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プロフェッショナルインタビュー

スタートアップの瞬間 Vol.8

株式会社電通
クリエーティブ・ディレクター

岸 勇希

岸 勇希さん

第2章
人生の不条理を味わい、ダークサイドに堕ちた学生生活。
その過程で痛感した「3つの大切なもの」とは?

パワフルな岸さんですが、どんな子供時代を送られていたのでしょうか。

名古屋で生まれ、19歳まで名古屋で育ちました。家族は皆、とにかくよくしゃべる明るい家庭。そりゃ僕もよくしゃべるようになりますよね(笑)。幼いころから、僕がやりたいと望んだことは、できる限りやらせてくる両親でした。ありがたかったのは、なんでもわがままを叶えてくれたということではなく、常にその対価と責任を求められてきたということ。それは幼いころから徹底されていました。たとえば、小学校の低学年だったと思います。車で出かけた先で、なにかしら親と喧嘩をし「お金さえあれば一人で家まで帰れる」とダダをこねた僕に対して、「帰れるなら、帰っていいよ。じゃぁね。」と、お金を渡され車を降ろされたことがありました。自分で言ったことは、自分で責任を取らなくてはいけない・・・。泣きながらバスと電車で家まで帰り着いたそうです(笑)。
自由と選択、それに伴う責任については、徹底的に叩き込まれたと思います。元々商売人の家系で、親戚の多くが中小企業の経営者で、サラリーマンが一切いない環境でした。そういう環境で育ったことも今の自分には資産になっているような気がします。
ちなみに車のエピソード、大人になってから知ったんですが、実は心配で仕方なかった父が、僕に気付かれないようにこっそり後ろから尾行して、家に着くまで見守っていたそうです。ちょっと笑えますよね。うちの親らしいエピソードです。

それは微笑ましい。その頃、将来の夢などはありましたか?

子供のころからずっと、研究をしたり、考えることが好きでした。だから当時の夢は、海洋生物学者か昆虫学者でした。実家には、自分が絵を書いて作った図鑑が今も残っています。今思うと、あの頃から、物事を考えて体系化することをやってたんだなぁと思います。
自分で言うもの謙虚じゃありませんが、昔から考えるスピードには自信がありました。あとは複雑なものを図式化したり、整理して人に伝えることは得意です。逆に、集中力を維持すること。じっくり物事に取り組むこと。こつこつ記憶することなどは本当に苦手でした。今も苦手です(笑)。小さな頃から自分の得意、不得意なことはある程度判っていたような気がします。

今にも通じる強みですね。ほかに、岸さんが夢中になっていた事柄や、打ち込んだ部活などはありましたか?

昔からせっかちで、飽きっぽいことを親に指摘されるような子供でした。ただ、いろいろなことを吸収するのは早く、いわゆる器用貧乏でした。勉強でもスポーツでもだいたい2番。飽きっぽいために、夢中になってもすぐに飽きてしまう。不思議と1番がとれないことに対するコンプレックスはありませんでしたが。
小・中学時代はバスケットボールをやっていましたが、その後、中学からは競技ヨットを始めました。高校時代には国体の強化チームに入って、ユースの世界選手権に出場するほど打ち込みました。
そんな中、人生最初の”不条理”を味わったのは高校受験のことでした。

ええっ、何か事件に巻き込まれたのですか?

いや、体育の授業中に足を骨折したというだけの話なんですが、個人的にはこれが”屈折人生”の始まりだったという話です(笑)。骨折は、友人の不注意が原因で、明らかに自分に責任がないものでした。問題は骨折に伴う欠席のために体育の評価が「5」から「3」になったということです。今こうして話していると、どうでもいいい些細なことなんですが、でもその頃は大事件だったんです(笑)。内申点のマイナス2は当然志望校選択に大きく影響します。やむなく第一希望の高校を変更することになりました。なんだそれ!と怒りが爆発したのを今も覚えています。人に巻き込まれた事故、それも授業中の話なのに、なんで自分が責任をとらなくてはいけないのか?初めて実体験で”不条理”を認識した瞬間でした。 そして、これを始まりにして、その後実に多くの不条理が自分の人生には憑きまとうんです。正直、今の自分をつくったのは、敗北感、劣等感この二つであり、逆に言えば、だからこそ今があるのかもしれません。

それはスポーツが得意だった中学生にとってはあまりにひどい(笑)。高校時代はどうでした?

