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作曲家・岡田克彦の讃岐紹介日記
男のやくそく(1)
- カテゴリー:あれこれ
- 都道府県:香川県
- 投稿日:2013年01月17日 06:25
- 投稿者: 岡田克彦 さん(香川県)
ぼくが生まれたのは、昭和32年、香川県高松市瓦町にあった、祖父の経営していた「丸天旅館」でした。小学校3年の時に、旅館が斜陽産業になって廃業しましたので、その際、高松市番町四丁目に祖父が建てた新居に引っ越しましたので、小学校も四番丁小学校に転校することになりましたが、当初通っていた小学校は、瓦町が校区だった築地小学校でした。
丸天旅館には、たくさんの仲居さん、板前さんが住込みで働いていました。
岡田家の3代目の長男のボンボンとして生まれたぼくは、名前の克彦の上をとって、「カツボン」あるいは「ボン」ってみんなから呼ばれていました。親戚に至っては、法事なんかで会うと、もう、56歳になった今でも、ぼくのことを「カツボン」って呼ぶので参っちゃうんだけど、仕方ないことですね(笑)。
その大変な出来事が起こったのはぼくが8歳の時、小学校2年の夏休みのことでした。
「丸天旅館」に住込みで働いていた従業員の中で一番仲良しだった、板前見習の浜田君(当時16歳でメチャクチャカッコいいお兄ちゃんとして慕っていました。)の住んでいた、旅館の裏の独身寮になっていた、2階建てのアパートの2階に駆け上がって行って、
「浜田君、遊ぼう。」
と、いつものように浜田君の部屋のドアをサッと明けた時のことでした。
浜田君はベッドに横になって、雑誌を読みながらチンチンを大きくしていたのです。
ぼくは、びっくりしました。
そして、
「浜田君のチンチン、どしてそんなに大きなっとんな。」
と、わけもわからず質問していました。
浜田君は顔を真っ赤にして、オナニーを中断し、女の人が載っている雑誌を横に置いて起き上がりました。
でも、ぼくは許さなかった(笑)。
「どして、どして、浜田君のチンチン、そんなに大きいんな。ぼくはそんなん見たことない。」
浜田君、とまどいながら、パンツを上げて、
「ボンも大人になったらわかるから、布団部屋に遊びに行こうぜ。」
と話をそらせようとしたのだけど、
でも、また、ぼくは許さなかった(笑)。
そして、
「浜田君のチンチンが何でそんなに大きいんか、今教えてくれないかん。浜田君、ぼくのこと好かんのでなかったら、教えてぇた。」
と、駄々をこねてしまったのでした(笑)。
しばらくして、浜田君は男らしい顔つきで、ぼくを真っ直ぐに見つめながら言いました。
「よっしゃ。どうして大きなっとんかは、まだ知らんでもええけど、男はみんなチンチンは大きになるんや。」
「うそや。ぼくは大きになったことない。浜田君だけ大きいんは変や。」
「ボンも大きになる。兄ちゃんが大きにしてあげるけん、こっちに来まい。」・・・・・
こうして、ぼくは生まれてはじめて、大好きな浜田君の手でチンチンを弄られて、オナニーの快感を味わいました。
浜田君は本当に優しかった。
「痛かったら、兄ちゃんに言えよ。」
って言いながら、最後まで、ぼくがイクまで付き合ってくれました。
ぼくは、一人前の男として扱ってくれたのが嬉しかった。
ものすごく気持ちよくなり、
「うわぁ、どうしてこんな気持ちになるん。」
って大騒ぎしたけど、その都度、浜田君は、
「兄ちゃんに全部任せろ。」
と、ぼくを励まして抱きしめてくれました。
まだ8歳だったから、結局、精液なんて何も出なかったけど、ぼくのチンチンは大きく固くなってものすごくいい気持ちになり、絶頂のあと、もう任せ切っていた浜田君の厚い胸の中で、虚脱感に襲われました。
「ボンのチンチンも、大きなったやろ。」
「うん。ものすご気持ちよかった。けど、終わったら何かやる気なしなってしもた。浜田君、これいったい何な。」
「ボン、よう聞けよ。大人の男はみんなこんな気分を味わうようになるんや。でもな、それを乗り越えないかんのや。」
「浜田君も乗り越えるんな。」
「もちろんや。ボンも男なら乗り越えないかん。」
「わかった。浜田君の言う通りにする。」
