不意打ちしているわけ」
■松島栄一「僕も『梶川筆記』が一番信頼できる資料ではあると思うけど、当時の資料を使って一九世紀に入ってから書かれた『徳川実紀』によると、前から斬った、とあるわけだから後ろからと言い切ることはできないんです。前と後ろに二カ所傷があるからね」
●井沢元彦「そうですか。ただ、言い切れないのを吉良上野介を悪人にした物語に仕立て上げるために言い切ってしまったことに問題があるんです。そうしてみると、刃傷の原因についても塩の問題、賄賂の問題と諸説ありますが、歴史学の上で言うとどうなんでしょうか。
■松島栄一「これもいろいろ説があって、決定的な原因と言えるものはないんです」
*解説(井沢元彦氏は、「浅野内匠頭は、老人である吉良上野介を後から不意打ちしている」と持論を展開します。しかし、松島栄一氏は、史料に基づいて、「前から斬った、とあるわけだから後ろからと言い切ることはできないんです」とあっさり井沢持論を否定します。それを井沢氏は「そうですか」と引き下がっており、簡単に決着となりました)
井沢氏は「吉良上野介は、評判よく、強欲でなかった」
松島氏「そうとも言い切れませんと」反論されシュン
●井沢元彦「僕は吉良の領内に行って評判を聞いてみたんですけど、すごくいいんです。ただ、僕も昔ジャーナリストをやってましたから一応疑いの目で見ましてですね、あまりの悪人にされた反動じゃないかとも思ったんですけど。農民のために堤を作ったりした事実は残っていますので、仮に倹約家だったとしても、それはいわゆる強欲だったんではない、と僕は思うんです」
■松島栄一「だけど、僕は、吉良が悪人″ではなかったとは、必ずしも言い切れないと思うんです」
●井沢元彦「そうお信じになる根拠は何ですか。ドラマで言われているような畳替えとか、精進料理とかにまつわるいじめを信じていらっしゃるわけではありませんよね。
■松島栄一「そういう説は信じていませんけど、やはり「遺恨あり」と言って斬りかかったわけですから、何かあったのではないか……と」
*解説(井沢氏は「吉良町に行ったら、吉良上野介の評判はいいんです」とか「強欲ではなかった」と指摘すると、松島氏は「吉良が悪人でないとは言い切れない」と反論されます。強欲でなくて、評判がよければ、14日の在宅情報を儒学や茶道の家庭教師が、敵の大石内蔵助に漏らすことはありません。「14日に在宅している」という個人情報を漏らすことは、殺して下さいと密告しているのと同じわけです)
井沢氏「泉岳寺で自殺しなかったことに疑義あり」
松島氏「幕府が喧嘩と認めるか、暴力と認めるか、それが内蔵助の賭け」と反論されシュポッ
◆皆川博子「刃傷のはっきりした原因がわからないとしたら、大石内蔵助たちの討ち入りの目的は何だったのでしょうか」
●井沢元彦「僕は人を殺す度胸なんかないけど、刃傷に及んだあの事件はその原因が何にせよ、浅野内匠頭が吉良上野介を殺せなかったという失敗が、大きかったと思うんです」
■松島栄一「恐らくそうでしょう。大石内蔵助たち家老の考えの中には、殿様は吉良を殺しそこなっている、このままでは浅野家に汚名が残ってしまう。家来である自分たちはそれを承服できない。だから、吉良上野介を倒して汚名をそそがなければならない。つまり、一人の未熟な殿様のために四七人プラスアルファーが苦労したという、誠に残酷な封建時代の物語であったわけです。
●井沢元彦「だから、大石内蔵助は確かに主君のし残したことをしたんですが、それが果たして正義だったかということはわからないわけです。つまり、最後まで遺恨あり≠フ原因ははっきりしないわけですから。もし、本当の意味で主君の汚名を晴らすなら、討ち入りを終えて吉良邸を立ち去る時に残していった、『浅野内匠頭家来口上書』の中に付記されてなければならないのに、触れてないわけですから。ただ、一つわからないのは、大石たちは討ち入りを終えた後、なぜすぐに腹を切らなかったのですか」
■松島栄一「幕府の裁きを見つめたいという気持ちが浪人たちにあったと思うんですよ。一つには、浅野家が断絶になったわけだから、吉良家をどうするか、つまり義周をどう裁くかを見つめる必要があったのだと思います」
◆皆川博子「ただ、吉良側には裁かれるという欠点はなかったと思うんですが」
●井沢元彦「なかったんですよ」
■松島栄一「そう、なかったんですけど、義周をどう裁くか、そして自分たちをどう裁くかというのは、遺恨がありこれは喧嘩であったと幕府が認めるか認めないかということになるわけですから、大石たちにとって重大なことだったわけです。先程、皆川さんが討ち入りは暴力だとおっしゃいましたけど、暴徒として断罪すべきだという説も一方にあったわけですから。まあ、結果は主君に対する忠義の家臣として切腹を言い渡されるのですが、二カ月もの間、幕府は判決を迷ったんです」
*解説(井沢氏は、「討入り後、泉岳寺で切腹しなかった大石内蔵助らに不信を持っている」と持論を展開します。松島氏はこれも「幕府が喧嘩と認めるか、暴力と認めるか、内蔵助にとっては重大な賭けをしたのです」と反論されてしまいます)
松島氏が亡くなる
井沢氏は「松島氏も忠臣蔵錯覚に洗脳されていた」と非難・中傷
2002(平成14)年12月12日、私に転機を与えてくれた松島栄一氏が亡くなりました。
松島栄一氏の死の悲しむ者がいる反面、松島氏の呪縛から解放された人物がいます。井沢元彦氏です。
井沢氏は『文治政治と忠臣蔵の謎』(小学館)の中で次の様に書いています。
歴史学者として綿密な考証で赤穂事件を書いた、松島栄一氏の『忠臣蔵』(岩波書店刊)では刃傷事件の直後を次のように描いている。
午後、綱吉は老中たちを集めて、浅野に対する裁決を相談した。綱吉の怒りはまだ収っていなかった。即日、切腹を申し渡す、というのが綱吉から出た意向であった。老中のうち稲葉丹後守は、浅野は乱心の態に見うけられろからといって、最後的な処分の猶予を願った。秋元但馬守も、土屋相模守も、ほぼ同意見であったといわれている。このような即決をはばかる(浅野に同情的な)老中たちの意見が多いのを知って、まだ怒っていた綱吉は、座を立って奥に入り、その後で、月番老中の土屋を呼んで、浅野の切腹を命じたのである。
事件直後の展開については、「松の廊下」と違って大勢の目撃者もおり、何より幕府の公務として話が進んだから、経過は割合明確である。
実は、当時の老中(定員5人)のうち三人までが「浅野は乱心」ではないかと見ていたのである。ここのところ「忠臣蔵(という虚構)」では「例の目立ちたがり屋」の目付、多門伝八郎が浅野に「さだめし乱心であろうな」と問いかけ、浅野にそれを認めさせようとしたのに、浅野は意地を張って「乱心ではござらぬ、遺恨でござる」と馬鹿正直に答えたために、伝八郎の心遣いが無駄になるという「名場面」がある。
そのシーンが「忠臣蔵錯覚」となって人々の頭に刷り込まれているので、ここのところ多くの人々が(実は著者の松島氏さえも)老中の多くも「浅野に同情的」だった、と読んで、しまっている。
しかし、ここでそういう先入観を捨てて考えてみよう。彼等は見たままを言っているのではないか。つまり「乱心に見えたから(同情ではなく)乱心と言った」だけのことではないか。「同情的」という「考え方」の中には「これは一方的な刃傷ではなく喧嘩」であり「浅野は吉良にイジメられていた」、だから「可愛想だ」という「見方」がある。だがそれは「忠臣蔵錯覚」なのである。それを排除して考えれば、つまり「誰が見ても浅野はヘンだった」ということではないのか。
これが前節からの流れで言えば、「浅野乱心説」の理由の第四番目である。「浅野乱心説」の方が「遺恨(正気)説」よりはるかに説得力があることがわかって頂けたと思う。
*解説(井沢氏は、歴史の専門家の松島栄一氏の前では、「私は小説家で、その推理は小説家の推理です」と予防線をはり、悉く反論されても、傷を最小限に防ぎとめる策を取りました。しかし、松島氏が亡くなると、松島氏の説を忠臣蔵錯覚に犯された歴史家だと断定しているのです。まさに、歴史修正主義者の正体丸出しです。)
『文治政治と忠臣蔵の謎』(2)
超多忙な私は、井沢氏の金儲けの暴論には付き合いきれない
しかし、おだてられ、やむなく参戦
私は、今、超多忙です。
井沢元彦氏の「反論する価値もない、金儲けの暴論」には付き合っておられません。それが本音です。
しかし、「あなたは、忠臣蔵のホームページの草分けだ」とおだてられ、井沢氏の駄文に、丁寧に反論するハメになりました。関西では、マムシ(蝮)のことをハメといいます。ハメの如く…。
井沢氏のいう「忠臣蔵錯覚」とは「予断と偏見」で赤穂事件を見ること
それは、井沢さん、あなたのことでしょう
井沢氏は、最初から次の様に、扇情的に、挑戦します
(1)「われわれ日本人は歴史を改訂した「忠臣蔵」の物語に洗脳されている」
*解説(しかし、そう洗脳されているのは、井沢氏ぐらいのものだろう。最初の規定から間違っています)
(2)「歴史上の事実である「赤穂事件」とそもそも虚構である「忠臣蔵」とは本来は別のものだ。にもかかわらず、歴史上の事件が「虚構のタイトル名」で呼ばれていることに、この問題のすべての根源があると言ってもいい。
*解説(そう思っているのも井沢氏ぐらいで、そこの全ての根源があるのです。私たちは、史実は史実とし、史実を踏まえた虚構も日本人の思想・文化ととらえ、両方をあわせて、忠臣蔵と総称しています)
(3)この逆説シリーズの愛読者は、私がしばしばプロの歴史学者の「史料絶対主義」を批判していることは御存じだろう。…「学者なんだから、もう少し厳密に史料を見なさいよ」ということなのだ。
なぜそんなことになるのか?
それは「忠臣蔵錯覚」というものがあるからだ。
日本人はまず「フィクション」を見る、そしてそれがあまりにも日本人の琴線に触れたドラマであるがゆえに、そこで描かれたことを歴史上の実際あったことのように刷り込まれてしまうのである。
これが「忠臣蔵錯覚」である。
裁判官のように公平に冷静に歴史を見なければならない歴史学者までが、証拠物件(史料)を慈意的に判断してしまう」
(4)「誰やらん吉良殿の後より、此間の遺恨覚たるかと声を懸@切付申候…上野介殿是ハとて後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候故我等方へ向きて逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」
「浅野は壮年、吉良は老人である。その老人を浅野は卑怯にも背後から不意討ちした。…しかも合計四回も斬りつけ…殺すことが出来なかった…ダメなヤツということになる」
「この「卑怯でドジな男」を「善玉」にするには、どう「演出」すればいいか?…過去に「忠臣蔵(という虚構)」を演出してきた…浅野は正々堂々と「吉良待て」と声をかけてから、正面から一太刀浴びせるのである」
*解説(歴史学者、ここでは松島栄一氏としよう。松島氏に史料では勝てないので、忠臣蔵錯覚という造語で松島氏を批判する。
忠臣蔵錯覚の代表例として、井沢氏は、壮年の浅野は老年の吉良を背後から合計4度も切り付け、殺せなかったダメなヤツと得意満面に吹聴する。「文治政治と忠臣蔵の謎」は何年の作品か分りませんが、『週刊ポスト』2005年9月16日号〜2007年2月2日号に掲載していたことが分ります。)。
井沢氏は6年前の「老人の後から不意打ち」持論を展開
松島氏から6年前に「後からとは断定できない」と反論され、沈黙
反省を活かせない井沢氏の脳は老化している?
