この問題は、これまでたびたび提起されてきた。わが国では特に90年代以降、さまざまな形態のディスカウントショップが広まったこと等を背景に、消費者物価指数(CPI)が上方バイアスをもっているのではないかとの疑問が呈されている。また、アメリカでも、ボスキン(元ブッシュ大統領の経済アドバイサー)らのパネルが昨年議会に提出した報告書(Advisory Group to Study the Consumer Price Index(1996))のなかで、CPIは年率1.1%程度の上方バイアスをもっていると指摘し、議論となった。他のアジア諸国に関しては、これまでのところ、物価指数の信頼性に関する研究はほとんど見られないようであるが、日米における指摘にかんがみれば、アジア諸国における物価指数の信頼性についても、十分な吟味が必要であろうと思われる。
物価指数は、いうまでもなく、最も重要な経済指標の一つである。その安定は、経済政策の重要な目標であり、また社会保障給付等の物価スライド制を通じて、財政支出に直接影響を及ぼす。賃金交渉においては、物価見通しが重要な役割を演じることはいうまでもない。さらに、物価指数は、実質成長率等、各種統計資料を作成する上での基礎ともなっている。したがって、仮にCPIに上方バイアスがあるとすると、さまざまな問題が生じうる。例えば、金融政策が過度に引き締め気味となりかねない(ただし、実質成長率が過小評価される結果、緩和方向にバイアスがかかる可能性もある)。また、賃金が公表CPIに基づいて決定される結果、賃金コストの上昇を通じて現実経済にインフレーション・バイアスを生む可能性も考えられる。
そこで、本稿では、消費者物価指の信頼性について、わが国やアメリカで指摘されている問題点を整理し、さらに、アジア諸国における物価指数の信頼性について、フィリピンおよびインドネシアのデータをもとに、若干の考察を試みることとする。
CPIが上方バイアスをもつ原因としては、上述のボスキンらの報告書が主に以下の4点を指摘している。これらは(少なくとも定性的には)日本のCPIについても同様に妥当する。
(1)CPIは、マーケット・バスケットを基準年で固定している(ラスパイレス指数)ため、安いものを多く買うという代替効果が反映されない(代替効果バイアス)。
(2)安売り店での購入がより頻繁になったとしても、CPIにはそうした店舗間の代替効果が十分に反映されない(ディスカウント店バイアス)(1)。
(3)新製品等によって出回り品に変化が生じた場合、価格調査の対象となる銘柄の変更が行われるが、その際の品質変化を十分に調整することができないため(2)、価格の上昇を過大評価してしまう(品質向上を過小評価してしまう)(品質変化バイアス)。
(4)CPIの品目は、数年に一度の基準改定時にのみ追加・変更されるため、新製品が出てもCPIに含まれない、もしくは、ラグをもってしか含まれない。この結果、新製品が登場してから数年間のうちにしばしば生じる大幅な価格下落がCPIに反映されない(新製品バイアス)(3)。
しかし、これらの要因が、定量的にどの程度のバイアスをもたらすかは、議論の分かれるところである。まず、アメリカについては、上述のように、ボスキンらが、CPIの上方バイアスを年率1.1%程度(0.8%から1.6%)と推計しているが、これに対しては、BLSの反論(Dean Baker(1995))がある。これによると、
(1)代替効果によるバイアスは、比較的小さい(年率0.1%から0.2%)。
(2)ディスカウント店で販売されているものの占める割合は小さい(15%程度)。
(3)品質変化については、上方バイアスだけではなく、下方バイアスをもたらす場合もある(特に、サービスの悪化等が物価指数に反映されない場合)。
(4)新製品が一般に普及するのは、価格が低下してからであり、その前の価格下落はCPIに反映させるべきではない。
こと等が主張されている。さらに、BLSは、健康保険費用、個人向けビジネス費用(弁護士費用等)、生活の質を維持するための費用(例えば、安全な地域に住むための費用等)等がCPIに適切に反映されていないことは、むしろ下方バイアスをもたらしている可能性があり、CPIが上方バイアスをもつという指摘は、ほとんど根拠がないと主張している。確かに、代替効果以外のバイアスについては、定量的な把握が困難であり、ボスキン報告は必ずしも説得的とはいえない。
