先日、例によって、匿名アカウントの方からツイッター上でなんとも無礼な言及をいただきました。
そんなことはよくあるのでブログに書くほどではないのですが、発言主のツイートを辿ってみると、2日ほど前に「人間としての礼儀がなってないやつはダメだよね」と真面目にツイートしていたんですよ。
「いやいや、礼儀がなってないのはどう考えてもあんただろ!」とひとりで突っ込んでしまいました。
攻撃する人は自分自身のあり方に鈍感になっていく
攻撃的な人って、自分自身が普段「正義」の側に立って人を裁きつづけているがために、自分自身のあり方に対して、鈍感になっていくのでしょう。
人に暴力を振るうときに「おれが悪いんだ…ごめんな」と思って殴りつける人はそうそういません。彼はつねに「おれが正しい!」と思いながら、人に暴力を行使するわけです。自分の不完全な部分、不正義に目を向けることをせずに。あまりに鈍感になっているので、もう気がつくことができないのでしょう。
僕に対して無礼なメッセージを投げつけてきたその人も、まさか自分が「礼儀がなっていない」とは毛頭考えたことがなさそうです。
彼は「匿名で発信していること」を無礼な発言を行った言い訳にするのでしょうけれど、本当に自己批判の目を持っていれば、そもそも匿名で誰かをけなすなんてことはできないはずです。
しかし「礼儀がなってないやつはダメだよね」とは、なんとも傲慢で鈍感な発言なんでしょう。どんだけ完ぺきな人間のつもりなのやら…。
関連して、NPO法人NEWVERYの山本さんのツイートが印象的です。
暴力と言えば、その中2の出来事以来、1度だけ人を殴ったことがある。大学生の時、トイレで因縁をつけられ、殴られた。相手は30代後半だった。それは根拠のない因縁だということを言葉を尽くして説明したら、分かったと言ってくれて「じゃあお前も俺を殴れ」と言われた。
— 山本 繁さん (@YamamotoShigeru) 1月 9, 2013
「いや、いいですよ」と一度は答えたが、どうしてもと言うので、右ストレートを一発。それで仲直りだったが、そのなぜか虚しくて、帰り道に公園に寄って一人泣いたのを覚えている。殴られ、殴り返し、それで一体何になるのだろう?プラマイゼロ?ばかばかしいだろう?
— 山本 繁さん (@YamamotoShigeru) 1月 9, 2013
本当に繊細な人は、人に暴力を振るうことで、何よりも自分にダメージを受けてしまうのかもしれません。僕も人を殴ったら、説明できない不快感に駆られそう。
もうひとつ関連して、内田樹先生の「呪いの時代」を思い出しました。
麻薬中毒者がより強い刺激とより多くの投与量を欲するようになるのと同じく、呪いを吐く人々も、その言葉をいっそう激烈なものにしてゆくようになります。
症状がさらに進むと、攻撃したり、破壊したりする必要がどこにあるのか誰も理解できないものに対してさえ、「誰かがそれを大切にしている」という理由だけで標的にして、唾を吐きかけ、踏みにじらずにはいられなくなる。
呪いを発する人間の末路は、だから麻薬中毒者と同じように哀れです。攻撃的な言葉は相手の生きる気力を奪うだけでなく、それ以上に、自分の生命力も傷つけるからです。他人への呪いというのは、自分にも必ずはね返る。
内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
殴れば殴るほど、自分の異常な部分がふくれあがっていく。それに気付くことができない鈍感さも、同時に肥大化させていく。
彼への恐れから多くの人は黙り込み、まともな人は周囲から逃げ出していく。彼に対して批判をする人はいないので、彼は自らの正しさを、殴れば殴るほど確信していく。
——異常な暴力教師なんかは、こういうプロセスでできあがっているのではないでしょうか。彼らは自分が正しいと信じ込んでいそうで、恐ろしいです。
僕もときおり攻撃的な記事を書くのですが、そのたびに、自分が鈍感になっていっている気がして、けっこうビビっております。かといって周囲の空気を読んで、優しいだけの人間になるのもまた違うので、なんとも難しいところ。強い主張をする際には、自己点検を怠らずにいたいものです。