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納得できない『逆説の日本史』(5)

具体的な問題点について


 これまで3点にわたり、『逆説2』における井沢氏の立論の仕方を中心に、
批判をさせていただきました。
 最後に、井沢氏が分析されておられることについて、別の解釈の方が無理がない、あるいは氏の解釈は成り立たないのではないか、という個別具体的な問題についてまとめて整理したいと思います。
 これまでと違い、以下の私の考えは、あるいは「史料至上主義」「権威主義」でも「歴史の呪術的側面の無視ないし軽視」に該当するかも知れません。

[A]聖徳太子の即位について

 厩戸王子こと聖徳太子がなぜ(崇峻没後に)即位できなかったのかについて、井沢氏は「当時十九歳だから、若過ぎるということもない」(P.23)と言われますが、私は「若過ぎた」と見られたものと考えます。
 それまでの天皇の即位時の年齢を調べると、書紀で"確認"できる例では最低でも29歳(安寧天皇(^^;)です。扶桑略記や一代要記で補っても、武烈の10歳があるだけで、彼はあまり良い先例ではないのは有名です。

[B]蘇我馬子と東漢直駒について

 これは本来は豊田有恒氏の説の引用なのですが、いちおう述べます。
 『逆説2』には「駒を殺すなら、それは天皇を殺した大罪人として殺すべきであって、自分の娘と駆け落ちした罪で殺すのはおかしい。これでは国家として刑罰を科したのではなくて、馬子が私怨を晴らしたことになってしまう」(p.51)と疑問視されています。
 でも、そのままで私は何も疑問はありません。
 書紀は、実行犯は駒だが、それを指示したのは馬子だとはっきり書いてあります。使命を全うした刺客を、それを理由に処刑する依頼人がどこにいるでしょう。口封じをしたいなら、何か口実が必要です。この場合、「自分の娘と駆け落ちした」(と読んだとして)ことがその口実だ、または本当にどさくさに娘を盗まれたことに腹を立てたのかも知れません。
 何も無理な読み方をして、太子や推古を黒幕にする必要はありません。

[C]太子の温泉療養について

 これも豊田説そのままなのですが…。
 『伊予風土記』(逸文)にある、太子一行が道後温泉へやってきたという伝承ですが、ことさらにこれを否定するつもりは私にはありません。
 しかしこの史料を、太子がノイローゼだったとする根拠にはできないと思います。
 実はここも史料の引用(p.57)に難があります。(中略)のすぐ後に「神の井に沐みて疹をいやすは」とあるのでその主語が分からなくなっていますが、原文に当たってみるとここは太子が「沐みて疹をいやす」主語とは読めず、この温泉がいかにすばらしいかを賞賛している美文の一部です。
 まして、このまま読めば「疹」は「発疹」の「疹」、つまりはしかのようなものを指すと見るべきで、これをノイローゼと読むのはムリです。

[D]聖徳太子の「異常死」

 藤ノ木古墳の被葬者が崇峻と穴穂部であるという井沢氏の?仮説を認めたとしても、それと太子とを同列に見ることはできません。
 太子の墓は他の2人(妻と母)との「合葬」(棺は別)(p.109)であり、藤ノ木古墳のは同じ棺への埋葬です。この2つは全然違うでしょう。

[E]「徳」のつく漢風諡号について

 最初に、井沢氏は「追号」と「諡号」の区別をしておられませんが、例えば『日本史小百科・天皇』によれば、

 天皇崩御後の称号は、これを分けて、生前の聖徳を称美するものを、諡号、讃美の意を含まず。御在所名その他による称号を追号という。ただし、両者を併せて広く追号という場合も多い。

とのことです。そして、神武〜桓武までは「諡号」ですが、それ以降の天皇はその多くが地名による「追号」で、その後は、仁明・文徳・光孝と、「変乱により遠国において崩御した天皇に、崇徳・安徳・顕徳(のち後鳥羽と改定)・順徳の号をたてまつって霊を慰めた例を除き、諡号は中絶して江戸時代末に至った」(前掲書)のです。
 ですから、そもそも崇徳・安徳・顕徳・順徳に「徳」がつくというのは、井沢氏が初めて発見したことでもなく、初めからそういう意図でつけられたというのが定説のようです。
 また、「徳」のつく天皇が少ないのは当然で、平安以降は諡号そのものがマイナーな存在だったのです。
 そこで問題は、そういう「徳」がどこまで遡れるかです。
 井沢氏は、淡海三船が一括に決めたという説を否定されていますが、かといっていつそれぞれの諡号が付けられたのかを明確にされていません。
 私は、日本書紀の本文に「聖徳」の号がすでに見えるにもかかわらず、それ以外の天皇の漢風諡号は本文に1つも見えないことから、恐らく懿徳も仁徳も孝徳も、書紀編纂後に付けたれたものではないかと思います。少なくとも、前の2つだけを古い時代に設定する根拠は見つかりません。

