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神話の果てに−東北から問う原子力
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第5部・原発のまち(1)希望/地価、いきなり100倍に/「出稼ぎしなくていい」

旧陸軍の訓練飛行場跡地と塩田だった福島第1原発の建設予定地。断崖絶壁の海岸線を掘り下げ原子炉が設置された=1961年

<浜通りが豊かに>
 身の丈ほどのカヤの原野で道に迷いながら、左ハンドルのジープタイプの車が走っていた。福島県大熊町の浜辺に広がる小高い台地。東京オリンピックの開催が迫っていた1964年春だった。
 広大なカヤの原っぱはやがて福島第1原発に変わり、6年後に1号機で「原子の火」がともった。それから41年後、炉心溶融を引き起こして壊滅することになる。
 48年前、車で訪れたのは当時の木村守江福島県知事。志賀秀正大熊町長と木川田一隆東京電力社長も同行している。いずれも故人になった。
 巨大な原子力プラントによる地域発展を思い描いたのだろうか。木村知事が「これで福島県も、浜通りも豊かになる」と語ったという。運転手だった大熊町の長沼勝己さん(72)は、感慨深げなその言葉を覚えている。
 「大きな工場ができて出稼ぎがなくなると思った。安全性を問題視する人はいなかった」。長沼さんも振り返る。
 第1原発の予定地約200ヘクタールの半分は、西武グループ創立者の故堤康次郎氏が率いる国土計画興業の塩田。残りは地元の人が所有し、その大半は戦争中、旧日本軍の飛行場だった。

<「喜んで売った」>
 「ゲンパツができるそうだ。1反(約990平方メートル)10万円で売れる」。東電の委託で県開発公社が用地取得に乗り出すと、高値買い取りの話がすぐ広まった。
 大熊町出身の佐藤久夫さん(74)は出稼ぎ先で同郷の友人に聞かされ、額に驚いた。戦後の払い下げで買った時は1反1000円。いきなり100倍になっていた。
 「木もろくに育たたず、手入れに金ばかりかかった。地権者は喜んで売った」
 第1原発が建設された大熊、双葉町辺りの海岸線は断崖が多く、漁業には向かなかった。農業でほそぼそと生計を立てている人が多かった。
 65年当時、大熊町の1人当たりの年間所得は11万1000円、双葉町は13万2000円だった。東京(39万6700円)の3分の1にもならず、男たちは田植えが終わると出稼ぎに出た。
 塚本英一さん(71)も高卒2年後の61年、大熊町から出稼ぎに出た。10人雑魚寝の宿舎で暮らしながら、首都高速の建設現場へ。午後6時から翌朝9時まで働いて日当400円。そのころの地元の日当は270円。
 「ほとんど休みなし。稼ぐために来ていたから、1時間でも多く働きたかった」。帰省の土産は決まってバナナ。地元では病人しか食べられない貴重な果物だった。
 県開発公社が大熊町側の用地を全て取得した64年、塚本さんは妻富久子さん(68)と結婚したが、出稼ぎ生活は続く。
 原発建設を知り「出稼ぎがなくなる」と喜んだ。郷里の先輩が出稼ぎ先で「子どもの授業参観や運動会に参加できない」と嘆くのを聞いていたからだ。
 塚本さんも知人の誘いで東電の関連会社で働き始めた。日当は600円。原発建設のための地質調査などが仕事だった。

<恨む気にならず>
 塚本さんは今、会津若松市の仮設住宅で暮らす。福島第1原発事故によって大熊町の自宅を追われた。
 避難生活は2年目に入ったのに、帰郷の見込みは全く立たない。同じ大熊町で暮らしていた子どもや孫たちとも離れ離れになり、顔を見る機会がめっきり減った。
 それでも東電や原発を恨む気にはならないと言う。「家族とともに暮らせる幸せ」(塚本さん)をもたらしてくれたと、自分なりに信じているからだ。
   ◇
 与えられた豊かさの中で、やがて原発と地域との「共存共栄」の神話が語られるようになり、危険性は忘れ去られていった。破局的な原子力災害に行き着くまで、福島県双葉地方はどう変質していったのか。半世紀前から立ち戻って検証する。
(原子力問題取材班)

◎福島第1原発立地までの経緯

1960年 福島県が原子力産業会議に加盟。県が原発敷地の提供を表明
  61年 東電が大熊、双葉両町の土地を最適地と判断
      大熊町議会が原発誘致を決議
      双葉町議会が原発誘致を決議
  63年 東電福島調査所の仮事務所開設
      県開発公社が東電の用地買収を受託
  64年 大熊町分の地権者290人が土地売却承諾
      法人所有地101ヘクタールを含む全196ヘクタールの売買契約成立
  65年 県開発公社が双葉町側の買収着手
  66年 電源開発調整審議会が1号機計画を承認
  67年 双葉町側の約116ヘクタールの用地買収を完了
      1号機着工
  70年 1号機初臨界
  71年 1号機が営業運転開始


2012年10月16日火曜日

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