2007年11月06日
SNKの川崎英吉について
前回書こうと思って書けなかったことを。
初期パチスロ。田舎パチンコ店長がコメントされたとおり、コインは大阪では1枚10円でした。天神橋のホールの例で当時、台売上6万円。確率は主基板にランプ基板を差し込んで営業中に変えていた。1/4、1/8、1/16〜1/250まで。集中コントロールに線をつないで、事務所に引っぱって確率を変えていたりした。これが集中制御の始まり。ある意味で遠隔操作の始まり。客もボタンを押し込んでマッチ棒を差し込んでプレイしていた。当時の関係者に言わせると「パチンコのカイモノ(固定遊技)と同じだ」になる。京都府警が見にきて大阪府警に「こんなんでいいのか」と指摘され手入れがされたこともある。角野たちの当初の「ジェミニ」はリレー方式。古田や濱野たちが「スーパーライン」機というものを作り、これを補助基板にした。昭和52年以降だ。朝銀の融資を受けて開発。価格もプレミアがついて1台120万円くらいにはね上がったという。もちろんこれはゲームセンター等にも入った機械で、大阪府警の摘発により補助基板を外すことを条件に罪一等を減じてホールの営業許可を下ろすことにしたが、ノーマルに戻した店は閑古鳥が鳴いた。これにより、以前に書いたが濱野の会社はここでいちど倒産している。
実は本業の仕事を放り出してこのブログを書いている。あちらに戻らないとそろそろヤバイので、今週はこれで休止する。赤坂のAは、おそらくタイトーの営業マン時代の後だと思うが、東京パブコのゲーム機のオペレーターをやっていた。彼がなぜゲームとパチスロ業界(Gマシンからの流入)の影のフィクサーになったかは「花月会」がそのベースだが、これはまたいずれ。前回の中日スタヂアム事件、長野倶楽部(と、僕が勝手に名づけているだけだが)についても、改めて詳しく書くことにしたい。
今回は小休止ということで、パチスロ業界群像としてSNKプレイモアの創業者でオーナー、会長の川崎英吉について少し触れておきたい。古田や濱野、角野、上月、岡田、里見たちに比べるとゲーム機に入ってきた時期はやや遅れる。彼はプロの元ボクシング選手。SNKに格闘ゲームやアクションものが多いのもその影響か。大阪で喫茶店も経営していて、そこにテーブルゲーム機などを設置していた。別に建設業(当時で言う土建屋)もやっていて資金は貯めていたようだ。そこに神戸の大手電機会社が経営悪化で資金提供を川崎に持ち込んできて、それを買い取って昭和48年に「新日本企画」という会社を興す。新のイニシャルS、日本のN、企画のKをとって「SNK」の愛称を昭和55年頃から使い、昭和61年にSNKに社名変更した。ブロックゲームのコピーで「センカンヤマト」(昭和53年)が、アーケードゲームでのSNKのデビューだ。その前年に大阪で風営法認可第1号機のアップライトスロット「ジェミニ」が大阪に登場している。SNKをゲーム機の愛称ブランドで使い始めた昭和55年は、言うまでもなく日電協設立の年である。
アルゼの子会社になったのはSNK本体の経営悪化が原因で、2001年に倒産。アルゼとの著作権訴訟が起きたが、すべてSNKプレイモアが勝訴した。この時期、川崎は自宅まで売却して臥薪嘗胆の時期を経験している。しかし、アルゼに取られていた旧SNK開発者たちは、アルゼとの手切れのあと、ほとんどが復帰。しかも逆にアルゼの社員も引き連れて戻っている。
痛快、昔かたぎ、ある意味で変人、頑固というのが川崎の印象。昨年、数回会って、1度は北新地でご馳走になったが、元プロボクサーと土建屋の叩き上げの人間性は僕個人としての好感度は結構高かった。おそらく彼もまた、人間の好き嫌いが激しい性格なのかもしれない。
