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【芸能・社会】

小山明子 最愛の夫への思い語る 介護17年「幸せな生活だった」

2013年1月17日 紙面から

公演を終え、記者会見で大島渚さんについて語る小山明子=東京・池袋で(中嶋大撮影)

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 肺炎のため15日に80歳で亡くなった映画監督大島渚さんの妻で女優の小山明子(77)が16日、公演先の東京・池袋の東京芸術劇場で記者会見した。小山は「仕事も家庭人としても夫としても尊敬できる素晴らしい人でした。だから支えられた」などと、最愛の夫を亡くした心情を涙ながらに語った。

 小山によると、大島監督は1カ月半ほど肺炎で危険な状態が続き、救命センターで治療を受けていた。15日になって容体が急変、小山らに見守られ静かに息を引き取った。

 「15日の朝に、看護師さんのことをママと呼んでいたそうです」と小山。この「ママ」が大島監督の最期の言葉になったという。

 大島監督が亡くなった15日、小山は大島監督の最期をみとった後、東京芸術劇場で行われた主演舞台「女のほむら」(20日まで)の最終けいこに気丈に参加した。16日の初日も悲しみを押して18年ぶりの舞台に立ち、熱演で観客を魅了。終演後の午後9時半過ぎから次男の大島新さん(43)、故人と親交のあった崔洋一監督(63)とともに会見に臨んだ。

 小山は「いつか死が来ると、覚悟はしていましたが、私のために15日という良い日を選んでくれたんだと思います」と涙ぐんだ。

 2人は仕事で知り合い、大島監督の猛烈なアタックで1960年に結婚。パパ、ママと呼び合う、おしどり夫婦と知られ、大島監督が1996年に脳梗塞で倒れてからは小山は献身的に夫の介護を続けた。

 17年に及んだ介護生活。53年の結婚生活を振り返って小山は「振り返れば長い闘病、不幸なことですが、だれにもつらい時期はある。その中でも私なりに幸せな充実した生活だったと思います。元気に生きていてくれたことが支えになっていました」と話した。

 危険な状態が続いていた今年初め。小山はベッドの大島監督に「お家に帰るか、おいしいものを食べるか、お酒を飲むか。神様がひとつかなえてくれるならどれがいい?」と尋ねたという。すると監督は、すかさず「飲みたい」と応えたという。小山は「毎日、口をお酒で湿らせてあげました。そしたら、ペロリとなめました。いまは天国で病気の心配することもなく、好きなお酒を飲んでいるでしょう」と笑顔を見せた。

◆舞台の役でも 献身的に介護

 舞台「女のほむら」では、小山は毒婦と呼ばれた実在の人物高橋お伝の役。上演前、小山は「夫の治療費を稼ごうと体を売り、献身的に介護する姿は純愛。その生きざまを見せたい」と話していた。大島監督の映画「愛のコリーダ」で共演した女優白石奈緒美(77)に誘われて出演した。

◆追悼コメント発表

 大島渚監督が78年の第31回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「愛の亡霊」に主演し、日本アカデミー賞優秀主演女優賞に輝いた女優の吉行和子(77)は16日、マスコミ各社へのファクスで追悼コメントを発表した。

 吉行は「大島監督は本当に大きな存在でした。私が今日まで仕事ができているのも『愛の亡霊』に出させていただいたおかげです。あの作品がターニングポイントになったといつも感謝していました。それが伝えられないのが残念でした。カンヌで監督賞を受けられた時も一緒にいて、あの時の笑顔が忘れられません」と故人をしのんだ。

 ◆故大島渚さんの葬儀・告別式 22日午前11時から東京都中央区築地3の15の1、築地本願寺で。葬儀委員長は映画監督の崔洋一氏。喪主は妻の俳優小山明子(こやま・あきこ)。

 

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