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作曲家・岡田克彦の讃岐紹介日記

男のやくそく(2)

  • カテゴリー:あれこれ
  • 都道府県:香川県
  • 投稿日:2013年01月17日 06:26
  • 投稿者: 岡田克彦 さん(香川県)
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1979年当時の住友信託銀行は、新入社員を東京都内店と大阪府内店(つまり、人事部の目の届く範囲)に1年間集中配属し、1年目に、各人の出身地に近い支店に転勤させて、一番ドロ臭い、信託預金を集める営業に2~3年従事させた後、本人の希望セクションに配属させるようになっていました。



で、ぼくは、吉祥寺支店(1年)→松山支店(2年)と配属になった後、法人営業を希望したのでしたが、ちょうど、新宿支店の法人営業担当者が不足していたので、25歳の時、新宿支店に配属になりました。



今にして思うと、新宿駅東口のタカノフルーツパーラービルの中にあったS信託銀行新宿支店(つまり、新宿二丁目のすぐ近所)に配属になったことが、ぼくの人生を100%決定したと思います。



新宿支店法人営業室のぼくの直属の上司のO氏は、メチャクチャ格好いい、面倒見のいい結婚直前の人でした。



毎日の仕事の後、独身寮に帰って一人、その日の活動結果の報告書を書いていたのですが、翌朝、これをOさんが読んでくれるんだと思うと、いたたまれない気持ちになって、ほとんどラブレターみたいになってしまって、何回も、普通のものに書き直していました(笑)。



彼が東京に実家があって、独身寮住まいでなかったのもよかったんだろうと思います。もし、独身寮のお風呂で一緒になったらどうなったかわかんないくらい、ぼくは好きでした。



相変わらずゲイという言葉は知りませんでしたが、彼のこと、特に彼がイク時にどんな顔をしてどんな声を出すのかを想像して、毎日オナニーしていました。



その頃、住友信託銀行新宿支店の斜め向かいにあった紀伊国屋書店に、週末の会社の帰りに、信託法の文献を買いに行った際、初めて「さぶ」というゲイ雑誌に出会いました。特にそのグラビアの男が69をしてるイラストを見た時、頭がクラクラしました。



ぼくもこういう風に先輩とやりたい、と切実に思ったので、思い切って、買って帰りました。そして、日曜日に、隅から隅まで、ゲイのこと、男同士のセックスのこと、男同士の出会いを書いた小説を、全て暗記するほど読みました。



そして、翌週の週末、「さぶ」に出ていた会社の近所の新宿二丁目の、ゲイバーというところに、思い切って行きました。



1982年当時はまだエイズ騒ぎの前だったので、二丁目のゲイバーはとてもゆったりしたいい雰囲気でした。当時は新宿二丁目中通り沿いに、後に、「バディー」というゲイ雑誌の編集を始めた会社の作った「ルミエール」というゲイの雑貨店が出来る前で、そこは、「ドルフィン」っていう喫茶店でした。しかも、全面ガラスばりだったので、二丁目に飲みに行く時には、「ドルフィン」で待ち合わせてコーヒーを飲みながら中通りを歩く男達のメンウォッチングを楽しんでから、というのがしきたりになっていました。



新宿二丁目の「ポプラ」っていうピアノのあるゲイバーが、ぼくの行った初めてのゲイバーでした。それは、ピアノバーだったからでした。



カウンターに座ってすぐ、「ぼく、趣味でピアノやってます。」って言うと、マスターが「どうぞ弾いて下さい。」と言われて演奏しました。



あの時の初めての演奏曲目は忘れもしません。



シューマンの「トロイメライ」でした。



大好きだった会社の先輩が結婚して悲しかったので、いつもより思い入れタップリに演奏したのでした。すると、年上のお兄さん達のお客さんに喜ばれてどんどんリクエストされて、ショパンやドビュッシーやサティーなんかを次々と演奏したので、いっぺんで目立っちゃいました。



ボトル入れなくても、水割りなんかいっぱいごちそうされて、ぼくも、酔って気分がゆったりしたので、どうして来たのか正直に話しました。



すると、隣にいたお兄さんに、



「んまぁー、あーた25歳で経験ないなんてオクテだわ。早く遊ばないと、ザーメンが出なくなってしまうわよ。すぐに、歌舞伎町の大番会館へ行って遊びなさい。アタシが教えてあげるわ。人が人を好きになることは素晴らしいことよ。男も女も関係ないわよ。」って半分脅しながら、大番会館の場所を教えてくれました。



