プロフェッショナルインタビュー
スタートアップの瞬間 Vol.8
株式会社電通
クリエーティブ・ディレクター
岸 勇希
第3章
メディア論を学び、自分では考えもしなかった電通へ。
既存のルールやシステムと戦う日々の幕開け。
情報通信の大学院から、どうして電通への就職に至ったのですか?
大学院でメディア論を学んだことがきっかけだと思います。この頃、世の中的には森首相のもとでIT革命が叫ばれ、地域情報化が急速に進んでいた時代でした。ただ実際には、情報のハード整備ばかりが先行する、いわゆるハコモノ行政でした。「ハードではなくソフトを提供しなければ地域は活性化しない」ということが僕の仮説であり、修士論文でした。
実施には、沖縄県の嘉手納町に造られたマルチメディアセンター、最新の情報設備を備えながら、あまり使われていないこの施設を使って、小学生や中学生と一緒に、地域をテーマにしたドキュメンタリー映像を制作。この活動が参加した子供たちや地域にどのような効果をもたらすのかについて研究を行いました。
ここで判明したのは、地域を題材にしたドキュメンタリー制作をすることで、ITリテラシーやメディアリテラシー、そして地域への愛着までもが格段に上がるということでした。子供たちが制作したドキュメンタリーの上映会には、なんと800人もの地元の方々が集まったのです。「ハードでなくソフト」が、はじめて情報化の価値を開花させた瞬間だったと思います。
この実践で修士論文を書き上げ、もっと研究を続けたいと思うようになりました。そこでこの嘉手納町プロジェクトにドキュメンタリーの制作指導でご協力を頂いていた松野 良一※先生(当時TBS)が、中央大学へ移籍されるのをきっかけに、自分も専任研究員として中央大学研究開発機構へお世話になることになりました。結果的にはわずか半年でしたが精力的に研究をさせてもらいました。
この頃、松野先生から、「メディア論をやっている人は日本ではまだまだ少ない、でも、学術の人はメディアを見られないから、本当にこの分野を極めたいならメディアの現場に出てみるのがいいと思うよ」とアドバイスをされたのです。
でも確かに、至極まっとうなご意見ですよね。
正直、当時はあまりピンとこなかったんです。松野先生は、NHKか電通はどう?とすすめてくださったのですが、NHKは知っていても、電通は「広告?興味ないなぁ」。くらいにしか思っていませんでした。それでも、先生を信頼していたので、そこまで言ってくださるなら受けてみようと。
あとは、人生で一度くらいサラリーマンというものもいいかもしれないと思っていました。生意気な話ですが、自分で仕事をしていたこともあって「給料は払うもので、もらうものではない!」などと言ってる学生でしたが、大学院で一緒だった社会人の同級生、みんな年は10以上上でしたけど、その人たちの考え方や仕事がとても大きく、魅力的に感じられたことも影響していたと思います。
結果的に電通に縁ができたのですね。
特別知識もなかったので、NHK行くならドキュメンタリーがやりたい。NHKスペシャルを手がけたい、と思いました。ただ実際に調べてみると「最低でも10数年はかかるよ」と言われたりで早くも心が折れました。一方電通では、松野先生の友人でもあり、今の上司である細金 正隆※さんに「ネット系なら、電通にとってもこれからの分野だし、早い段階から現場で活躍できるはずだ」と言われ、それなら電通だ!と一気にテンションが上がり、ネットの会社くらいの認識でそのまま入社してしまいました。
ところがここでまた、人生の不条理にぶつかるわけです。
インターネットを専門に仕事をすると思い込んでいた僕に告げられた配属は、名古屋支社の雑誌部という場所でした。
言うまでもなくそこは全くインターネットと関係ない世界。今もしっかり覚えていますが、新入社員研修中の面接で、「インターネットが得意なんだ、じゃぁしばらくやらなくていいね」と・・・ホントなんて無茶苦茶なロジックだと憤りました。実は一度辞表を出したほどで、ここでも怒りと絶望を味わっています。とはいえ暴走しそうだった僕を止めてくれた人もいて、メディアのことがやりたいなら、とりあえず行って見てくればいいじゃないかと助言してくれました。加えて両親と同居して親孝行ができるのもこれが最後かも、という想いもあり、結局しぶしぶ6年ぶりに名古屋に戻ることになったんです。
またまた、自分で司ることができないシステムに翻弄されたんですか!
