少し逸れるが、先進国とは何ぞや、という話。
ビンタ1発がOKかどうかは、全て状況による。
なよなよのガリ勉くんで、宿題忘れた。にビンタしたら大問題だけど。
ルールベースは重要だけど、なんでも、ルールベースにはならないから裁判所がある。というのと同じで。
規律を正すための罰と、ノルマを上げるための罰は違うよね。という所で話をしてきて。
ノルマを上げるための罰はよくないけど、会社でもあるよね。とつながったら
規律を正すための罰は必要といわれても、話が噛み合ってない。
人事権なんかなくても現場の本音になるから、人事より俺の方がスピード感はあるよ?
そして、そういう社内政局には一番敏感だよ?」
だがちょっと待ってほしい
そもそも日本は先進国で経済大国で法治国家だが、後進的で人治主義で不法地帯であっていけない道理はないだろう?
むしろ、後進的で人治主義で不法地帯であることが民意で、民間じゃ常識なんだから、パイン材でできた法治国家という看板を降ろす絶好のチャンスじゃないか?
君は怒ると叱るの違いについてどう思ってるのかな
個人の鍛錬でどうにかなるレベルだと思ってるのか。
高校のバスケットボール教師が生徒を30発、40発殴って、自殺に至らせた事件がありました。ただ、こういう乱暴な教師はいるのだろうな、とそれほど驚きはなかったのですが、それより驚いたのは、マスコミ、世間一般にも体罰を容認する声があるということです。正直、「え?本当に同じ文明人なの?」と愕然とした気持ちになりました。しまいには、子供やその親を「軟弱だ」とか「ケアが足りない」と攻める論調すら出てきています。
そこで、体罰容認論によくある擁護論にまとめて反論してみました。世間の人の言う「ある程度の体罰」でも「子供のためを思った体罰」でも、教育に体罰は認められません。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
「何を当たり前のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、体罰がダメだというのはわかると思います。しかし、「自分はやられてきたから正しい」という謎論理によって体罰を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、教師が殴ったのが30発ではなくて、3発だったら、子供の方を攻める論調が勝ちそうな気がします。
仮に体罰が正当化される場面があるとしたら、モヒカンの子供が火炎放射器を持って「汚物は消毒だぁぁ〜〜」と乗り込んで炎をまき散らしたときくらいで、火炎放射器を持ち込む子供がいない以上、普通の教師が体罰をふるうことは正当化されません。
俺は十年も前、思春期に考えた。
思春期に彼女が出来ないような人間は後から何しても無駄じゃん、と。
よく、「学生時代に冴えなかった奴が社会的に成功して逆転」みたいな話があって
だから頑張れ人生はこれからだみたいに励まされるしそれは正しいんだけど、
「本来異性に好かれないような人間が財産や地位を築き、そういうのに寄ってくる異性と付き合う」
醜いよね。社会的見下しの対象でもある。
(よく世間的な揶揄の対象になるのも、「正しいカップル」より一段以上低い・卑しいものだからだろう
「正しいカップル」最上位は勿論、若く互いにホルモンに突き動かされて付き合ってるような2人)
まずこれ目指して頑張るっていうのは俺は気力が湧かなかった。
一番恋人とか欲しいのは十代から二十代の初めまで。 精神的にも肉体的にも。
二十代後半だの三十代だので異性に寄ってこられてもそもそもあんま嬉しくなくね?
