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-太っ腹へ物申す-


 北風が吹くと思わず身をかがめてしまう。

 「うぅ…」

 実家は雪が降るくらい寒いから、よく友達からは

 『みーちゃんこんなの寒くないよね〜』

 ってよく言われるけど…そんなことない。

 雪が降っても降らなくても、寒いものは寒い。私は家族の中で人一倍寒がりだ。

 だから寒さにも敏感でクラスでは私が一番初めにコートを着こんでマフラーと手袋をして学校へ来た。

 重装備。

 そんな重装備をしても寒い。

 これは雪が降る実家での格好。

 でも寒いのって不思議。

 実家でこの格好でも寒かったから、こっちだったら全然暖かいだろうって思ってたのに…

 学校帰り。

 片手に持ったカバンが恨めしい。

 これがなかったら両手で体を抱えて帰れるのに。

 これだけでも大分違う。

 いつもの帰り道。

 「あー・・・もう」

 一人、北風に悪口を言いながら歩く道。

 お夕飯の献立を考えていても自然お鍋しか思い浮かばなくなる。

 お兄ちゃんは一人だからお鍋とか作りづらいけど、うちはお姉ちゃんがいるから少し大目に作っても大丈夫。

 「あー…」

 今度は北風は吹いていない。忘れてた。今日はお兄ちゃん家の近くのスーパーで鶏肉が安い日だったのに。

 明日は鳥鍋、って考えてたのに今日に限ってお兄ちゃん、飲み会だ。

 残念。買いだめしもしたかったのに…

 『みーちゃんって旦那さんでもいるの?』

 ってよく言われるため息をついている時だった。

 「あれ?」

 向こうからお姉ちゃんが歩いてきていた。

 茶色のダウンジャケットにマフラーを首にまいてくわえ煙草…はもうない。

 足元を見ながら歩いているから、私のことには気付いていない。

 今、お姉ちゃんは転んだら危ない。

 なんてったってお兄ちゃんとの子供がお腹にいるからだ。

 去年の秋。冬になりかけの秋。お姉ちゃんが一人で実家に帰ったことがある。

 お兄ちゃんはそれを迎えに行って…帰ってきてからお兄ちゃんに聞いた話。

 『お姉ちゃんなんでうち(実家)に帰ったの?』

 『あー…』

 お姉ちゃんが入っていったトイレを一回見てから、私を見てこう言った。

 『お前がおばさんになっちゃった、って話だ』

 ちょっと笑いながらそんなこと言われても全然意味が判らなかった。

 『おー、美汐』

 洗った手をズボンで拭きながらお姉ちゃんがトイレから出てくる。

 『美汐、ごめん。あんたおばさんになっちゃった』

 二人して私をからかってるの?

 心配してたのに。

 ちょっとムっとすると、今度は二人とも真面目な顔で私の前に…正座した。

 『私、皆斗の子供ができたんだ。その報告に行ってきたんだよ』

 こども。

 お姉ちゃんと、お兄ちゃんの?

 びっくりした。

 本当に、本当に、本当にびっくりした。思わず私笑ってた。でも何冗談言ってるのって言える雰囲気じゃなかった。

 お姉ちゃんとお兄ちゃんは少しも笑わない。

 子供。

 子供って。

 二人の子供?

 「お…」

 おめでとうは最後まで言えなかった。

 うっ、と胸が嗚咽を漏らしていきなり私は泣き出した。

 まったくわけがわからない。

 中学生になったらさすがに泣かなくなったけど、小学校の頃は同級生の男の子に叩かれたり悪口言われたりしてわーわー泣いてた。

 泣き出すきっかけっていうのがある。

 痛いことや悲しいことがあると心の糸がぷつんって切れる瞬間がある。糸が切れて落ちるスピードは色々。痛いときは糸は鉄みたいにストンって落ちるし、悲しい時は羽みたいにふわふわゆっくり落ちていく。

 でも今回は、そんな兆候は全然なかった。

 自然に泣く。

 私はこの感覚に近い物を知っている。

 ドラマを見て、感動して泣く時だ。

 今まで離れ離れになっていた子供と母親が再会するシーンとか、大事な人が死んでしまうシーン。

 でもそんな物語は観る人を操っている、っていうのはお姉ちゃんの話。

 『脚本家は物語っていうのをよく知っている。色々演出して、音楽とかシチューエーションとか凝りに凝ってそれを総動員だ。だから人を泣かせられるんだ。コツがあるんだよ、コツが。』

