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一生成仏抄 パート3

海の文化と村の文化2  於保哲外
1からのつづき
我々が撮るとなかなかああいう感じにならないですね。花がただそこに咲いているって感じになるんです。しかし、先生の写真には、訴えかけてくるものがある。
どうしてだろうと考えました。そしてつくづく思ったんです。法華経というのは「喜ぶ経典」なんですね。池田先生は喜んでいらっしゃる。喜びの生命(いのち)に自然が感応しているんですね。その喜んでいる自然を撮っている。だから、「自然との対話」と名づけられたんですね。
この話をある芸術部の人にしました。すると、その方が以前、先生と会食した時、先生が「みんなにはわからないかもしれないけれど、僕は自然と話ができるんだよ。その対話の写真なんだよ」とおっしゃられたそうです。この不思議法則。
不思議というのは妙。法則は法。すなわち、妙法なんですね。したがって、妙法の当体を粗末にする人は、福運を失うんです。妙法の当体を輝かせる人は、福運を増していくんです。現実にどういう行動をとっているかということは大事です。
しかし、自身の本心がどっちで生きているのか。自分の生命を輝かせ、楽しみながら生きる方向なのか。自分を卑下し、追いつめていく方向なのか。その生命の奥底がどちらに向いているかがさらに重要なんですね。
この辺で、もう一回、聞いてみたいんですが、この中で自分のことを100点と思う方?
 (爆笑)素直な方が多いですね。
私たちは、朝晩勤行します。二座の御観念文は本尊供養です。「一閻浮提総与三大秘法の大御本尊に南無し奉り報恩感謝申し上げます」。この二座の本尊供養のときに、この本尊を自分のことと思ってやっていますか?
 
みなさん「仏壇の中の御本尊」だと思っていませんか?そういう人を指して大聖人は、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書P384)とおっしゃられている。
 
すなわち、法華経じゃないんです。また別の御書でも、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(御書P1244)。此の御本尊は「胸中の肉団に」、自分の生命に、「おはしますなり」と勉強したはずですが、実際勤行をする時は自分の生命の外に置いていますね。不思議なんです。学んだこととやっていることが違うんです。どうしてか?
 
実は、日本文化に、さっきの「村の文化」に毒されているからなんです。「村の文化」というのは、実は、「念仏文化」なんです。「念仏文化」というのは、自身の外に絶対の対象を起きます。したがって、御本尊絶対なんです。大聖人絶対なんです。そこで福運のない、境涯の低い、力のない私たちは、偉大な御本尊様におすがりし、その功徳を、その智慧を分けていただこうと。これを「念仏文化」というんですね。
 
御本尊を阿弥陀仏に置き換えたらぴったりするでしょ。「情けない私たちは阿弥陀仏の慈悲におすがりしましょう」という構造です。法華経は違うんです。そのことを池田先生は「法華経の智慧」で四年半にわたって展開してくださったんです。この「法華経の智慧」の中で、一番、明快にそのことをおっしゃっているのは、見宝塔品の講義のところですね。
 
「見」=見る。「宝塔」=宝の塔。宝の塔を見る。この宝塔というのは法華経の中で出現するわけですが、この宝の塔は高さ五百由旬、一説によるとヒマラヤの500倍以上の高さなんです。富士山の1000倍以上ですからね。壮大です。
しかもそれは、瓦礫の山ではない。宝の塔です。非常に荘厳である。また、壮大である。宇宙規模である。この偉大な宝の塔は、実は我々の生命の偉大さを表している。

すなわち、我々の生命が宇宙規模の、壮大な、また、荘厳な、そして、永遠性をはらんだ存在なんだと実感すること、それを見宝塔と言うんですね。大聖人はこの宝塔品の儀式を借りて御本尊を顕された。したがって御本尊は、我が身を偉大な宝塔と見るための明鏡、明らかな鏡であると明快におっしゃっています。
 
