さっき寝たばっかだと思ったのに、電話に起こされた朝。 「…はい」 枕もとに携帯置くの今度から止めようとか、そう思ってると何か女が向こうで喋っている。そういや、確認しないで電話に出ちまった。間違い電話だったら…どうしてくれよう。 『お兄ちゃん?』 間違い電話じゃなかった。 「どうした?」 美汐からの電話だった。朝は俺が寝てるってことはコイツも知ってるはずだから…電話してくるなんて余程のことがあったみたいだ。声を聞くなりいきなり目が冴えて、起き上がる。時計を見ると…朝の7時。 『朝早くごめんね』 「いや、いいよ。何かあった?」 美汐のすまなそうな声。電話口の向こうで頭下げてそうな勢いだ。 『お姉ちゃん、そっちに行ってる?』 「姉貴?」 『うん。お姉ちゃん。朝起こしに行ったら…部屋にいなかったから。夜中とか私寝てる間にそっちに行ったのかなって』 いや、まさかな…見回しても寝る前に脱いだ上着とか、ジーンズとかしか転がってない小汚い部屋しかない。 「姉貴いねーの?」 なんとなく、玄関まで行っても靴は無い。トイレも風呂場にも欠片もいなかった。 『うん、どうしたんだろ…』 美汐は酷く心配そうな声で「うーん」とか言ってる。姉貴が家の外に出るには美汐の部屋を通らないといけないけど、コイツは寝起きは良いけど寝付きも良いから、寝ちゃうと時間が来るまで中々目を覚まさない。 だから、夜中出て行ったとしても気付けっていうのは難しい。育ち盛りだし。 「あれじゃない?早く目覚めて散歩でもしてんじゃない?…って姉貴の携帯は電話した?」 『したんだけど…ココにあるの。』 「ここ?」 『お姉ちゃん、携帯忘れてったみたい』 「あぁ、じゃぁやっぱ散歩だろ。うろつくだけだから携帯置いてったんじゃない?」 『そうかなぁ…』 あっちで多分美汐は首を傾げてんだろう。一年が経つのは早いもんでもう今は10月。美汐は今年の3月に引っ越してきてからまだ7ヶ月か。故郷の親父とかの目から離れて「大学生」になった姉貴の生態は3年間一緒だった俺でも計れない所があるからなぁ… あ、時間。 「ほら、お前学校行かないとダメだろ?姉貴もそのうち帰ってくるって。俺も後で連絡しとくから」 あくびが復活する。 『うーん…じゃぁお願いね』 「おうおう、じゃぁ頑張って勉強してこいよ」 ありがとう、と美汐が電話を切ると俺の頑張りが終わった。 なーんてことはないちょっとした朝の事件でし… おやすみなさい。 「はぁ?」 すっかり忘れてた電話するの。 『戻ってきてないの…お兄ちゃん、電話とかきてない?』 時計を見ると…午後の5時だ。今日は姉貴の家で飯食う約束だったから今から出ようって思ってた時だった。 『携帯も朝置いた場所から動いてないし…』 「灰皿見た?」 『見たよ、朝掃除したままだった…お兄ちゃん、一緒に探しに行こうよ…』 電話の向こうの美汐は今にも泣きそうな感じだった。 「今すぐ俺行くから、夕飯でも作って待っててくれよ。な、美汐」 『うん…早く来てね』 どうしたんだ、姉貴? 「ホントだな」 灰皿は空っぽだった。テレビ観てる時なんか始終口から煙吐いてるのが姉貴なのに、姉貴の部屋と台所にある灰皿は使った形跡なんてなかった。自分で片付けたって選択肢は初めから出ないのが、それが姉貴。 「なんだろな」 「…」 美汐は泣いてはいなかったけど、顔色が悪かった。風邪の一歩前みたいな顔色だ。いっつも頬に赤みがさしてるのを見ているから、なんか痛々しい。 私のせいかな。って前みたいに泣かれる前に俺は美汐を抱きしめてやった。 「心配ないって美汐」 不安なのか俺の手を握って離さない美汐を不安にさせないように、できるだけ明るく声をかけた。 「ちょっと考えてみっか。あれ冷蔵庫に入れながら」 玄関にはスーパーの袋に入ったままの夕食の材料が置いたままになっていた。姉貴が心配で何も手がつかなかったんだろう。 ほんと、何やってんだ姉貴。 いくら俺でも少し心配になってきた。でも、俺が不安になってたら美汐は警察に行きかねない。