総合TOP古代史雑談「時には古代の話を」考察の部屋> 納得できない『逆説の日本史』(3)

納得できない『逆説の日本史』(3)

筋の通らない論証


 『逆説2』を読んでいると、「??」と首を傾げてしまう"論証"に何度か出会います。

 例えば、聖徳太子が叔父崇峻帝暗殺のショックで病気になったという豊田有恒氏の説を延々と引用された後(この章には、それと明示されていない箇所も含めて『聖徳太子の悲劇』の影響があまりに濃いです)、井沢氏は「聖徳太子はなぜ政界に復帰することができたのか。」という問題提起をされ、「それは、推古女帝の息子である竹田皇子が早死にしたたためと考えられる。」と即答されています。ここは井沢氏のオリジナルです。
 しかし、書紀には彼がいつ死んだのかは書かれていません。しかし、母である推古よりは先であること、竹田に妻子がいたという記録がないことから、かなり若くして死んだことは推測できます。
 そこで井沢氏は、その時期を「崇峻天皇が暗殺されてから太子が温泉療養で立ち直り飛鳥政界に復帰するまでの、五九二年から六〇〇年頃の間だろう」と推測されます。

 つまり井沢氏は、竹田の早死を太子の政界復帰の理由としながら、逆に太子の政界復帰を根拠に竹田の没年を推定しているのです。???
 これでは説が循環しています。仮説Aの論拠としてBをあげ、そのBが証明を必要とする仮説である時に、その論拠にAを使っているのです。
 こういう場合は、Bを証明する別の論拠Cを持ってこなければいけません。上の例で言えば、竹田が592〜600年に死亡したことを、別の何かで説明しなければいけないのです。「若死」だけでは、彼の死亡時期を特定することはできません。600年より少々後でもいいし、逆に推古の即位前でもいいことになります(かの『日出処の天子』はこの説)。

 これと同様なのが、「…徳」という諡号についての分析です。
 井沢氏は、聖徳太子以後の天皇で「…徳」という諡号を持つ天皇は、みな不幸のうちに死んだから「徳」の字を付けられたと主張されています。
 これに対して読者から、神武から称徳までの漢風諡号は一括して付けられたものだから、太子以後と太子以前とに分けられない、したがって(不幸のうちに死んでいない)仁徳や懿徳に「徳」がつくのはおかしい、という反論があり、氏はこれに答えます(P.275〜)。
 実は、この"読者の反論"も正確ではないのですが(後述)井沢氏の反論は見事に循環してしまいます。
 氏は「仁徳あたりまで」の「"超人的な"天皇の諡号と、用明(略)や推古のような実在性の明確な天皇の諡号とは、別の時期にそれぞれ別の人間によって選ばれたものだと考えている」とし、その理由を、

 「聖徳太子編」で述べたように、「孝徳」以下「順徳」までの「徳の字」天皇は、明らかに不幸な状況で死んでいる。これに対して「懿徳・仁徳」にはその形跡はない。これだけ諡法(ネーミング)の手法が違うのは、別人が考えたと考える他はない。

(P.277)

と述べています。「別人が考えた」と考える理由は「"徳"の字に対する諡法の差」であり、「別人が考えた」のだから、仁徳・懿徳と聖徳・孝徳などの"徳"とでは、使われた理由が違う(聖徳以降だけが鎮魂を目的としている)と言われるのです。
 これは、氏が自ら言われる「強引な論理」どころではありません。

 『逆説2』の中で大きな柱となる井沢氏の理論の1つは、『日本書紀』は「天武ファミリーの手になる「御用社史」」(P.239)、「天武の「悪事」を隠すために作られた史書」(P.257)であるという立場です。
 これは、氏にとっては自明かつ絶対的なことのようで、これに対して書紀の記述を信じようとする歴史家は、「「心理操作(マインドコントロール)」に乗せられている」とか、「学問以前の、人間としての常識」に欠けるとか、クソミソです。

 ところが、書紀へのそういう一面的な決めつけは、ところどころ辻褄が合いません
 例えば、草薙剣が天武に祟って病気になるという記述があります。これについて氏は、自分が設定した「御用社史」という前提は全く疑わず、この記事を「後に、天武の「悪事」を告発する意図を持った人間が、さりげなく書き添えておいたということは考えられる」(P.258)と言われます。
 こういうことを主張されるなら、この記事(草薙剣の祟り)だけが後世の、しかも天武の「悪事」を告発する意図を持った人間による書き添えであることを、それこそ合理的に証明しなければならないはずです。
 立てた仮説に合わない例が見つかれば、まずその仮説を疑うというのが、普通の検討の仕方ではないでしょうか。

 こうした例は他にもあります。長くなりますので省きますが、特にP.391 の、天武の"真の父親"についての推論はもっとも典型的なもので、私には全く逆の結論が導けるように考えられます。

 仮説はあくまで仮説であり、それが正しいかどうかは、一つ一つ検証していくものです。循環論的になってしまったり、矛盾する事例が出てくるということは、その仮説こそを疑ってみるべきではないでしょうか。
 これも、「史料至上主義」でも「権威主義」でも「歴史の呪術的側面の無視ないし軽視」でもない、常識的批判だと思いますがいかがでしょう。


もどる