電力改革は止められない -霞が関発、変化のうねり

 東京電力福島第1原子力発電所の事故は、既存の電力業界(原発を持たない沖縄電力を除いた場合の9社体制)のゴーイングコンサーン(継続企業の前提)に大きな影を落としたが、そのインパクトを示す数字が次々に公表されている。6月13日、衆議院第1議員会館の会議室で開かれた「脱原発ロードマップを考える会」(民主党衆参国会議員72人が参加)の第8回会合。経済産業省資源エネルギー庁が同会に提出した「脱原発が電力会社の経営に与える影響について」とタイトルのついた資料に「別紙」の形で添付された1枚のペーパーがある。

■「廃炉」なら10社の特別損失は総額4兆4000億円

廃炉決定の際の除去損、解体引当金引当不足額
 北海道から九州までの9電力会社に日本原子力発電(東京・千代田)を加えた計10社が保有する原発50基について、23年度(2012年3月期)末の残存簿価や廃炉が決定した場合の解体引当金引当不足額などを算出、そこから各社に発生する特別損失をはじき出し、純資産との差額を提示した。要するに、国内50基の原発を再稼働させず、すべて廃炉にする決定を下した場合に原発保有各社の財務がどういった影響を受けるのかを調べたものだ。
 結果は電力業界にとって衝撃的なものだった。10社に発生する特別損失は総額約4兆4000億円。内訳は解体引当金引当不足額の合計が約1兆2000億円、原子力発電設備の除却損の合計が約2兆4000億円、核燃料の除却損の合計が約8000億円である。
 会社別にみると、これら特別損失を計上した後に債務超過(単体)に陥るのは東京電力(債務超過額6221億円)、北海道電力(同993億円)、日本原電(同933億円)、東北電力(同201億円)の4社で、北陸電力も資産超過額が62億円と債務超過スレスレの厳しい状況に追い込まれる。 関西電力は保有原発が11基と東電の13基に次ぐ多さだが、今年11月で運転開始から42年となる美浜原発1号機をはじめ古い設備が多く減価償却が進んでいる。特別損失額が1兆1495億円に達した東電に比べると、関電は6318億円にとどまり、5517億円の資産超過になった。

■「脱原発は絶対にない」、関電を圧迫する代替燃料コスト

ただ、資産超過になったといっても安堵してはいられない。ストック(貸借対照表)上ではセーフでも、フロー(損益計算書)の面では危うさをはらんでいる。関電の原発依存率(総発電量に占める原発の割合、2010年度)は50.9%と東電の31.8%を大きく上回り、原発が止まればそれだけ代替火力発電の燃料費が膨張するからだ。「原発11基が止まると年間約9000億円の代替コストが発生する。相当の原発が再稼働しないと持続的経営は難しい」6月27日の株主総会で、脱原発を念頭に「新しいエネルギー供給体制を目指してほしい」と迫った橋下徹・大阪市長に対し、岩根茂樹副社長はこんな窮状を訴えた。代替燃料コストが9000億円に膨らむと、関電の最終赤字は7000億円規模になるとみられる。5517億円の資産超過は7000億円の赤字で一気に吹き飛ばされる。株主総会後の記者会見で八木誠社長が「脱原発は絶対にない」とことさらに強調したのはこうした台所事情が背景にある。
 関電ばかりではない。九電は保有原発6基をすべて廃炉にしても3260億円の資産超過になるとされている。だが、政府が今年4月に今夏の電力需給見通しを検証するために内閣府に設置した「需給検証委員会」がこれまた衝撃的な数字を公表している。5月7日に開いた同委員会の第4回会合で示した「原子力発電所が停止し続けた場合の電力9社の財務状況」という資料がそれだ。24年度(13年3月期)に全原発が停止した場合の九電の代替追加コストは4100億円、その結果純損益(単体)は3885億円の赤字になると試算している。関電と同じように、廃炉決定後の資産超過額(3260億円)を飲み込んでしまう赤字額である。
原子力発電が停止し続けた場合の電力9社の財務状況