 目の端に少し浮かんだ涙をごまかすようにして言ってたお姉ちゃん。

 でも、今この部屋には脚本家なんていない。

 本当の感動はいきなりやってくる。

 それも一番思いもよらない形で。

 お父さんもお母さんも認めてくれて。

 一番お兄ちゃんが心配してた事も解決して、ついにお姉ちゃんの報われない恋が本当に実った瞬間。

 その時は私が泣いて終わったけど、改めて考えると身近な二人に子供ができたってことがなんか照れくさくて、とくにお兄ちゃんの顔をまともに見れなかったのは内緒。

 お兄ちゃんも男だなぁって思った高校1年生でありました。

 とりあえず、お姉ちゃんのお腹は順調に大きくなっていた…もう普通の服だと収まらなくなってきたくらい。

 『あんた、料理に酒でも入れてるでしょ?』

 私への説明は重い煙草を沢山吸いながらウォッカでも一気飲みしたみたいな酷い二日酔い。

 "つわり”でしょっちゅうトイレとベッドの往復だったお姉ちゃんも最近ようやくまともに動けるようになって、あぁして外にも出るようになって。

 「お」

 前に比べるとだいぶ顔のラインに丸みを帯びたお姉ちゃんが私に気付いて左手を上げた。

 「おかえり」

 「ただいま、お姉ちゃん」

 ちょっと前まで一日中つわりで不機嫌だったお姉ちゃんは、今は憑き物が晴れたみたいに…お兄ちゃんの言葉でいうとしけた面をしている。こんなに優しい顔なのに。

 「今、帰りか」

 「うん。」

 せっかくだからお夕飯のお買い物に誘うとお姉ちゃんは私に寄り添ってきた。

 「寒いなー」

 「うん」

 少し腰を屈めて。男の人みたいに肩に手を回してきて、私はお姉ちゃんの体に引き寄せられる。

 暖かい。お姉ちゃんのダウンジャケットは風にさらされて冷たく感じるのに、何故か体があったまっていった。こうしてくれてるのがお姉ちゃんだからかな。

 ほっとする暖かさに私もお姉ちゃんの腰に手を回した。最近すっかりタバコの匂いがしなくなったのは…あぁ、二人分だから余計に暖かく感じるのかもしれない。

 「あたたかーい」

 「はははは」

 お姉ちゃんも私を暖かいって思ってくれてるのだろうか。嬉しそうに笑って、一緒に曲がり角を曲がる。

 「あんたも、私じゃなくていつかどっかの馬の骨とこうするんだろうねぇ」

 「お姉ちゃん、お母さんみたい」

 「ババ臭いって正直に言ったらどう?」

 「あははははは、つめたい、つめたい、ごめんごめん」

 お姉ちゃんの冷たい指に首筋をくすぐられながら私はあることを思い出す。

 そうだった。

 馬の骨で思い出した。

 「お姉ちゃん、バレンタインデーだ」

 そのウマのホネにチョコをあげる日が数日後に迫っている。

 私にはウマのホネになるような人ははいないけど、お姉ちゃんは。

 「おぉ、そんな日か」

 いかにも忘れてた、っていう風に空を見上げる。

 「心配しなくても大丈夫、ちゃんとやるよ」

 去年もあげたしな、って言葉に私は油断していた。