まぁ、最終手段は警察に探してもらうのが良いかもしれないけど…そんな大事になんて。 「お兄ちゃん、アイスは冷凍庫…」 「あ、おお。間違えた」 ばれちゃったかな。 「お姉ちゃん、帰ってくるよね」 「だから、心配ないって」 根拠はないけど… 俺は美汐の頭に手を乗せて、考える。 また大学に家出でもしたんだろうか。 いや、でもなぁ、今回はなんも…心当たりが… 「姉貴、レポートたまってるとか言ってた?」 「ううん、単位はもう足りてるから卒業だって前言ってたと思う」 で、美汐も心当たりが無いような顔してるし。 「昨日姉貴何してた?」 「昨日は…私が帰ってきたら居間で寝てたよ。夕飯できたら起きて、テレビ観ながら夕飯食べて…あとは…お風呂に入って…」 「ふつー通りだな」 「ねぇ、電話でもなんか言ってなかった?」 「うーん」 毎晩11時くらいに姉貴から電話が来て、適当にだべるのが日課になっていて昨日も同じ。 手がかり…手がかり… 『好きだよ』 うっ。思い出した。そうだ、今更何言ってんだとか思ったんだ。何恥ずかしいこと言ってんだとか突っ込んだんだ。 おやすみ、の前に姉貴が唐突にそう言ったんだ。話の流れじゃ時々そういう話になることもあったけど、昨日は全然方向が違う。なんてったって暴走族の話してたのに。あいつらウルセー、ムカツク、ウゼー、ぶっころせとかそんなの。色気もへったくれもあったもんじゃないのに。 なんだなんだ? 「お兄ちゃん?」 「あ、いや、べつに…フツーの電話だったよ。電話の時寝惚けてて思い出すのに時間かかっただけだわ」 「そう…」 残りの材料を美汐が冷蔵庫に入れる。毎日の食生活が豊かな割りにすっきり整頓されてるのは、美汐がちゃんと食材を考えて買い物をしてるから。 美汐が色々と不調だったりすると作りすぎた夕飯とかが入ってたりするから、美汐と姉貴は本当に上手くいってたみたいだ。 じゃ、じゃぁ俺か…? 好きだよ、とか言って次の日いなくなる。 漫画とかドラマだったら、これが掴みだ。家族とかとその人の心配してるとかかってくるのが…電話。 お姉さんが死体で発見されました、とか。 おいおいおい、勘弁しろよ。 口の中が酸っぱくなって胸がドキドキしてきた。姉貴と見詰め合ってる時とかに感じるアレじゃない。腹の底から来るみたいなイヤなどきどき。少し寒ささえ感じる動悸に俺は唾を飲み込んだ。 いやいや、まさか。 本当に誘拐とか、散歩してて変な事件に巻き込まれたとか。 俺が姉貴に何かしてどっかに逃避行してる最中って考えた方がまだ良い。 俺のせいにしとけばまだ不安は。 ただ姉貴が無事でいてくれれば。 よし、俺が何したか考えよう。 『わぁったよ、俺も好きだよ』 恥ずかしかったから、投げやりに答えちまった昨日。 『照れるなよ』 って姉貴は笑って言ってくれたけど。 もしかしてアレが姉貴の乙女心を傷つけたのかも? いや、そういうノリじゃなかったと思う。 いつもどーりの、ノリだった。 いつもどーりの… その時、電話がなった。 「あ…」 「…」 俺と美汐は顔を見合わせたまま動けなかった。 こんなに電話の音が冷たく聞こえたことは無い。 「やだやだ、お兄ちゃん…」 考えがすっかり先回りしてしまったのか、美汐は涙目で俺にしがみついてきた。 「大丈夫」 自分の声も震えてるのがわかった。なんて説得力のない大丈夫、だろう。 電話のベルは五度目。 その五回目がなるまでに、1時間くらいの長さを感じる。張り詰めた空気っていうのは時間を有意義に使うのに最適かもしれない。 深呼吸。 7度目のベルが鳴る前に、俺は受話器をとった。 耳にあてるのが怖い。でも体は条件反射ともいえる動きで受話器を耳にあてていた。 「…」 もしもし、と言ったつもりが喉から声がでない。 『もしもーし、美汐かぃ』 お袋だった。 なんとも間の抜けた明るい感じの声に俺は力が抜けた。お袋の声は高い上にでかいからしがみついている美汐にも聞こえたのだろう。 「お母さん?」 幾分ほっとした顔で俺を見上げている。