忠臣蔵錯覚にとらわれた松島栄一氏との対談で、井沢氏は次の様に言っています。
●井沢元彦「この赤穂事件、いわゆる忠臣蔵に関しては、善玉と悪玉がはっきりわかるように美談にしてしまったフィクション作成者の罪は大きいと思います。その美談が一般常識として刷り込まれたわけですから。だから、討ち入りを起こすに至った殿中での刃傷事件にしても、ドラマでは浅野内匠頭が吉良上野介に「この間の遺恨、覚えたか」と言って正面から斬りかかりますけど、本当は後ろからなんですよね。それについては、事件現場に居合わせ、浅野内匠頭を抱き留めた梶川与惣兵衛の『梶川筆記』にはっきり書いてあるんです。つまり、老人を不意打ちしているわけ」
まったく、2005年と同じ話を6年前にもしています。
それに対して、歴史学者である松島栄一氏から次の様に反論されています。
■松島栄一「僕も『梶川筆記』が一番信頼できる資料ではあると思うけど、当時の資料を使って一九世紀に入ってから書かれた『徳川実紀』によると、前から斬った、とあるわけだから後ろからと言い切ることはできないんです。前と後ろに二カ所傷があるからね」
「忠臣蔵錯覚にとらわれた歴史学者」の松島栄一氏の反論に、井沢氏は全く反論できません。
最後には、「そう言い切っているいるところが問題である」と自分の考えを、歴史学者の責任にしてそうそうにこの議論から逃げ出します。
●井沢元彦「そうですか。ただ、言い切れないのを吉良上野介を悪人にした物語に仕立て上げるために言い切ってしまったことに問題があるんです」
*解説(井沢元彦氏は、「浅野内匠頭は、老人である吉良上野介を後から不意打ちしている」と持論を展開します。しかし、松島栄一氏は、史料に基づいて、「前から斬った、とあるわけだから後ろからと言い切ることはできないんです」とあっさり井沢持論を否定します。
それを井沢氏は「そうですか」と引き下がっており、簡単に決着となりました。しかし、決着した問題をまたぞろ持ち出しています。井沢氏は、1954年生まれですからまだ53歳の若さです。新しい知識が入らないほど脳が老化しているのでしょうか)
都合がいい時のみ『梶川氏日記』を利用
歴史修正主義者である井沢氏の面目躍如
その後、井沢氏は、貴重なページ(13〜42ページ)を割いて、フィクションの作品である『仮名手本忠臣蔵』・『冥途の飛脚』などを使って、えんえんと、浅野内匠頭には吉良上野介に対する恨みはなかったと、証明しています。
「殿中で公務中にもかかわらず、私事たとえば私怨で刀を抜くことは、武士の風上にもおけない重大なマナー違反、ルール違反とされた。…よほど吉良上野介義央に、そのルールを忘れさせるほどの耐えがたい屈辱を浴びせられたに違いない。こう考えた作者が、大先輩の大近松の「梅川忠兵衛」をヒントに、武士の「封印切」を完成させた。ところが、この「お芝居」があまりに上手く出来ていたため、明治になってそれがそのまま「実名入りの忠臣蔵」に踏襲され、あたかも事実であるように多くの人々に認識されるようになってしまったということなのだ。
つまり、これも「忠臣蔵錯覚」すなわち「フィクションの内容に引きずられて、実際の赤穂事件の内容を忠臣蔵と同一のものと誤解すること」なのである。」
*解説(井沢氏は、長々と冗舌な文章や引用文を引きながら、「封印切」のフィクションを史実と誤解した。これが忠臣蔵錯覚であると主張したかったのでしょう。そのように推測する人はいても、混同したり誤解する人は貧相な発想の持ち主です。多分、そんな人は井沢氏しかいないでしょう。
井沢氏は、浅野内匠頭が後から切りつけた卑怯者であることを証明するために、『梶川氏日記』を利用し、ここでは『梶川氏日記』には書いていないから、忠臣蔵錯覚が産まれたんだと強弁しています)
井沢氏の手法はTV的、週刊誌的
実証主義的でなく扇情的・売名的・金儲け主義
井沢氏の文章は、初期の段階を読み終えて、もう、うんざりである。
「なぜ、そんなに好かれるのか?」(6P)
「実際の事件とはどういうものか?」(6P)
「なぜそんなことになるのか?」(7P)
「実際現場はどうであったのか?」(9P)
「おわかりだろうか?」(11P)
「どこがどう違うのか、おわかりだろうか?」(13?)
「どう演出すればいいのか?」(13P)
わずか、6〜13ページの間に「?」が7カ所出てきます。次数を稼ぐためだけでなく、読者を見下(みくだ)し、俺は分っているのだ、教えてやろうという立場が見え見えです。
井沢氏の前歴を調べてみると、やはり、TV記者でした。
『猿丸幻視考』で江戸川乱歩賞を受賞して、小説家になったまではいいが、その後はパッとしませんでした。
確固たる思想的な裏づけもなく、「新しい歴史教科書を作る会」に入っています。この立場での発言が、マス=コミに評価され、講演や出筆依頼が増えたといいます。つまり、売名的・金儲け主義に堕したと言われています。
一度スポットを浴びた作家は、「夢よもう一度」と考える作家が陥りやすいのが、金儲け主義です。その代表が井沢氏です。忠臣蔵にはかなりの支持者がいます。アンチ支持者もいます。そこに目をつけます。一定の説を、もっともらしい史料を使って、批判した本を販売します。当然、支持者は購入し、アンチも購入し、作家も出版社も儲けます。
次々と雑学を小出し出来るところは、井沢氏の強味です。しかし、忠臣蔵に関しては、歴史学者を批判するだけの史料を読み込んでいないので、すぐボロが出ます。
最近は、全ての人を読者に想定した大衆を週刊ポストなどを主な活動の場にしていますが、上記にみるように、貧相な雑学をごたいそうに小出して、生活費を稼いでいます。
『文治政治と忠臣蔵の謎』(3)
歴史実証主義と私の立場
「文治政治と忠臣蔵」(1)(2)をSNSで紹介したところ、ある方から、色々と指摘がありました。
私は、以前から、「社会科学も科学であるかぎり、定義をきちんとしていないと、意志の疎通を欠く」という原則を主張してきました。ここで、その原則を再度確認しておきたいと思います。
社会科学で科学的方法とは、帰納法などを一般にいいます。たくさんの史料や事象から共通の真理を求めるのです。
自然科学で科学的方法とは、演繹法などを一般にいいます。疑っても疑っても疑い得ない真理を総合し、真理の総合から真理を求めるのです。演繹法の代表的な手法に三段論法があります。また、数学は演繹法を用いて得られる真理のみを扱う学問です。
私は、井沢氏を含め、批判をしたり、意見を言う相手を、「右翼だ」とか「左翼だ」とかレッテルをはるつもりはありません。川下から見れば「右」でも、川上から見れば「左」です。
社会科学である歴史は、たくさんの史料を集め、実証主義的帰納法で、比較・検討し、共通する真理を探るものです。これが学問であり、研究の立場です。多くの史料から得た真理を、その人の体験・知識・感性などを総合して評価します。その結果、評価が違うことは当然です。自分の意見に合わなくても、その評価は尊重しなくてはいけません。これを歴史実証主義といい、私は、この立場に立っています。
歴史修正主義と私の立場
他方、自分の結論に合わせて、多くの史料から、自分の結論にとって都合のいい部分の史料をつまみ食いし、都合の悪い部分の史料を排除し、自分の結論に誘導する手法があります。いずれ都合の悪い史料が提示されるため、この結論は破綻します。
つまみ食い主義という手法はあっても、地道な科学的な方法論はありません。この立場を歴史修正主義といい、この立場の人を歴史修正主義者といいます。これは学問・研究の立場でなく、団体の活動家の立場です。
歴史修正主義や歴史修正主義者に対して、きっちりと、対応しないと、忠臣蔵の学問・研究の発展を阻害します。この手法にきちんと対応するというのが、私の立場です。
フィクションに対しては、それは想像の創造物ですから、大いに尊重するというのが、私の立場です。
論証されていない井沢氏の結論(1999年)
(1)老人に後から不意打ちする卑怯な浅野内匠頭像
(2)地元では評判がよく、強欲ではない吉良上野介像
まず、井沢元彦氏は2003年に『激論 歴史の嘘と真実』(祥伝社黄金文庫)を発売しました。そこで、松島栄一氏との対談として、自分の結論を紹介しています。
(1)”浅野内匠頭が吉良上野介に「この間の遺恨、覚えたか」と言って正面から斬りかかりますけど、本当は後ろからなんですよね。それについては、事件現場に居合わせ、浅野内匠頭を抱き留めた梶川与惣兵衛の『梶川筆記』にははっきり書いてあるんです。つまり、老人を不意打ちしているわけ。”
(2)”僕は吉良の領内に行って評判を聞いてみたんですけど、すごくいいんです。…農民のために堤を作ったりした事実は残っていますので…強欲だったんではない、と僕は思うんです。
『激論 歴史の嘘と真実』は、1999年に『日本史漫遊』(桜桃書房)として刊行されたものを改題したということですから、今(2007年)から8年前のこの結論を持っていたことになります。
『逆説の日本史(14)─文治政治と忠臣蔵の謎』は2007年の発行ですが、週刊ポストに掲載された文章(2005年〜2007年)を単行本化したということですから、最近も同じ結論を維持していることが分ります。
井沢氏の史料(『梶川氏筆記』)の扱い方
都合のいい部分をつまみ食い、不利な部分は排除
井沢氏は、1999年の結論より過激化して、浅野内匠頭を「卑怯でドジな男」という結論を持っています。
そこで、たくさんある史料より次のような史料を切り取ります(「文治政治と忠臣蔵の謎」(2)で紹介した『梶川氏筆記』)
A「誰やらん吉良殿の後より、此間の遺恨覚たるかと声を懸@切付申候…上野介殿是ハとて後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候故我等方へ向きて逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」
*解説(一般の人は、このような専門的な『梶川氏筆記』から、上記のような一次史料を提示されると、「さすがは井沢さんや」と思うでしょう。
以前は、史料は、個人レベルでは、入手できず、一部の大学・専門家が情報(史料など)を独占していました。
しかし、『梶川氏筆記』は『赤穂義人纂書』(赤穂義士史料大成第2)の収録されており、日本シエル出版から刊行されております。現在は、古書店でなければ入手できませんが、大きな図書館では誰でも閲覧できます。
つまり、情報(史料など)が大衆化されたため、評価の競争化が進み、怠惰な専門家の牙城は崩壊しています。
井沢氏の史料引用も、『梶川氏筆記』の前半部分の自分の結論に都合のいい部分をつまみ食いし、不都合な部分を排除していることが、簡単に分ります)
井沢氏はつまみ食いした史料を駆使
井沢氏が誘導した結論は?
