中世都市の多くは城塞都市です。
城を中心とし、その周りに住居や店が存在し、一番外側を城壁が囲むといった
形です。
まわりに壁をめぐらせる関係上、大国でも直径1km程、普通の都市で300m。
地方都市などでは、100m程の小都市が数多くありました。
都市の中と外では、様相がガラリと変わります。
道路の整備も良くなく、交通手段といっても満足なものの無い時代において、
山賊の襲撃や、サラセン人の略奪など、城塞の外は様々な危険に満ちて
いました。
都市に住む人々の多くはその人生のほとんどを、その城塞の中でおくりました。
彼ら、都市の人間は商人や職人が主で、各種のギルドが存在しました。
その他の城塞の外に暮らす人達は小さな村落を作り、その多くは階級制度の
下層に位置する人々でした。
そして、その一日はというと、中世の朝はとても早いものでした。
夜明け前には皆起きだし、身支度を済ませてミサに行きます。
やがて、日の出と共に商店が一斉に開き、町は一気に活気つきます。
午前の軽い食事、昼のメインの食事をして、午後の昼寝をはさんで、午後6時の
日没の鐘とともに、1日の仕事が終わります。
人々は、軽い夕食を取りながら、今日1日の疲れを癒やしました。
夜9時には消灯の鐘が鳴り響き、家々の灯りは消され、城門は閉ざされて
町はつかの間の眠りにつきます。
私達がゲームや小説等で知る生活よりも、随分と不便な面や、衛生的に
不十分な所もありますが、その中で人々はたくましく、生を謳歌していたのです。
ここでは、そんな都市の様々な施設や、人々の生活習慣について見ていきます。
城
中世ヨーロッパの建物の多くは、防備を一番に考えられていました。
常に異民族の侵略の危険にさらされていたのはもちろんの事、領主同士の
争いや、森に住まう野生動物の驚異などから身を守るために、人々は様々な
施設に防御策をほどこしたのです。
その尤もたるものが、城でしょう。
中世初期の城は木造で、膨大な数の丸太を積み上げて作られた塔だけです。
一階部分は、食料等の倉庫にあてられ、二階が居住ないし籠城のための空間
にあてられていました。
城主もその家族も、従士達も、全て一部屋で生活していたのです。
もう少し時代が進み10世紀を過ぎると、部分的に石造りのものが登場しますが
本格的な石作りの城は、12世紀に入ってからとなります。
9世紀から13世紀にかけて、大規模な築城ブームがおこりましたが、
これは王権の衰退と関連があるのです。
王の力があてにならないとなれば、自分の身は自分で護らなければならず、
各地の領主達にとっては、当然の自衛手段でした。
しかし、王にとっては、それは反乱の危機を常に意識しなければなりません。
国内に余計な城があるということは、反乱が起きた時、立て籠もることが出来る
ということで、非常に面倒なことでした。
そのため、国王は勝手に城を建てることを禁止する旨の勅命を出したり、
不必要な城を取り壊したりました。
現存するヨーロッパの城の多くは、この当時に建てられたものですが、
その構造は、12世紀当時は天守(ドンジョン)を中心に同心円、もしくは内心円
に二重、三重に城壁を張り巡らせたもので、貝殻囲壁(アンサント・コキーユ)
と呼ばれました。
一番外側の城壁と二番目の間が外廓で、その部分に城塞都市にとっての市街
が位置します。
その後、城廓構築の新しい原理として、側面防禦(フランクマン)が登場します。
城壁に多くの塔を設け、その一つ一つが独立した要塞となる構造です。
それに伴いかつては城の心臓部であった天守は、次第にその役目を終えて
いきました。
その結果、城の姿は大きく変わっていくのでした。
城ー生活
石造りの城での生活は、陰気で惨めなものでした。
防御を最優先に作られているために、壁の厚さが3m〜4mもあったのです。
一見すると大きな城も、その内部は意外なほどに狭いものだったのです。
同様の理由から窓も極力小さく、窓を塞ぐものといっても、せいぜい油を染み込
ませて、光の透過率を上げた布を張る程度しかありません。
日本と違い、気候の変化が激しいヨーロッパの冬はとても過酷なものです。
城主は少しでも寒さから逃れるために、壁にタペストリを掛けたりして、冷えを
抑えようと努力したのです。
床には切り藁を敷き詰め、貴重品の収められた木箱が置かれ、これが椅子の
代わりになりました。
戦闘が起こる事を想定して作られている施設なのだから、いざという時に邪魔
になる余計な家具、調度品は置かず、食卓もあり合わせの台に適当な板を
乗せたものが使われました。
通気が悪いので城内の湿度は高く、床の藁は湿り、蚤や虱の温床となります。
その藁の上に布を敷いただけのものがベットだったのだから、当時の状況は
推して知るべきでしょう。
夜になると、壁にはたいまつや、ロウソクがかけられて、わずかの明かりを
灯しました。
当時、ロウソクは大変貴重で、ベットに入ると早々に明かりは消されたのです。
半年間ものヨーロッパの長い冬を、こんな環境の中で過ごしたのです。
男達は戦いも狩りもできない過酷な冬を呪い、暇つぶしにチェスをやっては
悶々と過ごすしかなかったのです。
女達はひたすら食料の管理と、糸紬ぎの他にはすることもなく、単調な日々が
続くだけでした。
そんな中で、時たま立ち寄る旅の僧侶や巡礼などの語る旅の話は、退屈に
息の詰まりそうな生活に彩りを与えてくれるものとして、大層歓迎されました。
教会
城のところでも述べたとおり、とにかく中世というのはあらゆる建物に対して
防備という観念が浸透していた時代でした。
死者の眠る墓地さえも、いざとなれば避難、防戦の場として機能するように
作られていたのです。
教会も然り、いや、それ以上に石作りの堅牢な姿は、神や信仰心とはほど遠い
異形のものでした。
まさしく、要塞教会と呼ぶのがふさわしいかも知れません。
巨大化した鐘楼は城の天守の役割をもちます。
そして、会堂の本体には矢狭間が作られ、窓は小さく壁は厚く、入り口も信者の
出入りが出来る程度の最低限の大きさしかありませんでした。
又、堂内には井戸が用意されているなど、明らかに籠城を想定した構造です。
9世紀、パリに建てられた僧院「聖ジェルマン・デ・プレ」には、濠、跳ね橋、防柵
外堡、望楼はもとより、地下牢や絞首台まで見られたのです。
ここまでの過剰なほどの防備は、何に対するものだったのでしょう。
もちろん、異民族の侵略に対してというのが最もたる理由でしょうが
その他にもこの様な理由もありました。
当時の寺院は立派な土地を持った領主でした。
宗教家ではない騎士の身分の者が、院長を務めた例も少なくありません。
そうなれば当然、他の領主との争いもあったでしょう。
又、収蔵されている貴金属の祭器などを狙っての略奪も度々起こりました。
民衆とて反乱を起こす可能性のある領民です。
教会の矢狭間が、しっかりと市内に向けられている光景は、なんとも
異様だと思いませんか?
