支局長評論:下関 愛のムチなのか /山口
毎日新聞 2013年01月14日 地方版
大阪市立桜宮高校2年の男子生徒(17)が男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題は、子を持つ親にとって無関心ではいられない。当の教諭も体罰を認めているが、まだ学校から体罰はなくなっていなかった。さらに、一部では体罰を認めてしまう風潮が残っていた。
私も小中高校時代、教師から「愛のムチ」をもらった世代だ。びんたやげんこつは当たり前。私が通った高校は自転車乗車時、ヘルメットの装着を義務付けていた。けれど、夏は蒸し暑く、下校途中にヘルメットを外した。そこへ教師が車で通りがかった。「おい、降りろ」。自転車から降りたその瞬間、公道の道ばたでびんたをもらった。問答無用だった。
これを含めて振り返ると、びんたをされるほど悪いことをしたのかなと思うことがある。私と同世代の50代、もう少し上の60代の皆さんならば、びんたを経験したことのない級友を見つけることの方が珍しいのでは。教師という大人が児童や少年を相手にするのだから、怒られる根拠を示し、言葉で諭せばいいだけのことなのに。やられた方は、今も覚えている。
体罰ではないが、試験の成績が悪かったり、校内掃除で手を抜いたりすると、腕立て伏せや校庭を何周もさせられたり、放課後に何百行もの漢字の書き取りを命じられたことは懐かしい。
愛のこもったびんたやげんこつならばその後、同じ問題であとを引きずることはなかった。これで「スパッ」と決着。教師がその後もこちらを追い詰めることはなかった。こちらも教師を恨んだり、根に持つことはなかった。まして、親に「先生にびんたされた」なんて、言うことなどなかった。愛のムチは痛かったが、教師の気持ちもこちらに伝わっていたし、痛みの加減を考え、人生の先輩としての思いが込められた“一発”だったからだ。<下関・三嶋祐一郎>
〔下関版〕