〜Any 創業〜
「最初から絶対オープン型になると僕は思っていた」
mixiとGREEが誕生した2004年2月以降、日本のSNS業界は凄まじい勢いの盛り上りをみせた。その様子は今でいう乱立する共同購入クーポンサイトに近かったかもしれない。
気がつけば大小合わせると100サイト以上のSNSが立ち上がり、すぐに寡占状態となった。そして、今ではそのほとんどが淘汰されてしまった。
「最初から絶対オープン型になると僕は思っていた」
ネットマイル社のファウンダーで現在、同社代表取締役を務める畑野氏は当時を振り返った。同氏がSNS「Any」を立ち上げたのは2006年3月。その時既に mixiの登録ユーザー数は300万人を突破。新規参入としてはかなり後発だった。
一方、当時のSNSは招待制が主流。ビジネスモデルもちゃんと確立できているサービスはほとんどなかったといっていい。そんな中、Anyは当初から登録制のオープン型SNSを提唱し、ビジネスモデル有りきの事業構想を打ち出していた。
「アメリカでは登録制が一般的になってきており、誰もが見られる環境でこそ、広告や企業の販促向けコミュニティの設置など様々なビジネスモデルが実現できる」
Anyを立ち上げた当初、当社の取材に対してそう語っていた。
創業のきっかけ、それは畑野氏が講師を務めていた慶應義塾大学大学院経営管理研究科の授業の一環でおこなったビジネスモデルプランコンテスト。その時、最優秀賞を受賞したのが Anyのビジネスモデルの原型だったのだ。
当時、畑野氏は ngi group(旧ネットエイジ)に所属していたが、「学生達が良いビジネスモデルを考えた。乗っかってみるのも人生面白いかな」と、教え子たちと一緒に会社を立ち上げる決意した。
〜Any 総額10億円以上を調達〜「今のFacebookと考え方がすごい似ている」
オープン型SNSをうたったAnyは後発だったが注目、期待度は高かった。
創業して半年も経たない2006年8月、Anyはベンチャーキャピタル及び事業会社計9社から総額5億545万円を調達した。翌年9月には既存株主を含むベンチャーキャピタルなど計7社から総額3億8,000万円を調達。さらに2009年2月にも総額1億2,370万円を調達するなど、トータル約10億円以上を集めた。
「今のFacebookと考え方がすごい似ている。あぁいうビジネスモデルだったんですよ」
しかし、2010年8月、Anyは終了した。
当時のAnyの方向性は間違っていなかった。それは今の業界トレンドを見ればわかる。では、Anyをクローズせざるを得なかった直接的な要因は何だったのか。
「早すぎてもだめなんですよね、考え方が。でも何かひとつの原因じゃない。複合要因の重なりですよね。もちろん全部社長が悪いんですけどね。意思決定したのは社長なんで」
特殊といわれる日本のマーケットは寡占に陥りやすい。とくにプラットフォーム系で後発のAnyにとっては難しい選択の連続だったに違いない。
畑野氏自身、ビジネスの潮目はわかっていた。
「このまま行って、(GREEやモバゲーなどと)同じビジネスモデルをぶつけても勝てない」
資金がまだあるうちに事業転換などの判断を下す必要性もわかっていた。しかし、うまくいかなかった。
「あれだけお金があったんだから、SNSをやめて違うことやってればうまく生き残れているわけですよ。でも、SNSの事業モデルでお金をあつめている訳だから、急に止めます、事業転換します、とはいかない。その責任というのはなかなか変えられない」
〜Any 解散〜「恩返しをしたいと思っている」
成長分野の事業には先行投資は必至だ。一方で資金調達をおこなうと株主、ステークホルダーが増える。ベンチャー経営者は当然、その分事業責任を負わなきゃいけない。
もちろん計画通りにことが運べば問題ないが、ベンチャービジネスにそんことはありえない。計画通りにいかないとき、それは調達した額が大きければ大きいほど、難しい経営判断が求められる。
「最初にどんとお金を掛けてやるよりも、やっぱり徐々に会社を大きくしていって、そのステージごとにファイナンスはやったほうがいい」
そう話した。
最終的にAnyは三社にそれぞれ分割して事業譲渡。その上で解散した。
幸いにも株主の理解もあった。お金のあるうちに止めることができた。もちろん株主によって想いが違う。調整するのには半年掛かった。
「恩返しをしたいと思っている」
そう心に刻み込んだ畑野氏は今、新生ネットマイルで新たな挑戦に挑んでいる。
〜一人ガリバーの学生起業家時代〜「あ〜金儲けるって簡単だ」
