シアワセな1日は素晴らしい贈り物を俺に授けてくれた。 「私とお姉ちゃんどっち好き?」 めちゃくちゃ嬉しくて涙が出ちまうかと思った。 もしも相手が美汐じゃなくて神様ってやつなら、ためらうことなく俺は受話器を叩きつけていたに違いない。 昨日、病室に駆けつけてくれた美汐へ…報告みたいな、なんとか動けるようになったって電話をした時のことである。 「は?」 と俺が聞き返すのと、美汐が電話を切るのはほとんど同じだった。 ツー・ツーと聞こえてくる古めかしい音色は当然ながら疑問は答えてくれない。 美汐は今なんて言った? 台所での姉貴の泣き顔が瞼の裏に蘇ってきた。 まさかコイツまで…と俺は体の力が抜けるのを感じた。あぁ、やばいと思ったら昨日倒れたばかりだった俺はあっさりと重力に負けていた。 貧血ってこんな感じなのかな。多分これは貧血だ。俺が貧血なんて…おかしくないのに笑っていた。 肩を貸してくれた看護婦が額に手をあてたけど、大丈夫ッス、俺は普通ッス…言葉になったのか判らないけど俺は車椅子に座らされて処置室へ運ばれていた。 まったく、幸せな日だよ、本当。 「あ、いえ、なんかダるくなっただけッス」 診察室には俺と医者と看護婦の3人だけ。俺はベッドに横になりながらハげた医者の質問に答えていた。ぼんやりしててよく覚えていないけど、色々検査が終わってやっと一息ついた…ってのも妙な話だけど部屋に戻れるようになったのは夕方くらいだった。 錆でも浮いてるのか判らないけど、妙に軋んだ音をたてるもんだな車椅子。昨日の今日ですっかり病人になっちまったなと俺は改めてそう思った。朝、電話まで歩いていけたのはなんだか奇跡に近かった気がする。 着替えを取りに行った姉貴は戻っているだろうか。 美汐は…多分来てくれているだろうけど…喧嘩とかしてないか心配だった。 なんだ喧嘩って…それじゃまるで… なんとなく嫌な予感がした。 最近よくある胸騒ぎだ。実はもう美汐にはばれていて俺の家じゃああやって笑っているけど姉貴の前では火花を散らしているとか、目の前のことから見えないことまで心配は事を欠かない。 美汐、か。 美汐はどんな人間なんだろうなって今更ながらふと思った。 いつも笑顔でそつがなくて礼儀も正しい。彼女にするなら絶対ああいうタイプなんだけどそれはあくまで俺の前での話。 普段のアイツはどうなんだろうか、心の奥底にあるドコまでが許せてドコまでが許せない天秤はどんなものなのか俺は知らない。 俺等の前で曝け出しているアレが素なのか、学校とかで友達の前にいるのが素なんだろうか。前者なら嬉しいけど後者なら…俺は美汐のことは何も判っていなかったことになる。 1番気になるのは俺と姉貴の関係をどう思うかってことになった。 それが大事だ。 それが知ることができれば他はなんもいらない。学校でヤクにはまってようが便所になっていようが…自分で言って言いすぎたそればかりは許せない… …だが、まぁ、何をしてようが勝手だ。 姉貴には口止めをしたけど、これはある意味卑怯なのかもしれない。 気にしているのは俺だけだったから。 姉貴は…昨日の動きを見ていたらわかるけど美汐のことは眼中に無いみたいだった。いや、家族としては認めているけど…俺と天秤にかけたらって感じだ。男に夢中になりすぎて騙されるタイプだな…って 男は俺だよ… 俺は姉貴を騙しているんだろうか。 姉貴を受け入れたいと思っている俺は騙していることになるんだろうか。 そこで1番のしこりが美汐なんだと思い出す。 姉貴は俺のことを1番信頼してくれていて、約束を守ろうとしている。 だから、俺が踏み出せばもしかしたら… 姉貴を本当に好きになれるかもしれない。 