■大飯再稼働へ背中を押した「巨額赤字」と「株価急落」

 野田佳彦首相は訪米中の4月30日、同行記者団との懇談で「(大飯原発3、4号機の再稼働に)全くご理解がなければ大変だが、そういう(今夏の原発ゼロの)選択肢もあると思う」と語った。このコメントは「首相『夏の原発ゼロも選択肢』」と大きく報じられ、東京株式市場では原発依存度の高い関電や九電の株価が5月1日から9日まで5営業日続落。関電は4月27日に1158円だった終値が5月9日には1033円に、九電は1061円が963円にまで急落した。これら電力株が値下がりを続けていた間の5月5日に北海道電力泊原発(北海道泊村)3号機が定期検査で運転を休止して「原発ゼロ」が現実のものになり、7日には前述したように需給調整委で「9社の財務状況」が提示された。

 巨額赤字と株価急落――。電力会社にのしかかってきたダブルパンチが、「『脱原発依存』の方針は変わらない」といいながら、どちらつかずの曖昧な言動を繰り返してきた野田首相のスタンスに変化を生じさせる。

 5月10日、政府・民主党は、原子力安全・保安院に代わる新たな規制組織を国家行政組織法第3条に基づく、いわゆる「三条委員会」(公正取引委員会や国家公安委員会など) とする方向で調整に入った。 それまで政府・民主党は緊急時に首相の指示権を認める「原子力規制庁」を環境省の下に置く方針を打ち出していたが、自民、公明の野党2党は独立性の高い三条委員会(名称は「原子力規制委員会」)とするよう主張。与野党双方が譲らず、法案は宙に浮き、政府が目指していた4月1日の「原子力規制庁」発足は実現せず、原発再稼働を阻む大きな障害になっていた。野田政権は原子力規制組織の改編で野党案を丸のみすることで、大飯原発再稼働の流れを作った。

■「原発」よりも「消費税」を優先してきた政権判断のツケ

 5月16日、大飯原発再稼働問題を討議する民主党作業部会の合同会議で仙谷由人・政調会長代行は「需給問題とは別に、再稼働せず脱原発すれば原発は資産から負債になる。企業会計上、脱原発は直ちに実行できない」と発言、原発再稼働問題は電力需給よりも財務への懸念が焦点であることを示唆した。 翌17日、野田首相はNHKの夜のニュース番組に出演して「(大飯原発3、4号機再稼働の)判断時期は近い」と発言。その後、大飯原発の地元である福井県の西川一誠知事に「国民に直接明確な意思表示をしてほしい」との要望に強く押される形で6月8日、首相官邸で記者会見を開き、「国民の生活を守るために再稼働すべきだというのが私の判断だ」と説明。そして翌週16日午前、首相と枝野幸男経産相ら3閣僚が官邸で協議し、大飯3、4号機の再稼働を正式決定した。
 首相は6月8日の会見で「計画停電になれば日常生活や経済活動は大きく混乱する。事態回避に最善を尽くさねばならない」と再稼働判断の理由を上げたが、「3.11」の福島第1原発事故以後、原発に対する世論が厳しくなることは明らかだった。少なくとも、昨年夏、九電玄海原発(佐賀県玄海町)2、3号機の再稼働が「やらせメール」事件で頓挫してからは、原発への風当たりが一段と強まって運転休止が長引き、今夏には原発依存度の高い関電や九電が大幅な電力不足に陥ること、さらに原発代替の火力発電の燃料コスト急増で巨額赤字が発生することは容易に予想できたはずだった。

 昨年9月に就任した野田首相は消費税増税を政権の最優先課題に据えた。緊急度でいえば、電力問題の方がはるかに高かったと思われるが、「増税」でアタマがいっぱいの首相には電力各社の窮状が顕在化する5月初めまで、危機感が乏しかったように見える。

 政府は2030年時点の原発依存度などを定めた新たな中長期のエネルギー政策を8月にまとめる方針。その作業を担うのは古川元久・国家戦略担当相が議長を務める「エネルギー・環境会議」(エネ環会議)である。エネ環会議は、菅直人・前首相が昨年5月に仏ドービルで開かれたG8サミットで再生可能エネルギー比率を2020年代の早期に20%超にすると宣言したのを受け、翌6月に設置された。その際、エネルギー政策作りのために採用された人物が霞が関で話題を呼んだ。 昨年7月1日付で内閣官房国家戦略室の企画調整官(課長級)に着任した伊原智人氏。1968年生まれ、90年に東京大学法学部を卒業して通商産業省(現経産省)に入省。中小企業やマクロ経済、IT(情報技術)、電力などを担当し、2005年に退官、民間のリクルートに転じていた。