生まれてはじめて耳にする、オネェ言葉でした。そのうち何回か行くうちに、そういう言葉づかいをしないといけないんだなって思ってマスターしたものでした(笑)。



今でも、高松のゲイバーでは、ガタガタとうるさい連中に、ぼくは、オネェ言葉で応対し、「んまぁ、おだまりだわ。」と言うのです。また、お通しの不味いのが出て来たら、「あーた、あたしを誰だと思ってるの。二丁目デビューのヒコ姉さんよ。こんな田舎の場末のゲイバーでこんなお通し出すなんて、んまぁ、感じのいいお店だわ。」と言って威張ったりして目立っています(笑)。



さて、こうして、歌舞伎町の大番会館のミックスルームでの男との初体験は5Pでした(笑)。



まだ若かったからとても気持ちよかったけど、一番ショックだったのは、男同士の場合は出会ってお互いのことよく知らないうちにすぐにセックスして、射精する時の顔の表情と声を共有してしまい、スケベな男同士だってことを確認し合うことでした。でも、ああ、これが男同士なんだ、と安心したものです。



そのうえ、ポプラの常連のお兄さんの一人がSだったので、二丁目の「縄」っていうSMバーにも連れて行かれました。彼の話では、いいSになるには、Mの豊かな体験がないといけないのだそうで、まず、Mから入れ、とのことでした。で、六尺デイに「縄」に一緒に行きました。そして、「縄」の2Fにあったプレイルームで縛られて滑車に吊るされて、5人の男にいたぶられ、すごく気持ちよかったのです。



でも、3回も射精した後は、みんなすごく優しかったから、ぼくも年をとって若い相手とやる時は、優しくないといけないんだな、と痛感しました。



もうここまで来たら自分がゲイなのかどうかちゃんと確認しよう、と、ぼくは開き直りました。新宿の大番会館は出前が取れて滞在出来たので、休暇を利用して3日間滞在したりしました。本当に性欲の塊だったんだな、と反省しています。が、この時期に遊び尽くしたのでよかったと思っています。



初めて男性と一対一で付き合ったのは、26歳の時でした。新宿京王プラザホテルのサウナで出会った、5歳年上の日本舞踊家のH先生に付き合って欲しいと言われ、ぼくも大好きだったので付き合いました。



先生には創作舞踊の曲を作曲して献呈したり、先生の奥様がピアニストだったので、公私に渡って仲良くなりましたが、彼はバリタチでぼくのアナルをいろいろ開発してくれたのですが、ぼくがどうしても受け入れられなかったので、1年程で別れることになりました。が、今でも、人間的にはお付き合いしています。



30歳になる少し前に、ぼくは年下を好きになりました。最初の相手は、セフレとして、イタリア人のミラノのデザイナーと、アメリカ人のパイロットでした。いずれも、東京全日空ホテルのサウナで出会いました。もう、男なら、外人でも日本人でも何でもありでしたね(笑)。



が、セフレはセフレに過ぎず、二丁目の中通りのソバ屋さんでざるソバを食べていた時、彼らのことを思うと空しい風が心の中を吹きすぎていきました。



そして、30歳当時、桐朋音大ピアノ科3年生だった、湘南在住のタロウ君という、ステディーな年下の恋人が初めて出来ました。



日本アマチュア演奏家協会の理事だったぼくは、彼の演奏会のチケットの8割方を買い占める等、もう、ベタベタに大事にしました。が、悲しいことに、ぼくは、32歳の時、S信託銀行大阪本店に転勤になってしまいました。



遠距離になってもお互い時間を作っては行き来していたのですが、ぼくが34歳になる前に、タロウ君には、二丁目で出会った能楽師の新しい彼が、ぼくには、堂山町で出会った芦屋のまこと君というアマチュアピアニストの恋人が出来てしまったので、自然消滅しました。



