第4回 民主・仙谷塾 2006年9月17日(日)/於:ホテル千秋閣

テーマ…コミュニティソリューションとしての教育/講師…鈴木寛(参議院議員)参考図書…「中学改造」"学校"には何ができて、何ができないのか(藤原和博/編・著 桜井よしこ/共著 苅谷剛彦/共著 鈴木寛/共著)「コミュニティ・スクール構想」学校を変革するために(金子郁容/著 鈴木寛/著 渋谷恭子/著)民主党教育基本法パンフレット


仙谷由人:本日も皆様方の熱意にお答えできるような塾にしたいと思いますので宜しくお願いします。私の方から簡単に今日の講師、鈴木寛さんのご紹介を致します。

 鈴木さんは5年前の参議院選挙に東京選挙区から立候補、当選されました。従いまして来年の夏が改選となります。民主党は、今回も東京選挙区から2人候補者を立てますので大変厳しい選挙です。今日話を聞けば必ずわかっていただけると思いますが、この人を落とすような日本では困る、そんな方です。民主党にとっても、私にとっても宝庫のような存在です。

 お手元に『教育のススメ』をお配りしています。5年間ぐらい、鳩山由紀夫さんの下で教育基本問題調査会の事務局長として「日本国教育基本法案」を実質上1人で全て構想し、実際の教育現場で活動した経験も生かしてこの法案を練り上げた、コンセプトからデータに至るまで全部、鈴木寛さんの仕事です。

 元々は経済産業省の官僚で、もっと遡れば兵庫県の垂水区でお育ちです。灘高、東大、経済産業省と経て、慶応大学で教鞭もとられていました。ITに最も強い官僚でしたが、政策とメディアを中心に研究をされていました。それから、医療の問題にも大変詳しくて、今年の通常国会での医療制度改革の問題についても一緒に仕事をさせていただきました。

 中小企業、経済産業政策については当然の事ながら大変深い洞察を持っています。何よりも鈴木さんの凄いのは市民の生活現場に足を運んでいるので机上の空論ではないというところです。

 本日の討論材料である教育に話を移すと、私がよく人に勧める、杉並区立和田中学校で校長をされている藤原和博さん。この方はリクルートの部長から転身して、民間人が公募で初めて中学校の校長になったわけです。彼は運営協議会を中心として地域で学校を作る、「縦、横、斜めの関係」を、特に「斜めの関係」を作っていくんだということを提唱実践しています。いわゆるコミュニティスクールの原型だったのですが、これも鈴木さんや藤原さん、そのグループの議論の中で培って実践され、今『公立学校の逆襲』や『公教育の未来』という本にまとめられて、活動成果がでています。

 今日もテレビ番組で安倍晋三さんが、コミュニティスクールの推進と言っていました。話す内容を聞いてみると、全く現実を理解できていないというか、全然わかっていない。鈴木さん他実践者達が言っているのは、「現場主権で、学校長、運営評議会、地域の人々に権限を与えて学校を地域の力で運営していくという事がなければ、子どもが生きる力を身につけない」ということ。「本当に必要なのは、いわゆる偏差値が高くなるということではなくて、生きる力を身につけること、その為に学力も必要」ということで、そのためにコミュニティスクールを制度的に保障しなければならないということを訴えています。

 しかし、かたや安倍さんの教育論というのは、私から見ると非常に中央集権的で、なおかつ官による管理、締め付けということを随分と強調する一方で、現場主権のコミュニティスクールをどう位置づけているのか、全く分かりません。

 そういうことでは困りますから、コミュニティスクールというものの本来的な意味づけをしっかりして、パラダイムの転換というか、枠組みの転換をやっていただかなくてはなりません。現場とか、地方をどう強くするのかということです。

※【パラダイムシフト】その時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」が、革命的かつ非連続的に変化する場合、そのような変化を「パラダイムシフト」「パラダイムの転換」などと呼びます。

 私はいま代表理事として、プラトンという民主党が出資するシンクタンクの運営をしています。鈴木さんはその中で研究評議会委員を務めていただいていますが、昨年末に開いたシンポジウムで、鈴木さんと慶応大学の金子郁容さんという教授と一緒にコミュニティソリューションというコンセプトの下に討論をしていただきました。

 当初は私もコミュニティソリューションという、舌を噛みそうな単語でしたから、よく意味が分からなかったのですが、要するに地域における問題を地域で解決する枠組み、あるいは人間の動き、活動の総体を作ろうということです。

 その中のひとつが子どもの教育、大人の教育も含めて「教育」という言葉で表される問題であると思いますし、医療、福祉もそういう問題なのではないか、あるいは廃棄物処理問題も地域的枠組みで解決しなければならない範疇に入ってくるのかもしれません。

 プラトンでは、生身の人間が地域で生きていく場合にどういう課題があって、それを解決していく為にどのようにすればいいのかという問題意識を基に議論を深めています。

 そこで、先進的な自治体の首長はどのようなマニフェストを設定して選挙をし、実現しているのか、あるいはどういうふうに住民とのコミュニケーション・対話を行っているのか、あるいは議会との関係はどうなのか、議会はどうあるべきなのかという問題意識で、改革派の首長の方々に何度も講演を頂いてきます。

 こんな長話をしながら今日は多くの皆さんがご出席をされていますので、鈴木さんに今、地域社会を活性化する為に、政治の側が地方政治のレベル国政のレベルでそれぞれどのような事を考えて実践していけばいいのかということをお話いただきたいと思います。それでは鈴木さん、よろしくお願いします。

鈴木寛:皆さんこんにちは。ご紹介を頂きました鈴木寛です。本日は徳島の仙谷塾にお招きを頂きましてありがとうございます。

 仙谷さんの江戸屋敷の門番をさせていただいています。そういう意味では仙谷藩の地元の皆さんと、江戸屋敷の私とで今日こういう集いを持たせていただき光栄に思っております。物理的にも仙谷さんの目白のお屋敷の徒歩圏内に移り住みまして、門番をさせていただいています。

 仙谷政調会長の時に、政調副会長をさせていただきました。今はプラトンでも研究評議員を、医療制度改革作業チームでも副座長をさせていただいています。そういう意味で、ありとあらゆる問題で(仙谷さんは)私のまさに主君ですので、是非これを機会にお見知りおきを頂きまして、さらに江戸屋敷とこちらとの交流のきっかけになればと思っています。

 ご紹介を頂いたとおりですが、徳島には10年ぶりに参りました。丁度、竹下登さんのふるさと創生論のときに、通産省から国土庁に出向して、47都道府県を全部回りました。約2年間、街づくり、地域づくり、地域興しの現場を勉強させていただいて、色んな市長、町長あるいは市議や町議といった人達の相手をしてきました。

 その後テクノポリス構想、頭脳立地構想の審査や、リゾート法にも関わりましたが、その時に徳島にもお邪魔しました。その後、山口県庁の課長として1993年から95年の2年間派遣されていました。

 瀬戸内の「飢え死にはしない、凍え死にはしない」というなんとない生ぬるい雰囲気の中で、腹を固めてまなじりを決して、覚悟を決めるまでには至らないという気質。山口県もそういうところがありますし、四国、徳島もそうでしょう。本州とつなぐ橋が掛かり新幹線が走るといった、戦後の公共事業の一番の恩恵を受けてきた中四国でも2年間仕事をしました。

 それから通産省を辞めて1999年から慶応大学に移りました。高知県の橋本大二郎知事と以前から懇意だったこともあって、そのときの高知県情報通信政策委員を務めていましたので、月1回は高知に行って、高知の情報通信政策をどうするのか、インターネットインフラ、情報教育を進めました。

 当時の言い方として情報教育先進3県というものがあったのですが、日本全部の学校にインターネットが普及したのがやっと2001年。それからは全国3万校で情報教育が行われているのですが、実は岐阜と高知と佐賀は全公立学校のインターネット普及が98年までに行われました。圧倒的にその3県だけ早かったのですが、そういったことにも関わっていました。

知識集約型社会へのパラダイムシフト

 前置きはさておきまして、今日は教育というお題を頂きました。私は議員としては教育、アジア、医療の3つの問題に集中して取り組んでいます。議員になってからの5年間、一貫して文教部門会議に所属して、今現在は「次の内閣」文部科学担当をしながら、この2年間は参議院の文部科学委員会の理事をしています。

 今回「教育のススメ」という冊子でこの5年間、もっといえば民主党ができて10年間の教育政策の集大成をまとめました。今般言われている教育改革のポイントは、言ってしまえば当たり前のことなのですが、教育は「人的サービス」だということです。