畑野氏の学生・サラリーマン時代の話は面白い。
大学は学習院大学。月々のお小遣い100万円。愛車はポルシェ。
とはいえ、親に面倒をみてもらっていたのではない。すべて自分で稼ぎ出していた。そう、学生起業家だったのだ。
何でそんなに儲けていたか。一言でいうと「一人ガリバー」。自動車のブローカーをひとりでやっていた。
当時はバブル真っ盛り。車は学生ひとり一台持っていたという。じゃ、友達に車を売りつけていたかというとそうじゃない。
ターゲットは同じ大学に通う友人の親だ。昔は2年に1回車検があった。みんな、その車検のタイミングで車を乗り換えていた。
「親が車を乗り換えるとき、必ず僕に話をくれ」
そう、みんなに言っておいたのだ。
そして、仮にディーラーの下取り価格が100万円だったとすると、その金額で畑野氏は現金で購入する。さらに、仲介してくれた友人には手数料として10万円を渡す。当時の大学生にとって10万円は大金だ。
100万円で下取りした車は、オークション場に持っていくと200万円で売れる。これがビジネスモデル。
「だいたい倍で売れるんですよ」
毎月2台程度をクロージング。粗利ベースで確実に100万円を稼いでいた。人を使う必要がなかったので人件費は自分だけ。しかし唯一掛かる経費が電話代の月々30万円だ。
当然今のような携帯電話なんてない時代。そう、畑野氏が当時最強の武器として活用していたのがショルダーフォンだった。
「出た時に買いました。一番必要だったから」
今では想像もつかないが、重さは3キロ。充電器などをあわせると総重量は5キロくらいになる。
そして当時のオフィスは学食。そこにショルダーフォンをおいて置く。それが畑野氏が出社しているサインだ。何やら10万円もらいえるという話は口コミで広がり、学食の畑野氏の前には車買取相談の列ができた。そのとき思ったという。
「あ〜金儲けるって簡単だ」
〜“まさか”の連続、サラリーマン時代〜「俺に報連相しろよ」
学生時代に学んだことは、情報の非対称性。情報を知っているものとそうでないものではこんなに差がでるということ。そして、ITを駆使すれば情報の格差を生むことができるというのを学生時代に肌感覚で学んでいった。
ところがその後、畑野氏は普通に就職する。学生時代、車以外にもイベント会社みたいなことも手がけていた。その関係で、たまたま付き合いのあった自動車メーカーのマツダ社から誘いがあったのだ。
「就職どうするんだ?」と尋ねられた畑野氏。
「面接とか大嫌いなんで」と答えると、まさかの「面接なんてない」という回答で、その場でまさかの内定だった。
ところが、本当の“まさか”はここからはじまることになる。
まず、毎日一日中働いて受け取った初任給が手取り12万円。“まさか”だった。学生時代、片手間でショルダーフォンを学食においておくだけで毎月100万円以上を稼いでいた畑野氏にとって、それはありえなかったのだ。
さらに「新卒って、何の意思決定もできないんです」と目を丸くする。これまでひとりでビジネスをやってきた。当然、意思決定もすべて自分で下してきた。しかも、上司には報・連・相が義務付けられる。
「報連相する相手が僕より馬鹿なんです。車に関しては誰にも負けない知識がある。俺に報連相しろよ。勘違いもはなはだしいと思いましたよ」
その時、社会は年功序列だということを初めて知ったという。
一方、入社と同時に畑野氏は広島県にあるマツダ社で寮生活となったわけだが、寮の駐車場にはもちろんマツダ社のファミリアが並んでいる。そこへいきなりメルセデスベンツを乗り付けてきた新卒の畑野氏。
会社側が「何だあの車は!!」となるのも理解できるわけなのだが・・・。
「ぼく貧乏なんで、手取り12万円じゃベンツから御社の高い車に乗り換えられるわけがないじゃないですか〜」
畑野氏はそう言い放ったという。
一番“まさか”と驚いたのはどちらかというと会社側だったに違いない。ただ、そんな状況で4年半も勤めていたというのも“まさか”だ。
〜インターネットとの出会い〜「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか?」
学生起業家だった畑野氏にとって、あらためて起業するということは特別なことではなかった。ところが、マーケティングだの会計だのとかは、まったくわからなかった。本を読むと、何やら社長をやると現金を持ち逃げされたとかがいっぱい書いてある。
「ちょっと勉強してから起業しないと駄目かな〜」
そんなこんなで1995年、慶応大学大学院に入学し、MBAを取得。そのとき出会ったのが、インターネットだった。
