中世イタリアの食生活

京都産業大学文化学部国際文化学科 伊藤 和記

 

後期の発表でフランス、トルコ、ドイツについて発表し、様々な国の食文化を知ることができたので、今回のレポートではイタリアについてまとめたいと思う。

1、パスタ料理

イタリアと聞いて、想像するのは、なんと言ってもパスタである。まずは、そのパスタがどのように国民食となったのかをまとめる。パスタの原料である小麦は、意外にも紀元前90007000年には、東地中海に自生していたのがメソポタミアで栽培されるようになった。しかし、小麦の栽培によって、すぐにパスタが作られるようになったわけではない。一般的に言われる、小麦をこねて形作り茹でて食すといったパスタが誕生するのは、中世になってからである。さらに、1112世紀に盛期中世には、俗にゆう生パスタが誕生した。生パスタにやや遅れて乾燥させた保存食としても食された乾燥パスタが現れる。乾燥パスタは、砂漠を移動するアラブ人が保存食として作ったのがルーツとされている。ヨーロッパにおいては、シチリアから広まった。このころ、シチリアとはりあって、生産・輸出をしていたのは、イタリア第二の島サルデーニャであった。さらに、12世紀にはジェノバの商人がすでに北イタリアに普及させていた。その後、硬くて、小麦の粗挽きからなる乾燥パスタは南イタリアのナポリの特産品となった。さらにナポリでは、水車や動物を使って大量生産するようになる。地中海沿岸あたりで作られていた乾燥パスタは、都市においては、パン屋の副業感覚で行われていたが、このころから、メインの仕事として成り立つようになった。南イタリアのナポリの乾燥パスタに対して、北・中イタリアでは、生パスタが長い間作られ続けていた。売り出すために作られた生パスタもあったが、この地方では生パスタはおふくろの味であった。このような、北と南の違いは現在においても同じである。北イタリアには、ラザニア・ラビオリやボローニャの手打ちパスタがあり、南イタリアには、スパゲッティやマカロニといった乾燥パスタが有名である。地域により、また階層により差はあったが、16世紀に大きくパスタは発展していった。まだ、農民のような下層人々には毎日のように食べることの出来る料理ではなかったが、食べられなかったわけではない。しかし、この頃には、まだトマトは使われていなかった。トマトが普及する以前は、たくさんのチーズを振りかけていた。時には、貴族たちは胡椒などの香辛料を掛けて食した。アルデンテは、17世紀〜18世紀にけて、ナポリの庶民が強い腰のある歯ごたえを好むようになり、国家統一後、北にも広がっていった。やがてリゾットなどの米もまたアルデンテにされるようになったのである。

19世紀になるとパスタの人工乾燥設備が発明されパスタの生産性は飛躍的に向上し、イタリアのパスタはヨーロッパ各地、また、アメリカにまで輸出されるようになった。また、1880年から1920年にかけて400万人にのぼる南イタリア人が米国に移住した事によって、イタリア食文化もあわせて輸出していくことになる。彼等を原点にアメリカにイタリア食が広まり、現在ではアメリカの第2国民食と言われているが、栄養学的な価値を顕在化させ、世界的な脚光を浴び始めるのは1975年のアンセル・キース教授、1983年のロベルタ・サルバドーリ女史の『地中海式ダイエット』が著されてからである。これらを契機としてイタリア国内でも南イタリアの食事が見なおされはじめ、米国でもイタリア料理をベースにしたカリフォルニアキュイジーヌに発展していく。そして現在では、中国料理に次ぐ喫食人口をもつのではないかとも言われている。」(カゴメ イタリア料理の歴史http://www.tomato-ks.com/topics/ihb/kiso_03.htmlより)

 

2.パン食

紀元前3世紀頃から、皆さんが知っているようなオリエントからの物資の流入により、貴族たちの上層階級の食生活は贅沢になったのはいうまでもない。そんな中、古代ローマがイタリアにもたらしたものは以外にもパンであった。すでに、古代オリエント文明において、パンの焼き窯が発明され、パレスチナやエジプトではパンは作られていた。しかし、技術躍進または、種類多様化するのはギリシャに入ってからである。このヘラスと呼ばれる土地では、いろんなパンが焼かれ、発酵パンと無発酵パンとが区別されていた。小麦のパンの他にも、前回ゼミ発表したように、大麦・ライ麦や他の穀物からなるパンなど、様々な種類があった。ローマ人は、これまで、穀物を粉にしたり、粥にして食べていたが、このギリシャ人によってパンの焼き方を学んだ。南イタリアのシチリアやマグナ・グラエキアと呼ばれている現在のカラブリアやプーリア地方には、紀元前5世紀の頃から植民地としてギリシャに支配されていたからである。ローマでは、この手軽なパンの供給を正確かつ十分に行うことが国家秩序安定になると考えていた。そのため、パン職人学校と特許の組合組織をつくって、厳重な統制を行った。紀元前30年アウグストゥス皇帝頃、ローマ帝国には、329ものパン工場があったといわれる。しかし、それはすべて、ギリシャ人によって経営されていた。そのことは、ローマ帝国の発展に大きな影響を与えた。