アレが可哀想だとか哀れだとかもそうだけど、姉弟だからとか家族の心配とか周囲の心配とか気にしないで 俺のことをこんなに愛してくれているなら俺も答えられるかもしれない。 いや、もう答えたいと思っていた。 だから美汐には俺から聞こう。 エレベータは俺の部屋の階へと止まった。 今部屋には誰がいるだろうか。 どっちでも良い。 どちらもいても良い。 俺から切り出そう。 看護婦さんが部屋のドアを開ける。 部屋には誰もいなかった。 1人部屋は広い。 部屋が暗いからって誰が電気をつけてくれるわけじゃないし、暑いからって勝手に窓はあかないし寒くなっても誰も閉めない。 美汐と入れ替わりに俺は1人暮らしを始めた時、何もかもを1人でしないといけないと思っていたけど、そんな些細なことも自分でしないといけないなんて思ってもいなくてなんだか寂しくなっていた。 部屋に入って暗いな、と思った時看護婦が電気をつけてくれなかったら今の俺なら泣いていたかもしれない。時間は6時を過ぎていた。 ふらふらする体でカーテンを閉めながら、俺はテレビをつけた。いつも1人で見ているテレビ番組もいつもより余計に面白い気がして、でも全然おかしくなかった。ただ見入ってしまうだけ。あははとも言わないで俺はぼんやりとしていた。 誰もいない部屋、誰も帰ってこない部屋。 1人暮らしはそれが当たり前だった。誰か遊びにくることはあってもただいまって言われることは絶対無い。 おじゃまします、じゃない、ただいまが聞きたかった日もあった。 勿論他には楽しいことも一杯だったけど、姉貴との生活はそういう面では充実していた。 だけど今はどうだろうか。 誰もいない部屋は、自分の知らない部屋だった。 ただ白いだけの殺風景な部屋は雑誌もコンポも風呂トイレだってない不完全な空間。 それがもの凄く心細くて、俺はただテレビを見ていた。 誰もこないなんて、そうだよ、俺は1人暮らししているんだと思いながらテレビを見て笑ったふりをした。 どうして来ないんだろう、と思うとたまらなく辛いから考えないことにして。 姉貴が来ないのは疲れて寝たからで 美汐が来ないのはもう夜が遅いからなんて思わないことにして。 ガチャリってドアが開いた時はどうしようと思ったけど 見たことない看護婦で 「消灯ですよ」 おやすみなさいもなく、俺は眠った。 いつもの通り1人で眠った。 次の日の夕方、美汐が見舞いに来てくれた。 制服姿の美汐はどことなく余所余所しくて、俺に着替えを渡すとほとんど話しもしないで部屋を出て行った。 あれが、本当の美汐なんだろうか。 そういえば姉貴はどこへ行ったんだろうか。 俺のことが好きじゃなかったんだろうか。 携帯が手元にないというのが、心細い原因なんだと思ってその日も眠った。 市原が来てくれた でも俺は 美汐に 姉貴に 家族に会いたい。 そう思ってその日も眠った。 その日、俺は屋上にいた。 検査はだいたい終わってしまって、あとは様子見の入院だったから院内を自由に動くことができた。 段々暑くなってきたとはいえ、病院で支給される寝間着は薄くて下にシャツを着て丁度良いくらい。 「はい…」 俺は手渡された煙草を受け取ると、礼も言わないで封を切って口にくわえていた。ヤニを吸うのは久しぶりで肺が受け付けるかどうか少し不安だった。 「ふぅ…」 案外平気だった。ちょっと頭がくらくらするけど、全然平気。 「お前もやるか?」 俺は隣に座る美汐にふざけ半分で聞いてみた。 「うん…」 まさかYESと言うとは思わなかったけど、一本取り出してずっとうつむいたままの妹の手に握らせた。 今朝、美汐は制服のまま病室に…駆け込んできた。