「お互い、辛抱できない性分だったんだなあ。」



と、この前、現在在住しているパリから一時帰国したタロウ君とは新橋のゲイバーで酔いつぶれた時に話して、



「全部ぼくが悪かった。タロウごめんな。」



って謝りました。だって、男同士の場合は、絶対に年上に責任があるんだからね。



さて、芦屋のまこと君は本当に泣き虫の可愛い奴でした。



が、セックスでは、完璧な「冷凍マグロ」でしたので、またまた、ぼくは「冷凍マグロ」のハンドリング方法をマスターし、ダレ専への道を進む糧になりました(笑)。



ぼくが母親の介護のために(その母は、2006年他界しました。)、四国・高松にUターンする時には、堂山のゲイバー「JBクラブ」で、まこと君は泣き喚いて困りました。



すごく女性にモテるカッコいい奴だったので、彼とのセックスで、100%ウケなので、無理だとは思ってたけど、ぼくが「早く結婚しろ。」なんて言ったので、マジに怒っちゃいました。タロウ君の場合は、新しい彼が出来ていたのでまだよかったんだけど、まこと君のことは、今も心配しています。



その後、13年前に母親の介護で高松にUターンし、徳島で出会った、大阪の関西学院大学を卒業して入社したT信託銀行徳島支店のピカピカの新入社員だった、大阪出身のこうじ君と付き合いました。



こうじ君とは、ぼくが仕事で徳島に行った時に飲みに行った徳島のゲイバー「シャルマン」で出会いましたが、趣味がピアノ演奏だと聞いたので、すぐに一緒に「シャルマン」を出て、秋田町のピアノバーに行って、彼はモーツァルトを、ぼくはショパンを演奏して仲良くなりました。



そして、彼は、直近に迫っていた、信託銀行の新入社員が受験しなくてはならない銀行業務検定の『税務3級』を教えて欲しい、と甘えて来たので、彼の独身寮に立ち寄って資料をとってから、ぼくの宿泊していた「徳島プリンスホテル」(なぜかツインルームしかないビジネスホテルでした。)に行きました。そして、12時くらいまで勉強して遅くなったので彼も宿泊することになりました。



もう、どーしようか、と思いました。



フケデブ専の彼はぼくがタイプだったし、ポチャ専のぼくは彼が100%タイプだったのです。しかも、趣味のピアノが一緒で、且、仕事も同じ信託銀行同士だったので、こうじ君は、マジにぼくを慕ってくれていました。



そのままいると、こうじ君は向こうのベッドから、モーツァルトのピアノ協奏曲のことや相続税のことをいろいろとぼくに尋ねて来て、答えていたぼくは寝れなくなりました。一生懸命答えていたので、昼間の仕事の疲れと相まって耐えられなくなりました。



でも、人間は極限状態になると何でも出来るんですね(笑)。



ここまで付き合ったんだよ、こうじを抱こうと決意したぼくは言いました。



「こうじ、ぼくはマジに君が好きだ。出会ってすぐって嫌なんだけど、君を抱きたい。ぼくのベッドに入って来いよ。」



「うん。」と彼は、「ヘヘヘ・・。ぼく、その言葉待ってたんだよ。」といたずらっぽく言いながらぼくのベッドに入って来ました。全く、なんて生意気な奴だ。もう朝の4時半を回っていました。



でも、抱き合って、ディープキッス、シックスナインまでで、ぼくの体力は尽きました。正直に、もう眠たくてたまらないことを言ったら、こうじ君は、優しくOKしてくれて、ずっとぼくは彼と抱き合って翌朝の11時くらいまで寝ました。そして、朝、シックスナインで何発かやって、疲れたので、鳴門の鯛料理を食べに行きました。



こうじ君は、高松の「ラビリンス」(後の「ジャンピング」)に、ぼくは、徳島に行くたびに、秋田町のピアノバーで一緒に飲んで、ぼくの泊まっていたビジネスホテル(いつもツインを予約していました。)でやりまくりました。



が、これは、彼の東京本店への転勤で、半年でおしまいになりました。まるで、こうじの好きなモーツァルト作曲の『短くも美しく燃え』た恋でした(笑)。



遠距離交際にならなかったのは、こうじ君に東京でトラック運転手の新しい彼がすぐに出来たことと、またまた、ぼくの方にも新しい出会いがあったためでした。



それは、当時、四国へのUターン後の仕事として、ぼくが人材開発部長をやっていた「日本マンパワー四国総代理店」が順調に発展したので、一人営業マン(つまり、ぼくの部下)を入れるという求人を見て、面接に来た、年下の太った男との出会いでした。



彼は、当時働いていた、高松の某印刷会社の営業に満足していませんでした。そして、本物の営業スタイルを習得したいんだ、という熱い思いを面接していたぼくにぶつけて来たのでした。