かーちゃんの声がもし暗かったら、美汐は卒倒していたかもしれないが。 「なんだよ、お袋かよ」 怖くて固まっていた神経が、お袋の登場で少しやわらぐ。ちょっと不機嫌な声で俺は話していた。 『あら、皆斗かぃ。こんばんは』 「こんばんは」 『やっぱり不機嫌そうねぇ、あんた』 そりゃねぇ、お母様には申し訳ないですがこっちも取り込んでいる最中でございまして。 『白帆と喧嘩でもしたんでしょ、ウチに来てるわよ』 …失踪事件は無事解決。 なんとまぁあっけない幕切れではありませんか。 「姉貴いる?」 「え?」 横で美汐が「なになに、お姉ちゃん田舎の家にいるの?ちょっと、お兄ちゃん答えてよ」とか言ってるけどこれは構ってられねぇ。 『白帆?あの子もう寝てるわよ、疲れたとかいって。昼に着いて随分たつのにまだ寝てるわ』 「あー、寝てるのね」 『今朝始発で出てきたっていうから、寝不足なんじゃない?」 「あー、始発でそっち行ったのね」 『そうみたいねぇ。お正月でも里帰り面倒がる子が。ねぇ、どんな喧嘩したの。お母さんに言ってみなさい。仲直りさせたげるから』 俺は電話を美汐に半ばおしつけるようにして手渡すと、呆気にとられている妹を放って姉貴の部屋に駆け込んだ。 「…」 タンスの上の旅行カバンがありゃしねぇ。 簡単な推理じゃ、ありませんか? 姉貴よぅ… 俺はマジで切れていた。 なんつーか、はらわたが煮えくり返るっていうの?手足が小刻みに震えるよ?全然寒かねぇのに、ぷるぷるぷるぷる。 マジキレっていうのは、頭が真っ赤になるもんだと判った。なんで自分が怒ってるか判らないくらい頭が真っ赤で真っ白で。 俺は姉貴の携帯をひっつかむとまた居間へ走った。下の階から苦情が来るんじゃないかってくらい慌しい足音だったに違いない。 「お、おにいちゃん…?」 美汐が受話器を置いて俺を見て目を丸くしていた。 「…っっ」 言葉が出ない。腹から声を出そうとしても、喉が潰れてしまったみたいに声が出ない。 ラジオ体操みたいに体を仰け反らして腹一杯息を吸ってもまだでない。 多分、色々と拮抗してたんだろう。 美汐を怖がらせたらいけない、とか。 大声出して近所迷惑だーって美汐に迷惑かけたらいけない、とか。 何よりこの状態で叫んだら喉が裂けるんじゃないかっていう体の警告が一番だったかもしれない。 「みしお」 搾り出したけど、俺にしてはえらく甲高い声だ。 「は、はい」 怒鳴ってないのに、美汐は一歩あとずさって俺に敬語。 「おれは、これから、あねきを、なぐってくる」 「な、殴るの」 「いや、ちょっと、むかえに、いってくる」 「な、殴ぐっちゃうの?」 「なぐりま、せん」 「ね、ねぇお兄ちゃん。せ、せっかく見つかったんだから、ね?や、優しくいこうよ」 「やさしく、なぐりに、いってきます」 「な、殴っちゃだめだってば」 「なぐらないで、やさしく、むかえにいって」 「…殴るの?」 「むかえにいって、やさしく、なぐります」 「…」 「…」 二人して噴出していた。馬鹿みたいにひとしきり笑った後。 「お兄ちゃぁぁん」 「美汐ぉぉぉ」 んで、喜怒哀楽忙しいことに胸に飛び込んできた美汐と一緒に泣いちまった。 本当…心配かけやがって、姉貴… 電車で普通帰るけど、夜行バスでもいける距離。 それが俺等の田舎。 「ちょっと携帯届けてくるわ」 なんでいきなり帰ったか判んないけど、俺は姉貴を迎えにいくことにした。 「うん、二人でのんびりしておいでよ」 学校がある美汐は留守番だ。 きっかけはアレだったけど、田舎に帰るのも久し振りで少し楽しみだった。 時間がなくて、慌しい出発。 姉貴はどんな気持ちで家に帰ったのか。 その時は考えもしなかった。 「あんた…」 お袋は約束どおり内緒にしてくれてるみたいだった。 俺等の住んでる場所はまだ暖かいのに、こっちは潮風が肌寒い。時期が一月ずれてる田舎の縁側で、姉貴はいた。 午前と午後の境目の時間。姉貴はテレビの代わりにぼんやりと海を見ていた。 「おーう」 背中を預けている柱は姉貴の昔からの特等席。