少なくとも嬉しさ十分の一ぐらいかそれ以下だよ、思春期だったらに比べて。
また、その異性が同い歳前後だとすると、言っちゃなんだけど、相手の市場価値もがた落ちした頃だよね。
取引が成立する頃にはもう取引をする動機がかなりうせてるんじゃないかと予想した。
最重要。
だって、金や地位でひきつけた異性なんて、本当は俺の相手なんかしたくないわけで。
俺と居る間ずっと打算や仕事気分でいる人が欲しかったんじゃない。
俺のプレゼントを即効で換金して本当に好きな人にプレゼント買う異性にプレゼントしても楽しくない。
と考えるとこんなの全然、わざわざ獲得する価値がないモノとわかる。
(シミュレートすると、愛人作ってガッハッハというタイプの男のマッチョさは想像を絶する
相手が腹で自分を好いてなかったり憎んだりしててもそんなのお構い無しで楽しんじゃうんだから)
こういう予測を十代の頃に立てて、
(予測を立てたと言うかあらゆるルートの絶望が身に染みただけだが)
仕事や趣味は頑張ろう、しかし恋愛とかはすっぱり諦めて降りるしかないんだ・・・と決めた。
そして今二十代後半になった俺は、一応社会的ステータスのある資格の仕事についたけど
キリンですし元増田の言うことがよくわかる大人になっちゃいました。
とっぴんぱらりのぷう。
Gakkuri-Kanabun_09
宗教や価値観の問題に外野が表面的にそれは幼稚な価値観だとコメントして解決したためしがない。
筆者が考えを改めるような経験をするか深く感動させる名文で無ければ。
2010/03/25
今日もはてなブックマークは誰かしらにたかって一斉に石を投げている。
3年近く経っても進歩はないのか。
田舎のおばちゃんの話というのは噂話が多くて、あの家の旦那は働かないとか、あの家の息子はいい大学に入ったのにパチプロだとかネガティブな話が多い。パターンを見ていると「あの家は学歴もあって経済的にも豊かだけれど性格が悪い(嫉妬)」とか「あの家の息子は途中まで成功していたのに失敗した、ざまあみろ(嫉妬)」的な話と「あの家は私(の家族)より下だ(お金がない、学歴がない、家柄が悪いなど)(優越感)」的な話が多い。相手が自分より上ならそれが下に下がるのを喜び(嫉妬)、自分が相手より少しでも上ならそれに喜ぶ(優越感)。それが自分の努力ではなく夫や子どもの努力から得られたものであったとしても。嫉妬にせよ優越感にせよ露呈するのは恥ずかしい感情だと思うのだがそういう感覚がない。そして、努力して何かを達成しようとか、何かを成功させようという意識が薄い。むしろ周囲が下がっていくのを喜び、相対的に自分が上に上がろうとする。
※もちろん田舎のおばちゃんにもこういう感情があまりない人もたくさんいますし、都会のおばちゃんにもこういう人はいます。あくまで私の主観、印象です。
最近思うのは日本全体が田舎のおばちゃん化しているということ。ネットの噂話では、有名人とか有名大学卒で大企業の正社員になった人たちのツイッターやらブログに非がないかずっと探し続けている人がいる。そして何か非になりそうなところが見つかればまとめサイトとかに入れて炎上させ、内定取り消しとか失職とかにもちこむ。嫉妬心から上にいる人を下に引きずりおろそうと必死だ。高学歴ワーキングプアにしても、自分より学歴がある部下は嫌だとかそういうレベルから発生している面もあり、ニュースになると「高学歴の人たちは私たちよりは学歴があるかもしれないけど社会性がない」とか上にいる人の非を探して「ざまあみろ」と優越感に浸ろうとする。自分が安月給だったり安定しない仕事に就いている状況を努力して変えようとするのではなく、公務員はずるいと嫉妬して、公務員を下げる方向にエネルギーを使う(維新の会)。自分の雇用が安定しないのは外国人のせいだ、女性のせいだと他の人のせいにして外国人や女性を引きずりおろすことで自分の雇用を得ようとする(ネット右翼、ネットミソジニー?)。そしてそういうことをすることに対して恥ずかしいと思わない。自分で努力して上に上がろうという努力よりも、嫉妬から他を貶め、相対的に自分が優位に立とうという方向にエネルギーを使う。
そういうのが普通の社会になってしまうと、全体がどんどん下に下がり続けるだけのように思う。昔ならこういう嫉妬の渦巻く下降指向の所にいたくない人は田舎を出て都会に来ればよかった。でも都会も含め日本全体がそうなりつつある今、嫉妬しないで自分で努力して上昇したい人は海外に出るしかないのかもしれない。不況が長引きすぎて自分の努力じゃどうにもならないから嫉妬したり周囲の足を引っ張るようなことをするしかないというのは、全く分からないわけでもないけど、でもそれをつづけたところで全体も個人も上昇できず、状況が改善するとも思えない。
どこぞの、幼稚園が。子供に怪我をさせたくなければ、当幼稚園に入れないで下さい。
遊具や砂場で遊べば、怪我することもアレば、風を引くこともあります。当たり前でしょ。といった。という例もあるが。
いわゆる、不良や非行対策。や信賞必罰の観点から、必ずしも体罰に相当する事が不要かといわれるとそうでもない。
よく言われるけど、殴り方を知らない、喧嘩の仕方を知らない男子ほど、凶悪事件をこす。という話もある。
体罰というか、なじるとか、酷い言葉づかいをする。というのもそうだけど。罰に頼らない教育が必要なのであって、罰が不要という事じゃない。
ちゃんと、大人たちで協議して、最低限の罰で済むようにする。という話し合いが必要なのと。
生徒が納得できる事が必要。
昔の例で言えば、遅刻したなら廊下に立ってろ。というのは、授業が遅れる。というのさえフォローできるなら、妥当な罰だろ。
だが、お前はバカだから廊下に立ってろ。というのは、単なるイジメ。
頭がイイやつだろうと、バカだろうと。遅刻したら立ってろ。 公平だろ。
叱られる側に理由がなく、ただ単に怒ればばなんでもいいと思っている教師がいて、それが問題ということ。
生徒に問題がないことで怒ってはいけない。という話。
すごい納得。確かにそうだ!