 産業革命以来、元来は「労働集約型産業」というのがあって繊維や軽工業中心の産業形態が存在していました。それが「資本集約型産業」、つまり重工業産業中心になって家電や自動車、加工組立型の工業が発展してきた。それがいまやサービス業を中心とした「知識集約型産業」の時代を迎えています。今後は大きくいえば知識集約型のきちっとパッケージを輸出して世界のライバル企業と対抗していくという産業形態になっていく。この分野で世界のシェアトップ3に入らないと生き残れない、そんな時代になってきています。

 クライスラーとベンツが合併しましたが、何故このような大きな会社があえて合併しなくてはいけないのかといえば、資本集約型産業の世界で3番手になろうと思うとベンツ単独でもクライスラー単独でも厳しい、現にGMはその対応に送れて大変な事になっています。

 つまり、これだけ自由貿易が広がると、物質で勝負しよう、製品で勝負しようと思っても、世界トップ3に入らなければ生き残ることができなくなっている。これはなかなか大変な世界で、そういう意味では「選択と集中」、資本集約型で頑張れる企業はいいのですが、、なかなか多くの企業や地域がそんなに世界3番手に入る産業サービスを出し続けられるのかというと厳しいでしょう。

 ですから、一方でサービス業を中心に生きていくことが重要になっています。サービスは人が伴いますのでなかなか輸出は難しい。なのでライバルが世界ではなくて、ある限定された地域ということになります。そうすると大きく言えば「世の中何で食っていくのか」というとそういう考え方になっていくわけです。

 サービス業では労働形態が単純労働集約ではなくて人材集約型になっていくため、高度なハイタッチ・高センスな人材が求められます。例えば、介護はまさにハイタッチ、感性の豊かな高度な人材が必要です。教育や医療は両方で、知的であり感性的であるということになります。

 それでは、良いサービス業とは何かという、この公式は明らかです。「タイミング」と「カスタマイズ」です。カスタマイズとは要するにあつらえ、注文のことです。かゆいときにかゆい所に手が届く、という表現がぴったりでしょう。サービス業においてはタイミングとカスタマイズが重要です。

 従ってサービス業で最高のクオリティを保つにはオーダーメイド、テーラーメイドにするのがいいに決まっていますが、オーダーメイド、テーラーメイドではコストが高くなります。それならば、教育も含めて人的サービスはいかにイージーオーダーにして、カスタマイズできるのか、要するにあつらえの着心地でありながら、そのコストをいかに抑えていくかという話になっていきます。その為にはどうしたらいいのかという議論がありますが、そちらは今日の本題ではありません。

コミュニティ・ソリューション

 なぜ私が医療や教育に一生懸命取り組んでいるのかといいますと、私は97年から中央大学の総合政策学部の講師になって以来「ソーシャルヒューマンサービス」、「社会的人的サービスの公共政策学」をテーマにしています。そして、その典型的なものが、医療と教育になるのです。単にビジネス市場原理だけでは片がつかないもの、教育と医療については必ず程度の差こそあれ、行政が介入関与しなければ成立できません。通産省はなくてもいい役所ですが、しかし文部省や厚生労働省は絶対なくてはいけない。

 そこで、医療や教育について、竹中・小泉路線は経済政策論的に明らかに間違っているという、さわりの部分だけお話したいと思います。

 大学生に経済学、経済政策学、公共政策学の講義で最初に教えることのなかに、市場原理が成り立つ2つの前提があります。1つは、「情報の非対称がない」ということです。要するに、あるサービスについて作っている側と使う側、買う側でそのサービスについての理解、情報が同じであるという「対称性」があるということ。例えば、玉露入りのお茶というのは作っている側と我々のように購入して飲んでいる側もその情報に非対称性はないのです。2つ目は十分に多く買い手と売り手が存在することです。

 その2つが満たされるときは、市場に委ねて「神の見えざる手」に任せていれば利己的にやっても社会全体として市場経済が成り立って最適になる、というのがアダム・スミスの言っていることです。

 それにしたがっていくと、教育と医療はそもそも本質的にこの2つの要件を満たしません。医療は絶対に情報は非対称です。医師と患者で情報が対象になることはありえません。また、「情報を持っている人から情報を持っていない人へ伝達伝授教授する事」を教育といいますから、情報が非対称でなければ教育というサービスは存在しません。

 この2つの話に限って言えば、絶対的に未来永劫、市場原理が働く絶対条件がクリアされない。従ってそこに市場原理を導入するのは、経済学の初歩の初歩中のミスを犯しているというのが、小泉竹中路線に対する政策学的評価です。

 もうひとつ、「コミュニティソリューション」は「第三の道」とほぼ同義だと考えていただいたらいいかと思います。コミュニティソリューションは、コミュニティを通じた問題解決を目指す概念だからです。

 それでは、「第一の道」とは何か。それは政府機能を通じた問題解決、「ガバメントソリューション」です。ガバメントソリューションは一方で中央集権型統制主義、官僚主義とも言いますが、結局全て中央省庁で情報を集め議論をして決めた政策を現場に下ろしていくという、明治維新の大久保利通以来130年以上日本がとってきた手法ですが、これが今破綻をしている。

 なぜかといえば、中央省庁にあがる情報は必ず偏ってしまうから。まず怒られるような情報はあげません。これはまさに末期ソビエトの状況で、ノルマ達成ができないとそのノルマに即した情報はあげないで、中央には耳ざわりの良い話しか現場から上がりません。その結果、権力者は本当の情報は取れないということになる。

 知恵には、書き表すことのできる「形式知」、言葉にならない「暗黙知」という2つの形態があります。暗黙の知は雰囲気やセンスや感じですから、現場から絶対中央にあがってきません。そうすると中央省庁は偏った情報の中で判断しますから必ず間違います。そして政府による問題解決は強制力を要するので、服従をさせるためのコストがかかります。

 従って、仮に福祉国家にならなくとも中央集権型、社会統制型は服従管理コストが肥大化します。また、既に言いましたようにサービスは、タイミングとカスタマイズですから、中央集権化による標準化と矛盾します。標準化すればするほど、統一すればするほどサービスの質は悪くなります。従って、社会統制型「第一の道」は駄目でした。

 そこで、「第二の道」で市場を導入しようということになりました。イギリスの場合はサッチャーが出てきて「第二の道」への転換をはかって、それでも駄目だったのでブレアの「第三の道」となったのですが、日本は不幸なことに小泉さんが登場するまで「第一の道」で来ていました。民主党であれば「第一の道」から「第三の道」にいけたでしょうし、「第一の道」と「第二の道」の問題両方を一挙に解決するには「第三の道」しかないのですが、そこの議論がグチャグチャで、10年・20年遅れのレーガン・サッチャー・イズムが今の日本で起きています。

 医療、教育については第三の道に通じる「コミュニティソリューション=コミュニティを通じた問題解決」が必要だと思いますし、それが様々な問題を抱えている日本の社会での有効な解決策ではないかと思います。

21世紀の「生きる力」

 もう一ついまの教育議論について指摘すると、どういう「生きる力」が必要なのか、「生きる力」の本質は何かという議論が抜けています。今、200年ぶりの大きなパラダイムシフトが行われていて物質文明、産業社会、工業社会から情報社会、情報文化社会への価値転換が起こっています。

 これはIT化とは似て非なるものでして、私はIT社会ではなくて「情報社会」と言って使い分けています。情報社会というのは、情報というものが大事な価値であるというふうに考える社会、あるいはその重要性を一番社会設計の中心において統治していく社会のことです。

 自由民主党は物が大事な時代の党です。民主党は情報が大事な時代の政権党といいますか、リーダーとなる党だというので私が民主党に所属している理由ですし、それを目指していきたいと思っています。

 では工業社会、物質社会の一番大事なことは何かといいますと、大量生産、大量流通、大量消費ということで、大量に作ればGDPは上がりました。大量生産のためにはいかに高速に正確にコピーするかということがポイントになります。正確性速度を競うというゲームが工業社会のゲームでした。日本は一時、半導体で世界一の国になったことがありました。

 半導体では、歩留りという言葉がありますが、当時の日本の歩留りは99.9999%、一方、アメリカの歩留りは98%。そうすると、工業社会における現場である工場ですから、工場労働者ではどういう人が優秀なのかといえば、マニュアルをいちいち見るのではなくて、完全に暗記してそれを正確に高速に再現ができる人ということになります。したがって、暗記力と反復力は工業社会における「生きる力」だったのです。

 そういう優秀な反復力と暗記の高い工場労働者を持つ工場は生産性が上がり、そういう工場を持つ日本が、1980年にはジャパン・アズ・ナンバーワンになりました。

 しかしその後、世の中が変わっているのに前の時代の成功体験を引きずったまま、日本は次へのシフトを未だにできないままでいます。

 学力低下論争には私もこの5年間関わってきました。私のもともとの専門は情報教育ですが、学校現場を回っていくと情報教育どころではなくて、教育現場が大変な状況になっていたものですから、教育政策にシフトしました。ただ私は「20世紀の学力」が上がろうと下がろうと心配はありませんが、「21世紀の学力」への準備が日本は全くできていないことを心配しています。