「浅野内匠頭は卑怯でドジな男であった!!」
井沢氏は、卑怯でドジな浅野内匠頭を描くために、「吉良殿の後より…@切付申候…後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候…逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」という史料をつまみ食いします。
そして、次のような結論を読者に誘導します。そして、さらなる結論へ向かわせます。
B「浅野は壮年、吉良は老人である。その老人を浅野は卑怯にも背後から不意討ちした。…しかも合計四回も斬りつけ…殺すことが出来なかった…ダメなヤツということになる」
「この「卑怯でドジな男」を「善玉」にするには、どう「演出」すればいいか?…過去に「忠臣蔵(という虚構)」を演出してきた…浅野は正々堂々と「吉良待て」と声をかけてから、正面から一太刀浴びせるのである」
*解説(『梶川氏筆記』のAの史料から、多くの人は、「此間の遺恨覚たるか」という部分を重要視しています。
しかし、井沢氏は、『梶川氏筆記』からBで見るように、浅野内匠頭が、老人の吉良上野介を卑怯にも後から不意打ちした、しかも4回も切りつけたということを指摘して、卑怯でダメでドジな浅野内匠頭を描き出します。
私も含め、多くの人は、病気とはいえ、お城経営をおっぽり出した(敵前逃亡した)浅野内匠頭を短気で思慮浅い人物と思っても、善玉にしている人はいません。悪玉を善玉にしたいシナリオを描く井沢元彦氏の忠臣蔵錯覚なのでしょう)
井沢氏の手法の破綻
井沢氏は「老人を卑怯にも後から4回不意打ちした」ことに執着
研究者は「此間の遺恨覚たるか」に執着
『梶川氏筆記』は新旧2つあった!
井沢氏の手法は、結論が偏見に基づいており、方法が非科学的なために、直ぐ破綻します。
井沢氏は、浅野内匠頭を「卑怯でドジな男」という史料が欲しいために、上記の史料の「吉良殿の後より…@切付申候…後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候…逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」の部分をつまみ食いしました。
しかし、専門家の間では、井沢氏が無視した「此間の遺恨覚たるか」という内容を重視します。遺恨が事実なら、逆上して、後から切りつけることも想像できます。当時の社会では、「遺恨の内容によって、武士はどうあるべきか」という慣習が注目されるからです。
そこで、専門家は、史料を実証的帰納法で比較・検討しました。その結果、最初の『梶川氏筆記』日記には、「吉良殿後より内匠殿声かけ切り付け申され候」と表現されていることが分りました。
井沢氏が採用した史料は、正式には『梶川氏筆記丁未雑記』という標題で、事件より146年後の1847年に写されたものです。そこには、確かに「吉良殿の後より此間の遺恨覚たるかと声を懸切付申候」とあります。
「声かけ」と「此間の遺恨覚たるかと声を懸」では、大きな差があります。「声かけ」は、力仕事をするときの「ヤーッ」とか「エイッ」・「この野郎」などです。しかし、「此間の遺恨覚たるか」となると、「この前の恨みを覚えているか」ということで、上野介に対して恨みを晴らしたい一心だったことになります。
当時の生き方・考え方を知らずして、歴史上の人物を語るなかれ
「武士道と云は、死ぬここと見付けたり」が当時の慣習
「死と堵する」のは恥辱を晴らす時
井沢氏の結論(卑怯でドジな浅野内匠頭)は破綻
東京大学の史料編纂所教授の山本博文氏は、『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本』(中経出版)の中で「歴史上の人物の行動は、その時代の社会観念や道徳を下敷きにして見ていかなければならない」(174P)と書いて、今の資本主義社会の観念や道徳で歴史上の人物を評価してはいけないと、厳しく指摘しています。
では、当時の武士の生き方・考え方とはどういうものだったのでしょうか。
「武士道と云は、死ぬここと見付けたり」は、山本常朝の言葉を集めた『葉隠』の一説です。山本常朝は万治2(1659)年に生まれ、享保4(1719)年に亡くなっています。浅野内匠頭は寛文7(1667)年に生まれ、元禄14(1701)年に亡くなっています。大石内蔵助は万治2(1659)年に生まれ、元禄16(1703)年に亡くなっています。この3人は江戸の同じ頃の空気を吸っていたといえます。
当時、武士としての一番の屈辱は、「大義」を軽んじられたり、名誉を傷つけ、恥をかかされることです。この場合、武士は、死を賭して、大義や名誉の回復、恥辱を晴らすことが宿命だったのです。職を賭してと叫んだ者が、次の日には敵前逃亡(職場放棄)することとは、訳が違います。
そこで、多くの研究者は、「声かけ」「此間の遺恨覚たるか」を必死で検証したのです。当然のことです。
しかし、井沢氏は、後から、不意打ちに、しかも4回切りつけたら卑怯者であるという現在の「社会観念や道徳」をもとに浅野内匠頭を冷笑しているのです。とても真摯な実証主義者のする立場ではありません。
こうして、井沢氏の「卑怯でドジな浅野内匠頭」という結論は破綻したのです。
井沢氏、『梶川氏筆記』を利用
しかし、同じ『梶川氏筆記』で、井沢氏は墓穴
歴史修正主義者である井沢氏の面目躍如
そういう意味で、研究者が注目し、井沢氏が排除している『梶川氏筆記』があります。
井沢氏が採用した『梶川氏筆記』は、『赤穂義人纂書』(赤穂義士史料大成第2)の275Pを引用しています。
前半は、上記Aの史料です。
その後半には、C「内匠殿をハ大広間の後の方へ何も大勢にて取かこみ参り申候、其節内匠殿被申候は、上野介事此間中意趣有之候故殿中と申今日の事旁恐入候得共不及申是非打果候由の事を、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の内に、幾度も繰返■被申候、其節の事にてせき被申候故殊の外大音にて有之候、高家衆はしめ取かこみ参候中最早事済候間たまり被申候へ、余り高声にていかゝと被申候へハ其後は不被申候」とあります。
幕府の役人が、尋問不足で、刃傷の背景を解きほぐしていません。しかし、井沢氏が浅野内匠頭を卑怯者として引用した『梶川氏筆記』には、「意趣有之候」という記述があったのです。
井沢氏も引用している野口武彦氏の『忠臣蔵−赤穂事件・史実の肉声』では、「(丁未とは1847年である)後者は事件のだいぶあとになってから、梶川氏が自分の記憶を整理するかっこうでつづったものではないか」「梶川が改筆の段階で内匠頭の一言を明瞭に思い出したか、意味不明の怒号だったが後で思えばこう言っていたにちがいないと確信したかのどちらかである。拉致される内匠頭はそればかりを叫び続けていたのだから」と書かれています。
つまり、梶川与惣兵衛が吉良上野介と話し合っているときに、上野介の背後から「わめき声」をあげて、切りかかった者がいた。誰かと見れば、浅野内匠頭であった。
(1)その後、梶川は、浅野内匠頭は「この前の恨みを覚えているか」と言っていたのを、はっきりと思い出して、改定した。
(2)その後、梶川は、よく考えてみると、浅野内匠頭は「この前の恨みを覚えているか」と言ったに違いないと、確信して改定した。
*解説(『梶川氏筆記』だけを信ずれば、浅野内匠頭は吉良上野介に恨みを抱いていたことになります。恨みの内容は不明ですが、当時の社会観念からすれば、辱めを受けた場合、死を賭して、それを晴らすのが武士道だったのです。しかし、死を賭したにも関わらず、目的を達することが出来なかった浅野内匠頭は、「ドジな男」と非難されても仕方がありません。
同時に、切りかかられて、逃げて生き延びた吉良上野介は、腰抜けと見られて嘲笑の対象となったのも事実です。
武断政治から文治政治への移行期に起きた悲劇だったかも知れません。
井沢氏が指摘するように、悪玉を善玉にする逆説は、残念ながら、全く必要がなかったのです)
『文治政治と忠臣蔵の謎』(4)
井沢氏は1つの史料から、浅野内匠頭を「ドジでダメなヤツ」と断定)
他の4つの史料は、背後説であったり、眉間説であったり
断定出来ないのが、今の定説
井沢元彦氏は、卑怯でドジな浅野内匠頭を描くために、「吉良殿の後より…@切付申候…後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候…逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」という史料をつまみ食いします。
そして、次のような結論を読者に誘導します。そして、さらなる結論へ向かわせます。
「浅野は壮年、吉良は老人である。その老人を浅野は卑怯にも背後から不意討ちした。…しかも合計四回も斬りつけ…殺すことが出来なかった…ダメなヤツということになる」
上記の文章は、前回(3)に紹介した井沢氏の冒頭に書かれた結論部分です。実は、『梶川氏筆記』以外にも、証言者がいたのです。
(1)の史料は、治療した外科医の栗崎道有は、初太刀はまず盾間であって、あとで背中を切った証言していることを明らかにしています。
(2)の史料は眉間が先か、背中が先かについては明らかにしていません。
(3)の史料は眉間説を採用しています。
(4)の史料は背後説を採用しています。
*解説(前回、背後か眉間かより、遺恨があったかどうかが重要だということを紹介しました。今回は、背後説・眉間説に言及してみました。色々な史料には色々な説があり、井沢氏のように断定できないということが分ります。つまり、「ドジでダメなヤツ」という井沢氏の大前提が崩れてしまったので、井沢氏に付き合う必要もないわけです。
しかし、井沢氏が、どこまで、歴史修正主義的手法を駆使するのか、読者の皆さんに、「そのデタラメさ」を解明するのも、実証主義的帰納法論者である私の義務でもあります)
史料
(1)「吉良ヲ見付テチイサ刀ヲヌキ打ニミケンヲ切ル、ヱボシニアタリヱボシノフチマデニテ切止ル、時ニ吉良横ウッムキニナル所ヲ二ノタチニて背ヲ切ル」(『栗崎道有記録』)
(2)「上野介唯今之雑言覚え候歟と御声を被レ為毎御小刀を御抜、御二太刀御切付被レ成候処上野介殿御倒レ」 (『浅野長矩伝』)
(3)「小サ刀ヲ抜打ニ義央力烏帽子カケテ髪先ヲ切付ル、吉良動転シテ、逃退所ヲ二ノ太刀ニ後口ヨリ烏帽子ニ切付、切先外レニ首筋ヨリ肩脇背ニ切込、然トモ迯退所故、切先外レニ当ル」(『誠尽忠臣記』)
(4)「上野介覚へ候歟と御言葉を被レ掛、肩先へ御切付被レ成、烏帽子へあたり、あまり顔へ一太刀当り候」(『家秘抄』)
井沢氏は、「内蔵助もイジメの証拠をつかまず」と断定
当然でしょ、「尋問不足で究明されず」が定説
鬼の首を取ったように騒ぐこと、恥ずかしい!?