そうですよねぇ。本当にクサりました。なんでこうも人生の節目で思い通りにならなのか・・・。でも実はこの時はそれまでの挫折とは少し違いました。劣等感も敗北感も凄まじかったですが、大学受験の失敗と同じだとすれば、努力すれば必ずまた浮上できると、不思議と自分を信じていました。
そして、この逆境を楽しもうと決めた瞬間、名古屋での雑誌部の仕事が面白くなりはじめまたのです。
初年でも、企画提案ができたのですか?
今でも、東京配属だった方が自分には合っていたし、活躍できていたと思っています。会社は判断ミスをして損をしたと確信しています(笑)。でも名古屋でよかったかも、と思うこともいくつかありました。一番は自由度が高かったということです。実際1年目からかなり好き放題仕事をやらせてもらいました。日本で最初にQRコードがついた雑誌を作ったり、雑誌の映画予告企画からQRコードで映像の予告編が見られるようにしたりと、雑誌部でありながら、自分の得意な領域の企画を勝手に提案、いくつも実現させてもらいました。ちなみにもし初期配属が東京本社だったら、組織が細かく分業されているうえに人数も多く、新人ができることなんて限られていたと思います。圧倒的に人数が少ない名古屋だからこそ出来たことだったのかもしれません。こうして空いた時間に自主的に書いた企画書は1年目に100本を超えます。今も思い出として大事にデータで保存してあります(笑)。
100本はすごい! そのバイタリティには感服します。
もう十分伝わっていると思いますが、僕の人生は敗北の歴史です。名古屋配属が決まったときにもずっと同期に対する “敗北感”がありました。何度味わってもまた訪れる、敗北感と劣等感。自分の図り知らぬところで自分の運命が決められていくことの不条理さ。それを飲み込む悲しさ。本当にうまくいかないことばかりでしたが、それでもこういう経験を重ねるうちに自ずとタフになっていったんだと思います。
こうして僕が手に入れた才能が、どんな環境でも腐らず、楽しみ方を見つける能力でした。今この力は常に僕を支えてくれています。この才能に本当に感謝しています。少なくとも今はそう思えるようになったんだと思います。大学時代も名古屋時代も、ダークサイドではあったけれど、最初の重苦しい時期をなんとか切り抜けたあとは、すごく充実し、楽しかったこともまた事実でしたから。
逆境をも楽しむ力で、道を切り拓いてきたのですね。名古屋では約3年間、雑誌部から東京での研修をはさんでフルメディアの担当になり、いよいよ東京に戻られた。
名古屋で面白いことをやっているやつがいると話題になったことは確かです。「マリエール」という結婚式場のキャンペーンは、当時としては珍しいテレビCMとWEBを組み合わせたもので、高い評価をいただきました。
ようやく東京に戻り、最初は、さとなお※さんの下で仕事をさせてもらいました。とにかくがむしゃらに仕事をしました。その後のステップは、自分がやった事例で次の事例を作る、という形です。この会社は、面白いことをしているやつのまわりには必然的に人が集まってきます。自ずと面白い案件も集まってきます。ただ僕の場合は、「好きな物を作ってほしい」と言われるのはとても苦手でした。今も苦手です。解決すべき課題がないと、パニックになります(笑)。別に自分が作りたいものなんてないんです。僕は課題を解決する仕事が好きなんです。
2008年に『コミュニケーションをデザインするための本』を執筆することになった経緯を教えてください。
ありがたい話ですが、この頃から宣伝会議のセミナーや大学での講演が非常に評判になりました。自分の事例や考え方が評価されることが本当に幸せでした。そこでもう少し自分でやってきたことを理論的にまとめなおしたいと思うようになりました。実際いくつかの出版社から執筆のお誘いなんかも頂いていて、そのことを会社に相談したところ、じゃぁ他じゃなくてウチで出版して、という話になったんです。悲しいことに、印税、執筆料、原稿料、もちろん全てなしでという条件まで課せられてですが(苦笑)。
執筆を決意した理由は他にもありました。まずは、自分の考え方がなかなか理解されなかったということ。事例は積み上げてきましたが、所詮事例としか見てもらえず、僕個人の特有なやり方としか評価してもらえませんでした。