■「19兆円の請求書事件」の中心人物、伊原氏に注目集まる

 6年ぶりに霞が関に戻ってきた伊原氏に関心が集まったのは、04年に経産省の若手官僚数人が国策だった核燃料サイクルの実現性に疑問を投げかけ、政策転換をはかった「事件」の中心人物だったからだ。当時、青森県六ケ所村では核燃料サイクル工場の建設がすでに進んでいた。構想が浮上した1979年当初、6900億円とされた建設予定費は89年に7600億円、96年に1兆8800億円と増えていき、04年当時には2兆2000億円にまで膨張していた。仮に完成したとしてその工場を稼働させるにはさらに19兆円の費用が必要とされており、若手官僚たちはもはや核燃料サイクル事業は経済合理性がないと経産省幹部に訴えた。その後、永田町などに「19兆円の請求書〜止まらない核燃料サイクル」とタイトルのついた文書が流れたこともあり、一連のてんまつは「“19兆円の請求書”事件」と呼ばれた。

 2004年当時、伊原氏は資源エネルギー庁の課長補佐だった。電力業界は大騒ぎになり、翌年退官したため「経産省を追われた」などと一部でうわさになったが、本人は「転職は自分の意志」だったという。「30代後半に差し掛かる頃で官僚人生の先行きが見えてきていた。以前官民交流で在籍していたリクルートに誘われ、このまま残るか、新しい世界へ出るか、の選択になり、結局後者を選んだ」

■霞が関から吹き始めた改革の風

  一度は後にした官界への復帰も当然のことながら「自分の意志」。「3.11」直後から、電力不足が喫緊の問題になると予感し、つてのある識者たちに電力需給問題の解決法を尋ねて回った。元グーグル日本法人社長の村上憲郎氏を含め、ほとんどの人が異口同音に「『ネガワット取引』などによるデマンドレスポンス(DR)が最善の策」と主張。電力改革の必要性を確信した伊原氏は折からの国家戦略室の中途採用(期間2年)に応募して霞が関へ出戻ったのだが、実際は伊原氏の評判を耳にした菅前首相側近が彼のためにお膳立てした事実上のスカウト人事だったようだ。
 着任後、伊原氏は期待に違わぬ働きを始める。昨年10月にエネ環会議が設置した「コスト等検証委員会」は原発事故のコストを初めて試算、それを織り込んだ原発の発電コストを従来の約7割増と算出した。委員会の事務方となった伊原氏は大島堅一・立命館大学教授ら委員をサポート。「深夜に問い合わせのメールを伊原さんに出したらすぐに返信があり、いつ寝ているのだろうと驚いた」とある委員は振り返る。  電力改革の必要性を実感している官僚は伊原氏に限らない。他の関連省庁からもかつては表に出て来なかったと思われるデータが公表されるようになった。「改革」の波は霞が関にも広がる。「19兆円の請求書事件」でクローズアップされた青森県六ヶ所村の核燃料サイクル工場は8年後の現在も本格稼働に至らず、当時の若手官僚たちの問題意識が的を射ていたことが実証されている。政治家が泥縄式の判断で時計の針を戻そうとしても、世論は追随せず、安易な「再稼働」への反発はむしろ高まりつつある。

 再稼働か廃炉か――。原発について報道各社の世論調査では「再稼働反対」が数で勝っている。だが、電力が公益事業とはいえ、民間企業の資産である原発を廃炉にするのは簡単ではない。運転休止の長期化や廃炉問題が複数の電力会社を債務超過の瀬戸際に追い込むなら、政府は原発事業の分離や業界再編などの対策を一刻も早く講じるべきだろう。  原発が民営である限り、廃炉の向こうに経営破綻がちらつけば、電力会社は必死に再稼働を目指す。大飯原発再稼働の最終決断が担当大臣の枝野経産相でも福井県の西川知事でもなく、野田首相に委ねられたことは、安全と経済をてんびんにかけて「政治判断」を下せるのは最高権力者以外にあり得なかったからだ。
 大飯の再稼働が決まってからも関電や九電の株価は下落に歯止めがかからない。7月6日終値は関電が906円(4月27日終値から252円下落)、九電が914円(同147円下落)。電力業界改革は不可避であり、残された時間は少ない。 (2012.7.3. 日本経済新聞 編集委員 安西巧)