いよいよ今回の本題に入ります。
井沢氏は、「大石内蔵助さえ主君・浅野への吉良の”イジメ”の証拠はつかんでいない」というご大そうな小見出しを付けて、その証拠に、「浅野内匠家来口上」を提示します。これは、討入りの時に、吉良邸の門前に突き立てた討ち入り蹶起書です。井沢氏に従って、読み下し文(前半)を紹介します。
その中で、井沢氏が注目したのが、「当座忍び難き儀ご座候か」(原文は「座候歟」)という史料です。
井沢氏は、自分の「ドジでダメなヤツ」という結論に合わせて、次の様に断定します。
この「欺(か)」が極めて重要である。これがあるということは疑問形だからだ。すなわち「当日何かガマンできないことがあったのだろうか?」ということになる。
おわかりだろうか、あの大石内蔵助でさえ、吉良の「イジメ」について証拠をつかんではいないのだ。
…仮に「義士崇拝者の言い分」をすべて認めたとしても、吉良の「イジメ」の事実はまったく証明できないし、大石すら把握していなかったということなのだ。…しかも、生命を賭けた文書の中で、である。
これはどう考えても、吉良のイジメなるものは初めから無かったと考えるのが、最も論理的な結論ではないか。
…やはり「遺恨」はあったとしても「イジメ」はなかったのだ。
*解説(井沢氏が引用した『梶川氏筆記』には「此間の遺恨覚たるか」という記述があります。また井沢氏が排除した『梶川氏筆記』にも「此間中意趣有之候」と書かれています。井沢氏が認めるように、遺恨・意趣があった事は事実です。「井沢さん、遺恨を認めると、あなたの論理は破綻するのではないですか」。
しかし、取調べにあたった役人の尋問不足から、遺恨・意趣の内容は、つまり、どんなイジメがあったのかは、当時も不明だし、現在の史料でも未解明なのです。だからイジメはなかったとは断定できないのです。
それを鬼の首を取ったようにはしゃぎまわる井沢氏の感覚が理解できません)
史料
浅野内匠家来口上(前半)
「浅野内匠家来口上
去年三月、内匠頭儀、伝奏御馳走の儀に付、吉良上野介殿へ意趣を含み罷在り候処、殿中に於て、当座忍び難き儀ご座候か、刃傷に及び候、時節場所を弁えざる働、無調法至極に付切腹仰せつけらる、城地赤穂城召し上げられ候儀、家来共迄畏入存じ奉り候、上使の御下知を受け、城地差し上げ、家中早速離散仕り候」
井沢氏は、60頁を割いて、大石内蔵助の「喧嘩」を考える
長くて、無意味な駄文
その結末は、独りよがりの、意味不明
次は、「浅野内匠家来口上」の読み下し文(後半)を紹介します。
井沢氏が認める「一級史料」には、「喧嘩」という表現があります。「ドジでダメなヤツ」という結論を持つ井沢氏にはこれがどうも気に入りません。そこで、次の様に話を展開します。
大石が、誰が見ても「傷害事件」としか見えないものを、「喧嘩」だったと断定しているのである(42P)。…ところが、大石は自信をもって「喧嘩」だと言い切っている。…では、その根拠は?
…あの大石内蔵助でさえ、吉良の「イジメ」について証拠をつかんではいないのだ。
…大石はなぜ「ケンカ」すなわち「双方の争い」であると断言出来るのか?
それは、主君である浅野内匠頭長矩が今回の刃傷の動機は吉良に対する恨みによるものだ」と、「自供」しているからなのである。
史料
浅野内匠家来口上(後半)
「右喧嘩の節、御同席に御差留の御方これ有り、上野介殿討留め申さず候、内匠頭末期残念の心底、家来共忍び難き仕合にご座候。高家御歴々に対し、家来共鬱憤を挟み候段、憚に存じ奉り候えども、君父の讐は共に天を戴かざるの儀、黙止難く、今日上野介殿御宅へ推参仕り候。偏に亡主の意趣を継ぐの志迄にご座候。私共死後、もし御見分の御方ご座候わば、御披見を願い奉り、是の如くにご座候、以上
元禄十五年十二月 日
浅野内匠頭長短家来 大石内蔵助
以下四十七名」
大石らが言っているのは「本当の主君である浅野が、やり残したことがある」「それは恨みのある吉良を殺そうとして失敗したことだ」だから「吉良の殺害」を主君に代わって実行する、といっているのである。
これが「仇討」と呼べるかどうか?(59P)
…暴走族「アコーズ」のサブリーダー大石が捕まった。容疑は無抵抗の老人をよってたかって「なぶり殺し」にした、というものだ。警察の「なぜそんなことをしたのか?」という取調べに対して、その男は次のように答える。
「あのジジイはもともとウチの頭の浅野が狙ってたんだ。あのジジイが気に入らないんで、油断しているところを後ろから鉄パイプでぶち殺そうと思ったら、運良く助かりやがって、頭の方は捕まってムショに入れられて、この間死んじまった。さぞかし無念だったと思うよ。だからオレたちはみんなで頚が出来なかったことをやってやろうと思ったのさ」(66P)
…「乱心」の殿様のやったことを「引き継ぐ」ことが武士道から見て正しい行為と言えるだろうか。浅野が「正気」という前提においてすら、荻生徂徠ら一部の儒学者は浅野の「邪志」を継ぐことは不義だと批判しているのである。これが「乱心」なら仇討の正当な理由が無くなってしまう。…(74P)。
…日本人の多くは、大石たちは幕府の「不公平な裁き」に怒りをぶつけたのが「討ち入り」だと思っているが、彼等は決してそうは言っていない。
もっともこれはあくまで表向きであって、大石は「乱心の殿はともかく長広様への裁きはおかしい」と思っていただろう。しかし、そうは書けないのである。それでは御家再興をつぶしてしまう。また「乱心だったから長広には罪は及ばないはずだ」とも書けない。それは、差別的な感覚ではあるが、「亡君の恥」であり家老としては声高に主張すべきことではないからだ。
まあ、こういう立場になったら「無口」を通すしかないだろうな、と私は思う。大石の人間像というのは、それを基本に考えるべきなのだろう(102P)。
長くて、無意味な駄文の意味を考える
60頁中味は9つの小見出し
つまり、週刊誌の連載の9回分か?
60頁の小見出しの内容を検討してみましよう。
(1)「バカ殿の中のバカ殿」浅野を「名君」にしたのは「赤穂義士崇拝者」の世論誘導だ
ここでは、史料を使っていないので、お勝手にどうぞ。
(2)最も基本的な史料とされる浅野内匠頭の「辞世」すら最初から無かった
ここでは、浅野内匠頭の刃傷から切腹まで立ち会った人の『多門伝八郎筆記』を引用しています。井沢氏が指摘するまでもなく、事実と虚構が書かれているので、留意して活用する必要があります。
(3)浅野が手討ちではなく切腹になった背景には将軍綱吉の「服忌令」がある
井沢氏は、こんな史料も知っているのだぞと、自慢したいのだろうが、何も「服忌令」を持ち出さなくても、手討ちの理由は十分にあります。
(4)荻生徂徠の「四十七士論」が知れ渡っていたら「忠臣蔵」そのものがなかった!?
ここでは、井沢氏は、荻生徂徠の「邪志」論を紹介しています。自分に都合のいい史料をつまみ食いして、不都合な史料は排除しています。いずれ、この排除している史料を使って、反論します。
(5)「浅野は統合失調症だった」--精神医学が明らかにした殿中刃傷事件の真相
ここでは、井沢氏は、精神科医の中島静雄氏の精神鑑定を紹介しています。いずれ、吉良上野介の手当てをした栗崎道有医師の診断書を添えて、反論します。
(6)浅野切腹の原因は「乱心」と知りながらそれでも藩士が「殉死」を決意した理由
ここでは、史料を使っていないので、「お勝手にどうぞ」ということなのですが、いずれ、吉良上野介の手当てをした栗崎道有医師の診断書を添えて、反論します。
(7)邪志を貫くわけにはいかないと悩んでいた大石が討入りを決行した「理由」
ここでは、『寛政重修諸家譜』を扱っているので、今回(4)、その「デタラメさ」を取り上げます。
(8)吉良邸に討ち入った四十七士に死者、重傷者が一人もでなかったのはなぜか
ここでは、「忠臣蔵錯覚」の最大のものを仇討でないのに仇討と思わされているということだとしています。史料を使っていないので、「お勝手にどうぞ」ということなのですが、いずれ、その「デタラメさ」に反論します。
(9)討入り後に提起された林大学頭の四十七士助命論はなぜ退けられたのか
ここでは、林信篤の意見書を使っています。いずれ、それへの反論をします。
ともかく、ダラダラとページ稼ぎをしているというのが率直な感想です。駄文に付き合うのにとても疲れました。
井沢氏の目の付け所
長矩の母方のおじ(舅父)内藤忠知は奉公が許可される
長矩の弟浅野長広はお預け、赤穂浅野家の再興ならず
大石内蔵助の怒りの原因はこれだ!!
大石内蔵助は「傷害事件」を、自信をもって「喧嘩」だと言い切っている(42P)。その根拠を探して、私たちをあちこち連れまわって、やっと(89P)、ここにたどり着きました。
井沢氏は、浅野内匠頭の喧嘩説がよほどお気に召さないのか、乱心説のご執心です。ここで説明すると、話が拡散しますので、このテーマは次回にします。
井沢氏の手法の破綻
井沢氏は『浅野内匠家家来口上』のみから自分の結論に世論誘導
『栗崎道有筆記』には「乱心でなく喧嘩」
これって「忠臣蔵錯覚」!?
読者の皆さんは、この手法に、コロッと行くかも知れませんね。
しかし、井沢氏が仕掛けたトリックに気が着く方もいますね。
井沢氏は、”大石が、誰が見ても「傷害事件」としか見えないものを、「喧嘩」だったと断定しているのである(42P)”と強調しています。
ここで重要なことは、「傷害事件」だったのか、「喧嘩」だったのかということです。
井沢氏が故意に排除したのであれば「悪意」であり、知らなかったのであれば、「忠臣蔵を語る資格なし」といえる重要な第一次史料があります。吉良上野介を治療した外科医の栗崎道有です。彼のカルテには貴重な情報が記録されています。
刃傷事件の最初のうち、老中は「浅野内匠頭が乱心して、吉良上野介に切りつけた」と解釈し、公傷扱いで上野介を治療しするように私に申しました(史料1)。
その後、幕府は「内匠頭は、乱気でなかった」と結論づけ、「乱気による処置」、すなわち公傷による治療をうち切りると、私にその旨を伝えてきました(史料2)。
*解説(浅野内匠頭が乱心、つまり狂気の場合、一方的に内匠頭が悪く、上野介は被害者であるから、公傷として幕府の責任で、上野介の治療を行う。
浅野内匠頭が乱心でない、つまり正気の場合、内匠頭の上野介への意趣・遺恨、つまり喧嘩が成立し、私傷としての扱いとなる。
最初は、幕府の責任で栗崎道有に治療をさせたから、幕府は、浅野内匠頭の乱心を認めていたことになります。
しかし、その後、幕府は、栗崎道有に幕府は治療から手を引くと通告しています。つまり、幕府は、乱心でなく、喧嘩と認定したことになります。
長々と駄文を弄することなく、『栗崎道有筆記』を早々に引用しておれば、週刊誌の連載も1回で終了したでしょう)
史料
『栗崎道有記録』
(史料1)「先刻ハ公儀より我等へ吉良療治被仰付之沙汰ニ有之」
(史料2)「只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及之由」
井沢氏の巧みに囲い込む大道芸には感心
しかし、カネ儲けに堕する手法には魂が感じられず
「忠臣蔵錯覚」という表現が何回出てきたことでしょう。
「おわかりだろうか」という表現が何回出てきたことでしょう。
「おわかりだろう」という表現が何回出てきたことでしょう。
「この逆説シリーズの読者はご存知だろう」という表現が何回出てきたことでしょう。
さすがは、カネを取って小説を書いているだけのことはあります。表現力が巧みです。井沢フィールドに囲い込んでいます。昔、大道芸で、「この中にスリがいる。慌ててこの場を去ろうとする者がスリだ」と言って、客に禁足令をかけるのを聞いたことがあるが、その論法に似ていると思いました。
そして、最後に、このような「決め台詞」をのたまうのです。
「忠臣蔵」という「虚構」がいかに事実に反しているか、ひどいものかということはおわかり頂けただろうか?