酒場・宿屋
RPGをプレイする際に、仲間を探したり、情報を収集したりと、酒場は幾度と無く
お世話になるでしょう。
中世において酒場は宿屋も兼ねて経営されていました。
又、娼家を兼ねているものもありました。
このシステムは、ローマ帝国の流れをくんだものです。
酒場の看板にも、その伝統は受け継がれました。
葡萄の蔓や、アイヴィー(きづた)のしるしは、「良い酒がありますよ」という意味
をあらわしました。
古い酒場によく見られたのは、六芒星(ヘキサグラム)です。
三角形を二つ、逆向きに重ねた形で、ダヴィデの星と呼ばれるものです。
このしるしには、魔除けの効果があると言われていました。
又、酒場の娯楽に欠かせないものとしてゲームがあります。
当時盛んだったゲームに、ドラフツと呼ばれる物がありました。
アメリカでは、チェッカーズと呼ばれるゲームです。
市松模様の盤を使い、互いの駒を取り合うルールですが、この盤を模した
白と黒の格子柄の看板は、酒とゲームを象徴していたのです。
酒場は都市だけに見られたのではなく、小さな農村にもありました。
そのような村では、酒場は日用品などを扱うよろず屋も兼ねていましたし、
事あるごとの集会の場としても使われました。
宿泊の施設の宿屋としてみると、部屋はほとんどが相部屋でしたし、男女の
区別もありませんでした。
おまけに、寝るときには一切身につけずに裸で寝るのが習慣だったのです。
男性にとっては思わずニヤリとしそうな状況ですが、病気持ちの同性が
隣になる可能性もあるわけですから、喜んでばかりとは限りません。
衛生状態も不十分でしたから、ベットに蚤や虱がいるのは当たり前でしたし、
混んでくれば床に寝かされることもあったのです。
酒場のメニューには、食事らしいものはあまりなかったようです。
酒の種類としては、ワイン、ビール、地方によってはシードル(りんご酒)が
飲まれました。
肴の類いとしては、チーズかパンで、場所によっては大鍋で煮込んだ豆の
スープや焼き肉を揃えているところもあったようですが、基本は酒でした。
現代の日本人にお馴染みの、豊富なメニューの取り揃った居酒屋の
イメージとは、随分違う物だったわけです。
大学
中世において文字の読み書きや算術の出来るのは、ほんの一握りの人々に
限られていました。
そのほとんどは聖職に携わる人だったのです。
当時、学問を学びたいと思う者は、司祭などから教えを乞うわけですが
それは学問とよぶにはお粗末で、聖書が読める程度の読み書きや簡単な
算術ぐらいでした。
時代が進み12世紀になると、イタリアのボローニャやフランスのパリに大学が
建設されます。
当時の大学は教会の附属校から発展したしたものが多く、パリ大学ももとは
ノートルダーム寺院の附属学校でした。
パリ大学は人文、法律、医学、神学の四つの学部に分かれ、その内人文部は
教養課程にあたり、文法学(ラテン語)、修辞学(文学の読み書き)、論理学(哲
学)、算術、幾何学、天文学、音楽の計7科目を修めることにより、
専門分野へと進む試験を受けることができたのです。
専門課程に進む者は決して多くはありませんでしたが、この課程を修了すれば
教育者としての資格を持つことが出来ました。
又、さらに進めば教授としての資格がローマ法王から許されたのです。
この教授としての資格は世界中どこへ行っても通用する身分を保証されたものでした。
こうして、教会の管轄から始まった大学ですが13世紀になると教師と学生の
団結が強まり、相互団体(ユニバーシティ)の色合いが濃くなっていきます。
これにより、教会にとっては異端と思える研究や議論がなされたりし、教会との
関係は好ましくなくなりました。
関係の悪化とともに、教会側の大学への弾圧が始まったのです。
大学は自由な学問をめざし、自治権を主張して闘いました。
結果は大学側の勝利でした。
この後、14世紀以降に続々とヨーロッパに建てられることになる大学の多くは
パリ大学を模範したものです。