「兄ちゃんがついとるんや。乗り越えれなんだら、いつでも兄ちゃんに相談したらええ。けど、そんな急がんでもええ(笑)。そのうち、いろいろわかるから。ともかく、ボンのチンチンも大きになるんがわかったけん、今日はそれでいいだろ。」
「浜田君、有難う。ものすごびっくりしたけど、浜田君が一緒についとってくれたけん、嬉しかった。」
浜田君は、ハハハ・・と笑いながらぼくの頭をいつものように撫で回してくれたんだけど、最後にまた、最初の男らしい顔つきで、ぼくを真っ直ぐに見つめながら言いました。
「ボン。今日のことは、兄ちゃんとボンだけの秘密ぞ。誰にも言うたらいかん。約束出来るか。」
「うん。わかった。約束する。浜田君とぼくだけの秘密やの。誰にも言わん。」
「『男のやくそく』だよ。」
「『男のやくそく』て何な。」
「絶対に破ったらいかんのや。」
「わかった。ほんだら、浜田君指切りしょう。」
こうして、浜田君とぼくの二人だけの秘密が出来ました。
蒸し暑い8月の朝のことでした。
でも、ぼくにとっては大事件でした。
そのあと、ぼくは、射精もしないのに、オナニーを始め、その気持ち良さに浸る毎日になりました。
もちろん、ぼくは浜田君との「男のやくそく」を守って、誰にも言いませんでした。
が、その夏休みの作文の宿題は、築地小学校2年赤組の担任の平尾先生から、一番大切な思い出に残ったことを書きなさい、と言われていたので、ぼくは、この日の出来事を、作文に書いて提出しました。
だって、他のあの夏休みの出来事なんて、あの蒸し暑い8月の朝の浜田君の部屋での出来事に比べると、全て、色褪せてしまっていましたから。
「男のやくそく」は、誰にも言わないという約束でしたから、幼くて何もわかっていなかったぼくは作文に書くのはいいんだと思っていたのでした(笑)。
その作文の題名は、もちろん、「男のやくそく」でした。
そして、ぼくは浜田君との「男のやくそく」を守って生きていくんだ、という決意表明で終わる実に男らしい(笑)ものでした。
さあ、大変なことになりました。
・・・・・フィクションだったら、こうなると面白いんだろうけど(笑)、これは実話なので、そうはなりませんでした。
今にして思うと、平尾先生はいい先生でした。ぼくの書いた「男のやくそく」はとてもいいですよ、と言ってくれましたが、その夏休み、家族で下呂温泉に遊びに行っていたので、「そちらも作文に書いてね。」と言われ、ぼくは追加で、もう一つ作文を出し、事なきを得たのでした。
もしバレたりしたら、「丸天旅館」の板前見習だった、浜田君はえらいことになってしまったかもしれません。
でも、平尾先生は、ぼくの強烈な体験から得た感動と感謝の方を大事にしてくれたのでした。大変なヒューマニストの素晴らしい担任の先生だったのです。
「丸天旅館」が廃業したのは、その一年後でした。
たくさんの食器を片付けながら、浜田君は、花板の竹井さんと男泣き状態でした。
でも、ぼくは不謹慎なことに、あの蒸し暑かった浜田君の部屋で浜田君がぼくに投げかけてくれた、男らしい真っ直ぐなまなざしを思い出して、
「あの時、浜田君は、
『兄ちゃんがついとるんや。乗り越えれなんだら、いつでも兄ちゃんに相談したらええ。』
って言ってくれたのに、もう『丸天旅館』がなくなってしまって浜田君と離れ離れになってしまったら、相談できないよ。」
と心の中で泣き喚きながら、チンチンは勃起していました。
もう、小学校3年生になっていたぼくは、オナニーすると精液が出るようになっていました。
それをぼくは大切に、母の化粧水のあきビンにこっそり入れて、いつか浜田君に見てもらおうと思っていたのでした。・・・・・が、もうこんなことも出来なくなるんだな、と思うと、ひたすら、悲しかった。
ぼくの原体験は、以上の浜田君との出来事でした。
「男のやくそく」以来、ぼくは胸の奥底で、無意識のうちに、ずっと浜田君のような男を追い求めているのだろうと思います。
つまり、浜田君のような包容力と覇気に溢れる男です。
だって、今思い出しても、あの時の、浜田君の潔い決断は、ぼくのために今の自分の全てを投げ出してもいい、という覚悟に基づいていました。