しかし、残念なことに、井沢氏には魂がありません。自分の結論に都合のいい史料だけをつまみ食いするという手法です。いわゆる歴史修正主義の手法です。
定説化している史料を使えば、そのような虚構は、いかに事実に反しているか、ひどいものかということはすぐ露見するはずなのに、カネのために、大道芸を披露するのです。大道芸人もえらい迷惑です。
追記(2007年12月12日)
『サライ』(2007年12月発売)で、竹内誠氏(江戸東京博物館館長)が重大発言
「覚えたるか」といいながら斬りかかるのが作法
竹内誠氏は、映画監督の篠田正浩氏との対談で、次のようは発言をしています。
刃傷の理由として突然逆上説や持病説もありますが、「遺恨覚えたるか」と叫びながら吉良に切りかかっている。当時、仇討ちをする際は、大声をあげて「覚えたるか」といいながら斬りかかるのが作法でした。浅野は立派にこの作法通りに行動していますから、突然に”切れた”とは考えにくいですね。
『文治政治と忠臣蔵の謎』(5)
井沢氏は、「浅野内匠頭は乱心だった」という結論を持っています
そのため都合のいい部分の史料をつまみ食いします
多くの人も、伝聞で「乱心説」を支持
井沢氏への書評(3)で、「浅野は壮年、吉良は老人である。その老人を浅野は卑怯にも背後から不意討ちした。…しかも合計四回も斬りつけ…殺すことが出来なかった…ダメなヤツということになる」「浅野内匠頭は卑怯でドジな男であった!!」という井沢説のデタラメさを指摘しました。
この前提が崩れた以上、次の説はないのですが、井沢氏は「乱心を遺恨としたことで、浅野家を取り潰した幕府に怒って、吉良邸に討ち入った」という井沢説のデタラメさを指摘を井沢氏への書評(4)で行いました。
今回(5)は、大石慎三郎氏の話を引用して、乱心説を主張する井沢説のデタラメさを指摘します。
井沢氏は、歴史学者の大石慎三郎氏の説を味方にします
井沢氏は、「”浅野内匠頭(長矩)が一時的に発症したという説”は事実である可能性が高い」という自分の結論を裏付けるために、次の説を紹介しています。
歴史学者の大石慎三郎氏の『将軍と側用人の政治』(講談社)です。
「一番説得力があるのは、浅野内匠頭が一時的に発狂したという説だと、私は考えている。烏帽子(鉄の輪が入っている)をかぶっているのを知らない人はいないはずだから、小刀で上から二度も斬りつけるという行為は明らかにおかしい。殺すつもりなら、刺せばいいのである。」
井沢氏の見事な手法(!?)
乱心説に否定的な赤穂大石神社の飯尾精氏(故人)を
大石慎三郎氏の同調者に仕立て上げる
大石神社の飯尾精氏の『元禄忠臣蔵』(大石神社社務所発行)です。これも周知の事実でが、まず、飯尾氏は、浅野内匠頭の持病である痞(つかえ)を解説し、「それが連日あれこれと手違いなんかもあって神経をすり減らし、加えてこの痞が段々と昂進して、肉体的にも参ってきているところへ、当日も玄関式台で勅使を出迎えることについて面罵され、統いて松の廊下で、梶川与惣兵衛と上野介がやりとりしていた言葉が耳に入ったので、途端にカッとしていっぺんに爆発したのではなかろうか」と書いています。
それを井沢氏は、飯尾氏の文章を言葉にすれば大石慎三郎氏の「一時的に発狂した」という説に極めて近くなると主張しています。
飯尾精氏は、『忠臣蔵の真相』(新人物往来社)で、乱心説をきっぱりと否定しています。
(1)札幌の精神科医の主張を批判し、最後に「何か新説を唱えなければならないという気持は分らないでもないが…ちょっと納得いかない」と書いています(50P)。
(2)「栗作道有日記」の史料原文を紹介して、「これによっても長矩は乱心でなかったことは明白である」(64P)。
一部の文言をつまみ食いして、自説の補強にする手法は、誰の目に見ても、破廉恥に、簡単に破綻します。
歴史学者の大石慎三郎氏は、史料を提示せず、
一時的に発狂したとか、内匠頭に冷静なプロの殺し屋を要求
江戸時代研究の権威者も「忠臣蔵」研究では素人?
ブランドは自分の舌に合ってこそブランドである
さすがは、文章で飯を食っているプロの小説家である。そのレトリックは巧妙である。一見して、井沢氏の術中に陥る人が出てくるかもしれない。
しかし、井沢氏が使っていない史料とか、根拠を冷静に分析すると、彼の結論が破綻します。これを検証しましょう。
歴史学者の大石慎三郎氏は、日本近世史の専門家です。私も『元禄時代』(岩波新書)・『大岡越前守忠相』(岩波新書)・『日本近世社会の市場構造』(岩波書店)・『田沼意次の時代』(岩波書店年)・『徳川吉宗と江戸の改革』
(岩波書店)・『享保改革の商業政策』(吉川弘文館)などの本を読んでおり、江戸時代の研究には欠かせない学者の1人です。
「鉄の輪が入っている烏帽子をかぶっている」とか「小刀で上から二度も斬りつけるという行為」を根拠に、発狂説を主張したとすれば、事実誤認です。井沢氏が認めているように、最初は背後から斬りつけているのです。
発狂せず、「殺すつもりなら、刺せばいいのである」という説も、前科があり、計画的で冷静なプロの殺し屋なら大石教授の言うとおりでしょう。乱心だから「討ち果たせなかった」というならば、乱心でなかったら「討ち果たした」ということになります。しかし、内藤忠勝は乱心で「討ち果たした」。大石教授の論法は崩壊します。
井沢氏が排除している部分が『将軍と側用人の政治』にはあります。参考資料として引用します。
解説*1(大石教授は、将軍綱吉の片落ち裁定を「筋の通った結末」と断定しています。「老中の喧嘩両成敗」という史料をご存知ないと見えます)
解説*2(大石教授は、赤穂浪士の吉良邸討入り後、「全員打ち首にせよという処分案がすぐに出てくる」と断定していますが、「評定所一座存寄書」(大目付4人、寺社奉行3人、町奉行3人、勘定奉行4人、都合14人による討議決定)という史料をご存じないと見えます。上杉家の所領は没収せよ、赤穂浪士の行為は徒党にあたらず、4藩にお預けという内容になっています)
解説*3(大石教授の最大の不徳の致すところは、世間が「なぜだか」悪い方に同情を寄せたという無責任な理由で、権力者である幕府が、侃々諤々の議論の議論を始めたという論旨です。その「なぜだか」を究明するのが学者ではありませんか。その責任を放棄するのは「如何なもの」でしょうか)
これでは、井沢氏の「浅野内匠頭(長矩)が一時的に発症したという説」の補強にはなりません。
解説*4(吉兆やミシュランの三ツ星というブラントだけで、ありがたがる風潮があります。美味しいか不味いかは、人それぞれです。自分の舌に合う料理がブランドなのです。自分の専門分野では立派な仕事をしても、専門分野外に手を出し空論を弄ぶ人もいます。その空論を、ブランド名で、ありがたがる風潮もあります。困ったものです)
参考資料
浅野長矩と吉良義央の場合も、吉良は刀を抜かずに走って逃げただけなので、おとがめなし。一方的に浅野の方が悪いため、長矩は即日切腹、浅野家はお家断絶という、筋の通った結末となったのである。
これで事件は終わったはずが、厄介なことに一年後の元禄十五年十二月十四日、旧赤穂藩の浪士四十七人が吉良義央の屋敷に討ち入りをかけ、義央の首を取ってしまう。これはどう考えでも、赤穂浪士の側が一方的に悪い。幕府も彼らを夜盗のような者だとみなして、全員打ち首にせよという処分案がすぐに出てくる。
ところが世間が、なぜだか悪い方に同情を寄せ始めたため、処理が難しくなり、幕府内で侃々諤々の議論となった。こうした中で、元禄の大好況以来、バブル崩壊後も武士が浮わついているのを快しとしない幕府首脳部が、この討ち入り事件を利用してやろうと考える。そして、「武士らしく振る舞った」四十七士には、打ち首でなく、武士としての面目が保てるような処分(切腹)が行われたのである。これが、いわゆる「忠臣蔵」の実体であった。
吉良上野介の治療に立ち会った栗崎道有の記録こそ貴重な第一次史料
これを知らない人を無知といいます
これを意図的に排除した人を悪意といいます
次に、井沢氏が排除した史料に、浅野内匠頭が乱心であったか、乱心でなかったかを示す重要な第一次史料があります。吉良上野介の怪我を治療した医者の栗崎道有の記録です。この史料を知らない人は無知であり、意図的に排除しているならば悪意としか考えられません。
下記に重要な部分の全文を紹介します。
刃傷事件の最初のうち、老中は「浅野内匠頭が乱心して、吉良上野介に切りつけた」と解釈し、公傷扱いで上野介を治療しすることになりました。しかし、公家衆の指示した役人(内科の津軽意三、外科の坂本養慶)なので上野介の血も止まらず、元気も弱く見えました。
そこで道有を呼んで治療するようにという指図が大目付の仙石伯耆守にありました。そこで私が治療している最中のことでした。内匠頭の口上の意図をお聞きになった所、「乱心ではない。何とも堪忍できない*手合わせ故に、勅使接待という場を穢し、迷惑をかけたお掛けしたことは申し上げようもありません」という訳でした。とても乱心とは見えませんでした。
他方、吉良上野介に「内匠頭から意旨を受ける覚はあるか」と尋問すると、上野介は「そのような覚はない」と答えました。
幕府(大目付仙石伯耆守)は、この両者の尋問聴取から「乱心ではない」ので、「乱気による処置」、すなわち公傷による治療をうち切ると私に伝えてきました。
さっきは、幕府(大目付仙石伯耆守)より私たちに「吉良上野介を治要せよ」と命じられましたが、今度は「治療する必要は及ばない」と命じられました。
傍らにいた高家衆の1人である畠山上総守は、「しかし、上野介ならびに高家の同役衆は、栗崎道有がやって来て元気も回復し血も止めてくれたことでもあるので、上野介の願いもあり、高家衆も栗崎道有に治療を継続してお願いしたい」と申し出ました。大目付の仙石伯耆守は、「幕府の御典医ではあるが、その旨老中にもお伝えしよう」ということになりました。
刃傷事件の4時間後(午後3時)、吉良上野介は、本宅に帰って行きました。
*仕合(=手合せ。相手になって勝負をすること、勝敗を争うこと)
史料
『栗崎道有記録』
「手負初ノ内ハ御老中方ニてハ内匠頭乱心ニて吉良ヲ切ルノ沙汰、依之療治之儀吉良ハ 公家衆へ何角指行ノ役人ナレハ血モ不止元気モヨハク見ル、然ハ道有ヲ呼上ケ療治被 仰付之沙汰ト相聞ヘ、然所ニ其中ケ場ヘナリテ内匠口上之趣ヲ御聞被成候所ニ、乱心ニアラス即座ニ何トモカンニンノ不成仕合故 御座席ヲ穢カシ無調法ノ段可申上様無之ノ訳ケニテ中々乱気ニ見ヘス、扨吉良へ御尋有之ハ兼而意旨覚有之カトノ事、吉良ハ曽而意旨覚無之トノ事ナリ、依之テ乱気ノ沙汰ニ不及ニ付」(中略)
先刻ハ公儀より我等へ吉良療治被仰付之沙汰ニ有之処ニ、只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及之由、併上野介并ニ同役衆幸道有罷出元気ヲモツヨメ血モ止メ置タル事ナレハ、病人ノ願同役中道有外治ニモ被致度トノ事ニ候ハゝ其段御老中へも可申上候
其刻限早八半過七前ニ…吉良ノ本宅へ罷帰ル(後略)」
井沢氏は入門書の決定版『正史赤穂義士』を読んだのでしょうか
読まれた方は、井沢説が簡単に破綻したことをお分かりなったでしょう
ここに入門書の決定版ともいうべき書物があります。東京大学史料編纂官として長年在職していた渡辺世祐氏が心血を注ぎ、10年の歳月をかけて完成した『正史赤穂義士』(光和堂、1975年刊)という書物です。
そこには次のような重要な記述があります。
「幕府では…刃傷の場合一方が乱心であった時には、負傷したものの治療は幕府が責任を持たなければならぬ。また乱心でなく、両方意趣があって刃傷に及んだ場合には相対的の手落であるから、負傷者は自分勝手にその手当をすべきであるとの昔からの定がある」
この規定によれば、幕府は治療から手を引いている訳だから、この刃傷事件を「乱心でなく相対的な手落ち」と裁定していることが分ります。
ここまで読んでこられた方は、井沢説が簡単に破綻したことをお分かりなったでしょう。
『文治政治と忠臣蔵の謎』(6)
忠臣蔵錯覚に洗脳されない新鮮な話は、いつ聞けるのですか?
