ある日曜日の昼下がりに電話が鳴った。私の携帯よりもその活躍の場が少ないからか、やけに張り切って聞こえるのは昨日の酒のせいだと思う。 1回、2回、3回…コールは日曜の昼下がりの居間に確実に数を重ねていく。真冬だが体の芯まで暖かい陽気に電子音は合わない。 「みなと」 丸まった背中に丁度良い高さ、こたつの上に顎を乗せたまま私は正面で同じようにしてる弟の「皆斗」の名を呼んだ。私の名前は「白帆」。"ほ"に"みなと"私たちの実家は漁師で、荒波に耐え嵐を乗り越え獲物を満載した彼等は港に帰還する。どんな大波にも負けない防波堤に囲まれた自分たちの要塞に入ったとき彼等は安堵するらしい。 こいつが港なら漁師は総出で家出小僧になっちまうだろう。この親父のパンツのゴム紐みたいに緩んだ顔。 「みなと」 幸せそうに眠りこけている弟を爪先で突付く。コールは6回目。 「…」 7回目。私はこたつの天板を蹴り上げる「ひぃ」情けない声を上げ、皆斗は飛び上がった。 「マジ信じられねぇ…」 どんな夢を見ていたか知らないが、酷く恨みがましい目で私を睨む。すっかりと目が覚めているその様子に毎朝コイツはこたつで寝かせれば良いんじゃないかと思った。 「電話、出てよ」 コールは10。 「オウ、姉ちゃん」 ここはアメリカじゃない、と誰か教えてやってほしいと思えるほどのオーバアクションで首を振り両手を上へ。 「俺はよ、寝てたんだぞ、くっそーまじありえねー」 でも嫌とは言わずに皆斗は電話へと向かう。 歩数にしてわずか数歩の短い距離…絨毯の届かないフローリングの床は冷たくて嫌いだ。 冷たい距離はその中でも僅かに一歩。私が踏み込めない(踏み込みたくない)境界の向こうで交わされる電話。 「はい、村宮です…あぁ、美汐?」 挫けないコールの末繋がった一本の電話。 それは私たちの妹からのもの。 「…」 私はヤニに火を付けた。向こう側で繰り広げられる電話の様子は皆斗の独り言にしか見えない。 思い切り吸い込んで吐き出しても、煙はヤツまで届かず天井の重力へひきつけられていく。だが私の肺活量が100m先のローソクの火を消せたとしても、狂言を繰り広げる皆斗の横顔は煙にまかれることもないだろう。 世界が変わるからだ。 ヤニは今日も不味かった。 大学へ行く途中に小さな神社がある。 古ぼけた社を前に、鳥居に背中を預けて一日五分私は祈った。 初めて祈っていた。 美汐はもうじき高校受験。 自分の時ですら祈ったことがないのに、毎日欠かさず。 日曜日もヤニを買いに行くついでに遠回り。 電話の来たその日から私は祈る。 日課になったお祈り。 どうか どうか妹が、落ちますように。 「…そう」 宣告。 3月の中旬に私が受け取った電話は美汐からの喜びの声だった。 冷たいフローリングが私をせせら笑っている気がする。 いや、このかじかむ爪先は明らかに馬鹿にしている。 「あ、あぁ、おめでとう。ううん、こっちもびっくりしてるだけだよ」 飛びぬけて明るい声が笑う。おめでとう、そう思う。 そしてさよなら。 「まじでー?おーおー、すごいじゃーん。おめでと〜」 皆斗のはしゃぐ声を聞きながら、私はチャーハンをスプーンの先で潰していた。テレビでは何がそんなにおかしいのか大口を開けて芸人が笑っている。手なんか叩いてお前等は猿か。 「いやぁ、美汐も高校生か」 電話を終えた皆斗が嬉しさを引きずったまま定位置へとついた。私の正面で今夜は自信作だと自ら謳ったチャーハンをぱくついている。 「…だねぇ」 「美味い?」 「あぁ、美味いよ」 必ず聞いてくる食事の感想。 「良い感じに火が回ったんだ」 本人もよく判らないで作っているんだろう。レシピなんかない自称漢の料理は時に辛すぎ、時に味が無く。正直まともなものが食べたい。 「え、なんか悪い物食った?」 初めてコイツがこっちに来た時に驚かれたな、そういえば。 「お前の料理だからな」 「そりゃゲテモノだ」 笑顔。 座布団にするのがが丁度良い一冊の雑誌。 付箋の貼られたコレが今一番恨めしい。 「ごちそうさま」 こうなりゃ屁でもかましてやろうか。 寝息が顔にかかる。ビールの香りしかしない最悪な寝息が間近に吹きかけられている。 私の部屋から居間まで行くには1つの部屋を経由しなければいけない。 もうその部屋には幾つかの箱しかなかった。明日には箱すらなくなるだろう。 そして皆斗も。 別れの宴会だと、しこたま酒を入れてやった。 6畳の私の部屋のベッド。 1つしかない枕は床へ、私の腕が皆斗の枕に。 ムードも無い互いの臭い寝息が行き交う私のベッドの上。 寝顔に一度だけキスをした。 ただそれだけの晩だった。 |