 知識集約化、情報化のなかで発達したデジタル技術とは、つまり完全に100%コピーができる技術です。人間は100%をできません。99,999%の人を達人といいますが、達人とて100%ではありません。

 ですから、デジタル技術導入によって、あるものを完全に正確に大量にコピーするという仕事は人間の仕事である必要はなくなりました。「ゼロから1を作る」のが人間の仕事で、「1を100にコピーする」のは機械の仕事、こう仕分けることができるようになりました。これが情報革命の意味です。

 そうすると、今まで日本は1を100にする事で世界一だったわけですが、ゼロを1にする事はできないのではないかという危機感から、オリジナリティーやクリエイティブ、創造性がさかんに言われるようになりました。

 21世紀、これからの人間はゼロから1を作り出せなければいけませんが、ここで結局必要になるのがオリジナリティ、ただし全ての人にオリジナリティや創造性はありません。

 ここで重要なのが、「コラボレーション」です。工業社会は「コーポレーション」つまり「コー(一緒に)・オペレーション(作業する)」、工場で一緒に作業するということでした。

 一方知識集約型では「コー・ラボレーション」。日本語では「協働」と訳していますが、「ラボレーション」の語源はラボラトリー、つまり実験室という意味で、仮説を立てて色々試行錯誤をしながら真理に接近していき、その過程でまた新しいモノを試行錯誤しながら作っていきます。そんな実験室では、違った反応、センス、能力をもった人達がコラボレーションすることによって一人ではできない何かを作れます。

 私は、大学時代ミュージカル劇団などに関わっていたのですが、顔や声の良い人、歌のうまい人、照明のセンスがある人といった、あらゆる人がいて初めていい芝居が成り立ちます。要するに一言でいえばそういう例えでしょう。

 それならば、劇団で例えれば子供の才能のなかでも「私は衣装をやる」や「私は大道具、小道具をやる」、あるいは「私は役者をやる」という、そんな才能を広げてあげなければいけません。そのために存在しなくてはいけないものが2つあります。「判断力」と「コミュニケーション力」です。20世紀型の暗記と反復力の教育から、21世紀型では判断力とコミュニケーション力の教育に目標を変えていくことが、時代の要請であることが教育改革の非常に重要な事であると思います。

 判断の中では「真・善・美」という言葉がありますが、「なにが真でなにが偽か」、「なにが善でなにが悪か」、「なにが美でなにが醜か」というこの3つがそれぞれ等しく重要であるということが今までと違います。

 今までは「真」が重要でした。要するに正解か、不正解かということです。善悪や美醜はどちらかというと重要視されてきませんでした。数学はみんな一生懸命やるけれども、図工はあまりやらないというところにこれまでの教育が表れていると思いますが、これから真・善・美のどれもが大事です。相対的には善悪や美醜はアートや知と美に関するものですから、知性・個性・感性の3つのバランスそれぞれについて正しい判断ができるようにすることが必要です。

 しかし同じモノを見ていても私が見ているものとそちらから見るものは違いますから、両者の判断を持ち寄って色々な判断をすることによって新しい情報を創造していくことが必要です。これを「情報編集能力」と呼びます。まさにどういう情報が必要で、収集してきた情報の中で使えるもの使えないもの、それをどのように組み合わせてどのように発信していくのかということですが、これは料理と同じですね。

 どういう材料を仕入れてきて、どう切って、煮るのか焼くのか揚げるのか、そしてそれをどのようにとり合わせてどう盛り合わせて出すのか、料理でやっていることを情報でやるということです。

 そういう情報編集能力ということを言い出せば、そういったものを育てるには学習指導要綱やカリキュラムをどのように変えていけばいいのか考えなくてはなりません。

 従って、私と藤原和博先生が言っているのは、もう国語・算数・理科・社会ではなくて国語や英語はコミュニケーションと呼び方が変わったり、算数はロジック、理科はシミュレーション、社会はロールプレイング、さらに体育や芸術はプレゼンテーションと変わればいい。国語・算数・理科・社会に変わる21世紀の新しい教科、あるいはそれに伴うカリキュラムが本当は必要であるということを念頭においた教育論議が行われなければならないのではないか、ということを私は大前提にしています。

コミュニティスクールの実践

 さて、具体的にコミュニティスクールの実践ですが、まずは現在私たちが教育改革をどのような陣形で行っているかといいますと、政策や制度は私が国会でやらせていただいています。慶応大学の金子郁容さんは元々私が助教授の頃の教授だったのですが、政府の審議会、小渕・森内閣が行った教育改革国民会議の第二分科会の学校経営の首座をしていました。その後、行政改革・規制改革会議にも入っていましたので、要するに政府の教育に関する大体の審議会のメンバーを金子さんがしていたことになります。そして現場は小学校長としてこの3月まで広島県の尾道市立土堂小学校の校長をしていた蔭山英男さんです。

 この蔭山さんがいろんな事を試すことができたのはコミュニティスクールのモデル校であったからで、ですから学習指導要綱を逸脱していろんな事を横行的にできました。私と蔭山さんは、彼が兵庫県の中で無名で頑張っていた頃からの友人だったのですが、なかなか不遇だったので、色々手助けをさせていただいて尾道に行って力が発揮できるようにさせてもらいました。

 そして中学校のモデルは杉並区立和田中学校です。こうやって、議会・行政・現場の三位一体でやるということが重要でして、このような情報社会において社会改革に必要なものを「スーパーパーツ」と呼んでいます。

 全体を凌駕する、小さくてもいいのですが非常にピリリッと効いた一つの具体的な事例というものが出てくると世の中に広がるスピードが早いのが情報社会です。とにかく和田中学校のような事例を一点突破の具体的なリアリティーとしてまず作ります。そしてそれを一気にメディアに載せて広げてさらに制度化することが社会改革として正しいと思います。

 このような陣容で考えて、このメンバーで10年ぐらい一緒にやってきました。

 実は私は慶応大学時代に自民党や民主党に何度も足を運ばせていただいてコミュニティスクール構想や、教育改革の講演をしました。けれども、どなたもこの問題を取り上げる方がいなかったものですから、自分で2001年に選挙に出て国会で活動しています。

 コミュニティスクール構想については、97年に出版した『ボランタリー経済の誕生』という本に書きました。そこで既にコミュニティソリューションのコンセプトは出ています。それを教育に当てはめてみるとコミュニティスクールになるという議論を99年にして、1年間教育改革国民会議の17の提案に盛り込んで法制化をしていくという作業をしてきました。当然最初は文部省の大抵抗に遭いました。

 2001年に選挙で当選したときは、当初コミュニティスクールを実践することが公約でしたが、文部省が反対していました。そこを民主党の議員方の支援があり、文部省に反対されつつも金子さんが内閣に働きかけをして、それならまずモデル事業をして、その結果を見ながら法制化を決めるということに至りました。そして全国に7つのコミュニティスクールができました。その典型的な例が尾道、足立区五反野小学校だったり、京都の御所南小学校だったり、三重県津市の南が丘小学校だったりしました。

 そこで予想以上にうまくいきましたので、色々な国会活動及び政府審議会活動をうまく金子さんと私が力を合わせながら、一方で尾道や杉並でコミュニティスクールが非常にうまくいくという実例を挙げていただきながら、2004年6月に学校教育法を改正して、「コミュニティスクール法」を制定しました。しかしこの法律に関して、私と金子さんは60点の評価です。したがって民主党が政権をとったあかつきには、直ちに本当のコミュニティスクール法を作りたいと思います。

 コミュニティスクールの具体例に話を移します。三鷹市立第四小学校は、だいたい1学年60人、全学年で300人強の小学校です。

 1学年で2クラスあります。担任が2人います。小学校の授業で一番子どもがつまづくのは算数です。中学校になれば英語です。小学校の算数でもいくつか大きな障害があって、例えば割り算に入るところ、分数に入るところに大きな山があります。そこで、三鷹市立第四小学校では60人学級を20人、20人、20人の3クラスに分けて、プロの教員担任2人+ひとりの「スーパーティーチャー」という3人で授業に臨みます。

 加えて三鷹第四小学校の職員室の横にはNPO法人夢育支援ネットワークの事務局があって、そのNPO法人には父母とか、地域の人とか学生なんかも含んだ、約200人のボランティアが登録されています。そこへ先生が「来週、小学校3年生の分数の難しいところを授業でやるのでアシスタントティーチャーを15人募集します」というメールを送ると、来週の一番難しい勝負どころの授業に、15人のボランティアが助っ人にきます。20人の生徒に対して1人のプロフェッショナルと5人の大人がついて算数を丁寧にみますから、実際は1対4で授業をやることになります。