その後ろから忍び寄って… 「だーれだ」 で、さっきの台詞。 「あんた、じゃわかりませんなぁ」 「…」 あれ?黙っちまった。 「はぁ…」 あれ、ため息?なんだよ、せっかくじゃれてやってるのに、空回り? 「来たんだ、皆斗」 「あ、うん」 姉貴のなんだか寝起きみたいなテンションに、俺はちょっと戸惑っていた。 それっきり言葉も続かない。少し…居心地が悪かった。 「姉貴?」 「いいの、皆斗。ここ家だよ?」 あ、と思った時には姉貴の目にあてていた俺の手は取り払われた。埃とか払うような感じじゃない、やんわりと。俺の手を握る手はいつものように俺より冷えているけど、暖かい。俺に触れる時のいつもの姉貴の手だ。 静かに鼻で笑われて、姉貴はまた海に目を戻す。 なんだなんだ? 姉貴がおかしいのか、いつも通りなのか、全然判らない。微妙だ。使うと頭悪いと思われるからやめな、って姉貴から言われてるけど思わず思ってしまう。 微妙だ。 そのビミョーな空気を知ってか知らずか、相変わらずマイペースに姉貴はまるで海に話してるみたいに声をかけてきた。 「荷物は?」 「あ、いや玄関に置いたままだわ。」 「母さんに怒られるよ?」 驚いた。姉貴が俺をたしなめるなんて滅多にない。 実家に帰ってきて目覚めたんだろうか、長女の、年上の責任に。 「残念、お袋は買い物に行ったよ。さっきすれ違った」 「あぁ…母さんいないんだ」 だから、こうして姉貴に接近できる。実家で姉貴とベタベタする勇気は無かったけど、母さんがいないんだったらちょっとくらいは。 「じゃぁ、好都合だね」 姉貴は二本目(俺の見てる前では)のタバコに火をつけた。 俺も合わせてポケットからタバコを出して口にくわえた。改めて隣に座ると姉貴が顔を近づけて火を貸してくれる。 「久し振り、皆斗」 「久し振り、姉貴」 さっきの違和感はやっぱ勘違いだったんだろう。 それきり言葉がないのにこんなにも姉貴の隣は居心地が良かった。ちょっと肌寒かった潮風も涼しく感じてしまう。姉貴の横顔を見ても、いつも通りに戻っていた。実家だから。姉貴も少し緊張してるのかもしれないと思う。本当はいつもみたいに手を繋ぎたいけど、肩と肩が触れているだけで今は充分。 遠くから潮が打ち寄せる音が聞こえる。 俺等の今住んでる場所とはうってかわって静かな、昔からある心地良い音が耳に届いた。姉貴と縁側で海を見つめるなんてかなり久し振りだった。 昔は…外を走り回って遊びつかれた時はこうして縁側で、友達のいない可哀相な姉貴と一緒に海を見ていたっけ。 「なーにまた家出してんだ?」 どっかでカモメが鳴いた。自然が出した適当な合図が俺から言葉を思い出させた。 「ん?」 何考えてたんだろうか。いつも通りのぼんやりした顔が意識を取り戻した。 「あぁ…家出じゃないよ」 姉貴は傍らからタバコを取り出して口にくわえた。お返し、と俺のタバコから火を移してやる。 「じゃぁ、何か、ホームシック?」 俺は言葉の掛け合いを楽しむべく、普段通り言葉のきっかけを作った。 「違うよ」 あれ?なんだ?それで終り? 『国武さん家に泊まりに行ったあんたじゃないんだから』 これはガキん時のことバージョンだけど。 いつもの姉貴なら、憎ったらしい言葉の応酬があるのに。 心の中で首を傾げつつ、俺が姉貴が使ってた灰皿に吸殻を押し付けるのと、姉貴が同じように長いままのタバコをもみ消すのは同時だった。 んで、また俺の見てる前でタバコを取り出して…俺の口を見て自分のライターで火をつけて、吸う。 「姉貴、ペース早くね?」 ちょっととっかかりの無い姉貴に、いじる所を見つけた。それが嬉しくて俺は噴きだしていたのに。 姉貴はバツが悪そうでも、かといって嬉しそうでもなくて、また微妙な無表情で煙を吐いた。煙が濃い白。あれ?ふかしてるだけ? 「…」 「なんだよ」 小さくため息をつくと、姉貴はまたほとんど吸ってないタバコを灰皿へ押し付けた。 「あんたがお父さんになりました、って報告にきただけさ」 「はぁ?」 |