 近所のスーパーについてカートにカゴを乗せながら私はお姉ちゃんに聞く。

 「どうするの?」

 この前の日曜日、バレンタインデーまで一週間くらいあるのに気合を入れた友達とチョコを作ったばかりだから、もし手作りするなら少し手伝ってあげても良いって思ったけど

 「そうだな、丁度いいから今日買うか」

 なるほど、お姉ちゃんは買う派のようだ。

 高いのを買っておけば、もったいないから嫌でも渡さないといけない。渡さなければいけないってことは必ず告白しないといけないってこと、って言うのは別の友達の言葉。

 あぁ、でもお姉ちゃんは別に告白する必要ないんだよね。

 日頃の感謝の気持ちかなぁ…って言ったのは3年の先輩に恋人がいる友達。チョコだけじゃなくてマフラーとか映画のチケットもあげるって言ってた。

 とか、思ってるうちに気付いたら私達はレジに並んでいた。

 「あれ?」

 お姉ちゃんは買い物をする私から離れもせず、かといってチョコ売り場に行きたいとも言いもせずに財布を持って一緒に並んでいる。

 別のお店かな。

 と思っている時、前のおばさんの清算が終わって私達の順番が来る。

 「あ、すいません、これ3つ下さい。」

 その時お姉ちゃんが動く。

 「はいよ」

 おばちゃんが気前よさそうに頷いてレジの横の棚から…

 「すいません、買い忘れありました!」

 私は慌ててカゴを掴むとお姉ちゃんをレジから引き離した。

 「ちょ、どうした美汐」

 お姉ちゃんは私に押されるまま不思議そうな顔をして、レジ後ろのカップラーメンコーナーに入っていく。

 「なんで、タバコなの」

 お姉ちゃんが買おうとしたのは、お兄ちゃんが吸ってる銘柄のタバコの束。

 「え?バレンタイン」

 大当たり。ハワイ旅行に行けそう。

 「なんで、タバコなの」

 「だってさ、アイツ今私に合わせて禁煙してるけどさ、んなことわざわざしなくて良いよって。日頃の感謝に超太っ腹な3カートン。」

 「そうじゃなくて」

 初めて私は、頭を抱えたいと思った。

 大事な人への贈り物が…タバコ?

 私がもしお兄ちゃんだったら…嬉しいかもしれないけど…

 嬉しいかもしれないけど・・・

 なんだか少し許せない。友達が誰に何をあげても勝手だけど、お姉ちゃんがお兄ちゃんにタバコをあげるなんて許せない。

 「バレンタインだよ?」

 「あぁ、チョコ?だめだめ、あいつチョコ嫌いタバコ好き」

 「そうだけど!」

 「ま、待って美汐…ちょっとあんた怖いよ」

 お姉ちゃんが後ずさる。じりじり追い詰める私。

 確かに、お兄ちゃんは甘すぎるチョコは嫌いだけど。

 「せめてさ、何か違うのにしようよ。」

 「ち、違うのって」

 「チョコがダメなら違う物。何か形に残るものにしようよ」

 二人が結ばれてはじめてのバレンタインデーなのに。

 タバコなんて。

 タバコだよ?

 肺がんで早く死ねって言ってるの?