今でもそうですが、飽きっぽいながら何にでも広く興味をもちました。ですから趣味は「多趣味」と答えるような生徒でした。親や先生からは、「お前は散慢で深さがない。」と、ことあるごとに言われ続けていました。自分でもその問題点はわかっていたので、悔しいのと、でもどうしていいのかわからないので、「広さも深さである」という文章を書いたことさえありました。今話していて、この頃から自分の考えや感情を文章や企画書として発散していたことを思い出しました。意外と昔から変わってないんですね(笑)。いずれにせよ自分なりに物事を考えることが好きでしたし、深くない=浅いと言い切られることが我慢ならなかったんだと思います。
と、まぁ鬱屈した思いこそありましたが、基本は陽気な性格なので、高校生活は学校にヨットに、思い切り楽しんだ時期でした。明るい時代でした。こうして幼い頃からの海洋生物への興味と、ヨットでさらに海に魅せられて……自ずと海洋学を学べる大学を目指すようになりました。そして大学受験で、次なる “不条理”に出会います。現役で受かった大学が嫌で浪人。浪人したにも関わらず、結局翌年、その大学に行くことになったんです。

そもそも海洋学を希望していたことが驚きです!浪人時代を経て、岸青年は大きく成長するわけですね。

恐らくこの辺が今のところ自生で一番腐っていた、暗いダークサイドを生きた時代でした。高校受験で挫折したコンプレックスからか、大学はいわゆる”学歴の高い”大学に行きたかった。まぁこの発想自体がダサいわけですけど。自分の興味や分野的には東海大学海洋学部は最高でしたし、まさに学びたい事の学べる大学だったわけですが、正直プライドが許しませんでした。浪人してでも国立に行きたいと思いました。ですから浪人中はよく勉強しました。一番時間を割いていたヨットも引退をしました。そのおかげか模試での成績も、京大農学部や北海道大学水産学部等もコンスタントにA判定、合格圏内に入っていました。ここで人生最大の”不条理”に出会います。突然センター試験の入試制度が旧課程から新課程へと変わり、本試験でその影響をまともに受けたのです。合格確実と言われていた国立大学はまさかの両方とも不合格。受かったのはまたも同じ東海大学海洋学部となりました。
正直性格が歪むほど落ち込みました。入試制度を変えた誰かを恨みました。国が作ったシステム、フェアでないルールに負けた。仕組みや体制によって自分の人生がねじ曲げられることに怒りと絶望を感じました。親には「廃人になるんじゃないか」と心配されるほど(苦笑)。もちろん、今もこのことは根にもっていますが(笑)。まぁ、不条理なルールを跳ね返すだけの力が自分になかっただけの話でもあるわけで、こう言える自分は少し大人になったと思っています。
そんな屈折した暗い想いを抱きながら、一度自分が行きたいのはここではない、と決めたはずの東海大学海洋学部に入学をしました。屈辱的な入学でした。

それだけ海洋関係の勉強に励みながら、夢だった学者の道に進まなかったのはなぜですか?

浪人したのに・・・という敗北感は、かなり長く引きずっていました。この頃の後遺症か今も卑屈な精神構造は残っています(笑)。ただ、元々学びたかった学問だったということもあり、大学時代はとにかく勉強に没頭しました。勉強がとにかく楽しかったし、見返してやりたいという思いが自分を突き動かしていました。
そしてこの時期にコンピューターに出会いました。当時はまだWindows95が発売されたくらいの頃です。一般的には”インターネットというものがあるらしい”というような中で、パソコンにハマっていきました。特に統計学や多変量解析に夢中になり、ひたすらC言語などのプログラミングを覚えて数式を解いていました。ちなみに意外にも当時一番のめり込んだのはエクセルでした。計算のプロセスを見て判断を要する統計学や多変量解析では、エクセルが便利でした。あとはFLASHに出合い、没頭しました。趣味でつくりはじめたWEBがいつのまにか仕事になって、学生時代からガシガシ稼いでいました。
学部を卒業後は、さらに海洋生物の研究を続けたいと思って大学院への進学も考えました。ただ結論から言うと、このタイミングで大好きだった生物学との別れを決めました。生物学はとても面白いですし、今も大好きですが、どうしても辛抱強く観察を続けたり、研究結果が出るまでの長い時間に耐えるという研究スタイルが自分には向いていないと思いました。少なくともWEBのように、インプットからアウトプットまでが速く、インタラクションという刺激を知ってしまった自分には、このゆっくりと流れる時間が受け入れられませんでした。
結局、思い切って専門分野を変更。早稲田大学の国際情報通信研究科という社会人大学院に入学をしました。この大学院は、情報技術から社会学、メディアまで情報分野を横断して学べる大学院で、当時の自分の興味領域としてはぴったりでした。ここで学んだ情報通信関連の技術やメディア論は、今も自分の支えとなっています。

浪人生から大学生と、学生時代を通じて今でも自分に影響を与えてることなどありますか?

具体的なエピソードでは無いのですが、この頃から自分の思考を体系化することが好きだったようです。①論理的思考 ②複眼的思考法 ③プレゼンテーション能力、この3つを強く意識していましたし、これをまとめた文章も残っています。①については、とにかくせっかちだった自分への自戒を込めて。勉強しても、すぐ回答集をめくって答えを見たがるような浪人生でしたから(笑)。②は先に述べた”広さも深さになる”ということを証明したかった意味もあります。また、①と②の才能があるのに評価されず、逆に2つともないのに③だけあるやつが評価されることも許せなかった。この3点は翌年からの学生生活はもちろん、今もつねに意識していることです。

確かにその3点は、岸さんを形づくる大きな要素になるのだと感じます。

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