だから、あの時の、浜田君の決断の表れた、男らしい真っ直ぐにぼくを見つめたまなざしは、ぼくの一生の宝物なのです。
そして、ぼくの男同士のセックスがヴァニラ系で、抱き合ってお互いの胸の鼓動を聞くひと時を共有するだけで満足なことも、この浜田君との出来事が根っ子にあるからなんだろうと思っています。男が男を支配するアナルセックスは不要だと思っています。同じ空間、時間と、お互いのスケベ度を共有して許容しあうことが一番大切なことなのです。
また、亀頭のどこが感じるのかということにこだわって相手を気持ちよくさせたり、相手がぼくのフェラでイキそうになった時に、相手の亀頭をグリグリこねくりまわしてすぐにイクのをやめさせて、相手がヨガリ声を上げる時に、たまらない愛おしさを感じてしまうことも、浜田君のお陰で早くから一人でオナニーをした経験からなんだろうな、と思っています。
浜田君との件があった頃、ぼくはピアノを習って毎日弾いていたんだけど、祖父が毎日ピアノ弾いてると肩が凝るだろうと言って、発売になったばかりの、ナショナルの電動バイブレーターのマッサージ機を誕生日にプレゼントしてくれました。それを肩にあてると肩は凝らなくていいということだったんだけど、まだ小さかったから、肩に振動するところをあてると、機械の端っこがペニスにあたって、その振動が伝わって勃起して気持ちよくなったので、オナニーは手でやると疲れるので、親に隠れてもっぱらバイブレーターでやるようになりました(笑)。
本当にどーしようもない『ませガキ』だったのですね(笑)。
しかし、その後、中学、高校、大学受験という受験体制を切り抜けるために、中学時代にブラスバンドでトランペットを吹いた以外は、大変に禁欲的な生活を余儀なくさせられました。
もちろん、バイブレーターのオナニーは、勉強の合間にずっと隠れてやってましたけど、中学も高校も、東大に入れない奴は人間じゃないという扱いをするような、大変な進学校でしたので、生徒達は女性とのナンパなども言語道断だという状況下に置かれましたので、女性に興味があるかどうかも、全く意識の外にありました。
・・・・・それくらい、当時の香川県は、教育委員会の力の強い、教育風土にありました。大体、当時の香川県教育委員会は、県内の全中学生を対象に2ヶ月に1回、共通模擬テストを実施し、その結果の、香川県内トップ中学生100人の生徒の固有名詞と学校名の入ったリストを、生徒本人にではなく、生徒の父兄に郵送する、という、受験体制を助長するような下らないイベントをやっていました。
ぼくの在学した高松の中学校は進学校だったので、大体、いつも40名程度の生徒が、この100名のリストに入っていましたので、この名簿に掲載される同じ中学校の生徒の中で20番以内に入っていないとイジメられるようなことも多々あったのでした。
だから、ぼくが「ホモ」という言葉を初めて耳にしたのは、高校2年の『地学』の授業時でした。先生が、
「これは『モホロビチッチの不連続面』、略して『モホ面』だよ。間違えても『ホモ面』じゃないんだぜ。」
と言った時、理系の野郎組のクラスの連中は大爆笑でした。が、ぼくも含めて、文系のクラスの仲間達は、男も女もその意味がわからず、押し黙っていました。
まぁ、こんな状況下でも、ぼくは趣味のピアノ、作曲と共に、バイブレーターでのオナニーを続けたんだけど、快楽主義者のぼくは、罪の意識を持つことはありませんでした。大変にウブな世間知らずだったのですね(笑)。でも、自分の亀頭のどこが感じるのかについては、原稿用紙10枚程度の論文が書けるくらい研究熱心でしたので、本当に楽しいオナニーだったなぁ(笑)。
さてさて、こうして、京都大学を滑ってしまったぼくは、浪人するのが面倒だったので、滑り止めで受かっていたいくつかの私立大学の中で一番授業料の安かった東京のW大学SK学部K学科に進学し、3年生からの研究室入室試験にも英語力でスムーズに合格して、金融論のH教授研究室でケインズ経済学を専攻して卒業し、研究室のコネ採用で随分簡単に住友信託銀行に入社しました。
サポータープロフィール
- ニックネーム:岡田克彦
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