僕にとってコミュニケーション・デザインは、自分だけのものではなく、誰もが応用可能な、普遍的なものでした。だからこそちゃんと体系化して、①ロジカル、②複眼的に、そして③効果的にプレゼンテーションしたくなったというのが本音でした。
また、少し話しがずれますが、電通でクリエーティブになるためには通常は試験を受ける必要があります。ただ何故か僕はたまたま試験なしでクリエーティブの組織に異動することになりました。その時点では極めて珍しいことで、非難を受けうることも少なくありませんでした。個人的には非難を受けること以上に、自分自身が違和感を感じていました。そもそも自分の領域を”クリエーティブ”とカテゴライズしていいのだろうかと。そもそもコミュニケーション・デザインとは、あらゆるコミュニケーションを一元的かつ統合的に考えます。広告でさえも、人を動かすためのひとつの手段でしかないと考えます。ですから従来型の細分化された組織に自分が属すことにとても抵抗がありました。本質的で創造的、でも決してこれまでと同じカテゴリーでは割り切れない、新しい”クライアントファースト”の考え方を自分の事例のみでピュアに示したかったのです。
反響はどうでしたか?
おかげさまで、広告の専門書としては異例の3万部を突破しました。しつこいですが印税は全て会社です(笑)。そしてこのころから風向きが変わりはじめました。多くの人たちが応援してくれるようになりました。変な話ですが、電通の外部の人が、当時の電通に対する不安や不満を解決してくれていると言って、応援してくれました。
電通という会社は面白い会社で、よくも悪くも統一した考え方がありません。個々に理念やら信念やらをもって動いているので、強い個が出て主張をすると、誰かしら耳を傾けてくれます。いつしか「この考え方もありかもしれない」とコミュニケーション・デザインはようやく市民権を得られるようになったのです。
ただ、業界以外にも広まった現在では、本質的なことを理解しないでわかった気になった人も多いですし、むやみやたらに言葉が一人歩きすることは危惧しています。それでさえも、発信しなかったよりはしてよかったと思えるのは、今の広告にまつわる色々な意味での既得権益や、既存のやり方にメスを入れられたことではないかと思っています。
岸さんはずっと、既存のシステムや、不条理について戦いを挑んでいるように見えます。
フェアじゃないのがすごく嫌で、既得権益構造になっている状態は改革しなきゃと思うんです。自分の見えないところに”神の手”があるようなことも嫌です。きっとセンター試験の恨みだと思います(笑)。もちろん人によっては僕が受けてきた不条理なんて、大したことじゃないと思うんでしょうが、それでも僕にはどれも大きなものでした。正直性格にも影響を与えています。そんな不条理に付きまとわれながら生きてきたことで、いつのまにか、挑むこと、環境に屈せず自分を進化させていくこと、破壊と再生を繰り返していくことを無意識でやるようになったのだと思います。「泳いでいないと死ぬ」サメみたいなもんだと思います(笑)。戦っていないと死んでしまう。いいとか悪いとかじゃなくて、そういう設計になっているのだと思います。
- ※松野 良一…
- 中央大学総合政策学部教授。朝日新聞社記者、TBS報道局ディレクターなどを務め、マルチメディア・プロデューサーから研究者へ。専門はメディア論、ジャーナリズム論、メディア表現教育。
- ※細金 正隆…
- ネット黎明期から電通の第一線で企業広告などを担当。現在、コミュニケーション・デザイン・センター エグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクター兼モバイルコミュニケーション開発部長。
- ※さとなお(佐藤 尚之)…
- ツナグ代表、公益社団法人「助けあいジャパン」会長。電通を経て、次世代ソリューションを扱うコミュニケーション・ディレクターとして活躍。1995年から「www.さとなお.com」を立ち上げ、エッセイストとしても著名。