ほんとの空へ・お〜い福島:まず東京・大阪に原発を=西尾英之 /福島
毎日新聞 2013年01月12日 地方版
いま私は横浜市南部の沿岸部、磯子区に住んでいる。東京湾沿岸を貫く首都高速湾岸線で東京へ向かうと、国内最大規模の製油所や製鉄所など、日本経済を支えてきた工場群の間に何本もの巨大な煙突が目に入る。
首都圏の電力需要をまかなう火力発電所の煙突だ。電源開発磯子発電所▽東京電力南横浜▽同横浜▽同東扇島▽同川崎▽同大井▽同品川。磯子から東京へ向かう東京湾西岸に七つある発電所の総出力は合計で1000万キロワットを超える。東岸の千葉県側にも多くの発電所が集中し、東京湾は福島の浜通りをはるかに上回る「発電所銀座」だ。
改めて思い知らされる。これだけ多くの発電所がありながら、東京湾にあるのは「火力」ばかり。政府と電力会社は福島の浜通りに10基の原子炉を集中させておきながら、需要地に最も近い東京湾には1カ所の原発も建設してこなかった。
25年前、入社後の初任地として福島支局へ赴任した。浜通りに初めて足を踏み入れてまず感じたのは、その「何もなさ」。言い換えれば当時の日本の高度成長から取り残された「貧しさ」だった。
発電所以外に大きな工場はほとんどない。「やませ」の影響で夏でもうすら寒く農業も厳しい。役場や自宅に何度も足を運んで話を聞いた第2原発の地元、楢葉町の結城定重町長(当時)は「炭鉱閉鎖で浜通りは寂れる一方だった。出稼ぎをなくすための原発誘致が間違っていたとは思わない」と淡々と語った。
町は当時、89年の再循環ポンプ破損事故で停止した第2原発3号機の運転再開問題で揺れていた。「一生、原発と背中合わせに生きていく。不安がないわけがない」「事故が起きれば最初に死ぬのは私たち。この気持ちは東京の人にはわからない」。取材した町民の言葉を、東電の運転再開方針を町長として受諾した結城さんにぶつけた。しばらく黙り込んだ老町長は「東京に原発は造れない」と絞り出した。