厳密に見たという史料はいつ出されるのですか?
井沢元彦氏の手法に付き合うのが今回で6回目です。
小説家ならいざ知らず、井沢氏は歴史学者の「松島氏も忠臣蔵錯覚に洗脳されていた」と非難・中傷したり、「学者なんだから、もう少し厳密に史料を見なさいよ」と説教しています。自称歴史家なんでしょう。
忠臣蔵錯覚に洗脳されていない新鮮な話が聞けると思いきや、証拠もなく忠臣蔵の定説を貶める得意の手法を披露しています。
厳密に史料を見たというのでどんな史料が用意されているのかなというと、定説になっている史料を一部をつまみ食いしたり、都合の悪い史料を出さないという井沢氏独特の手法を使って、世論を巧に誘導します。その出された結論が噴飯物で、本当に気分が悪くなります。
私の大学時代の友人や知人の研究者に聞くと、井沢元彦氏を「歴史の専門家」として最初から相手にしていないことが分ります。学者はそれで済みますが、この手法の行き着く先を考えると寒気がします。「蟷螂の斧」であってもキチンと対応していなければ、大変だと思うのは杞憂でしょうか。
井沢元彦氏の今回の手法
井沢氏は「大石は浅野内匠頭の乱心を知っていた」と断言
その証拠として四つの理由を提示
それでも大石の討入り理由が分らないと自問自答
井沢氏は、「その大石が誰が見ても”傷害事件”としか見えないものを、”喧嘩”だったと断定しているのである」(42P)と刃傷事件を矮小化しています。
さらに、内匠家来口上の一部をつまみ食いして、「おわかりだろうか」という催眠商法的言辞を弄し、「あの大石内蔵助でさえ、吉良の”イジメ”について証拠をつかんではいないのだ」(43P)と世論を催眠にかけます。
以上は、「『文治政治と忠臣蔵の謎』(4)」で詳しく指摘しています。
ここでは、一気に飛躍して、井沢氏は「大石内蔵助は浅野内匠頭の乱心を知っていた」と断言します。
井沢氏は、「大石は主君浅野内匠頭長矩が”乱心”したと認識していたのだろうか?
私は知っていたと思う」(76P)とびっくりするような仮説を立てます。なるほど、フィクション作家らしい手法です。
(1)第一の理由として、井沢氏は「主君が切腹に処せられたことは当然」(家来口上書)という意味の言葉がある。
(2)第二の理由として、近親者である叔父に「乱心」して同じような犯行をなした者がいる。ここで、井沢氏は「統合失調症を江戸時代は乱心と呼んだ」としています。これは、医学に詳しいある人は「この井沢氏の規定は明らかな間違いである」と指摘しています。
(3)第三の理由として、浅野の家臣は、主君を乱心と見て、「徹底抗戦派」がゼロだった。
(4)第四の理由として、当時の老中(定員5人)の内3人までが「浅野は乱心でないか」と見ていた(82P)。
この4つの理由から井沢氏は、「浅野乱心説」の方が「遺恨(正気)説」よりはるかに説得力があることがわかって頂けたと思う。
「しかし、そのように考えてくると、なぜ大石は討入りしたのか、その理由が不明確になる」として、井沢氏は色々悩んだそうだ。
井沢氏の「大石は浅野内匠頭の乱心を知っていた」は基本的に間違っている
プロの研究者が井沢氏を相手にしない理由
「もうお分かりでしょう」
文章で飯を食っているだけ、騙しの手口もプロ級です。そういう点では感心(いな、寒心)です。
*解説1:「浅野内匠家来口上」は、文治政治と忠臣蔵4(書評忠臣蔵第47回)に全文掲載しています。これは主君が吉良上野介と殿中で喧嘩したので、切腹も当然だと言っているのです。家来が乱心を認めた証拠にできるという人は、史料を厳密に見ている(?)井沢氏しかいないでしょう。
*解説2:近親者に乱心で処罰された者がいたことは事実です。井沢氏が認めているように、「家を存続させるために、乱心を偽装することもあった」ことも事実です。そのことをもって乱心だったと断定したい井沢氏の気持も分らないでもありません。井沢氏の冤罪事件の骨格が崩れてしまいますものね。
*解説3:徹底抗戦がゼロだから、家臣は主君を乱心と見ていた?。大名の断絶で徹底抗戦した藩がありますか。
*解説4:「浅野は乱心でないか」と見ていた老中が3人もいたとは初耳です。ならば、どうして喧嘩両成敗という原案を作成したのでしょうか。是非、その史料が見たいものです。
私でもこの論理の組み立てに開いた口がふさがらない。ましてや、プロの研究者が井沢氏を相手にしないことがよく分ります。これは学問・研究以前の段階です。
忠臣蔵錯覚に洗脳されていない井沢氏の説がついに登場
(1)「同じ乱心なのに相続人の扱いが不公平だった」
(2)「将軍徳川綱吉が乱心を正気にしてしまった」
(3)「大石内蔵助はここに怒ったのだ」
これは大発見で、新説です!!
どの新聞・雑誌・週刊誌も取り上げない理由を「もうお分りでしょう」
もう少しお付き合い下さい。
井沢氏は、誰も気がついていない「大石の討入りの動機」を発見した(85P)と大喜びをするのである。
その結論を発表する(89P)。その間、47ページも割いている。
「内藤忠勝は刃傷で相手を殺した。浅野長矩は傷つけただけである。そして2人は”死刑”になった。
だが弟の扱いはまるで違う。
内藤忠勝の弟忠知は…御家は続いた。しかし、浅野長矩の弟長広は…本家預かり…浅野家は断絶させられた。浅野が乱心であったとすれば、長広に対する処置は不公平ということになる。
大石はここに怒ったのだ」(89P)
「実際は”乱心”に見えたのに将軍の意向で”正気”ということにさせられてしまった。つまり真実は逆である可能性さえも大いにあるのだ」(94P)
*解説5:井沢氏の口癖を真似ると「もうお分かりだろう」、井沢氏の手法が…。浅野を乱心に仕立て上げ、弟に対する不公平なお裁きが、大石を討入りに向かわせたのだと。
この井沢氏の論文は、忠臣蔵の定説を覆す「大発見」で、「新説」です。しかし、どの新聞も取り上げていません。井沢氏が掲載してもらっている週刊ポストすら無視です。井沢氏が世話になっている小学館発行のどの発行物でもその大発見に一行も割いていません。「もうお分かりでしょう」、それほどの作り話(フィクション)なのです。
井沢氏の「長年の疑問が氷解した」という史料の紹介です
誰もが知っている『寛政重修諸家譜』でした
(1)「内藤忠勝の刃傷事件、幕府は”乱心”として処理」
(2)「浅野内匠頭の刃傷事件、幕府は”宿意あり”として処理」
それだけだったということが「これで分ったでしょう」
次は、井沢氏が発見したという史料(寛政)です。
以下は、井沢氏でなく、私の「内藤家と浅野家の要約」です。
(1)内藤忠政の次男が忠勝で、1673(延宝元)年、忠勝の弟忠知に2000石を分地しています。
1680(延宝8)年、4代将軍の徳川家綱が亡くなった時、忠勝(26歳)は、増上寺の警備を命じられました。この時、仲の悪かった永井尚長(27歳)が連絡を怠って、忠勝に恥をかかせたということがありました。そこで、忠勝はこれを恨んで尚長を殺害しました。これを芝増上寺の刃傷事件といい、幕府の記録では、「乱心」となっています。
しかし、内藤本家は断絶しましたが、分地していた内藤忠知には累が及びませんでした。
(2)浅野長友の嫡子が長矩で、1679(延宝七)年、長矩の弟長広に3000石を聞知しています。
1701(元禄14)年、5代将軍の徳川綱吉が勅使接待をしている時、長矩(35歳)は、勅使接待を命じられました。この時、長矩は「遺恨あり」とて、吉良義央(61歳)に刃傷に及びました。松の廊下の刃傷事件といい、幕府の記録では、「宿意あり」となっています。
この時、長矩の母方のおじ(舅父)にあたる内藤忠知は、松の廊下の刃傷事件で、出仕は一時留められましたが、その後許されています。
しかし、長矩の弟長広は、閉門となり、城地も没収となりました。その後、閉門は許されましたが、本家の浅野広島にお預けとなり、浅野家の再興はなりませんでした。
*解説6:幕府の記録では、内藤忠勝は乱心です。浅野内匠頭は「宿意」であり、乱心でありません。それだけであり、それだけで十分です。
井沢氏は、長矩の母の兄(内藤忠勝)が乱心であったことを証明するために、下記に(1)〜(4)の史料を提示しました。そして、精神科医の中島静雄氏の「精神鑑定」を長々と引用し、「特に精神医学界の方々に新しい”浅野長矩の研究”をお願いしたい」と主張しています。
さらには、井沢氏は、乱心説には否定的な赤穂大石神社の飯尾精宮司(故人)までを大石慎三郎氏の同調者に捏造するという卑劣な手法を使っています(71P)。これが忠臣蔵錯覚に洗脳されない人のすることなら、私は忠臣蔵錯覚者でありたい。
しかし、井沢氏が提出していない史料の(5)は、吉良上野介を治療した栗崎道有の記録ですが、幕府の規定では喧嘩となります(詳しくは「『文治政治と忠臣蔵の謎』(4)」をご覧下さい)。
史料の(6)は、刃傷事件を起こした浅野内匠頭に対して出した幕府の処分書です。ここでは、幕府は乱心でなく、意趣があって刃傷に及んだという内匠頭の証言を採用しています。つまり喧嘩だったことを認めているのです。
内匠頭は、乱心だったと言えば、石高は減っても赤穂浅野家は救われる、しかし、乱心を否定しました。つまり、赤穂浅野家をつぶしてでも恨みを晴らしたいことがあったのです。この心情があったからこそ、大石らは討ち入ったのです。
このような定説化された史料を排除した井沢氏の結論は、直ぐに、しかも目前で破綻するのです。
内藤忠勝と浅野長矩の関係を示す系図
内藤忠政┳忠次
┣忠勝
┣忠知
┗波知
‖━┳長矩
浅野長直━長友┗長広
井沢氏が提示した史料『寛政重修諸家譜』の内容
(1)「忠勝乱心し信濃守尚長を殺す。死をたまふ」
(2)「内藤忠知、長矩が事に坐して、出仕をとゞめらる、ゆるさる」、つまり御家存続
(3)「浅野長矩、遺恨ありとてにはかに自刃をふるひ、死をたまふ」
(4)「浅野長広、綱長が封地におもむく」、つまり御家断絶