怒るというのは、感情論。 テメェむかつくんだよ!ってこれ怒るだよね。 つまり、怒ってる側に理由があって、怒られる側には理由がない。
教師はコレをやっちゃダメ。
叱るというのは、生徒の側に悪いことが合って、それをやっちゃだめだよということで、咎めるというとも違う。
咎めるというのは『なじる。非難する』の意味を含んでいるので、優しく咎めるという言葉は成立しないが、優しく叱るというのは成立するだろ。
つまり、怒っちゃダメだが、叱ってもいい。というのは。感情的になってはいけないが、生徒が悪いことをしたら、それを悪いことだと教えてあげる事は必要。
という意味で、最初の筆者はいってるとおもうよ。これはあってるだろ?
叱られる側に理由がなく、ただ単に怒ればばなんでもいいと思っている教師がいて、それが問題ということ。
生徒に問題がないことで怒ってはいけない。という話。
今回の場合は キャプテンやりたければ殴るぞ!殴られたくなければ2軍落ち って。生徒はなにも悪くないことで怒られてる。これが怒る。叱るじゃない。
ちなみに、アスペでよくある。あなたは宿題わすれたらしいけど、犬に食べられたの?というのは 叱るではなく 咎めるもしくは、なじる。
このへんの区別が、教育現場でついていないのが問題。
どつきまわすのは、暴力だとは思うけど
生徒にめちゃんこ舐められて、国は体罰ダメって挟まれたら先生も可哀想だと思うときがあるよ。
あっ、安易に手を出すのはもちろん反対よ。
関係ないかもしれないけど、こないだ地域誌の読者欄に「仕事に意義を見出せないが、成人として社会の歯車になる責任があると自分に言い聞かせて働き続けている。子供には不便をかけるが、大きくなれば分かってくれるだろう」というような趣旨の30代女性の投書が載っていたのね。彼女は、行き過ぎたフェミニズム活動の典型的な犠牲者でしょう。
もちろん、現在の日本社会には「(企業人として)働きたいと思っている」女性が思うように働けない現状があって、その格差は是正されるべきだけど。そのロジックが「(企業人として)働きたいと思ってない」女性まで勤労へ仕向け、専業主婦を格下に見ることに繋がってしまっている。
深刻な「少子化」の問題を前提とすると、むしろ育児に専念している女性の方が社会貢献の度合いは高いくらいなんですよ。ただ、一方で「高齢化」による生産人口の減少も深刻で、この意味では家庭に専念せず企業活動に参加する女性が増えてほしい。このトレードオフを少しでも軽くするため、保育の充実とか、育児と勤労の両立を支える施策が求められるわけだけど、これが単なる妥協点でしかないってこと、みんな分かってるよね。
まとめると、「将来は専業主婦」と堂々と言えないのは単に日本社会全体の生産人口不足のためであって、ここにフェミニズムの論理を援用してはいけないってことです。それは専業主婦の差別につながるから。個々人が好きなように振舞っていたら皆がハッピーになれる社会が理想なんだけど、少子化・高齢化とか不景気とか、社会の状況がそれを許さない。難しい時代になったものですね。
じゃあ、口で言って聞かない人はどう対処すれば良いの?