20世紀の発明品カタログ20世紀の発明品カタログ
敵国が採用した日本のアンテナ
世界の屋根に君臨する、八木アンテナ
八木博士 八木アンテナを掲げる八木博士。八木秀次が発明した超短波指向性アンテナは、英米のレーダー手たちによって「八木アンテナ」と命名された。当初は11本の導体棒で構成されたが、その後簡略化され、主導体棒の前後に2〜3本の反射器と導波器を置く今の形になる。(写真提供/日立国際電気)
敵が認めた世界のYAGI
 昭和17(1942)年4月。シンガポールを攻略した日本軍は、イギリス軍基地から電探(レーダー)二基を押収した。この時、ゴミ焼却炉の燃えかすの中から、偶然、一冊のノートが発見される。表紙には、レーダー技師のニューマン伍長のサインがあり、中には詳細なメモが記されている。もしかするとレーダーのマニュアルなのではないか? ノートは直ちに南方軍兵器技術斑で翻訳され、秘密裏に内地に輸送。兵器本部の技術将校たちは、ノドから手が出るほど欲しい敵の電波兵器に関する資料を、目を皿のようにして熟読した。
 ところが、そのニューマン・ノートには、“YAGI”という意味不明の単語が頻繁に出てくる。例えば「送信アンテナはYAGI空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と行った具合だ。どうやらアンテナの形を指しているらしいのだが、「ヤギ」なのか「ヤジ」なのか、読み方すら分からない。
 そこでシンガポールの収容所に捕虜として捕えられていたニューマン伍長を探し出し、“YAGI”とは何かを尋ねる。するとニューマンは、キョトンとした顔をして「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」。尋問に当たった技術将校は、絶句した。それもそのはず、それはわが国電気通信工学の第一人者で、当時東京工業大学の学長でもあった、あの高名な八木博士の名だったのだから!
戦局を左右した、八木の評価
 八木アンテナが発明されたのは大正14(1925)年、東北大学工学部長の八木秀次が40歳の時のこと。マルコーニの長中波を利用した大陸間無線通信が脚光を集め、短波によるラジオ放送すらなかった当時、超短波や極超短波(マイクロ波)はいわば夢物語だったのだ。八木が率いる東北大学電子工学科では、そのSFじみた夢に挑んでいた――。  ある日、八木研究室では、発信や受信のアンテナの前に波長の半分より少し短い長さの導体を置くと、その方向に指向性を増す、いわゆる「導波現象」を確認した。この現象に着目した八木は、さまざまな条件下で実験を重ね、超短波の送受信方法を理論的に解明。その理論に基づく「指向性アンテナ」の特許を申請し、これを『電気学会雑誌』に発表した。が、反響はまったくなく、学界から無視された。
 その3年後、八木は、ニューヨークで開かれたIRE(アメリカ無線技術者協会)の総会で指向性アンテナの研究を発表。日本の学界では信じられないような高い評価を受ける。そのときの八木の講演録は同(1928)年6月号の『IRE会誌』に掲載され、世界の電気通信学者に、やがて夢の超短波の時代がやって来ることを強く印象づけたのだった。
 第二次世界大戦へと突き進むこの頃、先進各国では八木の指向性アンテナの原理を応用し、着々とレーダーの開発を急いでいた。ところが、日本政府はその重要性をまったく理解できず、太平洋戦争に突入した後も、「敵を前にして電波を出すなど、闇夜に提灯を灯して自分の位置を敵に教えるようなものだ。真珠湾攻撃以来、奇襲戦を本領とする我が日本軍には必要ない!」と、まるで相手にしようとしなかった。さらに昭和16年、八木は指向性アンテナの特許期限の延長を申請したが、「重要な発明とは認め難いので、特許を無効とする」との通知が届く。
 シンガポールでニューマン・ノートが発見されたのはその翌年のこと。遅ればせながらレーダーの重要性を痛感した軍の幹部は、すぐさまノートをもとにレーダーの開発に着手。しかし、時すでに遅し……。ノート発見の4カ月後、ミッドウェー海戦で山本五十六率いる日本連合艦隊が謎の敗北を遂げ、戦局不利は決定的となったのだ。その時、日本の空母4隻を沈めた米軍爆撃機ドーントレスに、八木アンテナが搭載されていたことが分かるのは、終戦後のことであった――。
みんなの家庭に八木アンテナ
 戦後、超短波を利用したテレビ放送の時代が到来し、八木アンテナに再び世界の脚光が集まった。昭和27年、八木アンテナ株式会社が設立され、八木秀次は初代社長に就任。翌28年2月にはNHK東京テレビ局が、9月には初の民放となる日本テレビが本放送を開始し、国民はみんな力道山や鉄腕アトムに夢中になった。
 大戦を経て、日本の高度経済成長のシンボルとして各家庭の屋根に誇らしげに掲げられ、さらに世界中の街にも林立した八木アンテナ。それはまさに、20世紀を象徴する日本の発明品だったのだ。
上山 明博(うえやま・あきひろ)
1955年10月8日岐阜県生まれ、天秤座。
ノンフィクション作家・科学ジャーナリスト。
科学と文学の垣根を超え、広範な分野で執筆活動を展開。
著書に
『科学を愛したサル』宝島社(1990年)
『アトムの時代』美術出版社(1994年)
『ビジュアル・テレコミュニケーション入門』翔泳社(1996年)
『プロパテント・ウォーズ』文春新書(2000年)、
共編著に
『シュレディンガーの猫がいっぱい』河出書房新社(1998年)
『オリジナリティを訪ねて I・II』富士通ブックス(1999年)
『理科系の脳みそ』東京書籍(1999年)
『ビジネス方法の特許化・設計・戦略大系』フジ・テクノシステム(近刊)など。

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