 ここまでやると落ちこぼれません。勿論プロとアマチュアが事前に相談をして「最初はあまり教えないでください」とか「とにかく見守ってください」ということをプロの先生がボランティアの人に言います。

 例えば小学校5年生が初めて包丁や火を使う家庭科実習の授業。調理台は6つ、家庭科の先生は1人ですから、6人の調理実習のアシスタントを募集します。これならどこのご家庭の奥様も参加できるだろうと思います。

 ところが今大変おかしいことが各地の家庭科の授業で起こっています。火傷や手を切ってはいけないというので、包丁をもたせたりフライパンを使ったりする家庭科実習ができなくなっているのです。仮に1人でも指を切れば、保護者から大変な苦情がくるというので、家庭科の先生たちが懲りてしまい、調理実習が成立していない地域が多いのです。しかし三鷹市立第四小学校のようにすれば、ちゃんと包丁を使って、フライパンを使って本来の家庭科実習ができます。

 このようなことが三鷹第四小学校では行われていまして、そこの元校長先生が三鷹市の教育長になっています。そして、金子郁容さんが三鷹市の教育委員会の教育改革ビジョンの座長をしています。

 なぜ三鷹市でこんなことができているのかといえば、自民党系なのですが、95年から市長をやった清原さんが我々の仲間だったり、実質上の教育ビジョンの座長と実践をしていた小学校長が我々の友達だったからです。ですから、三鷹市ではコミュニティスクールに、ほぼ全校なるだろうと思います。

 東京都杉並区の和田中学校に話を移します。和田中学校では、元PTAの会長をしていた人が地域本部の事務局長をしています。

 和田中学校では学校のグラウンド全体が芝生です。全国的に芝生の学校は少ないのです。なぜなら手入れにお金がかかり、手間がかかります。しかしその手入れは学校の先生はやらないで地域本部の園芸好きのボランティアがやっています。花壇の割り当ても決めて、地域の人たちが管理しています。

 東京のしかも23区ですから、小さなベランダで細々と欲求不満の園芸好きな人が、学校の大きな芝生や花壇を手入れしています。学校の中に今や田んぼまで作ってしまいました。

 「土曜寺小屋」という実践をしています。「ドテラ」と呼ばれていますが、要するに補習です。土曜日に学校で、普段勉強が遅れている子供たちが集まって、地域の大学生や登録された大学生がボランティアで教えます。

 今の教員、特に小学校や中学校は教員の本来の仕事以外の雑用に追われています。それを地域本部が肩代わりして、教員は教員でしかできない仕事にもっと集中できるようにしよう、このような体制によって和田中学校は良い学校になっていきました。和田中学校の地域本部には現在500名の登録者がいます。

 京都市立御所南小学校のコミュニティスクールには約80人の熱心なボランティアがいます。半分は保護者で、半分は地域の方です。そして80名の方と学校の教員と一緒になって御所南小学校を改善するために必要なテーマごとに15項目位あるのですが、毎週月曜日夜8時から侃々諤々の議論や相談をし、その代表者が学校理事会と交渉します。その中にはトイレをきれいにするとか、パソコンを新しくするというものもあります。あるいは祇園祭の地域ですから、総合学習に祇園祭を取り入れて総合学習を充実させてはどうか、なんていうこともテーマになります。とにかく学校を良くするために必要となるものは何でも、地域と教員が一緒になって議論しています。

 そして足立区立五反野小学校、ここがコミュニティスクールの第1号です。ここは校長先生の首を付け替えました。

 コミュニティスクールを指定して1年ぐらいは前の校長が引き続きやっていましたが、コミュニティスクールに指定して2年目に人事異動でやってきた校長先生と学校理事会との方針が合いませんでした。もちろん最初は丁寧に議論をしましたが結局話の決着がつかなくて、3年目に突入する前に校長先生を公募しました。五反野小学校をこういう小学校にしたいという、学校理事会の要望に答えられる校長先生を募集をしたところ、民間人のベネッセの部長が新しい校長として今も尚、五反野小学校の校長先生をしています。

 コミュニティスクールにもいろいろあって、理事長がリーダーシップをとるケースと学校長がリーダーシップをとるケース、御所南小学校の場合は学校がリーダーシップをとり、五反田小学校は理事長がリーダーシップをとっているということです。

 教育というのは簡単に言えば、子供に携わる大人の数と質で決まります。要するにサービス業ですから、手間をかけないと人は育ちません。それならどのように愛情と手間をかけようか、ということに尽きます。

地方で実践するためには

 そんなコミュニティをいきなり作れるのかという質問を受けます。徳島でもなかなか難しくてうまくいっていないと思いますが、そこは私たちはこの間こういうふうに制度を進めています。

まず第一段階として学習会を開いてくださいと言います。PTA主催でも地域主催でも、先生方が集まって5人でも10人でも集まって、教育の事を話し合ってください。

 そしてまず第1ステップとして「土曜学校運動」を始めることです。私もNPO活動として土曜学校運動を実験的に六本木の廃校になっている小学校を港区から借りて、毎週土曜日、学生やボランティア、保護者の方々と一緒に実践しました。そうやって土曜学校の校長を私がやってひな型を作りました。学校の施設、廃校、公共施設を使って運営はNPOが携わりながら体験学習や創作活動を子ども達と一緒にやります。

 例えば私たちがやったのは、子どもたちをイギリス大使館に連れて行く疑似体験。大使館に入るときにはパスポートが必要ですから、通関の真似事を大使館でやったということです。あるいは東大の文化祭に子供たちがお店を出してクレープやおでんを東大生に売るなんてこともしました。

 今、私が文部省に土曜学校運動を推進しようと要請した結果できた、地域子供教室推進事業、という制度があります。全国で8000校分の予算が確保されています。47都道府県によって申請の出具合にばらつきがあるので、徳島はどうなっているのかは確認していただければと思いますが、1校100万円から150万円もらえます。土曜学校をやろうと思えば充分な金額です。全国30000校のうち8000校ですから、3分の1の学校では土曜学校ができる予算措置があります。あとは申請するだけです。そうすればコミュニティができます。土曜日であれば父親も参加できます。現に江戸川区では「父親(おやじ)の会」というコミュニティもできています。

 来年度予算で文部省と厚生省から「放課後子どもプラン」という概算要求をだしています。この「放課後子どもプラン」というネーミングは悪いので皆さんからも募集したいと思っていますが、今までは週末だけの土曜学校だったのを、放課後もやろうと考えています。330億円の予算要求をしています。

 20000ヶ所実施の想定です。従って全国30000校のうち20000校は事業費で大体1校150万円もらえます。(誤解があるので言えば、今までも文部省から直で予算は出ていたのが、これからは県:市:文部省=3:3:3になります。)

 しかし実践する皆さんからの金銭の持ち出しはありません。市と県については地方交付税の合算要求をしますので、交付税分として県や市に予算がおりてきます。それを県市がどのように運用していくか逆に言うと、それは皆さんが現場でチェックしてください。事業体との関係では100万から150万円になっています。

 民主党が政権をとれば学力低下問題についても解決策は明らかです。

 学力には世界標準のPISAというOECDの国の調査をしている機関の学力調査があります。その成績によって、できない順からレベル1〜5とされていますが、日本は一貫して最も優秀なレベル5は1割います。これは変わっていません。

PISA

OECD加盟国の生徒の学習到達度調査のこと。Programme for International Student Assessmentの頭文字を採ったもの。OECD加盟国の多くで義務教育の修了段階にある15歳の生徒を対象に、読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーを調査するもので、調査プログラムの開発は1997年から始まり、調査は実際には2000年から始まっている。以後、3年毎に調査することになっている。第1回調査の2000年調査の結果、および第2回2003年調査の結果については、国際報告書をもとに日本国内向けに翻訳した形で国立教育政策研究所が編纂し、ぎょうせいから出版されている。

 何故学力が低下したのか。特に読解力は世界14番目まで落ちてしまってショックを受けていますが、例えば2000年の調査ではレベル1とレベル2の子どもたちが全体の25%、4分の1でした。しかし2003年になると3分の1になりました。この層が平均を押し下げているというのが学力低下の要因だと思います。

 民主党の『教育のススメ』の13ページをご覧ください。日本の就学援助費のデータですが、このPISA調査のレベル1とレベル2の比率と就学援助費をもらっている人の比率が同じになっています。

 子どもには3パターンあります。給食費や修学旅行費すら全額払えない、もしくは十分払えないので就学援助を行わなければいけない子ども、その子たちはレベル1、レベル2になってしまいます。給食費などはなんとか払えても塾には行けない、行けても1つぐらいの子どもたちがいます。塾だろうが家庭教師だろうが何でもいける子どもたちがいます。

