前漢時代     「陳阿嬌」


陳阿嬌


漢の高祖・劉邦が拓いた漢帝国も、6代目の安定した治世を迎えた頃、女性のパワーが炸裂していました。
高祖・劉邦の皇后であった「呂后」はとりわけ烈女でしたが、5代目皇帝の文帝の妃である「竇皇后」の娘、「館陶長公主」(かんとうちょうこうしゅ)も、ある意味烈女でありました。

「竇皇后」とは、かつて呂后に仕える侍女の一人でしたが、呂后が死の間際、彼女に仕えた侍女たちを各地の諸侯に与えることになりました。
手違いから、故郷からは程遠い北国の王(皇族男子)のもとに行く羽目になった「竇氏」でしたが、これが彼女の人生の岐路であったのです。

呂后の死後、彼女によって立てられていた傀儡皇帝は廃され、次の皇帝として「代王・劉恒」(りゅうこう)が迎えられることになりました。
つまり、「竇氏」が赴いた先の主人です。
劉恒は一目見て竇氏を気に入って、王妃にしていましたが、ここへきて「皇后」となるわけです。
始め辺境に飛ばされた不運を嘆いていた竇氏でしたが、運命は一転して彼女を歴史の表舞台へと導いたわけです。
劉恒は5代目皇帝・文帝となり、その治世は漢帝国始まって以来の静けさと安定を現出しました。
竇皇后も2男1女をもうけており、また人格も優れ教養あり、ゆるぎない地歩を固めていました。

竇皇后の長男は「劉啓」(りゅうけい)といい、長女は「劉嫖」(りゅうひょう)といった。 それぞれが後の「景帝」と「館陶長公主」です。
文帝の死後、太子であった「劉啓」が順当に位に就き、漢の6代目皇帝「景帝」となり、竇皇后は「皇太后」として依然後宮に君臨することとなります。

景帝の実務ぶりは勤勉という言葉がぴったりで、質素を旨としひたすら混乱のない安定した政治を目指しました。
そんな中起こった「呉楚七国の乱」は、景帝に、より一層の中央集権体制への移行を促すこととなりました。
漢帝国はその皇族男子に多大な封地と王侯貴族の特権を与え、その地の人民を支配させていました。 いわゆる分割統治ですが、景帝はその乱の後、諸王の統治権を取り上げ、統治機構を削減させたのです。

こうして再び安寧と平穏な時代が訪れ、景帝は前にもまして黙々と政務と、そして房事に励むのでした。
景帝は漢帝国中屈指の漁色家で、寵愛した妃の数も半端じゃありませんでした。

その中で皇后に立てられていたのは、父帝の生母である「薄皇后」の実家の娘でしたが、残念なことに子ができず、太子として立てられたのは、寵姫の一人である「栗姫」(りつき)の子でした。
こちらは一番年長の男子だったので立太子されましたが、景帝には実は他に思うところのある男児がいたのです。

「王氏」という女性がいます。 王仲という人の娘として生まれましたが、父が死ぬと母は、田という姓の男と再婚し、やがて王氏は金王孫という男に嫁ぐことになりました。
大過ない生活を送っていた王氏でしたが、突然母が彼女らを離縁させてしまいました。
理由は、あるとき母が占いをして王氏が将来、「富貴を得る」と出たからでした。

母は王氏を東宮(皇太子の宮殿)の見習い侍女として仕えさせました。 美貌の王氏が皇太子の目に止まるようにした計らいでした。
それは的中し、当時皇太子だった劉啓(景帝)は王氏に惚れ、寵姫としました。
時は経って、景帝が即位した2年後に王氏が生んだ嬰児は待望の男子でした。 結婚暦もあり出産経験もあったこの王氏を景帝は、ことの他気に入り、その嬰児にも期待を持つのです。

その男子の名前は「劉徹」(りゅうてつ)。後の、漢の第7代皇帝・武帝その人なのですが、このときは一皇族として安らかな一生を望まれたにすぎませんでした。

皇太子は「栗姫」の子・劉栄で、その地位は揺るぎないかに見えました。 
そこへ、景帝の姉である「館陶長公主」が、皇帝の姉としての地位をさらに不動のものにしようと、皇太子の母である「栗姫」へかけあいました。
それは、長公主のたった一人の娘である「阿嬌」(あきょう)を、皇太子妃にしてもらいたい、ということでした。

しかしそれは、栗姫によって即座に拒絶されてしまいました。
栗姫は、この長公主をかなり嫌っていました。 それは、栗姫自身すこぶる嫉妬深い性質だったからです。
と言うのも、景帝の寵愛する女性の大半は長公主の計らいによるところが大きく、それが彼女の嫉妬心を激しく揺さぶっていたからでした。