 って口から出てきそうだったけど、必死に悩むお姉ちゃんを前にどうにか口を閉じることができた。

 「形に残るって…はいざ――」

 「灰皿20点」

 「…追試か」

 「タバコから離れようよ」

 「え!!」

 そんなに叫ばなくても。

 これじゃまるでお兄ちゃんにはタバコしかないみたいな…

 あぁ、言いたい。

 お姉ちゃんは、私の言葉に本当に悩んでいる。手近の棚からカップラーメンの容器を取ると手の上でもて遊ぶ。

 これが最近の癖。昔は煙草をほとんど吸わないで消して、またつけての繰り返しだったけど、タバコを止めた今はこうして…手に何かを持って物思いに耽る。

 今日は無理そう。

 明日がバレンタインデーじゃなくて良かった。

 「お姉ちゃん、私も手伝うから、色々考えようよ、お兄ちゃんのために」

 「あ、うんそうだな…」

 お姉ちゃんも、ようやく危機感を感じたのかいつになく神妙に首を縦に振る。

 さぁ、頑張ろう。




 「…」

 昨日、美汐に言われたわけじゃないけど。

 私は学校に行く美汐を見送った後、皆斗の家に来ていた。

 まだ試験期間。ヤツは3年生。点数がやばいってぼやくなら、飲みになんて行かなきゃいいのに。

 一人部屋を見回して…いつものように汚い。美汐が夕食作りに来る度に片付けるものの、一晩のうちにごちゃごちゃと。

 アイツ、このごろ美汐を召使と勘違いしてるんじゃないだろうか。

 皆斗が脱ぎ散らかした靴下とかトランクスとかを洗濯機に放り込むと私は皆斗のベッドに腰掛けた。

 考える。

 タバコ。

 一理ある。

 タバコは、確かにロマンってのがない。

 必要かもしれないけど、どうにもこうにもアレだ。

 無くなるのに躊躇がないというか、消耗品というか。

 吸ったらポイ。語感もなんか縁起が悪い。

 それを言うならチョコだって消耗品だけど。

 あれは、世間の風潮的にロマンがある。

 アイツもチョコは嫌いだけど、食べられないわけじゃないし。

 中学の時とかクラスの女連中がきゃーきゃー言いながらバレンタインの話をしていたのを思い出す。

 わたしっ先輩にチョコあげる!一緒についでに告白しちゃうっ。

 何をそんなに嬉しそうに言うんだか、ってあの時は。

 「みなとっ、私ぃ、あなたにチョコを…」

 真似してみて…自分で気色悪くなってやめた。きっとジンマシンが出てアイツがチョコみたいな顔色になるに違いない。

 これをヤレというのか、美汐は。

 「はぁ…」

 とにかく、おちゃらけるにしろ真面目に渡すにしろ、ビターだろうがミルクだろうがホワイトだろうがチョコレートは私の柄じゃない。

 ベッドの上の二つの枕。

 左側の枕に頭を預けて天井を見る。

 何が欲しいんだろう、アイツは。

 アレが欲しいコレが欲しいとかそういう話はよくするけど、やれバイクだの車だのパソコンだの。こんなのをバレンタインに贈れるやつはとんだセレブだ。

 やっぱりチョコしかないのか。

 どうもさっきのノリが先行してかなりイヤなんだけど。

 「…」

 最近仰向けで寝るのが息苦しくなってきていて、天井を見るのをやめて私は横を向いた。

 すっかり大きくなってきたお腹に聞く。

 「なんか知らない?」

 あんたのために最近アイツまでタバコ止めたんだ。

 こう、親に報いようとか思わない?

 多分きっとお前の方が私より女の子らしいんだから。

 私の人生の中で不自然な腹の出っ張りを撫でても…やっぱり反応が無い。

 自然、笑いがこぼれる。

 「まだ、お前には早いか」

 最近私は独り言が多い。

 お腹に一人くっついてるから、独りじゃないか。

 「…」

 大きくなれよ。皆斗の言葉を借りて、私は腹を撫でた。自分の体温の奥にあるものを触る。何度やっても飽きない…ちょっと幸せな時間。

 すっかり私も女になっちゃって。

 これじゃチョコあげるしかないかな、食べなかったら私が食べれば良いって思ってた時だった。

 「…?」

 部屋の隅にあるコンビニ袋が目に入る。

 酔った勢いで買い物して、そのまま服を脱ぐついでにぶんなげた。

 そんな感じで中身の入った袋が壁に逆立ちしていた。

 多分、本。

 あいつが本買うなんて珍しい。

 どんな本だ?

 一度気になるとどうにもたまらない。

 私は起き上がるとそれを拾い上げた。

 中を見て…

 「おおっ」

 見ちゃいけない。思わず私は片手でお腹を覆っていた。




 「皆斗」

 昼過ぎに帰ってきた皆斗に、とりあえずタバコを与えてみる。

 胸目掛けて投げたのになんて素敵なコントロール。膝の辺りに飛んでいったマイルドセブンをどうにかキャッチする皆斗。

 げっそりした様子は、昨日の酒の量を物語っている。

 「うぁ?」

 不思議そうにタバコを見つめ、私を見る。

 「俺、やめたんだけど」

 「まぁまぁ、仕事の後の一服は美味いってヤツだよ。」

 「ったく、それなら今はビールが欲しいな」

 苦笑しながら皆斗はタバコをポケットにねじ込んだ。これをどうするかは知らないけど、多分友達とかに上げるんだろう。私に隠れて吸っているとか思ったりもしたけど、それならその臭いが全然しない。ケムリはかなりしつこく服に絡んで残るのにほとんど漂ってこないのだ。ふざけて皆斗の指にキスをしても指から欠片も匂ってこない。