こういう生意気でガッツと自己啓発意欲の旺盛な年下に、ぼくは弱いのですよ。直ちに、彼を採用することについて、社長のOKをとりました。



社長は社長で推薦したい人がいたようですが、指導者になるぼくが言うことの方が絶対的に強かったのでした。



内定決定の後、ぼくは、彼と二人きりで飲みながら話したいと思った(仕事のことじゃなく、たった一人のぼくの部下になる男のライフスタイル等を知りたかったためです。)ので、寿司をご馳走してから、飲みに行こうとしたら、酔っ払っていた彼は言いました。



「高松にね、安く飲めるところがあるんですよ。そこに行きましょう。」と。



そして、彼の言う「安く飲めるところ」は、高松のゲイバー「ラビリンス」(後の「ジャンピング」)でした。びっくりしましたが、意地悪な彼は、ぼくがゲイだって見抜いていたのです(笑)。



ここ、「ラビリンス」のマスターのじゅんぺいとは、何回もUターン後、徳島のこうじと一緒に行ったこと、歳が一緒だということ、彼の執筆のゲイ小説をぼくが好きなこと等から、大切な友人なのです。



だから、入口で、ぼくは彼にカムアウトして、無理やり唇を奪うという強行手段に出て、「ラビリンス」に入りました。



彼は、怒りました。ノンケだったからじゃないのです。彼のタイプが「若・デブ専」で、年上のぼくは嫌いだったためでした。



その日の「ラビリンス」で二人の対話を聞いていたマスターのじゅんぺいは、



「ヒコちゃん諦めなさい。」



と言ってくれたけど、ぼくは猪突猛進で諦めませんでした。



「おだまりだわ。『若・デブ専』なんてあたしが変えて見せるわよ。」と言って(笑)。



そして、彼のニックネーム「リンちゃん」はぼくが命名して、四国中のゲイバーに仕事で出張の度に一緒に行きました。



リンちゃんは、トランペットを吹いていたけど、ピアノ演奏を趣味でやっていました。だから、彼のために、トランペットとピアノのためのデュオ作品を作曲して献呈したり、ぼくは自分の持っていたアップライトピアノをプレゼントしたり、ありとあらゆる接待をして、お金を湯水の如く使いました。約2ヶ月の間、ラブレター(メールじゃないよ。)を毎日書して出しました。・・・・・こうして、ついに、リンちゃんは情にほだされました。リンちゃんは、ぼくが毎日書いて送ったラブレターを全部ファイルブックを買ってそれに綺麗に整理してくれていたのでした。



「ヒコさん毎日書いて送ってくれて有難う。こんなことされたの生まれて初めてだよ。」



と照れ臭そうに言いながらそのファイルブックをリンちゃんが見せてくれた時、ぼくはマジに嬉しくて泣いちゃいました。



こうして付き合いが始まったので、早速「ラビリンス」のマスターのじゅんぺいに報告に行きました。



「じゅんぺい、あーた、確か『ヒコちゃん諦めなさい。』って、あの時随分余計なことを言ってくれたわね。でも、あたしには『若・デブ専』なんてタイプが通用しないってことよくわかったでしょ。」



とぼくは言いました(笑)。



じゅんぺいは信じられないという顔で、リンちゃんに、



「ヒコちゃんはあなたより年上なのにいいのかしら。」



と聞きましたが、



「ヒコさんとぼくはお見合い結婚なんですね。普通じゃないんです。」



と言っていました。そのとおりの付合いでしたね。



それでもじゅんぺいは、



「ヒコちゃんのどこがいいのよ。もう40歳前よ。」



と食い下がりましたが、



「ヒコさんはすごく優しいからいいです。」



とリンちゃんが答えたので、ぼくも、



「じゅんぺい、あーたとあたしは歳が一緒でしょ。あーたも40歳前なんだから、早くステディーな彼を見つけなさいね、早く見つけないとそのうち朝勃ちしなくなるわよ、オホホホ・・・。でも、このお店はあたしたちの原点だわ。」



と勝ち誇ったように言って、二人の名前で新しいマーテルのボトルを相合傘のマークの名入りで入れたのでした(笑)。



この、リンちゃんとぼくの恋人関係は、「日本マンパワー」が四国から引揚げる3年後までの3年間続きましたので、一番長かったです(笑)。



最後はもう倦怠期だったけど、ぼくにとっては、仕事での部下で、趣味も同じ、且、恋人という生涯二度とない貴重な経験になりました。



また、リンちゃんは、ものすごいデブでした。



これまでステディーに付きあった、SG系の日本舞踊家のH先生、少しポチャの、タロウ君、まこと君、こうじ君と違って、リンちゃんの体重は90キロ近くあったので、セックスに、ぼくは大変な腕力を使いました(笑)。