 この3つのグループがあって、日本全体ではレベル5の子どもたちが比率で言えば1割、塾が1個の子どもたちがレベル3もしくは4、就学援助を受けているのがレベル1,2ですから、学力を上げようと思ったらレベル1とレベル2の塾に行けない子どもたちに対して公教育で補習をしなければなりません。

 我々は民業圧迫といわれようが、そういう子どもたちは塾に行けないのですから、かつ民業圧迫より日本の教育力を上げる方がよっぽど政策順位が高いので、レベル1やレベル2で就学援助をもらわざるを得ない家庭は、学校で5時まで残して補習をさせることを主張しています。

 先程言いました放課後子どもプランでは、小学校低学年では学童保育のようなものでいいのですが、高学年についてはそこで教えて学力の向上を図っていくというように、やや放課後支援に関しては学力にも配慮してもう一歩踏み込まなければなりません。その運営のスーパーバイザーは学校の先生が務めながら、放課後の補習は地域のボランティアや学生が補習に関わっていきます。

 土曜学校、放課後と解説いたしましたが、次は総合学習です。総合学習を地域が助ける、あるいは学校行事を地域と一緒にやることです。その辺までできれば地域コミュニティというか、サポートコミュニティにかなり実力がついていますから、そうなれば最後は地域運営学校、地域評議会を作れます。

 今の法律はここまでです。最終的な権限は学校長が持っています。しかし、地域運営協議会と共に色んなことを決めていくことができます。究極のコミュニティスクールというのは、まだ法律には書き込めていないのですが、学校理事会をつくることです。モデル事業のときは理事会と呼んでいました。

 五反野小学校みたいな例があって、校長の首まで挿げ替えるのは行き過ぎだという議論になったので、理事会まではやっておこうということになりました。そして地域運営評議会で学校長が運営評議会の了解をとるというところで留まっています。そのようなステップをたどれば最終的にはコミュニティスクールは可能だし、そのステップが一つ一つ上がる事によって少なくとも学校における教育の質は上がるだろうと思います。

 いま解説しましたマニュアルというか段階論は制度として国にはすでに用意されています。あとはそれを現場で活用をしてできるのではないかと思います。

 それと類似のもので学校評議委員というのがありますがこれは何の意味もありません。これは校長先生の御用聞みたいなものですので、学校評議委員と学校協議会は全く違います。

 今まで言った具体的政策を整理しますと、政策は2つのポイントがあります。

 1つは、「リソース(資源、財源)をどのように調達するのか」ということ、2つには「リソースをいかに最適に使っていくのか」ということです。この2つ目を一言でいえば「ガバナンス」です。政策を議論するのは、「リソース」と「ガバナンス」です。

 コミュニティスクール構想をリソースという観点からみますと、要するにマンパワーを増やすということ。その時に、地域ボランティアをうまく使って、同時にプロ(この場合教員)とボランティアが一緒になることが重要です。

 「ニューPPP」という言葉があります。「PPP」とは「プライベート・パブリック・パートナーシップ」の意味なのですが、我々は、プライベートではなくて「ピープル・パブリック・パートナーシップ」と呼んでいます。プロフェッショナルとピープルとパートナーが一緒にコラボレーションすることによって、マンパワー不足を充実をしていくというのがコミュニティスクールのリソースの面から見たアプローチです。

 「プロフェッショナリティー」とはなにかといいますと、コーディネートしたりプロデュースしたり、要するにうまく交通整理をしたりする能力です。コラボレーションするためにはこういったプロフェッショナリティーが必要なのですが、今の学校の先生にそれがあるのかといえば、そうではないと思います。

 そこで、教員専門職大学院という案が今浮上しています。大きくいって3つの分野、学校経営と教科指導と生活指導・進路指導の分野について育成しようというものです。

 学校経営ではコミュニティスクールやパートナーシップ作りを学び、そういう人は学校の校長になる、あるいはそこを受けてきた人が理事長になるのかもしれません。民間からの採用もあるかもしれません。それから教科指導というのは、教育効果を上げる為の新しい方法をさらに進化していくことが目的です。生活指導については、もっといえばキャリア指導、進路指導、特に中学や高校生に向けての指導になってきます。

 こういう3つのプロフェッショナリティーを教育専門職大学院ができたときには実現できるのだろうと思います。

地方議会の役割

 次にコミュニティスクールをガバナンスの観点からみます。なにを目標としたガバナンスなのか。「ガバナンス・フォー・ボランタリー・コンプリメーション=自発的な貢献を地域でどのように引き出すのか」ということです。そういうガバナンスをどう確立するかという事が政策論的には意味のあることだと思います。

 そのファーストステップとして、「社会的学習共同体(ソーシャル・ランディング・コミュニティ)」をつくることが必要です。その次段階として「パブリック・インヴォルブメント(市民を巻き込む)」という発想があり。要するに何のためにパブリック・インヴォルブメントと言いつつ市民たちを参画させるのかといえば、最終的に住民の自発的な貢献や協力を引き出すことが目標であるからです。

 自分がコミュニティに入るとコミットしますから、例えば自分の子どものPTAの会長が学校理事会や協議会で副理事長になります。理事長には地域のおもしろい人が座って「お母さんそれは言い過ぎですよ」とか「先生それはだめです」とかきちんと交通整理をしてくれるのが良いようです。校長先生はPTAには文句は言えないけれど、理事会でPTAを叱るとか「少数の問題ある保護者と教員が学校をおかしくしているから、両方ともきちんとしなさい」と言えば学校は良くなります。結局、住民を巻き込んでコミットをしてもらう、その場で良いこと・悪いことを議論すればいい。

 例えば五反野小学校では春と秋に1週間学校評価をしています。延べ300人の人数分の評価を集めます。そうすれば極端な右30の意見と左30の意見は切って、真ん中の200名ぐらいが言っていることが正しいのです。だから、その300人のうち200人が「授業中の先生の声が小さい」と言えば必ず直ります。

 私は半年に1回、五反野小学校に行っていますが、明らかに新人教員の教育力が劇的にあがっていきます。例えば私が2年前に行ったとき、そのときの新しい先生の声が小さいなと思っていたら、つい最近会ったらものすごく声が大きくなっていました。子供たちにも大きな声を出そうと一生懸命指導していました。さらに五反野小学校は、受付できちんと身分証を見せれば365日いつでもどこの教室でも入れます。

 このように評価ができています。これも教育の専門家ぶった人にコーディネーションくらいはさせてもいいでしょうが、第三者評価はやらない方がいいです。

 評価をさせるのはコミュニティに任せた方がいい。コミットしている人を集めれば真偽は出てきます。これがコミュニティスクールのエッセンスです。

 今、世田谷でコミュニティスクールの問題が出てきています。このコミュニティスクールは粗悪になっています。これから本物のコミュニティスクールと偽物のコミュニティスクールが出てきます。

 私が考える地方議員の仕事には、コミュニティソリューションの枠組みでいえば、「ロール」「ツール」「ルール」という、この3つが必要です。

 やはり、その現場を引っ張るリーダー(「ロール」)が必要です。率先する人がいなければどんな政策を作っても何も起こりません。リーダーを見つける、育てる、その人を応援をすることは必要です。自身がリーダーになる、あるいはリーダーを捜してくるということは絶対必要です。

 次は「ツール」、要するに方法論です。これはいろんなところにいろんな情報がありますので、そういう方法論の良い部分は取り入れていくことが必要です。例えば、五反野小学校の学校評価方法は良い方法だと思います。あるいは和田中学や三鷹のNPOをサポートしていくことでどんどんと新しいツール、技、方法が見つかっていきます。

 3つ目は「ルール」、つまりシステムです。システムとは、より望ましいものに対しては推進、悪いシステムにはより抑制が働きます。要するに良いシステムがないと、ツールに対してポジティブな評価、支援がかかりませんから、システムによって1が100になるし、1が0にもなるということになります。

 この3つが全て揃わないと教育現場は動きません。従って、金子さんが全国を回って、学生や大学院生を使いながらいろんなメソッドを発信しています。蔭山さんや藤原さんがリーダーシップを現場で発揮しています。そこで、私たちがより良いシステムを作るということになろうかと思います。

 東京の地方議員に対して私は「サッカーでいうとあなた達はフォワードだ」と言っています。「最終の判断や点を決められるかどうかはフォワードである地方議員の皆様方次第だ」と言っています。もちろん「ミッドフィルダー」としての私たちがゲームを組み立てて、枠組み作っていいパスを出しますが、最後のシュートを外されたら点になりません。まさに私たちは後方からいろんなボールを送ったりしますが、最後ゴールに入れるのがまさに地方議員の仕事だと思います。まさにリーダーシップとツール、システムを全部併せて、最後に1点1点決めていただく仕事が地方議員の役割です。