 ってことは本当に皆斗はタバコを止めるつもりらしい。

 「ビールってあんた…昨日しこたま飲んだんだろ?」

 「あー、飲んだ飲んだ。俺だけで瓶10本はいったなありゃ。その後ポン酒だのブランデーだの色々入れちゃってさ」

 ビールジョッキを戸棚から出して何をするのかと思ったら、それに水道の水を一杯に入れて一気飲みを始める。

 昨日の飲みっぷりときっと反比例する程の勢いの無い一気だけど、なんともまぁ美味しそうに水を飲む男だ。

 「あー…不味い水道水」

 「砂漠で言ってごらん、殺されるよ」

 「水が無きゃジュースでも飲めってんだ」

 頭がまだ痛むのかこめかみをおさえながら、皆斗は私の横に腰掛けた。

 ちょっとやつれた横顔は私の左手を握りながら今日あったテストのことを話し始めた。

 のどかな光景。

 私の中で好きな時間の一つ。

 皆斗と私は違う大学だから、授業の内容も先生の顔も皆斗の言葉でしか知らない。

 正直、他の誰かがこんな話してたらサヨナラしてる。その大学に通う人しか判らない内輪ネタ。遊びに行った家でその家族のアルバムを見るくらいつまらない内容。

 でも皆斗の横顔を見ながらそれを聞くと、判らないけど楽しくて自然に笑みがこぼれてしまう。逆に私の返事で皆斗にイヤな思いをさせてないかって心配するくらいだ。当の本人は知ってか知らずかマイペースで話してはいるけど。

 マイペース。

 まったくもっていつもの通りだ。

 私の手を握る力も昨日と、一昨日とも同じ。ちょっと変な汗かいているのは…多分昨日の酒のせい。

 酒のせい。

 「ねぇ・・・」

 繋いでいた手を離して首に手を回してそのまま頬に唇をつける。

 「な、なんだよ」

 案の定驚いた感じで、でもちょっと嬉しそうに眉を上げて皆斗が私を見つめる。まっすぐな目。昔はちょっと見詰め合ったら照れて横を向いていた癖に。

 「何、禁煙チェックか?」

 と、皆斗が顔を近づけてきて私たちはキスをした。目を閉じて口と口が触れ合うだけのキス。その口からはちっともタバコの香りなんかしていなかった。優しく体に手を回してきて、もたれかかってる私を支えてくれる。キスもすっかり慣れたものだ。やりはじめの頃はお互い鼻息が荒かった気がしたのに、今はもう産毛がそよぐかってくらいの優しい息遣い。

 優しい、息遣い。

 ほんとにごめんね、皆斗。

 こんなキスでいつも終わっていたのが本当に可哀相に思う。

 「・・・?」

 私の背中に回った皆斗に少し力がこもる。

 私は"その時”にするように皆斗の唇を舌でこじあけて、少しだけどまだしつこく酒のにおいがする前歯を舌先で舐め上げた。

 とんとん、と背中を叩かれるがそんなものはお構いなしだ。

 じゅ、とお互いの口のつなぎ目からいやらしい音が漏れる。その時なら皆斗は同じように舌を絡めてくるのに今日は頑なに歯を食いしばって私の舌の進入をこらえている。

 それが不憫でとてもたまらない。

 ちょっとしたキスならいいけど、深いキスはエッチな時のスイッチが入ってしまうから、コイツは必死になって我慢している。

 私の頬に感じる鼻息が荒くなっていき、そしてキスは無理矢理剥がされた。

 「あ、あは、姉貴どうしたのさ」

 声を裏返させて皆斗が乾いた笑みを浮かべている。唇の端からどっちのか判らないよだれを垂らせて場を取り繕うような笑声をあげる。

 「そんなんしたらさ、ほら、ガキがびびるじゃんか。なぁ、ちょっと性教育には早ぇよ」

 「・・・」

 今の自分はどんな顔をしているかまるでわからない。嬉しい時や怒った時の顔は鏡じゃ結構見る機会はあるのに「可哀相」って顔はあまり見ないから。恋愛漫画じゃ相手の瞳に〜って表現があるけど、一瞬で見抜くほどそこまで私は目がよろしくない。

