20130111 ボクボカ番外編「千本桜騒動に見るミク原理主義」 
今回は番外編です。
ニコニコミュージカル「千本桜」の初音未来役はAKB48の石田晴香さんと発表された時のツイッターの反応について所感をまとめておきます。
とりあえずミュージカルに関しての概要を貼っておきましょう。朝Pによる記事です。
ミク役にAKB石田晴香 ミュージカル千本桜、3月公演
配役の発表後、ツイッターではトレンドに「千本桜」や「黒うさP」など関連ワードが並ぶ盛況ぶり。何事かと確認してみれば、「千本桜はもともとAKBの曲」とツイートした人に対する炎上騒ぎであって、配役発表に対してではありませんでした。
炎上主は「あはは釣れた釣れた」の釣り師である以上、このツイートに対する突っ込みや詮索は無意味であります。しかし炎上を抜きにしても、嫌悪感や不快感をむき出しにしたツイートを多く目にしました。これは2chでも同様です。
今回の騒動はボカロファンの何を脅かしたがために、嫌悪や不快を感じさせたのか。
脅かされたのは「初音ミクはみんなのもの」というテーゼです。ボカロシーンの絶対的テーゼが、外部からの強大な力によって侵されてしまうのではないか。今回の場合の外部は、AKBや秋元氏やドワンゴや電通です。たしかにボカロと相性が良いとは言えないので、嫌悪や不快は理解できます。
しかし外部からの企業案件に対してはクリプトンジャッジがあるわけで、今回の「千本桜」も当然ながらジャッジを通ったものです。クリエイターに利益がきちんと還元されるのなら、クリプトンは大筋で問題ないと判断するでしょう。一度OKしたら、余程のことがない限り中身には口は出さないでしょう。
もちろんクリプトンのジャッジがすべて正解ではないでしょうが、今回は双方が合意しているのですから、テーゼが脅かされたからといって、一方的にAKBなどをディスっていいわけがありません。それに具体的な実害が出ているわけでもない。
他にもツイートを読んでいると、「千本桜に対するイメージが壊れる」とか、「人間がミクを演じるべきではない」とか、色々と不平不満はあるでしょうが、それらを言い出すとすべての二次創作行為を否定することになってしまいます。テーゼと表現の自由は並び立たなければなりません。
今回はどう考えても、ボカロ側が過剰に反応しすぎです。落ち着きましょう。
それよりも今回の騒動で、僕が本当に気にかけることは、ツイートや書き込みに漂う「俺たちだけがミクの理解者なんだ」といった『ミク原理主義』に対してです。
これは今に始まったことではないし、オタク的心性としてありきたりな流れですが、年々洒落っ気がなくなっていく。もともと「なんでもあり」だったのが、「あれは許す、あれは許さない、絶対にだ」になっていく。「AKBのすべては操られている。操られている奴らは馬鹿だ」は「俺たちこそ真実を見通せるミクの本当の理解者」に論理展開していく。
あのー、真実って何ですか? 本当って何ですか?
個人的な好き嫌いはあるでしょう。僕もあります。好きな曲と好きではない曲がある。でも「好きではないから間違っている」とは思いません。単に聴かないだけです。
ニコニコミュージカルが好きではないなら単に観なければいい。AKBが嫌いなら話題にしなければいい。話題にされないことは広告屋にとってビジネス上の大失敗ですからダメージ大です。それだけでいいのに、なぜか「糾弾と主義主張」をセットにして大声で叫ぶ。ここぞとばかりに大きな顔で叫ぶ。
初音ミクファンというかオタクはとても”ピュア”です。”ピュア”であるから「間違いは許さない」といった正義感がとても強い。これが純化していくと「パクりは絶対に許さない」になる。
多くのひとが何度も言及しているように、無から何かを作り出すクリエイターは世の中に存在しません。創作をしたことがない人が大きな顔で大きな声で「パクり」だと騒ぐ。
どうしても「パクり」でクリエイターを批判したいのなら「濃厚にパクっているにも関わらず、元ネタには到底およばない」と言えばいい。
センスのなさを糾弾されるとクリエイターは折れます、しかし批判する側もセンスが試されることは言うまでもありません。批判する側の言説も「パクり」の範疇にあるのだから当然です。大きな声にはそれなりの覚悟が必要です。
その覚悟も思慮もなく、安直な「ミク原理主義」を振りかざし、大きな声で他を糾弾して大きな顔をしていられるのが現在のボカロシーンです。
嫌悪や不快の元凶はAKBや電通ではありません。身内です。
こちらが原理主義過激派になります。
千本桜を金で売ったのは黒うさP様とクリプトン様ですぅ〜〜〜
オタクは黙って金を落とせばいいですぅ〜〜〜〜〜
そんなオタクの本質が出てきただけのこと