 そうすることで、地方に「スーパーパーツ」が一つ一つ出来上がります。最初は疑心暗鬼ですが三鷹でも成功しましたし、あるいは京都市ではすべての学校をコミュニティスクールにします。そうすれば三鷹にできてなぜ世田谷にできないのか、という話にもなってくるでしょう。

 一方確かに地域特性というものはありますから、三鷹や京都市は都市型のモデルとして出来上がっているのですが、徳島のようなところでのコミュニティスクールモデルを皆さんに作っていただいて、地方型のモデルを作ればいいわけです。徳島だけは全学校がコミュニティスクールになっているということも不可能ではありません。

 京都の門川さんという教育長が頑張ってやっています。ですから京都市にできて、なぜ神戸市はできないのかという話になりますので、是非皆さんに頑張っていただきたいと思います。

 国政レベルで言いますと、システム設計は私たち国会議員の仕事ですが、メソッドの部分でもっともっと効率的、効果的に関わっていこうと、私は日本教育再興連盟というNPO法人を作りまして申請中です。もう活動自体は始めていて、代表理事は私で、共同代表理事が蔭山さんです。金子さん、藤原さん、和田秀樹さん、それから野口先生という教員塾をやっている千葉大学教育学部の今は名誉教授ですが、そういう方々が理事になって、経済同友会にも声をかけています。私だけがやっていると民主党と間違えられるので、名誉会長的な会長理事に元文部科学大臣の河村建夫さんにも参画いただいています。

地域再生のためのコミュニティスクール

 大体以上がコミュニティスクールについてですが、それを地域再生にどのように生かしていくかということで、コミュニティソリューション論の話に移りたいと思います。

 「ソリューション」というのは問題解決という日本語訳がありますが、「コミュニティ」については現代語で良い訳がないものですから、『ボランタリー経済の誕生』に、「結・講・座」を紹介しています。

 実は日本の中世、江戸時代にはコミュニティがありました。もちろん村というのもコミュニティになりますが、それは「地域コミュニティ(リージョナルコミュニティ)」。もうひとつ「テーマコミュニティ」があります。

 現在のコミュニティの中に「結・講・座」を作り直して、徳島であれば「連」の再生です。阿波踊りだけではなくて、いろんなことの問題解決に「連」が使えるということです。

 実は私の地元が表参道でして、表参道では「原宿元気祭りスーパーよさこい」というのをやっています。私が慶応大学の助教授の時にコンサルテーションに入ってそこに居着いてから6年目になります。毎年100万人集まります。

 そこで行っている具体的活動に例えば「グリーンバード」という活動があります。何をやっているかと言いますと、たばこを一生懸命拾っています。格好良い服を着て、汗水垂らして、すごく格好良いのです。今まで何か良いことをしようと思うとアメとムチでやってきましたが、これからは美意識と美学に訴えてボランティアを起こそうということで活動をしています。

 そもそもなぜコミュニティソリューションなのかを論じる際に、さきほどの「第三の道」の議論に加えて、大きな政府なのか小さな政府なのかということも持ち上がります。しかしこの論争は非常にナンセンスだと思います。

 納税者の立場からすれば小さな政府の方がいいのです。しかし受益者の方からすれば大きな政府がいいに決まっています。しかし受益者=納税者です。これまでの日本の受益者配分構造は歪んでいて、公共事業の関係者の家族であれば、納税に比べて、配分されるお金の待遇が良い時期がありました。これは従来の自民党基盤だからです。

 ですから、私たちはどちらにしてもまずは無駄遣いをなくすという大前提に立って、官製談合防止、これも仙谷さんが先頭に立って、入札改革や天下りの禁止に取り組んでいます。本来適正に入札をすれば、1〜2割の単価が下がります。適正な入札をすれば現在の公共事業、公共調達で30〜40兆のところ、それだけで3兆4兆はすぐ浮いてくるのです。これを民主党はやろうとしています。地方政府だっておそらく中央政府以上にそういう問題があるでしょうから、地方でやれば15兆や20兆浮くことになるでしょう。例えば葛飾区の選挙のときに算定してみましたが、やはり10〜15%は確実に公共調達の値段は下がるということがわかりました。

 では次にそれをやったうえで、それでも低負担で高満足という手品をしようというのがコミュニティソリューションです。そのネックは何かといいますと、「ボランティア(自発)」だと思います。絶対的に責任が発生するところ、例えば公務員でやらなければならないところは税金を効果的に適正に使って官でやる。一方、例えば板橋区で0歳児保育は子供1人につき今は1000万円かかっています。これを1人のプロと子育てを終えた保育の好きな地域のご婦人方に有料ボランティアでもいいですがやってもらえば、それで単価は一気に下がります。要するに人件費は増えていません。

 そして、その私がやりたかったコミュニティソリューションで、どこから手をつけたらいいのかと考えたところ、コミュニティスクールから始めたということです。なぜコミュニティスクールだったのかといえば、自分を取り巻く環境もありましたけれども、日本人の潜在意識の中で教育は大きいのだろうと思っていましたので、頑張って教育改革に取り組もうと、そういうことでした。

 私には昔から「シンク・アンド・ドゥー・ネットワーク構想」というのがあります。コミュニティスクールを作ってみんなで考えてそれを実行するネットワークの素地はどこにでも転がっているのではないかということです。

 例えば東京都町田市の実証研究ですが、最初は町田市のあるところでラブホテル禁止をするための保護者活動をしていた人たちの運動が、その後自分たちで介護施設を作ろうという運動に変わっていきました。コミュニティの変遷はあります。しかし1回できてしまったシンク・アンド・ドゥーネットワークは、他のテーマでも機能します。もちろんそこにテーマによって1人ずつプロを加えていくことは必要ですが、0から立ち上げる必要はないと思います。

 先ほど申しましたように、政策はリソースとガバナンスの問題ですが、コミュニティスクールのリソースを考える時、「ハードウェア」と「ソフトウェア」と「ヒューマンウェア」の3つに分けて考えてみると大体整理はつきます。

 コミュニティスクールの「ハードウェア」は学校です。学校には空き教室があり、保健室、図書室、花壇、校庭があります。学校はコミュニティソリューションの拠点になるのではないかと思います。介護施設と学校が一体化しているモデルは京都でも杉並区でも進んでいます。学校でコミュニティ介護ができると思います。

 例えば医療、特に健診が重要ですが、地域医療をコミュニティ医療にして、家庭訪問をする保健師を育成し派遣したりする、こういったコミュニティ医療によって医療費30兆円が1割削減できます。

 さらに健康教室というのは重要です。例えば、高血圧にはこうしたらいいとか、健診を受けたほうがいいという指導は学校の保健室を活用すればすぐにできます。あるいは午後や夜は学校の教室で大人のための健康教室も開けます。直ちに健康を中心とした予防医療のためのコミュニティ医療もできますし、そこで保育、子育てもできます。あるいは町作りや公園管理もできます。

 そのときに行政をどのように使うのか、どうやって教育の専門家を使うのか。学校理事会は基本的には学校関係者、地域の関係者、保護者、教育専門家、行政担当者で構成されますが、例えば、そこで教育の専門家を医療の専門家に変えればいいですし、行政の担当者も担当部局に変えていけばいいわけです。

 民主党らしい地方議員はフォワードだと申しました。全て最後のゴールするところへ結実していくための前衛という部分を地方議員の方には担っていただきたいと思います。

 少なくともやるべきことをいくつかお話しすれば、中央省庁の縦割りは当分直りません。私も県庁にいましたので思うのですが、縦割りを横串にしてまとめ結合しなおす、というとやはり市議会、町議会の仕事になります。

 今の中央官庁は生産者サイドの理屈で並べられていますが、少なくとも基礎自治体はそうではなくて、高齢者問題や子供の問題について、たとえば子供担当とか、教育も保育も医療も全部まとめるという、人のコミュニティと属性による部局統合というのが基礎自治体では成り立つと思います。まさに民主党のアイデンティティーである「生産者から生活者起点」、生活者コミュニティごとの政策再編のためのいろいろな方法が、まずは基礎自治体の現場であり得るのではないかと思います。

 やはり教育、医療はかなりの地域で疲弊していると思います。是非私がやりたいのが、コミュニティスクールのモデルはできていますが、コミュニティ医療についてはなかなか実例がでていません。今は亡くなられました今井澄先生という人がいました。この方のたぐいまれなる天才的なリーダーシップによってコミュニティ医療に近いモデルが長野県にできました。