カエサルのガリア遠征以降、パン製造技術は、ゲルマン人の侵入によって一度絶たれてしまった。4世紀後半になって、西ゴートがローマ人から発酵パンの作り方を教わり、さらにはゲルマン人にも伝わり、小麦は中世で最も重要な食材となった。しかし、ヨーロッパでは地域によるが、気候条件などから小麦の栽培に向いていない地域が多く、もっぱらライ麦などの環境条件の悪い地域でも栽培の可能な植物が栽培され、小麦は高級であった。そのため、小麦で作った白パンは贅沢物で、上層階級の食卓にしか並ばなかった。それに対し、ライ麦で作ったパンは黒っぽく庶民の味であった。中世初期において、パン焼きは修道院で行われていた。さらに、9世紀からは修道院の多くが風車を備えて粉挽きが出来るようになっていた。カール大帝の時代から12世紀末までパンを焼く窯が多く立てられたが、その建設権は領主が持っており、パン職人や一般市民は碾いた麦をその窯で焼くのであった。だから、パンを焼くだけでパン焼きの窯を使用した税金を払わなければならなかった。

中世のイタリアでは、小麦は非常に高価な材料であった。それでも、パンは都市でも農村でも主食となった。中世末にはブルジョワも白パンを食べことが出来るようになった。14世紀以降、パンの消費は増大した。それも、多くは小麦をふるいに掛けて作られた白パンであった。少しお金を持った市民たちは、自分たちのステータスとして、ワイン、肉そして、白パンを食べていたのである。後期中世には農民にも小麦のパンが普及したが、彼らは白いパンにはこだわらずに、混合パンなどを食べるようになった。イタリアでは、パンだけは庶民も貴族も階級関係なく食べられていた。この伝統は、今も変わらずイタリア国民は食べ続けている。一人一日平均230グラムは食べているそうである。

 

3.トウモロコシ

作物の収穫率が低く、気候不順などで頻繁に大飢饉が襲ったことは、前回ゼミ発表で述べたとおりである。16世紀後半から、その後2世紀の間、飢えはイタリアにおいて日常茶飯事となった。それは、政治の混乱をもたらしただけでなく、弱った体へのペストの猛威をもたらした。飢えからの救いは、トウモロコシの導入のおかげであった。始めは、一部の人々の畑で自分たちの分だけ栽培していたが、やがて、トウモロコシの持ち前の生命力で18世紀には、北イタリアを中心に広がっていった。しかし、前述してきたとおり、トウモロコシだけを食べてきたわけではない。小金持ちの市民は白い小麦パンを食べていたし、貧民は黒っぽい混合パンやソバ、トウモロコシの粉のパンで我慢していた。南イタリアにおいてはパスタも食べられていた。豆、ジャガイモ、栗を多く食べる地方もあった。いずれも、肉は金持ちの特権であった。農村では、せいぜいチーズや塩漬け肉が食卓に上っただけであった。経済状況は、19世紀末から20世紀はじめにかけてようやく改善されて、食生活もなんとか水準を上げることが出来た。ペッラグラ病を引き起こすトウモロコシの単食を離れ、より豊かでしかも伝統的な、小麦の種類が確保できるようになった。他の穀物は忘れられがちになっていったがパンとパスタはイタリアにおいて確実な地位を確立していった。

近年、イタリアにおいて料理の変質を危惧して、古きよき伝統料理を取り戻そうとする、スローフード運動が起こっている。中世からルネサンスにかけてのイタリアは、都市の世界であり、都市が周辺農村を支配するとともに、まとめあげ、文化を作り上げていった。宗教祭儀においても、農村は司教座のある中心都市に従った。だがその都市は、農村経済のベースであり、農民が常に出入りし、生活に必要なものをもたらした。しかも、都市の中には、かつては大きく緑が群生しておりその範囲も広がっていった。こうした都市は、自然と文化を同化させ浸透膜のように養分の相互流入を可能にしていた。だから、農民と都市民、民衆とエリートは互いに差異化を求め、模倣しあい、食の世界ではそのように発展してきた。

 

最後に

このように、今回イタリアを中心にまとめてきたが、やはりヨーロッパ全体とおきている事は同じで、その中における料理や食材が少しづつ違うだけである。しかし、その違いこそが現代の伝統料理となり、各国々の独自性を作り上げていったのである。ヨーロッパ中世において、最も転機となったのは戦争や紛争によって広がったペストであった。ペストの影響により、人々は生きるため食について考え、改良し続けてきた。そして、現代になって、そうして作り上げられた伝統料理を守ろうとする運動が起こっているのである。フランス、ドイツ、トルコ、イタリアを調べて、すべてに共通する事件は、飢饉と疫病の大流行であった。

 

参考文献

池上俊一著『イタリア』(世界の食文化 15)農山漁村文化協会、2003