一生成仏抄 パート2
海の文化と村の文化① ドクター部 於保 哲外
以前にも、ブログを切り替える前に全文載せさせていただきました。
すでに知っている人は知っている内容で、他のブログ等でも紹介されています。
於保先生はオボクリニックという名称で、「人間形成医学の専門医の外来」として診療所を開かれています。
私の知人がオボクリニックに受診したときに、於保先生からもらったのが「海の文化と村の文化」の講演内容でした。
この内容は、私はもう何10回も読んでいます。非常に重要なことが読み取れますので、再度、全文ではありませんが、載せさせていただきます。 yahooブログの制約上、1回の記事では載せきれませんので、3回にわたって載せさせていただきます。
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≪開始≫
今の自分に点数をつけるとすると、100点満点で何点くらいつけるでしょうかね。ちょっと、考えてみて下さい。0点から60点の間くらいに大体自分は入るなと思われる方、手をあげて下さい。
ありがとうございます。じゃあ、 61点から99点までの間だと思われる方、手をあげて下さい。この辺がふつう少ないんです。さっきの0点から60点までが非常に多いんです。さすがドクター部は違いますね。それでは、100点と思う方。お二人。ありがとうございます。このお二人以外は全員信心していないことになるのはおわかりですか?
では、法華経を信じるというのはどういうことなのかと考えてみると、自分自身が妙法の当体であると信じることですね。頭は妙、喉は法、胸は蓮、腹は華、足は経。自分のこの生命が南無妙法蓮華経なんだと、妙法の当体なんだと信じることが信心だと教学で学びましたね?とすると、自分自身を60点ということは、南無妙法蓮華経如来を60点とつけることになってしまいます。
先日、座談会がありました。私、担当で呼ばれまして、地区部長さんが「御書講義をしてほしい」と言うんです。ちょうど、フランスのメンバーが6人交流できていました。南フランスから来られたそうです。フランスではSGIはセクトだそうです。
非合法ではないけれども非合法に近いような扱いを受けている。その中でやっているから、みんな真剣ですね。「一生成仏抄」を一緒に勉強したんです。たまたま、この「一生成仏抄」というのは、池田先生がフランスに与えられた御書だったんですね。
その中で、「故に妙法と唱へ 蓮華と読まん時は 我が一念を指して 妙法蓮華経と名くるぞと 深く信心を発すべきなり」(御書P384)という一節があります。「妙法と唱へ蓮華と読まん時は」、南無妙法蓮華経と唱えるときは、「我が一念」、自分のこの生命を指して、「妙法蓮華経と名くるぞ」、自分の生命の名前を妙法蓮華経と名づけるんだと深く信心をおこしていきなさいと言われているのです。
そこで、「この中で,自分のことを南無妙法蓮華経如来だと信じられる人?」と手をあげてもらったんです。フランスのメンバーは6人全員、「はい」と元気いっぱい手をあげたんですよ。日本のメンバーは40数人中3人でした。
実は、学会員も「村の文化」で生きている人が多かったんですね。大聖人の仏法は、創価学会は、「海の文化」の宗教のはずなんですが、いつのまにか「村の文化」の宗教になっているんですね。難しいところなので、角度を変えてお話ししてみます。
以前、やはりこころのページの「ふれあい診察室から」というコラムに「不思議法則」というのを書いたんです。いろんな人を見ていると、真面目な人、頑張り屋の人、責任感の強い人、また、思いやりのある人、自分のことを顧みず尽くす人、こういう人が不思議に行き詰まっている。
真面目な人が、頑張っているのに不思議に開けない。そこまで人に尽くしている人が、有り難がられるどころか、かえって迷惑がられたり、バカにされたり、ひどい場合は恨まれたりしている。そういう人を見たことありません?真面目な人が意外と開けない。
そうかと思うと、ちゃらんぽらんで、図々しくて、要領よく立ち回っている人が、やることなすこと意外とうまくいく。うまくいくものですから、ますます人に持ち上げられて、ますます、開けていっているという現実がある。私はいろんな人の人生に出会う場面が多いものですから、よくそういう現象を見るんです。正直者がばかを見て、悪い奴ほどよく太ると。
「なぜなんだろう?」最初のうち分かりませんでした。私はちょうどそういうことを研究できる立場にありまして、その結果、だんだん見えてきたことを、「ふれあい診察室」に書いたんです。最初、抵抗がありました。これはちょっと問題あるから載せてくれるかな。カットされるかなと躊躇したのですが、あえて書きました。おそらくそういうことで悩んでいらっしゃる方があるだろうから、そういう人のためにと思って書いたんです。幸い載せてもらえました。
そうしたら、何件かやはり問い合わせがきました。 「書いてあるとおりです。私は去年まで一生懸命、折伏し、新聞啓蒙し、また、財務も頑張り、全力で戦いました。ところが、病気になって、今は生活保護を受けています。なんで、こんなに頑張っているのにこうなるのか、わからない。そうなると書いてある、そう書いてあるけれども詳しく書いてないから、よくわからない」ということで、問い合わせがきましてね。
さっそく、お返事を書いて、後で喜んでいただきました。実はこういう現象が起きる原因は、その奥に一つの法則があるからなんですね。表面の現象でなく、その奥の法則を「不思議法則」と勝手に名づけたんです。
どういう法則かというと、たとえば、困っている人のため、家族のため、また、学会活動のため、広宣流布のため、世界平和のため、世の中の正義のために、戦う。だけど我慢して、自分を殺して、すなわち、自分を粗末にしてやる人は、福運を失う。
したがって、自分を粗末にしているように、人からも粗末にされるようになっていくという法則なんですね。
同じ事をやっても自分自身が喜びながら、楽しみながら、自分の命を輝かしながらやることは、これは福運になっていくんです。したがって、自分を大事にしているように、人からも大事にされていく。
たとえば、「折伏すれば開ける」「新聞啓蒙すれば幸せになる」また、「財務に何桁に挑戦すれば幸せになる」。こういうのを餓鬼道と言うわけです。見返りを求めている。したがって、やっても開けなかったら恨みになってしまいます。菩薩道というのは違うんです。大聖人は「自他共に喜ぶなり」といわれています。
有名な徳勝童子の譬えがありますね。みんながお釈迦様に供養している様子を見て、僕も何か供養したい。でも、何もさしあげるものがないから、土饅頭をこねてさしあげた。その功徳で阿育王に生まれ変わることができたという話しです。
ところで、もし、このとき、徳勝童子が、土饅頭をお釈迦様にさしあげれば、後で功徳がある。それを期待して土饅頭をさしあげる、という取引のような気持ちでやっているとしたら、その心には、福運はつかないでしょう。真心から喜んでしていく。その命に福運がつくんですね。ギブアンドテイクではないんです。いわゆる自己犠牲精神じゃないんです。
一生懸命、自己犠牲精神で頑張っていれば、いつか功徳が出てくるだろうというのは間違いですね。この不思議法則。自分を輝かせながら生きていく方と、自分が我慢していく方と、池田先生はどっちでしょう?
明らかに前者なんですね。喜んでやってらっしゃるからあんな詩が書けるのでしょう。
嫌々、苦しみながらでは、あの写真は撮れないでしょう。(会館の壁にある池田先生が撮られた花畑の写真を指差しながら)池田先生の写真を見てみてください。先生の写真を見ていつも思うんです。あれを見ていると、ちょうど女子部や婦人部が「先生!」って言っているのと同じように感じません?あの花々が。
≪つづく≫
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