 天才とはシステムがどうであれ、ツールがどうであれ、やりきってしまう人です。しかしそれでは社会革命にはなりませんので、ツールやシステムが必要なので、そういうアプローチがどこからか始められないかなと今は思っています。

 最初情報教育の話をしましたが、21世紀はスケール(規模)ではないのです。ノウハウなのです。大海に目薬を落としても世の中は変わりませんが、人口25万人や30万人のところで3万人がコミュニティ医療を実践して1割が変わると全体に対する波及効果があります。

 徳島から地域コミュニティで医療コミュニティのモデルを作ることは可能だと思います。幸いそのリソースは徳島ではそろっていると思います。

 これからの政治家は「プロデュース」や「編集」などの能力が求められます。そんな民主党のフォワードとして、地域問題を含めて皆さんが具体的な現場を作っていただくことが重要で、その波及効果を是非徳島から起こしていただければと思います。これで私のお話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

仙谷由人: 少しご紹介させていただきますが、京都の教育長の門川さんのお話がありました。京都でのコミュニティスクールを実践されている方で、京都は小学校から高校までそういう発想で教育現場がまわっています。

 それから、犬山市長の石田さんですが、教育も中心に据えながら日本の民主主義、地方自治のあり方をずっと探求されてきた方です。

 だいたい子育てを核にしてものを考えて、もう一度日本の各地域が原点に返らなければ地域が生き返ることはないということは、住民の側も本能的には理解してきているのではないかと思います。現に各地の地方選挙の公約を見てみますと大きな争点はだいたい教育、子育て、医療です。特に医療については地方都市の中心部でも大きな問題が生じてきていると思っています。

 現実の現象として現れているのは、千葉県ですら太平洋岸へ行くと診療科ごとになくなっている所が沢山あって、その地方の選挙公約を見ていますと小児救急センターを作るとか、病院を建てるとか、医療の話がかなり優先順位の高い所で出てきています。やはり皆さん不安感を持って生きているのだろうという感じを私は持っていまして、教育、特に子育て現場では医療と学校現場とその他いろんな問題が集約的に表れているところで、子どもについてわれわれがどうアプローチしていくのかというのは、非常に大きなテーマだと思いました。

質疑応答

Q:徳島市の村上と申します。コミュニティソリューションの話は非常に面白い話だったのですが、お話を聞いていてコミュニティを実現していくうえで一つ大きな問題点があると感じます。

 これまでの地域のコミュニティということを考えたときに、例えば徳島市では現在ある既存のコミュニティが保守系市会議員の支持母体になっているという実情があります。

 それをどうしていくのか、鈴木先生のコミュニティソリューションを考えていく上で最初に突き当たり、解決していかなくてはならないテーマであると思いました。

 そのような状況があるなかで、街づくり条例や住民参加条例といった条例の制度の中にコミュニティを位置づけていくというのはいかがなものかという考えを聞いたりしたのですが、その辺の従来のコミュニティをどうしていったらいいのか、ひどい所は解体や再構築するのかといったところをお聞きしたいと思います。

Q:鳴門市の泉と申します。鳴門市では、鳴門市教育振興計画を作っています。基本構想の段階は前年度できまして、現在は基本計画の段階に入っているのですが、その中でコミュニティスクールを活用できないかなと思いました。鳴門市はどちらかといえば公立学校しかない田舎の土地です。コミュニティスクールを基本計画に盛り込んで、それを市民の方に議論をしてもらいたいと思っているのですが、盛り込ませる為に鈴木先生ならどこから攻めていくのか、どのような状態で入れる方法があるのかをお聞きしたいと思います。

Q:徳島市議会議員の久次米です。放課後子供プランというのを見せていただいたのですが、これは学童保育との絡みで、新たな学童保育の増設に市の行政と衝突しているのですが、この学童保育の問題はどうなのかをお聞かせいただけたらと思います。

Q:大阪市から来ました青木と申します。私の母校の高校は非常に学力が低下して、進学率が悪くなって、風紀が悪くなって、地域からの風評が悪くなってしまいました。そこでなんとかしなくてはいけないというので、高校の同窓会から取り組んでいこうと学校と協議を始めました。そこへ地域の方を入れまして、近くの小学校と中学校も巻き込みながら取り組みをしていますが、そういった取り組みをする時に一番の抵抗勢力になるのが、教育委員会、特に事務局と現場の教員の職員組合です。この辺のあたりをどのようにお考えになっているのかをお伺いしたいと思います。

鈴木寛:今の4人の方から頂いた質問、非常に悩ましい問題です。

 村上さんのお話はおっしゃる通りだと思います。逆に民主党が政権をとるためには既存の、まさに自民党が50年間作ってきた利益配分共同体を壊して、再構築して、利益配分ではなくて志の助け合いと協同というコミュニティのネットワークの社会に変えなくてはいけないと思います。まさに日本の改革の本丸です。

 なぜ、私が学校から入ったかといいますと、街づくりには新しい人は参加できません。しかし、学校は保護者なら新住民だろうが堂々と入れます。だから学校から始めました。そういう意味で、コミュニティスクールに限って言えば地域のボスも排除はできませんが、むしろそういう人は取り込んだほうがいいというケースが多いのです。同時に保護者が入りますからそういう立場ではボスも新住民も同じ保護者ですから、しかも子供が一番大事ですから、既存のオールドパワーよりはコミュニティスクールでは優位に立てます。

 それから泉さんの鳴門の話ですが、これは大阪の青木さんの話とも関係してくるのですが、小学校、中学校、高等学校でもコミュニティスクールのアプローチは使えるのですが、まさに仙谷さんが言っていただいたように、小中学校は地域コミュニティが作る学校です。一方、高校の同窓会は地域コミュニティではなくてテーマコミュニティです。あるいは地域的には広いけれども同じ問題意識、関心を持ったテーマコミュニティです。高校の改革は、同窓会によるというアプローチは非常に正しいアプローチです。

 民主党のマニフェストにも志で立てると書いて「志立学校」と書いています。志を同じくするコミュニティを作ってその人達が、同窓会でもいいですし主導していくのでしょう。

 鳴門の泉さんのお話は、小中学校でしょうから、ここは地域コミュニティでコミュニティスクールを作ります。これは尾道や三重でもできています。数字が分かりやすくて説得しやすいでしょうから挙げてみます。

 もちろん全てが学力ではなくて人間力なのですが、尾道の土堂小学校は3年間でIQを上げてしまいました。蔭山さんの授業方法で45分の授業を15分×3にして15分集中させることを繰り返すメソッドをとりました。コミュニティスクールでは、そういういろんなコミュニティの人達に良いメソッドがあるということを勉強してもらい、それを理事会を通して導入するという手法をとっています。誰しも鳴門市の学力を上げようという、その導入としては、こういった実例はやりやすい話ではないでしょうか。

 その為には新しいメソッドが必要であり、結局コミュニティスクールと普通の文部省官立学校とどう違うのかといえば、文部省は今年は教育振興基本構想を作って、その次の年に教育振興計画を作って、次の年は何とかと、そんなことをしているうちに子どもは卒業してしまっているのです。教育行政は子供の成長に対して対応が遅すぎるのです。コミュニティスクールのいいところは、やろうと思ったことは明日からでもやれるのです。蔭山先生が決めた良いカリキュラムを学校理事会が決めれば、学校協議会が決めれば、いちいち県にお伺いをたてなくても実行できます。

 何か一つ数値的にわかりやすく1年毎に伸びているというのを表してやれば、それと同時に副次的にいろんな事が出来ていくのです。

 蔭山さんはまずIQを上げました。しかしIQを上げようと思ったら、百マス計算よりは早寝早起き朝ご飯という生活循環の改善法が効くということがわかりました。そこで、わざと睡眠時間を多くとった人のIQと睡眠時間が少なかった人のIQを調べて、それを表にしたりしながら早寝早起き朝ご飯をしなくてはいけないと言ったりします。これも科学的にはでっち上げに近い、でもそういう調査をやりながらかつ一方でバスケットボールの市民大会でも優勝をしたりして、知力も体力も上げてしまう。

 体力面で言えば、今の子どもはソフトボール投げの数字も下がっていて、50m走の平均タイムも落ちています。学力面のアプローチもありますが、風邪引きの回数や体力的なことや健康的なことも指標を立てながらいくと良いと思います。

 結局ほとんどの市の教育進行計画はお経が並んでいます。これも政策作りのポイントですが、固有名詞と数字が入っていない計画は何の意味もありません。まさにマニフェスト運動の骨格でもあるのですが、何でもいいから固有名詞と数字と年限を計画に入れることが必要だと思います。