ところが、我々はそれを勉強しているのに、現実は鏡の方を崇め奉って、鏡に映る自分は情けないと見るんですね。いかに深く念仏に毒されているかです。だから、この不思議法則の、「自分さえ我慢していれば」という方向に行ってしまうんですね。喜べないんです。楽しめないんです。いい時には喜べるけれども、落ち込んだら、とたんに「情けない」って言い出す。
--------------
法華経というのは,「最悪の自分が偉大だ」と説く経典です。この法華経と爾前経の差。これを権実相対といいますね。どうして、法華経が優れ、爾前経が劣っているか。教学的には、二乗成仏、悪人成仏、女人成仏が説かれるからですね。
 
すなわち悪人とか女性とか二乗(声聞、縁覚)、この人たちは、大乗経典の説かれた時代、世間から相手にされない存在だったんですね。したがって、大乗経典はその人たちを救わなかった。ところが,法華経は世間が相手にしない差別された人たちを,実は偉大な存在であると説いたんですね。非常に革命的な思想でした。本当の意味での人間主義でしょう。
さらに、もう一歩突っ込んで、権実相対を生命論的に捉えてみると、二乗、悪人、女人というのは、実は、自分自身の一番落ち込んだ自分なんです。一番情けない自分なんですね。人と比べても劣っていると思わざるを得ない、その惨めな境遇の自分こそ、実は偉大な妙法の当体なんだと信じること。これが法華経を持(たも)つという意味なんですね。

だから、難信難解なんです。元気な自分や、絶好調の自分や、また、人からもてはやされている自分を偉大だと見ることは、まあできる。だけど、困難に立ち往生した自分、大失敗して、また、人からもバカにされて、落ち込んでいる惨めな自分を偉大と見ることは、難信難解(信じ難く、理解し難いこと)でしょう。しかし、そこに立ってこそ法華経なんです。

我々は「慈悲のドクター部たれ」と指針をいただいています。私はこの「慈悲」について、ずっと解ったようで解らなかったんです。「慈しむ」、これはわかる気がする。
しかし、「悲しむ」がよく解らない。
 
一緒に悲しむとか、同苦するとか、同情するとか、解ったようでわからない。そんな時に、池田先生のエッセーの中の次のような意味の一節を目にしました。「魂の勝利する時、悲しみは『慈悲』の『悲』となる」。これを見て、気づいたんです。今までは、「慈悲」を「慈しみ、悲しむ」と読んでいたんです。そう読むからわからなかったんですね。素直に、漢文読みすると返り点がついて、「悲しみを慈しむ」となるんですね。
すなわち、一番落ち込んでいる自分、一番惨めな境遇に苦しんでいる自分、また、一番不安がっている自分をこそ大きな心で包んであげる。温かい目で見守ってあげる。それが「悲しみを慈しむ心」すなわち「慈悲」であると。最悪の時に、自分をその慈悲の心で包む。そこに魂の勝利の姿がある。
 
その生命で自分を包める人は、もう悲しみは単なる悲しみではない。慈悲の心に包まれたその悲しみは、そのままで、勇気に転ずるであろう。また、絶望は希望へと転じていくだろう。その生き方の中に本当の意味での人間の魂の勝利の生き方がある。そういう心で自分を包める人は、また、絶望に苦しんでいる人を我が事のように、温かい心で包んであげられるでしょう。  
 
でも落ち込んだ自分を、こんな自分は情けないと嫌う人は、そこから立ち直った後で、同じように落ち込んだ人を見ると「かわいそうに」とは思うでしょうが、心の奥底では、「弱い人だな、自分に負けてだらしない人だな」と見るでしょう。

自分を見る目が他の人を見る目なんです。したがって、最悪の自分を慈悲の心で「大好き!」と大きく包みながら、「偉大なんだ」と本当に尊敬できる人は、また、他の人をも尊敬できていくんです。
≪つづく≫
 

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