 「みなと」

 多分、私はかなり真剣な顔をしてんだと思う。

 「お、おう?」

 「たまってんだろ」

 「・・・!?」

 「が」とか「ご」とかそんな単語の中間の声を出して皆斗がのけぞって私の顔から身を離す。

 「せ、政治家もそれくらいストレートにはっきり言えば、す、素敵だよな」

 「変な文句はいいよ・・・私は真面目に・・・」

 コンビニに袋に入っていたのはエロ写真雑誌。何に使うんだっていえば、もうそれは用途は一つしかない。

 黒い下着を着けた女が悩ましく足を開いた表紙。けばけばしい文字で激写!とか書いてあったあの本。

 私と二人暮ししてた時も、ちょっとヤツの机を漁ると出てきたもんだが、ガサ入れしてはあいつも溜まってんなぁ、若いなぁとか苦笑してたもんだけど。

 「1年くらいできなくても、そんなもん我慢できるよ」

 って妊娠した時は笑顔で言ってくれて、すっかり私も安心・・・じゃないななんて言ったらいいんだろう。

 よく判らないけど、すっかり"その気”がなくなった私と一緒に赤ちゃんを待つ準備してくれるんだなって一体感のようなものを感じていた。

 でもやっぱり皆斗も男の子なんだよなって、あの本を見て思い出してしまった。

 とくに酒。

 酒の勢いで〜〜〜したって話はよく聞くけど、酒ってのは本能の本音を曝け出す飲み物だ。

 だから、酒の勢いで買ったコンビニの袋に入ったアレは・・・

 「あっ」

 以心伝心か。皆斗の口が「あ」の形のまま動かなくなった。

 みた?

 唇が力なく動く。頷くと、皆斗はバツが悪そうに後ろ頭をわざとらしくかきだした。

 「マジごめん」

 「なんで謝るの?」

 「いや、だって・・・」

 あんなにこじあけようとして出てこなかった舌で自分の唇を一回舐めると皆斗がこんなことをいう。

 「浮気しちゃったかなーみたいな」

 なに?

 「あ?」

 「いやっ、そうじゃなくて、実際の女じゃなくて、ほら、あれ、雑誌でもさ、一応写ってるの女だからさ、その、さ、あの、さ」

 一気に肩の力が抜けるのを感じる。実際ホントに抜けてしまって私は皆斗の胸に額を乗せる形になる。

 私と皆斗、お互いの心配の度合いがかなり正反対を行ってるようだった。

 浮気発言は正直驚いたけど。

 「違うよ。私は、赤ちゃんができたからエッチできなくてあんたが辛い思いしてんじゃないかって思ってたの」

 「うぇ」

 お得意のオーバーアクションで皆斗が手で両目を覆った。

 「ついにきたよ、その台詞」

 ちょ、ちょっと・・・何、それ。

 私の面食らった顔をわざと見ないように、先んじて両目を覆ったとしたら皆斗は策士としか言いようがない。

 真剣に私は考えていたのに。赤ちゃんができてから全然その気はなかったのに、さっきは頑張って皆斗のためにその雰囲気を作ってせめて何かシてあげようとしたのに。

 ついにきたよ、その台詞?

 きた、きたってなに?なんでそんなにふざけてるの?

 困った感じで、でもニヤニヤ笑いながら皆斗が肩をすくめる。

 「いつか言われるんじゃなかったと思ってたけどさ、本当に言われるなんて思ってなかったからさ・・・」

 ・・・まさか冗談で受け止められていたのだろうか。

 冗談。

 なんだか、もうかける言葉が思い浮かばなくなってしまった。

 「ごめん」

 皆斗の顔も見ることができない。ヤツの頬に少しだけ触ると私は玄関に向かった。

 「お、おいっ」

 皆斗の声が聞こえるけど、立ち止まる気は少しも起こらなかった。

 「よくわかんねーけど、駅まで送ってってやるよ」

 あんなに寒い帰り道は、本当に久し振りだった。




 その日見た悪い夢は最悪だった。

 真っ白い部屋に真っ白いシーツのベッド。多分、病院。そこで「目覚める夢」

 夢の中で目が覚める夢ってのも変だけど、ともかくそんな夢。

 目覚めると膨らんできたお腹を毎朝眺めるんだけど、夢の中でも同じことやって・・・しぼんじゃって軽くなった腹がそこにあった。

 あぁ、そうだ、生まれたんだなって思って横を見ると、小さなベッドに私の赤ちゃんが。

 それだけの夢。

 一日中赤ちゃんと二人でいる夢。

 二人だけでいる夢。

 部屋にドアはあるのに一度も開かないで夜になってしまう。

 で、寝る。

 病室に椅子がないのは、誰も来ないからなんだなって思って・・・現実で目が覚める。

 黄ばんだ天井を見上げて、お腹をなでる。

 胎教に悪いよな、ごめんね。



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