 私は大阪大学工学部の非常勤講師もしているのですが、工学部卒業生の会、同窓会がかなり頑張っています、高校もそうですが大学でも、同窓会からのアプローチはいいと思います。鳴門市の高校の卒業生には母校に対する愛校心があるでしょうから、そういうところから学校改革をしていくことは、私は有効ではないかと思います。あとは数値目標、特に高校の場合は今までは大学進学率や国立大学の進学率で競っていたのを、もう少し地域定着率について考えていくことも要るのではないかと思います。

 青木さんが言われる大阪の問題は私も大変分かります。結局最後は教育委員会と職員組合とどうしていけばいいのかという問題になるのです。

 まず教育委員会についてはまさにマニフェストを活用すればいい。行政を押さえ込むには「俺たちはこのマニフェストを作って、市民に掲げてそして選挙で勝ったんだ」と言えばいいのです。実はマニフェストというのは市民の為のものでもあるのですが、実際は役人にものを言うための道具なのです。

 ですから大阪市の教育委員会に対しては、具体的な市立高校や公立高校に対してこういう評議会を作って、そこに同窓会を作ってこういう人達がこういうことをやるのだというのを、選挙前にマニフェストとして掲げる事が必要だと思います。

 教員組合との渡り合い方は、むしろ仙谷さんから話していただいたらいいのかもしれませんが、これもまさに選挙前に結ぶ政策協定について言えばいい。今は一方的に選挙応援をしてもらう団体から「これでどうだ」と投げられたものに判子をつくしかありません。それを、逆に私たちのほうから修正提案を出して投げ返してみたら面白いと思います。

 民主党は労組依存体質と言われますが、双方対等な立場で政策協定案を双方が出しあっていくことは有効だと思います。私たちが労働組合に対して要望書や提案書を出してもいいと思います。

 まさにPPP。パートナーシップの相方です。先ほども言いましたように、レベル1とレベル2の子供たちの教育機会がないから、そのことが学力問題になり格差問題に繋がっています。まさに日教組は、NPOをつくってレベル1やレベル2の子供たちに対する無償の家庭教師や無償の塾をやれば、組合の評判は一挙に上がるのだと言っています。例えば、徳島市の日教組がNPOを作って、そこの事務局に市民も学生も参加してもらえばいいじゃないですか。情報労連やNTT労組は具体的にいろんなNPOを作っていて、例えば福祉団体を作ったり、三宅島のNPO活動をやったりしています。日本のNPO活動を推進できる有力な主体は労働組合だと思います。皆さんから労組側に逆提案をしていただいたら、面白いことになり、騒ぎになると思います。

 放課後子供プランですが、平成19年度から予算化されると思いますので、来年の春に募集要項が決まりますから、これはお問い合わせをいただければと思います。来年の初夏から使えるような枠組みだということをご理解いただきたいと思います。

仙谷由人:「横串」という表現が出ました。例えば徳島市でもどこの部署へ行って申請するのか、こっちへ行ったら文部科学省が機嫌を悪くするとか、こっちへ行けば厚生労働省からいじめにあうのではないかという話がかなり多いのではないかと思います。

 ただ本当の意味での「横串」は、中央で子ども家庭省でもできて、文部科学省、厚生労働省と分散されている仕事を一省にまとめることになります。

 つまり、子どもの仕事は全部子ども家庭省でやるとすることで、補助金の基準にせよスムーズにできるのですが、今の政府にはこんなことは期待できませんから、文科省や厚労省をごまかしたり、戦うというテクニックを地方では使わなければならないかも知れません。

 ですから県庁に放課後対策課とか、放課後子どもプラン課という一元的な部署を作ってしまって、ここで中央に対して方便を使いながらもうまくやっていけばいいのではないか、ということでしょう。ただ現実には、厚労省の補助金がきていたり、別の事業は文科省から補助金がということは当面仕方がないと思います。

 事業の中身や、職員の持っているノウハウを一元化できないのか、ということを鈴木さんは言いたかったのだと思います。

Q:6月に小坂文部大臣が、学童保育というか放課後の活用については空き教室を積極的に使って行っていくという方針を言われていました。私が行政に対して「県有地を用意できたら学童保育施設を建ててくれますか」といいますと、徳島市の当局が大臣のコメントを根拠に「それは待ってください。今方針が大きく変わっていて、放課後児童保育は学校の空き教室を使うほうにシフトしていますから、これはすぐに回答できない」と言わたのですが。

鈴木寛:その手の話はたくさんあります。だから我々国会と地方政治の現場で連携することに意味があって、具体的な事例を言います。

 蔭山さんが尾道の小学校の校長をしていたときの話です。文部省で決めたことを蔭山さんが現場でやると、尾道市教育委員会や県の教育委員会は反対してきます。文部省は認めていることに現場の教育委員会が反対してきました。そこで私が、広島県教委に聞きますと「文部省はそう答えても広島県は駄目だ」と回答されました。そこで私がやったことは、国会の文部科学委員会で正式に質問して国会議事録に載せて蔭山さんに送ってあげたのでした。さらに広島県の教育長にも送りました。そうすると広島県教育委員会は黙って何も言えなくなりました。

Q:ということは学童保育は学童保育で作っていくという方針は生きているのですか。

仙谷由人:市役所の首長や職員に対して、なんのために行政を行っているのか。子どもにとってどうなのかが問題じゃないのか。中央官庁に対して口をあけて補助金や指示を待つのが仕事ではないということを我々も改めて言わなくてはいけません。

 実は台風で飛行機が欠航しそうですので、ここで鈴木さんを送りたいと思います、どうぞ皆さん拍手をお願いします。ありがとうございました。

 自治省出身で、自治体行政の経験があって、愛知県の春日井市で企画調整部長をされていた小川さん、何かここまで聞いてのご感想はありますか。

小川淳也:今日はありがとうございました。学校が変わっていくのは、我々が子どもたちをどう育てたいか、子どもになにを望むか、その価値が変わっていくから学校が変わらなくてはならないのだと思います。

 私はイギリスに1年いまして、忘れられない光景が小学校の見学でしたが、日本の場合「これを覚えなさい」「公式はこうなっていますね」となりますよね。ところが、イギリスの授業は子供を図書館に集めて「このテーマについて調べなさい」と、その後は放し飼いです。みんな資料を引っ張り出して仮説を立てていきます。日本は今まで便利なサラリ−マンを作るための学校制度でしたが、これからは本当に自分の頭で考えて、自分の価値観、人生観を自分で作っていける子どもを育てないといけないと思います。

 その為の器としての学校の仕組みとして変わっていきます。つまり、学校という組織は、我々がどう生きたいかということとすごく関わっていると思います。そのぐらい根の深い思索、洞察が必要だと思います。

仙谷由人:その小学校は何年生でしたか。

小川淳也:1年生でした。

仙谷由人:1年生でそんなに難しいことをやっているのですか。では生徒数は1クラス何人でしたか。

小川淳也:20人くらいだったと思います。

仙谷由人:先日、フィンランドへ行ってきたのですが、やはり1クラスの人数は多くても30人未満です。20人よりも少ないところも多かったです。先程鈴木さんが言ったこととの関係でいえば、生徒との関係以外の雑務が日本の教師は多すぎます。ここから解放すべきだと鈴木さんは言いましたが、フィンランドの場合、学校の先生は14時30分になったら帰っていました。放課後の授業をやっているような先生もいました。家に帰っても共働きで両親のいない人は、市が行政の一環として学校の施設を使って授業をしています。そのときは、先ほどの鈴木さんの話のようにプロとボランティアがまざって子供たちに教えたり、遊んだりしていました。

 今の日本の画一的に教え込んで暗記させるという方式から変わっていくとすれば、まさに問題を自ら感じとったり、問題に対する解決を自分で考えていくためには、どうしてもマンツーマン的な教育で、できるだけ教師と子供、子供相互間、藤原校長がやっているような近所の方々も巻き込んだことをやっていく必要があると思います。

 また、フィンランドと日本で感じる違いは子どもたちの読書量でしょうか。杉並区立和田中学校では夏休み中、図書室にはボランティア司書を配置して、全部生徒に解放しています。要するに自習をしてもいいスペースを作っています。なぜ図書室かといえば、そこだけが冷房が効いているからです。家で勉強できない生徒たちは、図書室に来て勉強します。

 「教育のススメ」には読書量が日本の子供たちは少ない、テレビを見る時間が圧倒的に長いというデータが出てきます。私は子供たちを見ていて、テレビとパソコン、テレビゲームに費やしている時間があまりに多いと思います。それはそれなりに意味のあることかも分かりませんが、少なくとも孤立した殻の中に子供が閉じこもっていること、このことの将来に及ぼす影響への恐怖感を覚えるのです。そういう意味では、「読書コミュニティ」を作ろうなどという取り組みは非常に重要なのかもしれません。

 会場に時間の制約がありますのでこの辺で私の感想を終えたいと思います。ありがとうございました。

以上