初期パチスロ。田舎パチンコ店長がコメントされたとおり、コインは大阪では1枚10円でした。天神橋のホールの例で当時、台売上6万円。確率は主基板にランプ基板を差し込んで営業中に変えていた。1/4、1/8、1/16〜1/250まで。集中コントロールに線をつないで、事務所に引っぱって確率を変えていたりした。これが集中制御の始まり。ある意味で遠隔操作の始まり。客もボタンを押し込んでマッチ棒を差し込んでプレイしていた。当時の関係者に言わせると「パチンコのカイモノ(固定遊技)と同じだ」になる。京都府警が見にきて大阪府警に「こんなんでいいのか」と指摘され手入れがされたこともある。角野たちの当初の「ジェミニ」はリレー方式。古田や濱野たちが「スーパーライン」機というものを作り、これを補助基板にした。昭和52年以降だ。朝銀の融資を受けて開発。価格もプレミアがついて1台120万円くらいにはね上がったという。もちろんこれはゲームセンター等にも入った機械で、大阪府警の摘発により補助基板を外すことを条件に罪一等を減じてホールの営業許可を下ろすことにしたが、ノーマルに戻した店は閑古鳥が鳴いた。これにより、以前に書いたが濱野の会社はここでいちど倒産している。
実は本業の仕事を放り出してこのブログを書いている。あちらに戻らないとそろそろヤバイので、今週はこれで休止する。赤坂のAは、おそらくタイトーの営業マン時代の後だと思うが、東京パブコのゲーム機のオペレーターをやっていた。彼がなぜゲームとパチスロ業界(Gマシンからの流入)の影のフィクサーになったかは「花月会」がそのベースだが、これはまたいずれ。前回の中日スタヂアム事件、長野倶楽部(と、僕が勝手に名づけているだけだが)についても、改めて詳しく書くことにしたい。
今回は小休止ということで、パチスロ業界群像としてSNKプレイモアの創業者でオーナー、会長の川崎英吉について少し触れておきたい。古田や濱野、角野、上月、岡田、里見たちに比べるとゲーム機に入ってきた時期はやや遅れる。彼はプロの元ボクシング選手。SNKに格闘ゲームやアクションものが多いのもその影響か。大阪で喫茶店も経営していて、そこにテーブルゲーム機などを設置していた。別に建設業(当時で言う土建屋)もやっていて資金は貯めていたようだ。そこに神戸の大手電機会社が経営悪化で資金提供を川崎に持ち込んできて、それを買い取って昭和48年に「新日本企画」という会社を興す。新のイニシャルS、日本のN、企画のKをとって「SNK」の愛称を昭和55年頃から使い、昭和61年にSNKに社名変更した。ブロックゲームのコピーで「センカンヤマト」(昭和53年)が、アーケードゲームでのSNKのデビューだ。その前年に大阪で風営法認可第1号機のアップライトスロット「ジェミニ」が大阪に登場している。SNKをゲーム機の愛称ブランドで使い始めた昭和55年は、言うまでもなく日電協設立の年である。
アルゼの子会社になったのはSNK本体の経営悪化が原因で、2001年に倒産。アルゼとの著作権訴訟が起きたが、すべてSNKプレイモアが勝訴した。この時期、川崎は自宅まで売却して臥薪嘗胆の時期を経験している。しかし、アルゼに取られていた旧SNK開発者たちは、アルゼとの手切れのあと、ほとんどが復帰。しかも逆にアルゼの社員も引き連れて戻っている。
痛快、昔かたぎ、ある意味で変人、頑固というのが川崎の印象。昨年、数回会って、1度は北新地でご馳走になったが、元プロボクサーと土建屋の叩き上げの人間性は僕個人としての好感度は結構高かった。おそらく彼もまた、人間の好き嫌いが激しい性格なのかもしれない。
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この記事へのコメント
1. Posted by 古米店長M55X 2007年11月26日 01:09
SNKの話と聞いて飛んで来ました。
続きを切望致します。
2. Posted by 田舎弱小店長 2007年11月29日 00:48
お疲れ様です。
ジェミニは、数年前まで
地方のゲームセンターで動いてました。
ノッカーと払い出しベルの音が最高でした♪
ジェミニは、数年前まで
地方のゲームセンターで動いてました。
ノッカーと払い出しベルの音が最高でした♪