次に、わが国のCPIはどうだろうか。90年代前半における、ディスカウント店の急速な普及は、比較的大きな上方バイアスをもたらした可能性がある。また、例えば携帯電話が平成7年基準のCPIに含まれていないことは、7年以降のCPIの動きに若干なりとも上方バイアスが含まれる可能性を示唆している(4)。しかし、こうした例示はあくまで部分的なものであり、包括的にバイアスの程度がどの程度であるかを実証するのは、容易ではない。白塚(1995)は、指数算式(これは、上述の品目間の代替効果に起因する)によるバイアスを推計し、固定基準ラスパイレス指数は、連鎖基準トゥルンクヴィスト指数及び連鎖基準フィッシャー基準に対して、それぞれ年率0.3%、0.2%の上方バイアスを有していると推計している。また、これ以外のバイアスについても、様々な指摘がなされているが、その定量的効果は明らかにされていない。
ボスキンらの報告書は、現在のアメリカ経済のように、新製品や新しい店舗が次々と登場し、ダイナミックに変化していく経済では、正確なCPIの測定はより困難になると主張している。それでは、アジア諸国の物価指数の場合はどうであろうか。アジア諸国における物価データの不足、あるいは、統計作成プロセス自体に関する情報の不足にかんがみれば、この問題に直接答えることは容易ではない。本稿では、まず、フィリピンのデータを用い、指数算式の違いがどの程度CPI上昇率に差異をもたらすかを見ることとする。次に、先進国においてはあまり注目されていない点ではあるが、途上国の物価情勢を判断する上で、重要な論点となりうる、物価の地域間格差について、フィリピンとインドネシアのデータをもとに考察する。
(1)指数算式による差異
品目間の代替効果によるバイアスをとらえるためには、本来、個別品目ごとに、各年の支出ウェイトを用いて物価上昇率を推計することが望ましい。しかしながら、データの入手可能性を考慮し、ここでは、戦後マニラのCPIの基準年である1955年と1965年の2時点のデータを用い、この10年間に、5大費目別のウェイトの推移がどの程度CPIにバイアスをもたらしているかを検証することとする。(表1)
まず、CPIで採用されているラスパイレス指数によると、10年間の平均上昇率は3.45%であるが、これを、パーシェ指数で算出しなおすと3.24%であり、ラスパイレス指数よりも約0.2%ポイント程度低くなることがわかる。さらに、トゥルンクヴィスト指数を用いて算出すると、3.22%と、わずかであるが、パーシェ指数よりもさらに低くなる。5大費目分類を用いた大雑把な試算であるため、日米の先行研究との直接的な比較は困難であるが、この試算から見る限り、固定ウェイト(ラスパイレス指数)を用いていることによるバイアスは、やはり無視できないものと思われる(5)。
(2)地域格差
途上国の場合、交通・流通網が十分に整備されていないこともあり、地域別の物価格差は先進国に比べて大きいものと思われる。したがって、一国全体の物価水準を測定するためには、できるだけ多くの地域の価格情報を収集する必要があるが、実際には、一部地域の価格のみが収集されているケースも少なくない。実際、戦後フィリピンでは、マニラのCPIは1949年以降存在するが、全国指数が作成されているのは、1957年以降に限られる。こうした場合、仮に一部地域の指数の動きで全国の動きを代表させると、実際の全国平均の動きとはかい離してしまうおそれが生じる。そこで、これまでに入手できたインドネシアとフィリピンの地域別データを用いて、地域格差の程度を見ることとしたい。
まず、表2は、1964年1月から1967年1月のインドネシアの4地域別生計費指数について、各年の4地域単純平均値を100として各地域の物価水準を比較したものである。これによると、最低地域と最高地域との格差が20から40程度あり、かなりの水準格差があることがわかる。表3は、比較のため、1992年から1995年までの日本の10地域別消費者物価地域差指数(持ち家の帰属家賃を除く、全国平均100)を見たものであるが、最低と最高との差はせいぜい9程度となっている。インドネシアにおける地域格差はやはり大きいと言えるだろう。
ただし、地域別の水準格差が大きいことは、物価上昇率についても同様に大きな較差があることを必ずしも意味しない。フィリピン(1957年から1963年)、インドネシア(1964年1月から1967年1月)、日本(1991年から1996年)の地域別CPIの平均上昇率(年率)をみると(表2,3,4)、むしろ日本のほうが、若干格差が大きい。したがって、水準格差に比べれば、上昇率格差は平均してみると比較的小さいと言える。仮に上昇率格差が小さい場合には、一部地域の価格情報に基づいて作成されたCPIについても、一国の物価の平均的な動きとして、ある程度信頼できるかもしれない。