史料
(1)内藤忠勝
「延宝元年九月十一日遺跡を継、二千石を弟虎之助忠知に分ち与ふ。(中略)八年六月二十六日増上寺にをいて厳有院殿の御法会行はるゝの時、永井信濃尚長遠山主殿頭頼直とゝもに、かの山に勤番せるのところ、忠勝乱心し信濃守尚長を殺す。このむね上聴に達し、二十七日芝の青龍寺にをいて死をたまふ」(『寛政重修諸家譜』)
(2)内藤忠知
「元禄十四年五月六日さきに姪浅野内匠頭長矩が事に坐して、出仕をとゞめらるゝのところ赦免ありて、なほ拝謁をはゞかり、六月二十五日ゆるさる」(『寛政重修諸家譜』)
(3)浅野長矩
「(延宝)七年八月二十一日弟大学長広に私墾田三千石をわかちあたふ。十四年三月十四日勅使饗応の事をうけたまはりて登営するのところ、遺恨ありとてにはかに自刃をふるひ吉良上野介義央に傷けしにより、田村右京大夫建顕にめしあづけらる。時に長矩、私の宿意ありとてをりからをも弁へず、営中にして卒爾に刃傷にをよびし事、其罪かろからずとて、即日建顕が第にをいて死をたまふ」(『寛政重修諸家譜』)
(4)浅野長広
「十四年三月十五日長矩が事に坐して閉門せしめられ、宗家の領地を収公せらるゝにをよびて長広が采地もをさめらる。十五年七月十八日閉門をゆるされ、厳命によりて松平安芸守綱長が封地におもむく」(『寛政重修諸家譜』)
井沢氏が提示しなかった史料『幕府の諸文書』の内容
(5)「浅野内匠、意趣有之由にて、殿中理不尽に切付、これにより切腹」
史料
(5)『栗崎道有記録』
(史料1)「先刻ハ公儀より我等へ吉良療治被仰付之沙汰ニ有之」
(史料2)「只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及之由」
(6)「左之通被 仰付之浅野内匠吉良上野介江意趣有之由にて折柄と申不憚 殿中理不尽に切付之段重々不届至極に被 思召依之切腹被 仰付者也
巳三月十四日
右之段書付大目付庄田下総守(安利)江相模守相渡之(略)」
以前からあった乱心による御家安泰説
正常でも、御家安泰のため乱心を捏造したか、鳥羽内藤家?
綱吉の時代まで乱心事件は15件、すべて御家安泰
乱心にして、御家安泰を図ったというのが本音
次の史料は、『大名廃絶録』から抜粋して作成しました。
浅野長矩の乱心説は、母の兄(叔父)の乱心を事実という前提に成り立っています。
江戸時代、乱心はどのように扱われていたのでしょうか。乱心が原因で大名が処罰を受けたのは、3代将軍の徳川家光になってからです。5代将軍の徳川綱吉の時代までを数えると、15件ありました。処分結果は全て除封、つまり土地は減らされても、大名家は維持するという内容です。
将軍件西暦元号乱心大名藩名結果
家光の時代011644年正保1年松下 長綱陸奥三春除封
021645年正保2年池田 輝興播磨赤穂除封
031648年慶安1年稲葉 紀通丹波福知山除封
家綱の時代041667年寛文7年水野 元知上野安中除封
051679年延宝7年土屋 直樹上総久留里除封
061679年延宝7年堀 通周常陸玉取除封
071680年延宝8年内藤 忠勝志摩鳥羽除封
綱吉の時代081686年貞享3年松平 綱昌越前福井除封
091687年貞享4年溝口 政親越後沢海除封
101693年元禄6年本多 政利陸奥岩瀬除封
111693年元禄6年松平 忠之下総古河除封
121695年元禄8年織田 信武大和松山除封
131698年元禄11年伊丹 勝守甲斐徳美除封
*1701年元禄14年浅野内匠頭の刃傷事件
141702年元禄15年松平 忠充伊勢長島除封
151705年宝永2年井伊 直朝遠江掛川除封
次に、乱心と称して、御家騒動を無事解決して、御家安泰にした例はあるのでしょうか。
浅野内匠頭の刃傷事件以前、13件中の8件が殺人事件などを起こして、乱心とされ、除封されたが、御家は安泰となっています。
刃傷事件以後、綱吉の時代には2件中1件が暴政を乱心とされ、除封されたが、御家は安泰となっています。
統計で見る限り、本当に乱心であったのか、乱心として、御家安泰を図ったのかは、不明としか言えません。
浅野内匠頭の叔父(内藤忠勝)の場合も、乱心であったかどうか、不明と言うのが正しいのではないでしょうか。そのことから、浅野内匠頭の乱心説は、根拠がないと言えるのではないでしょうか。
井沢元彦氏が「主君押込」(英明な主君を、”幕府ににらまれては何にもならない”という観点から家臣が結束して、拘束し隠居させる)を紹介していました(79P)。
正常な考えの井沢氏が、忠臣蔵になると正常な物差しをお忘れになる。これは「お分かりになりません」なー。
『文治政治と忠臣蔵の謎』(7)
井沢元彦氏の手法に付き合って7回目
臣蔵錯覚に洗脳されない新鮮な話は、いつ聞けるのですか?
厳密に見たという史料はいつ出されるのですか?
結局、付き合った結論は学者や研究者が相手にしない代物だった
しかし、こういう手法を見逃すと大変な時代になると自覚
今までのおさらいです。
(1)井沢元彦氏は、約63Pを使って、使うべき史料も使わず、自説に都合のいい史料だけをつまみ食いして、浅野内匠頭を「バカで、ドジで、卑怯な殿様」と誹謗・中傷してきました。正当な史料を使っても、浅野内匠頭は「病弱で、短慮で、(吉良上野介を殺害できなかった)ドジな殿様」であったことは、誰もが知っています。
(2)このような殿様では、赤穂の家臣たちは同情もしないでしょう。ましてや討ち入りもしないでしょう。
そこで考えたのが、次の方法です。
井沢元彦氏は、約36Pを使って、乱心説否定論者の赤穂大石神社の飯尾精氏(故人)を大石慎三郎氏の同調者に仕立て上げてまで、浅野内匠頭を「乱心者」と断定しました。
(3)自称歴史学者井沢氏は、史料も提示せず、「大石内蔵助も内匠頭の乱心を知っていた」と断定します(76P)。
(4)その過程で、井沢氏は、歴史学者の松島榮一氏らを「忠臣蔵錯覚に洗脳された」とか「学者なんだから、もう少し厳密に史料を見なさいよ」と非難し、出した結論が、「実際は”乱心”に見えたのに将軍の意向で”正気”ということにさせられてしまった」(だから)「大石はここに怒ったのだ」と驚くべき新説を唱えます。
(1)と(2)では、膨大なページ数を使っていながら、最も重要な部分では、史料の提示もなく、1ページにも満たない論証です。
(5)これでは、学者や研究者から誰も相手にされないのは、当然です。
(6)「学者や研究者が相手にしない井沢氏を、何故、あなたが相手にするのでしょうか」と再々問われます。
学者や研究者は、井沢氏を相手にしなくても、それで済みます。
しかし、私の場合は、違います。
私の忠臣蔵新聞を見た読者や、私の講演会に出席していた方から、「井沢元彦氏はこのように書いているが、本当はどうなのか」とか「あなたは書いて(言って)いるが、井沢氏はこう書いている」などの質問が多くなっています。
無視すると、「黙認しているのか」「こんな考えが流布していいのか」「こんな手法がまかり通っていいのか」などの抗議のメールや講演会後の質問になります。
井沢元彦氏が信奉する大石慎三郎氏の手法を検証
井沢元彦氏は、松島榮一氏ら歴史学者を「忠臣蔵錯覚に洗脳された」とか「学者なんだから、もう少し厳密に史料を見なさいよ」と激しく中傷・誹謗しているのに、大石慎三郎氏の説には全幅の信頼をおいています。この落差は何だろうと不思議に思います。
大石慎三郎氏が使った『土芥寇讎記』(1)
(1)アンチ派が使う部分をつまみ食い、「なんだこりゃ!!」
(2)「内匠頭は政治に無関心で女好き」(アンチ派の殺し文句)
(3)「長矩は…統治がいいので、家臣も百姓も豊である」もあるぞ!
(1)井沢氏は、『土芥寇讎記』について、次の様に書いています(97P)。
『土芥寇讎記』という元禄三年(1690)現在の全国各地の大名の「紳士録」というべき史料がある。
この中に浅野長矩は「女好きの暗君」として登場する。もっとも、この史料は編者不明ながら公刊されたものであるから、何らかの調査に基づくものであることは確かだが「正しい」という証拠もない。ただ一つ言えることは、発刊が「刃傷事件」の前であって、「忠臣蔵」の影響は受けていない、ということだ。
*解説1:「一応正しいという証拠はない」と断ってはいますが、アンチ派の言い分のみを採用しています。出所は、井沢氏が信奉する大石慎三郎氏の著書でしょう。
(2)大石慎三郎氏は、『土芥寇讎記』を使って、浅野内匠頭を「面白いことに、事件の起きる十年ほど前に幕府によって作られた『土芥寇讎記』(幕府隠密を使って全国の大名の素行と領地の実態を調査したもの)を見ても、赤穂藩の浅野長矩の評価は最も低い部類に属する。無類の女好きで政治に興味を示さず、いい女を紹介すれば必ず出世させてくれる殿様という、惨憺たる評価を幕府の隠密から受けているのである」(『将軍と側用人の政治』(71〜71P)。
*解説2:実は、私もアンチ忠臣蔵時代に、アンチ派から受け売りした「浅野内匠頭は政治に無関心で女好き」を喧伝していました。その根拠はと問われると、『土芥寇讎記』に書いているというと、相手は「シュン」となったものです。史料を入手できない当時、史料を示して、攻撃すれば、史料を持たない相手は太刀打ち出来ないという手法を学びました。
*解説3:ネット社会以前なら、上の手法は有効です。『土芥寇讎記』は、現在絶版です。
しかし、ネット社会の現在、史料は簡単に入手できます。私がよくお世話になる「長蘿堂」さんのホームページには原文があるのです。皆さんもびっくりされると思います。大石慎三郎氏が使った史料はその後半で、使わなかった前半(史料(1))には「長矩は智恵があって賢い。家臣や領民へ統治がいいので、家臣も百姓も豊である」とあるのです。
松島榮一氏と出会うまで、私はアンチ派から大石慎三郎氏と同じ手法の手ほどきを受けていたのです。ショック!
