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神話の果てに−東北から問う原子力
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原発のまち/「安全性信じて疑わず」/「交付金魅力でも怖い」

「原発との共存は事故が起きないことが大前提だった」と振り返る志賀秀朗さん

相馬市の蒲庭地区。沿岸部には大津波の爪痕が残る

今野繁さん

 1987年から福島県大熊町の町長を5期20年務めた志賀秀朗さん(81)は、東京電力福島第1原発1号機の着工時(67年)に町長だった故志賀秀正氏の長男だ。親子で原発による地域振興を進めた前町長は、原発事故で町民が苦しむ現状に心の整理がつかない。

◎父と2代で原発推進、前大熊町長の志賀秀朗さん/町民の避難に胸中複雑

 「原発ができる前の大熊町は貧しく、就職先は町役場か農協、郵便局ぐらいだった」。いわき市で避難生活を送る志賀さんは振り返る。
 東電の進出で状況は一変した。原発建設工事で求人が増え、営業運転が近づくと東電や関連会社での雇用が生まれる。農業を営んでいた志賀さんも父の勧めで東電の現地採用に応募し、64年から第1原発で働き出した。
 東電社員のまま町議を2期務め、87年の町長選で初当選。無駄遣いを戒めつつ、下水道の整備や小中学生の医療費無料化など、住民のための施策を打ち出した。
 原発の安全性は信じて疑わなかったという。「事故が起きたら大変なことになるのは発電所にいたから分かっていた。安全確保は大前提で、事故を起こさないようずっと求めた」と強調する。
 02年に発覚した東電の原発トラブル隠しでも、1年後には再稼働を容認した。当時の判断を「東電抜きで町は成り立たない。十分反省し、再発防止を誓うなら前に進もうと考えた」と振り返る。勝俣恒久社長(当時)が何度も頭を下げ、「安全を最優先する」と訴えたことも大きかったという。
 原発との共存共栄は事故でついえた。町に立地する1〜4号機は廃炉作業が進むが、全町民が町を離れ帰還の見通しは立っていない。「発電所がなければ避難することもなかったが、東電に長年お世話になったのも事実」。胸中は複雑だ。
 国と東電を信じて原発を推進し、首都圏に電気を送ることに誇りを持っていた。大事故で町が存続の危機を迎えるとは思いもしなかった。
 志賀さんはいま、避難生活を送りながら町民の行く末を気に掛ける。
 「私は大熊に帰ることなく死ぬかもしれないが、町民の皆さんは絶対古里へ戻るんだという思いを持ち続けてほしい。その日までどうか健康には気を付けてください」

◎70年代原発拒否、前相馬市長の今野繁さん/“候補地”に津波の爪痕

 東京電力と東北電力が1970年代、それぞれ相馬市に原発立地を検討していたことが、78年から6期24年、市長を務めた今野繁さん(85)らの証言で明らかになった。東電福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)が稼働を始めた福島県浜通りで、電力会社がさらなる集中立地を模索した形跡がうかがえる。
 今野さんによると、就任直後、両電力社から個別に立地への協力を求められた。候補地に挙がったのは、ともに市南部沿岸の蒲庭地区。両電力の本社にも出向き、幹部と面談することになったという。人家の少ない丘陵地だったが、その後、周辺に化学工場が進出した。
 今野さんは「蒲庭地区は地盤がいいとの説明だった。市財政は厳しく、原発立地に伴う交付金は魅力だった。ただ、原発は怖いものと感じていた。認めるわけにはいかなかった」と振り返る。反対を伝えると、その後、話は立ち消えになったという。
 地区住民の一人は「時期はよく覚えてないが、蒲庭に原発をという話はあった。港の建設が難しいとかいうことで駄目になったと聞いている」と語る。
 相馬市での原発立地構想について、東北電力は「計画自体ない。73年度には浪江・小高原発(福島県浪江町、南相馬市)の施設計画を表明しており、相馬市への立地はあり得ない」と言う。東京電力は「確認できない」としている。
 当時の事情を知る元市議(84)は「今野さんは社会党出身。電力会社は革新市長が誕生した相馬市でも原発を建設したかったのではないか」と述懐する。
 蒲庭地区も沿岸部が今回の大津波の被害を受けた。今野さんは「これだけの原発事故が起きた今となっては、建設に至らずに本当に良かったと思っている」と話す。


2012年10月16日火曜日

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