[F]『日本書紀』は大本営発表(p.214など)について

 確かに、書紀の記述を丸ごと信じるのは単純すぎますが、かといって大本営発表と同じだ、「天武の所業について真実が書かれているとは思えない」というのも逆に単純すぎるでしょう。
 戦争についての大本営発表は、日本人が直接知り得ない戦地の情報だからこそ大ウソが発表できたのですが、書紀はどうでしょう。天武朝は、書紀の完成から約50年以内のことです。しかも、天武の父が舒明でないとか、あるいは大友は即位していたといった、当時の豪族たちなら当然知っていてよい事実を、わずか50年後にことごとく隠蔽できたでしょうか。私には疑問が残ります。それほど強力な情報操作の力があるのなら、なぜ適当な年齢をでっちあげて天武が天智の弟であると明言しなかったのでしょう
 また、書紀が30巻のうち天武に2巻を費やしているのも、天武紀の分量が他の天皇より多いのも確かです。その意味で、書紀に天武の偉大さを強調しようとする意図が窺えないことはありません。しかし、それは事実の"取り扱い"の範囲であり、直ちに隠蔽や虚偽の可能性を示しません。
 まして、天武2巻といっても上巻は壬申の乱の戦記であり、単純に頁数だけを他の天皇と比較するのはおかしいですし、天皇40人といっても、その中には欠史八代のように記述が非常に少ない天皇や、治世が数年しかなかった天皇も含まれているわけですから。

[G]天智の陵墓について

 確かに、天智のみが陵墓の所在地を記さないのは疑問が残ります。しかし、それは天智の暗殺を示すでしょうか。
 明らかに暗殺された崇峻天皇の陵墓の所在が書紀に記されているのですから、陵墓の所在地を記載するか否かは、その天皇が暗殺されたか否かとは関係ないとも言えますよね。
 それから大后の「青旗の」の歌ですが、井沢氏は魂は死んだ場所の上をさまようものだと決めておられるようですが、山科が陵墓の地なら、その近くに魂が見えても別に問題ないでしょう。

[H]桓武が自分の即位を王朝交替と考えていたこと

 事実関係について、私は別に異論はありません。桓武は、天武系を否定しています。天皇陵に対する奉幣の件も、泉涌寺の位牌の件も、それを示す実例だと思います。
 付け加えるなら、聖武の娘を母にもつ(天武の血を引く)他戸親王を抹殺して皇位についた桓武にとって、天智の系統を強調することは、自己の正統化のためにはぜひとも必要でしたから。
 問題はその解釈です。私は、p.267〜p.268に引用されている吉田孝氏の解釈で十分だと思います。同じ天皇家の系統の交替でありながら、それを王朝交替に値するものとして、ことさら大きく扱おうというのが桓武の意図でしょう。平安朝はよくその意志を受け継いだということだと思います。
 天武系を排除したということは、直ちに天武系が別姓=非皇族であることを証明しません。それはちょうど、南北朝の対立のようなものだと捉えていいのではないでしょうか。

[I]天智天武の諡号について

 『帝謚考』で森鴎外は、確かに天智の諡号の典拠の最初に、紂王が最期に身に付けていた宝石の名前をあげています。しかし、鴎外は続いて他に3つの典拠をあげており、天智玉のみを主張しているわけではありません。
 仮に「天智」が天智玉に因んだのだとしても、それによって直ちに天智=紂王とは言えません。
 例えば、ヤマタノオロチを退治したスサノオが尾の中から見つけて手に入れた草薙剣を、ヤマタノオロチを象徴するものと考えますか?
 そもそも、鴎外の説なら正しいのでしょうか? それこそ権威主義的ではないかと、私には思えるのですが。
 ついでに言うと、鴎外は『帝謚考』の前半で、歴代天皇の漢風諡号を考えたのは淡海三船であるという説を支持しています。これは井沢氏が「「天智」の子孫である三船が、こんな曽祖父の名を恥ずかしめるような諡号を贈るはずがない」と断言されるのと真っ向から対立するのですが…。

[J]百済滅亡による亡命者について

 井沢氏は、彼らを「難民」とし、「難民が政府高官になると、イメージが わかないかしれないが」(p.317)と言われますが、そこに名前の書かれている余自信や沙宅紹明は「佐平」で百済の官位で第一であり、谷那晋首や憶礼福留は「達率」で二位であり、いわば百済の高官たちです。
 逆に、彼らに与えられた日本の冠位は26位中の7位や15位などで、政府高官と言えるかどうか、という程度です。 「難民が政府高官になる」という比喩は的外れです。
 このことは、前にご紹介した坂本太郎の「天智天皇と天武天皇」という論文に書かれておいて、井沢氏も読んでおられるはずなのですが。

 以下、天武天皇と持統女帝編、平城京と奈良の大仏編と続くわけですが、あまりに長くなりすぎますので、ひとまずここまでとします。


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