「もうお分かりになったでしょう」、井沢氏の手法や意図が…。
史料は、自分にとって有利・不利に関係なく提示し、不利な史料を超克して、自分の結論に導くものです。
世継のない場合、御家は断絶の大名にとって、むしろ、無類の女好きは、エネルギッシュな証拠です。残念なことに、実際の浅野内匠頭は病弱で、そのエネルギーがなかったのです。
史料(1)
「長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也」
大石慎三郎氏『松の廊下でないことは、百パーセント確実』(2)
(1)大石氏が見落として史料を見て、「なんだこりゃ!!」
(2)吉良と梶川は松の廊下で出会っている
(3)最新の資料(中央義士会の中島康夫会長)でもやはり松の廊下!
(1)井沢氏は、大石氏の『将軍と側用人の政治』の松の廊下の部分「松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である」(約1ページ)引用しています(36P)。
さらに、「松の廊下の障壁画も、あんな大振りの能舞台のような松ではない。実際は、松原の様子を描いたもので、海浜に松そして千鳥がバランスよく配置されていた。なぜそんなことがわかるかといえば、一九八八年に東京国立博物館で江戸城本丸御殿の障壁画下絵が発見されたからだ。…要するに”何から何までデタラメ”なのである」と書いています(37P)。
*解説4:ここでは、井沢氏は、「松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である」として、今までの説を「デタラメ」としています。本当にデタラメなのでしょうか。後に検証します。
次に、「大振りの能舞台のような松ではない」とは、歌舞伎や映画のフィクションの世界では大振りの松を演出上使います。しかし。小振りの松であっても、大廊下は松之廊下というのですよ。
緑色(中島氏):白字に黒色(百楽天氏):赤色(作者)
(2)大石慎三郎氏は、「幕府の正式な見解では、事件が起きたのは白書院の廊下となっている。それが廊下の上の方、つまり大廊下に属する部分なのか、それとも医師溜くらいの下の方、つまり柳の間廊下なのか、そこからは読みとれない」と判断を留保しています。
ところが一転して、「いずれにせよ、芝居で演じられるように松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である」(『将軍と側用人の政治』69〜70P)と指摘しています。
そう簡単に「いずれにせよ」で結論を急いでもらっては困ります。学者なんですから…。
(3)大石氏が指摘する『梶川氏日記』の原文を見て、びっくりします。近世の専門家である大石慎三郎氏が見落としている(?)部分に重要な記述がありました。
つまり、白書院のほうから上野介がやって来て、梶川与惣兵衛は松の廊下の角柱から14メートル進んだところで、双方が出会ったとあるのです。
どこが、「100%松の廊下でないのでしょうか」。史料の恣意的な扱いが気になります。
(5)刃傷松の廊下を語るとき、絶対に避けて通れないのが、角柱()の存在です。百楽天さんがこだわったポイントです。
中央義士会の中島康夫会長の12月会報(2007年)にも、最新の成果が報告されています。やはり、角柱()が図示されており、その結論も松の廊下でした。
史料(2)の口語訳です。
「(御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。…私は、大広間に近い方に出て、角柱より6〜7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が”今日、お使いの私の時間が早くなりました”と一言二言言ったところ)
史料(2)
御白書院の方を見候ヘハ吉良殿御白書院の方より来り被申候…拙者大広間の方へ出候て角柱より六七間もあるへき所にて双方より出合、互に立居候て今日御使の刻限早く相成候義を一言二言申候処
詳しくは、『文治政治と忠臣蔵の謎』(3)をご覧下さい。
大石慎三郎氏、『栗崎道有日記』に「浅野と吉良は普段から相性が悪かった」(3)
(1)一方的に断罪する立場に、「なんだこりゃ!!」
(2)上下関係の間柄で不仲は、下の者が損、ゴマすらにゃ
(3)我慢・ゴマする限度を越えていた場合はどうする?
(4)これって、「喧嘩」していたという傍証にはなりませんか
(3)大石慎三郎氏は、「栗崎道有という幕府お抱えの外科医で、事件当日に吉良義央の治療した人物が残した手記に、浅野長矩と吉良義央は普段から相性が悪かったとある。また、浅野が大変な癇癪持ちだとも書いている。殿中の医者がそう書くということは、それは江戸殿中の、特にお坊主連中の共通の認識だったということである」(『将軍と側用人の政治』70P)と書いています。
史料(3)がその口語訳です。
*解説5:小見出しが「作られた”義士”たち」とありますから、浅野側に「よい意味」で書かれたのでないことは確かです。普通、上下関係の間柄で、相性が悪かった場合、下の者が不利なのは明白です。不利であっても、吉良に頭を下げなかった内匠頭に問題があることは当然です。しかし、その限度を越えていたという考えも成り立ちます。
つまり、これって、吉良と浅野は「喧嘩」していたという傍証にはなりませんか。
史料(3)の口語訳です。
「年始の公家衆の御地(馳)走人の浅野内匠頭は、松平安芸守殿(広島藩主浅野綱長)家の分家で高は5万石かと言われています。
以前より、吉良との儀礼的な挨拶がよくありません。特に、度々、伝奏屋敷でも吉良は高家の長老格の人で、内匠殿は年も若く、もちろん公家衆などへの挨拶なども今だ未経験と言うこともあり、吉良を頼みにするといえども、兎角吉良は何となく厳(いか)しく感じられて、内匠頭はかねがね、思うこともありました」
史料(3)
年始公家衆御地(馳)走人浅野内匠頭、松平安芸守殿(広島藩主浅野綱長)家ノワカレ高五万石カ兼而吉良トアイサツ不宜、殊ニ度々伝奏屋敷ニても吉良ハ高家年老ノ人ニて、内匠殿ハ年若、尤公家衆抔へ挨拶等モイマタウイシキニヨリ吉良ヲ相頼ルトイヘトモ、トカク吉良何トヤランイカメシク内匠兼々存シヨラル
大石慎三郎氏は「吉右衛門は忠左衛門お抱えの足軽だった」(4)
(1)史料には「内匠頭長矩の臣寺坂吉右衛門信行」、「なんだこりゃ!!」
(2)この史料を八木神大名誉教授は「寺坂本人が書いた」と証言
1980(昭和55)年に発行された『歴史への招待』「四十七人目の義士」(NHK出版)という書物があります。
その中で、「吉右衛門は吉田忠左衛門お抱えの足軽ということなんですね」という質問に対して、大石慎三郎氏は、「そうです。…彼は軍役表によりますと、5人の人を抱えていたということになるわけなんですね。…吉右衛門はこの中の1人ということになります」。
付表として「四十七番目の義士<年表>」があります。概略を記します(参考資料(1))。
大石慎三郎氏は、「吉右衛門足軽組に入る」部分をそのまま、吉田忠左衛門の足軽になったように解釈されています。そのこと(吉右衛門は浅野内匠頭の陪臣)を逐電の理由としています。今から28年前の説です。
井沢元彦氏も、「寺坂はそもそも浅野のためでなく、自分の主人である吉田忠左衛門の行末を見届けるために討ち入りに参加した。しかし主人(忠左衛門)が本懐を遂げたので、これで役目は果たしたと姿を消したー」と書いています(127P)。
井沢氏は、他の46人を正社員とし、寺坂を「正社員吉田忠左衛門」の「個人的使用人」と解釈しています(127P)が、これは、全く、忠臣蔵の基本的知識が欠如しているといえるでしょう。
しかし、神戸大学名誉教授だった八木哲浩氏は、史料(4)の『寺坂信行筆記』については、”討ち入り部分は寺坂本人が書いたと思われる”とし、史料(5)の『寺坂信行自記』については、”叙述が討入り前で終わっているので、寺坂本人が書いたと思われる”と指摘しています。
その根本史料には、「吉田忠左衛門兼亮組」と「浅野内匠頭長矩の臣寺坂吉右衛門信行」とがあります。大石慎三郎氏は、「長矩の臣寺坂」という史料を見落とし、「組」を配下と解釈したのでしょう。
私も、寺坂吉右衛門を紹介するとき、赤穂市の市史編纂室の担当者に問い合わせました。はっきりと「寺坂吉右衛門は浅野家の家臣です」と回答しています。
中央義士会の中島康夫会長も「寺坂吉右衛門は8歳の時、吉田忠左衛門に仕えるようになった。…このときは吉田の直臣であり、浅野内匠頭からすれば陪臣であった。…ところが、寺坂が27歳のとき(*作者注:元禄4年)、吉田の推挙をうけ、赤穂浅野家の足軽として取り立てられた」と指摘しています。
参考資料(1)
寛文12(1672)年、寺坂、吉田忠左衛門の世話になる(8歳)
元禄4(1691)年、吉田忠左衛門、加東郡郡代となり穂積にて勤任す この時、吉右衛門足軽組に入る(5石2人扶持)
史料(4)
浅野内匠頭家士吉田忠左衛門兼亮組
足軽 寺坂吉右衛門信行(『寺坂信行筆記』)
史料(5)
此壱巻は浅野内匠頭長矩の臣寺坂吉右衛門信行元録(禄)十四十五年之始終をこまかに自筆をもつて書残せし(国立国会図書館所蔵『寺坂信行自記』)
大石慎三郎氏の得意な手法「ところが世間が」(5)
(1)なぜだか悪い方に同情、「なんだこりゃ!!」
(2)「なぜだか」を究明するのが学者ではありませんか
(3)私の知っている大石教授はどこへ行ってしまわれたのか?
(4)それとも「旧説」を持ち出されて迷惑している大石教授?
「もう少し厳密に史料を見なさいよ」と学者を非難する井沢氏が、「なぜだか」、大石教授の史・資料のみは、検証もせずに4回も引用しています。
(1)『土芥寇讎記』(2)「松の廊下では100%ない」(3)内匠頭の乱心説(4)「寺坂吉右衛門陪臣説」
(5)「なぜだか」論法は、「なぜだか」井沢氏は排除しています。
「最近、昔の説を持ち出されて、迷惑されているのは、大石慎三郎氏ではないか」と同情するのは私だけ?
その一部を参考資料として、再掲載します。
詳細は、『文治政治と忠臣蔵の謎』(5)をご覧下さい。
参考資料(2)
旧赤穂藩の浪士四十七人が吉良義央の屋敷に討ち入りをかけ、義央の首を取ってしまう。これはどう考えでも、赤穂浪士の側が一方的に悪い。幕府も彼らを夜盗のような者だとみなして、全員打ち首にせよという処分案がすぐに出てくる。
ところが世間が、なぜだか悪い方に同情を寄せ始めたため、処理が難しくなり、幕府内で侃々諤々の議論となった。