速攻で縁談を断られた長公主は、憤懣やるかたなく、そのまま景帝に寵愛されている王氏のもとを訪れました。
ことあるごとに反抗する栗姫と違い、王氏は実の姉に仕えるように、長公主に接していました。 目下、栗姫最大の競争相手と言えば、この王氏以外にはいませんでした。
栗姫は、その子が立太子されたことによって優越していましたが、長公主の申し出を即座に断ったのは、その身の不幸だったでしょう。

長公主は当時まだ5歳だった「劉徹」の将来の妃として、「阿嬌」との縁組を進めたのです。

「阿嬌」は長公主のただ一人の娘で、美貌は母に似ていましたが、終始控えめでおとなしく、母とは正反対の娘でした。
長公主は、現皇太子を廃して、この劉徹を次期皇帝にしようと企んだのです。

5歳の劉徹は、阿嬌を彼の三人の姉たち(平陽公主ら)とは違う存在であると、幼いながらに感じていましたが、いかんせん年が16も離れていては、将来の伴侶というより傅役の侍女という観でした。
ともかく、幼い劉徹は、阿嬌との婚約をはたし、意外と彼女になついてはいたようです。
あるとき、劉徹は阿嬌に「阿嬌をお嫁さんにしたら、黄金でできたおうちに住まわせてあげるね」と言ったそうです。
童心がそう言わせたのか、「お嫁」の意味もよくわかっていないのに、けなげなものです。

結局、景帝の王氏に対する熱愛ぶりは、現太子を廃位するという形で表現されました。 当然、姉の長公主が2枚も3枚も噛んでのことです。
廃太子・劉栄は王に降格されて地方に飛ばされ、嫉妬深いかの栗姫は、自尊心をひどく傷つけられて憤死し果てました。
そうして新たに太子となったのが劉徹です。 そのとき母王氏も、子のできない薄皇后に代わって皇后に立てられました。

劉徹の立太子、王氏の皇后冊立。 それの手引きをした長公主はその地位を不動のものにできました。
あとは劉徹が順当に皇帝に即位して、その皇后に阿嬌が立てられ、長公主は、皇后の生母であると同時に皇帝の叔母ということになれば、漢帝国の影の支配者となれるわけなのです。

幼い劉徹のまわりには、厳格である祖母「竇皇太后」をはじめ、その娘・長公主、慈愛に満ちた母・王皇后、3人の姉、そして婚約者・陳阿嬌などいろいろな女性がいました。

劉徹が15歳のとき、父・景帝は死にました。 劉徹はその後を襲い、漢の第7代皇帝・武帝となり、祖父と父の治績を継承しました。
皇帝となったものの、宮中の実権は依然、「竇太皇太后」が仕切り、武帝がなそうとする刷新な政治改革はすべて却下され、黙々と、現行を維持した政治を行いました。
鬱屈はするものの、若さから漁色に走ることはありませんでした。
しかしそれは、彼の皇后・阿嬌によるところも大きかったように思われます。

阿嬌は武帝より16歳も年上でありますが、やはり生母・長公主の娘であることが納得できるような気位の高さを持っていました。
さらに、彼女はどういうわけか、あまり房事に関心なく、武帝も義務感だけで夜を伴にしましたが、やがてバカらしくなって次第に足が遠のくようになってしまったのです。
まだ若い武帝は、そこで発散されなかった情熱は、政務で活かされましたが、皇后との仲が冷え切った一事は、次の時代を産む土壌となったように思われます。

ほとんど政略結婚のようにしてまとめた、劉徹と阿嬌の縁談でしたが、長公主が思うほど、その効力は長続きはしなかったのです。

阿嬌のおかげで、さして女性に関心を持たなくなった武帝を目覚めさせたのは、姉の「平陽公主」でした。
平陽公主は、かつて館陶長公主がやったように、弟に寵姫を与えて自身の地位を安泰にさせようとしました。 策謀高い長公主も、同じ穴のムジナにしてやられるわけです。
こうして登場するのが、武帝が本気で愛した女性の第1号といえる、「衛子夫」(えいしふ)であります。

子のない阿嬌は皇后を廃され、代わって衛子夫が皇后となり、その弟の「衛青」とともに漢帝国に重きを為してゆくのです。

ちなみに… 阿嬌は廃されて失意のまま蟄居したのに対し、館陶長公主は実権は失ったものの、宮中に君臨し続けなんとも華やかな生涯を送ったということです。 恐るべき生命力というか。。。


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