そしてごめんね、と言って俺のベッドの上で泣き出した。 来てくれたのか、って俺が泣きそうだったのに先を越されて俺はまだ兄貴でいられることができた。 学校はHRで早退。早退といっても先生に何も言わないで飛び出してきたって言うから中々根性が座ったヤツだと思う。さすが俺等の妹だ。 屋上には他にも人がいるが、ここまで来るには階段を使わないといけないからか俺みたいに若いのしかいない。そしてしているのは同じこと。ちなみに喫煙所は玄関だけだ。看護婦も滅多にこないらしくここはある意味共同体だった。 「あのな、火つけながら吸いこむのな、そしたら火つくから」 「そうなんだ…」 手本としてやってみせると、美汐は涙で腫れた目で興味深そうに俺の煙草の先に集中していた。 「軽いのだけど、ちょっと咳出るかもしんないからゆっくりやれよ」 「う、うん…」 唇をタコみたいに突き出して煙草をくわえるその仕草がおかしくて、噴出しそうになりながらライターで火をつけてやった。 「つ、ついた…」 葉っぱが赤い火と小さな煙を出して短い人生の幕を広げた。 美汐は口から煙を出しながら感動の声をあげる。 「むせなかったよ?」 「あぁ…多分それ口だけで吸ってる。肺までいれないと」 「肺…?」 タバコを大事そうに両手の親指と人差し指で摘んで、真剣に頷く美汐の手から俺はそれを取り上げた。 駄目だ、コイツにはアンバランスすぎて全然似合わない。 「豚に真珠って感じ」 苦笑する美汐。 ようやく笑ってくれたな、と思う。 美汐の吸っていた煙草をコーラの缶にねじりいれると、俺は空を見上げて煙を吐いた。 「私もそうしてみたい…」 「無理無理。まだ早いよ」 「でも…」 「そんな背伸びしなくても、俺は美汐が好きだよ」 灰が風に流れていく。 「お姉ちゃんは…?」 「姉貴は…」 どうなんだろう。 「お兄ちゃん、お姉ちゃんと寝たの?」 「――あぁ」 秘密はごくあっさりした言葉と、シチュエーションで暴かれた。 「じゃぁお姉ちゃんのこと好きなんじゃないの?」 「好き、なぁ…」 答えは出なかった。美汐は俺達の関係を知っていて、そこから俺も自分の答えが出ると思っていたんだけど。 「…」 「…」 「美汐は」 「うん」 「美汐はどうなってほしい?」 「え…」 缶に煙草を入れると、俺は美汐を見た。 その瞬間、左の頬が熱くなった。 俺は初めて、産まれて初めて妹に叩かれていた。 「…なんで私に聞くの?」 押し殺したような声で、美汐はうつむいて俺を叩いた手を反対の手で抑えていた。 「私のことじゃない、自分のことなのになんで私に聞くの?お姉ちゃんは必死なんだよ?必死にお兄ちゃんのこと好きだって言って苦しんで悩んでいるのに…私じゃないでしょ、自分のことなのになんでお兄ちゃんはそうやって…」 周囲に人がいるから声を出すのを遠慮しているんじゃなかった。 きっと俺は凄い呆れられている。 だけど俺は自分でも呆れているほど自分が判らない。 「わからないからだよ…」 「…何が判らないの…」 「お前が俺達を許してくれるかどうか…」 それがネックだった。俺は今まで心に抱えていた不安をすべて美汐にぶつけた。陽はすっかり傾いて夕方に近くになっても俺は美汐に打ち明けていた。いつしか差し出された手を握って美汐に俺の不安をわかってもらおうと必死になって訴えていた。姉弟だからとかそんなんじゃない、全部美汐を中心とした家族についての不安や悩みだった。 ついに美汐の前で俺は泣いていた。 泣いている俺を美汐は優しく抱きしめてくれた。 「なんだ、お兄ちゃんもお姉ちゃんのこと大好きなんじゃない」 お姉ちゃんと一緒に生きることが当たり前の考え方してる。 その一言がたまらなく嬉しかった。 |