「インターネットってすごそうだな」
でも、大学院は奨学金で入ったことこもあり、まずは返さないといけない。
そこで、「2年間学んで一番楽しかったのがマーケティング。自分が学んだことをいかせる企業に行きたい」とまずは就職することに決める。
マーケティングを活かせる会社ということになると、やはり莫大な販促予算、プロモーション予算を持っている会社だ。さらに一番サラリーがいい会社はどこかと調べたら、日本コカコーラだった。
「ほんと良い会社。何も不平不満とかなかったですね。ほんと優秀なひとばっかり」
しかし、マツダ社より短い3年で退職することになる。
仕事は面白い。やりたいことをやらせてもらえる。給料もこんないいのかというくらいい。飲料メーカーなので飲みものはもちろんタダ。食事は社食があるし、夜中まで仕事してて、遊びにいくわけでもない。お金は溜まる一方だ。
「ただ・・・だんだんこれはやばいなと。良すぎると。なんか落とし穴が人生あるんじゃないかと」
なぜかそういう不安な思いに駆りたたされた。そんなたとき、一冊の本に出会った。スティーブ・ジョブズだ。
著書にはこう書いてあった。
「ジョン、いつまで黒い砂糖水を売っている気だ。このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか?」
1990年代の中盤頃。ペプシコーラ社のCOOだったジョン・スカリーをApple社の社長としてヘッドハンティングする際に口説いた言葉だ。これがささった。
黒い砂糖水?そう、自分も今、その黒い砂糖水を売るために毎日必死に働いている。まさにそのスティーブ・ジョブズのフレーズが自分に向けられている気がしたのだ。雷が走った。
ちょうどその頃、世間を見渡せばITバブル。すぐに辞表を出すことに決めた。
〜ネットマイル誕生〜「僕よりマイレージ詳しい人いませんから」
スティーブ・ジョブズの言葉に出会い、畑野氏のインターネット熱は一気にやってきた。ネットで検索したりしていると、ビットバレーという言葉みたいなのが出来たとかなんとか。その中心にいるがネットエイジ(現 ngi group)という会社らしい。
しかも、インキュベーター。つまり会社を作る会社じゃないかと。絶えず自分の力を試したいという畑野氏。
「一から無名のベンチャーに入って、しかも起業してやったら自分の力がめちゃめちゃ試される」
ネットエイジ社は当時、渋谷区の神泉町にオフィスを構えていた。
「(日本コカコーラ社から)何だよすぐじゃん」
いてもたってもいられなくなった。履歴書も何も持たず、ノーアポでネットエイジ代表の西川氏のもとへ押しかけた。
「入れて下さい」(畑野氏)
「いいけど、(今の)給料払えないよ」(西川氏)
自分の好きなことができるのなら給料が半分になろうが、無給だろうが関係なかった。
こうして無事、ネットエイジに入社したが、1、2カ月くらいはプラプラしていた。インターネットのことをまだあまりわかっていなかったからだ。
そんなある日、西川氏が肩をたたいた。
「畑野くん、畑野くん、インターネット上で広告会社のマイレージみたいなサービスやったら面白くない?やんない?」
そう言って、箇条書き10行くらいで何やら書いてあったA4の紙きれ1枚を手渡された。日本コカコーラ時代、年間100回くらい飛行機にのっていた畑野氏はマイレージオタクだった。
「あ、いいですよ。たぶん僕よりマイレージ詳しい人いませんから」
ネットマイルの始まりだ。
〜ロケットスタートに成功〜「西川の力ですね」
2000年6月に手渡されたA4の紙切れ一枚。それを100ページほどの事業計画書にした畑野氏は11月、自ら会社登記をおこない、ようやくネットマイル社が誕生した。
ローンチは4月。それまでに営業、システム開発など、綿密なスケジューリングを練った。
しかし、問題があった。発案者の西川氏とは当初から意見が食い違っていたのだ。
西川氏はネットエイジ単独でやりたいと考えいた。サービスはベンチャーが一から立ち上げていく、それが西川氏の描くベンチャーストーリーだった。
一方、ネットマイルというビジネスモデルは仮想通貨をやるビジネスモデルだと思っていた畑野氏。仮想通貨をやるには信用が第一だと考えていた。
「大手のレガシーな会社と組まないと仮想通貨はできない」
信用があってお金を持っている会社はどこか。大手商社だ。畑野氏はあらゆる商社を回った。
「大手総合商社、全部行って結局お金だしてくれたのが三井物産でした」