でもね、いつものように、彼と二人で初めて寝た、一緒に出張していた高知の旅館に泊まった際、テクニックを総動員しました。



ヴァニラ系のぼくの場合、それは、次のようなやり方です。



「イキそうになったら言えよ。」と最初に言っておくのです。



で、リンちゃんが、「ヒコさん、ダメだよ。もうイクよ。」と言ってイキそうになったら、ぼくはリンちゃんの亀頭を手の平でグリグリとこね回してイカせなくして彼を朝まで続く快楽に陥れるのです。



「アーッ、アーッ。」というリンちゃんのヨガり声がたまらなく愛しくて、



「リンちゃんどんな感じだい。」って聞くと、



「何か落ちていく感覚、ヒコさん変だよ。」



ここでぼくはリンちゃんを力いっぱい抱きしめてディープキスしてから、



「ずっとリンちゃんはぼくと一緒なんだ。ぼくもリンちゃんと一緒に落ちていくんだ。安心しろ。」



と言うのです。



そして、落ち着いたら、次に、リンちゃんの一番感じる亀頭の位置は裏スジだったので、そこをピアノタッチで刺激すると、また、リンちゃんのペニスは大きくなります。



で、またリンちゃんがイキそうになったら、同じことを繰り返すのです。



・・・・・こうして、朝まで、リンちゃんを寝かせない。もちろんぼくも一睡もしていないけど、これが、ぼくの大切な恋人との男同士のセックスのやり方なのです。(だから、東京、大阪にいた頃は、週末にホテルでやってました。)



・・・・・翌日は、日本マンパワー人材開発部長のぼくの判断で、電話とメール、ファックスのセールスだけに止め、二人で、旅館でゴロゴロしていましたよ。眠かったからね(笑)。



だから、9年前に「日本マンパワー」が四国から引き上げた時には、大変だった。



ぼくは、四国から引き上げの後始末のために岡山の会社に転職して責任を果たしました。リンちゃんはその引越の手伝いまでやってくれましたが、その頃から、リンちゃんは、得意なパソコンの講師と、翻訳の仕事で独立してやってゆく目途が立ったのでよかったけど、ぼくは、後始末の岡山での仕事の激務から、劇症肝炎で倒れ入院してしまいました。



リンちゃんは毎日お見舞いに来てくれたけど、ここは、ぼくが引かないと、リンちゃんの将来がメチャクチャになると思って、ぼくから、別れることを切り出しました。



仕事も恋人も一緒だったから仕方ないことでしたけど、悲しくて悲しくて、ぼくは、初めて泣きました。そして、もう二度と、男とはステディーに付き合わずに、男一匹生きていこうと思いました。



もちろん、デブとも付き合う自信と、片想いの悲しさと切なさをリンちゃんからぼくは教わって、完璧なダレ専になったんだけど(笑)。



以上のこれまでのいろんな男達との出会いと別れと、趣味の作曲活動でいつも感じる、J.S.バッハの偉大さから、人間死ぬ時は、一人ぼっちなんだ、という考え方がぼくは強くなりました。



また、そして、ぼくが男同士の付き合いについて、ある種のニヒルな感覚と聖諦の境地を感じていて、死ぬまで、ヒューマニストのダレ専で、この世で出会う全ての男達を大切にしたいと思っています。



掲載写真は、左から順に、ぼくがこれまで付き合った、元、相方の、タロウ君、コージー君、リンちゃんとの2ショットです。全員、ピアノやってる仲間で、左から順に、ショパン、モーツァルト、ドビュッシーが好きで弾いている男なので、ぼくのレパートリーと一致していて、全員にぼくの作曲作品をそれぞれ献呈しています。



「ぼくの作った曲を君が時々弾いてくれる時、ぼくは間違いなく君の指の押さえる鍵盤の下にいるから、その都度、ぼくは乳首や亀頭を刺激されてよがってるんだよ。」



って言うと、全員、照れて呆れてます。でも、その照れた顔がぼくは大好きなんです。音楽と男同士のHは扉が全く別だけど、その都度、ぼくってなんてエロい奴なんだろう、って思うのです(笑)。



でも、仕方ないよね。ぼくはぼくだから。





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