本稿では、消費者物価指数の信頼性について、これまでの日米における議論を踏まえた上で、フィリピンとインドネシアについて、若干の検証を行った。限られたデータからではあるが、CPIが固定ウェイト(ラスパイレス指数)を採用していることによるバイアスは無視しえないこと、地域別格差については、水準格差は大きいものの、長期的な上昇率格差は必ずしも大きいわけではないという結果が得られた。もちろん、現在のところ、限られたデータしか入手できておらず、本稿での分析結果は、あくまで暫定的なものである。今後さらにデータの収集に努め、CPIの信頼性について、さらに検討を加えていくべきことは、いうまでもない。その際には、サンプリングの方法やデータの取り方等、価格調査にまで溯った信頼性の検討が重要であろう。
フィリピン Central Bank of the Philippines, Statistical Year Book, 各年版。
インドネシアBank Indonesia, Report for the financial year, 各年版。
日本総務庁統計局『消費者物価指数年報』各年版。
Advisory Group to Study the Consumer Price Index (1996), "Toward a More Accurate Measure of the Cost of Living," Final Report to the Senate Finance Committee.
Dean Baker (1995), "The Inflated Case against the CPI," The American Prospect no. 24, pp.86-89.
経済企画庁物価局(1997)『物価レポート'97』.
白塚重典(1995)「消費者物価指数と計測誤差−その問題点と改善に向けての方策−」『金融研究』第14巻2号、pp.1-45.
総務庁統計局(1996)『平成7年基準消費者物価指数の解説』.
(ほその・かおる 一橋大学経済研究所助教授)
(1)日本の小売物価統計調査では、各調査地区内で、各品目の販売数量または経営規模の大きい順に、所定数の小売店舗が選定されている(総務庁統計局(1996))。したがって、ディスカウント店の販売数量が増加しても、販売シェアが一定順位以上にならなければ、調査対象店舗とはならない。
(2)日本のCPIでは、調査銘柄が変更された場合、新旧銘柄間で品質及び容量等に差がない場合は、新旧銘柄間の価格の違いがそのまま指数に反映され、新旧銘柄間に明らかな品質差が認められる場合は、指数は一定に保たれ、新旧銘柄間の価格の違いは指数に全く反映されない(総務庁統計局(1996))。したがって、品質変化と、純粋な(品質調整済みの)価格変化が同時に生じている場合には、必ずしも適切な処理が行われているとはいえない。
(3)日本の小売物価統計調査では、家計調査の結果から年間の支出金額が消費支出総額の1万分の1以上となるものを基準として約520品目・810銘柄の価格が調査されている(総務庁統計局(1996))。
(4)現行(7年基準)CPIの「電話機」は家庭用の電話機(コードレス留守番電話機)であり、携帯電話は含まれない。なお、経済企画庁物価局(1997)によれば、携帯電話の店頭価格は、94年の約109000円から96年の約28000円へと2年間で74.4%低下しており、ヘドニックアプローチを用いて品質面の向上分を考慮すると、さらに10%ポイント以上下落していると試算されている。
(5)日本のCPI(持ち家の帰属家賃除く)の基準年である1990年と1995年の10大費目別データを用いて、同様の試算を行うと(表1)、パーシェ指数やトゥルンクヴィスト指数のほうがラスパイレス指数よりも若干高い。これは、比較的価格上昇率の高い住居の支出ウェイトがこの5年間に増大していること等による。なお、総務庁統計局(1996)は、個別品目別に、各年のウェイトを用いてパーシェ指数を作成すると、1990年から1995年の年平均上昇率は1.210%であり、ラスパイレス指数(1.248%)よりも低いことを報告している。これは、個別品目別に見た場合には、代替効果が働いていることを示唆する。