こうして三井物産がリードインベスターとして資本参加することになり、ネットマイルはいよいよローンチすることなる。
さらに畑野氏には考えがあった。いかにロケットスタートさせるかだ。
「とにかく起業する瞬間が大切」
そこで4月のローンチ時には、加盟店 30社の獲得を目標に掲げたが、結果的には約50社を獲得。目論見通り、ロケットスタートに成功した。
「これがやっぱりでかかったですね。まぁ、これは西川の力ですね」
その後、ネットマイル社は主要株主だった三井物産に残りの株式をすべて売却。エグジットを果たす。
畑野氏はキーマンズロックで、その後1年半はネットエイジに所属しながら COOという立場でネットマイルを支えたが、
「三井物産の子会社の社長はやりたくない。創業社長というかオーナー社長というのをやりたい。自分でまた起業しようと思ってました」
その後、Anyを創業することになる。
〜ネットマイルをEBO〜「出稼ぎです」
2010年2月、畑野氏はネットマイル社の代表取締役に戻ってきた。
三井物産の子会社だったネットマイル社は、従業員による事業買収、つまりEBO(エンプロイー・バイアウト)をおこなうことになっていたのだが、実際に経営できる人がいない。経営できる人間を外から招聘する必要が出てきた。そこで白羽の矢が立ったのが、当時はAnyの代表を務めていた畑野氏だったというわけだ。
「謹んでお受けいたします」
断る理由なんて無かった。ネットマイルのビジネスモデル、会社、ロゴ、すべて自分が作ったものだ。
ただ、当時の畑野氏は何とか Anyを存続させようと努力していた最中。
「(Anyを)基本的にたたむつもりはなかった。出稼ぎです」
少しでもAnyに売上がたつよう、自分の時間をネットマイルに注いだ。
〜“まさか”再び〜「畑野にパワハラという言葉は無いから」
「僕を知っている人が誰もいないんです」
ネットマイル社の社長に就任後、最初の“まさか”だった。
もちろん、畑野氏が登記したことや、ネットエイジ社が作ったということなど、
会社設立の経緯なんて誰も知らない。
畑野氏は全社員と個人面談をおこなった。
「何でこの会社に入ったの?」
ほとんどの社員は「三井物産の子会社だから」「安定してると思って」と答えた。
さらに20代の若い社員が1人しかいない。フラッシュマーケティング?誰もしらない。グーグルの使い方すら知らない。
「mixi、GREE、モバゲーはやっているか?」とたずねてみても、「何でやらなければならないのですか?」と返ってくる。
ネットマイルはポイントを売っている会社。mixiやGREEを意識して当然だ。
年功序列、定期昇給。成果主義の微塵もなく、無駄に残業している。創業時のベンチャー魂はゼロだった。それどころかいわゆる大企業病に陥っていたのだ。
「マツダに入ったときくらいビックリした」
畑野氏にとって、再び“まさか”の連続だった。
ただ、優秀なことが一つだけあった。遅刻する人がいないのだ。
「畑野にパワハラという言葉は無いから」
社長にカムバックした畑野氏はそう言って9カ月間、大改革を決行した。
人事制度をすべて変えた。その結果、誰も残業をしなくなった。だた、毎月のように社員がやめていく。70人から40人に減った。
〜ネットマイル、第二の創業〜「若い奴らと新しいビジネスを作っていくのが好き」
「悔しかったら、俺を抜いてみろ」
自らがトップセールスマンとして牽引し、活気付けた。
こうして、「昨年10月くらいからまったく新しい体制になった」というネットマイル社。これからが第二の創業期だとして、今年1月から反撃にでると宣言。
まずは売上げ、数字を作って、それからソーシャルメディア化に対応していく。そして海外、中国に進出し、そこで日本一になること。
「1年くらいは無我夢中で走っていきたい」
畑野氏は今、自身のミッションを新規事業と位置づけている。学生の頃、「一人ガリバー」として車のブローカーをやっていたように今は社内で一人ベンチャーだ。
「新規事業をどんどん立ち上げていく。インターンとか、若い奴らと新しいビジネスを作っていくのが好きなんです」

株式会社ネットマイル
http://biz.netmile.co.jp/
取材日 2010/12/16
【加筆・修正】
〜ネットマイル誕生〜と〜ネットマイルをEBO〜の段落にて引用コメントとして抜粋(2箇所)した内容に、一部誤解を招く発言がありましたので修正の上、加筆させていただきました。(2/22)
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