(cache) 小説を書きたいと思う人へ5

はじめに

前回は「柔軟な発想を持ち、執筆に素直になろう」ということでまとめた。内容云々などは抜きにして、素直に書けなくては仕方ないからだ。しかし、文章表現は表記可能な言葉しか使えないため、その性質上、表現不可能な場面も出てきてしまう。今回は、文章表現の困難と限界について示そうと思う。

相対的な表現だけでは成立しない

文章とは、自分の主張・表現したいものを書くものだが、実際文章ではどこまで表現できるのだろうか。むろん、言葉にできるものと言ってしまえばそれまでだが、それでは漠然としすぎていて解りづらい。

まず、文章では視覚を正確に表現しきれない。単純な幾何学的な図形ならば表現できるかもしれないが、たとえば絵はどうだろうか。筆の形や大きさはどうか、何パスカルの筆圧で書いたか、何回塗りなおしたか、にじみはどうかなど、言葉にできることを出していったとしても、読者は解らない。絵の形や特徴を書いても、元の絵にはたどり着けないのだ。

同様に、聴覚・嗅覚・味覚・触覚、感情も正確には表現できない。「うるさい」「いい匂い」「おいしい」「痛い」「つらい」と表現することはできても、それらの感覚を絶対的な量に直すことはできない。たとえ、音量をデシベルで表現したとしても、聴力によって聞こえ方は変わってしまう。感覚・感情などは絶対的なものに変換できないのだ。

一方、始めからその事象について明確な定義がある場合、正確に表現できる。たとえば円周を直径で割ったものは円周率と呼べるし、(円周率のほかの定義もあるが)それは誰もが同じものを認識する、絶対的なものだ。ただし、このようにきちんと定義されている単語は基本的に学術用語であり、前者のように相対的なものよりはるかに少ない。

このように、表現には絶対的なものと相対的なものがある。文章表現に限らず、自然言語は必ずこの側面があるのだ。しかし、ここでひとつ重要な点がある。相対的な表現だけでは文章は成り立たないということだ。

相対だけの例として、「彼は強い。とても強い。最強である」という内容の文があったとしよう。強いというからには、ほかに弱い人がいるはずだが、いったい何人だろうか。最強であるといっても、どこでの最強なのだろうか。この文からはそういった情報が読み取れないため、信憑性(しんぴょうせい)がない。強調表現があっても無意味なのだ。これに意味を持たせるためには、絶対的な基準となるものを引き合いに出さなければいけない。

逆に、絶対だけの例として、「私は涙を出した。叫んだ」という内容の文があったとしよう。これは誰にでも理解できる単純明快なものである。しかし、これだけでは感情が読み取れない。怒っているのか、悲しんでいるのか、楽しんでいるのか、喜んでいるのか、これだけでは想像がつかないのだ。客観的な事実しか見えず、裏側にあるものはまったく解らない。無意味ではないが、メッセージ性は薄い。

つまり、絶対的な表現も相対的な表現もバランスが取れていて、初めて普通の文章となるのだ(学術的なものの場合は絶対的なもの以外使ってはならないのだが)。

根本的に表現できないもの

文章では、根本的に表現できないものがある。そのいくつかを紹介しよう。

人知を超えたもの

言うまでもないが、人の理解できないものを表現などできない。

見える形にできないもの

たとえ、理解や認識があったとしても、見える形にできないものは表現しようがない。

人の欲求そのもの

人はみな欲求があるものの、欲求をほかの言葉で説明することができない。


おそらく、挙げたよりも多く根本的に表現できないものがあるだろう。無理なものは無理と割り切らなければならない。もしも、文を書いているときに行き詰ったら、「はたして可能なのか」を考えてもらいたい。

小説における不可能

小説には、その性質上不可能なことがある。大部分は視点に関するものである。

同時に違う視点から別のものを描写する

同時に違う視点から別のものを描写するのは無茶である。別の場所で撮った二枚の写真を並べれば、解りやすいだろう。写真はそれぞれ独立しており、同時に説明することはできない。

特に、心情描写は無理である。現実には誰しも同時に何かを考えているが、それを写真のように忠実に写すことはできない。人知を超えたものになってしまうためだ。漫画の吹き出しにでもなっていれば話は別だが、小説でそれは不可能だ。

同時でなければ、可能ではあるが、あまり頻繁に視点を変えれば、読者は混乱する。なるべく避けたいものではある。

あらゆる登場人物の心情を描写する

小説において、心情描写は一つの大きな要素となるが、ある程度ターゲットを絞らなければ、読者は混乱してしまう。「同時に違う視点から別のものを描写する」とよく似ている。

主人公を設定しない(視点を決めない)

人数は別にして、主人公を設定しなければ、物語になりえない。

セリフのみですべてを成り立たせる

セリフのみでも物語を書くことはできるが、小説という形にならない。

言葉の法則性を無視する

小説の場合は、読者に強く印象に残すために、ときには不自然な表現を使うことがある。しかし、それも度を越せばほかの言語になってしまう。


このほかにも、不可能なものは考えられる。しかし、重要なのはあきらめることではない。不可能を踏まえたうえで別の角度から攻め込むことである。自分なりの話の切り出し方が見えるかもしれないし、不可能がヒントを生むこともある。不可能だからといってアイディアを丸投げにするのももったいない。

小説における困難

前では不可能を示したが、不可能ではなくても困難というものはある。

途中で視点を変更する

前述したように、同時に複数の視点を表現する、あるいは視点を持たないことは不可能だが、視点を変更することはできる。ときに視点の変更は描きにくい部分を描きやすくする。有効な手立てである場合もあるが、何の区切りもなくいきなり視点変更したり、目まぐるしい視点変更をしたりすることは、読者の混乱を招きやすく、よほどうまく作らない限り、成功しないのだ。

人の感情だけを描く

不可能とは言い切れないが、それがいかに難しいかは容易に想像がつくだろう。

女性の美しさを表現する

これは、困難というよりも昔からある課題と言ったほうが適切かもしれない。容姿や性格を表現できても、それは美しさとはつながらない。女性の美しさは「かわいさ」や「エロさ」とは別の領域にあるのだ。普段、当たり前のように見ているものの良さを伝えることは難しいということである。

誰でも理解できるものを書く

これは、困難というよりも不可能に近い。小説には著者や登場人物のエゴ、感情論、非論理的な衝動がどこかに含まれる。それを理解できない人がいるのも当然だ。まるっきり不可能とは言い切れないが、逆に誰でも理解できるものにすれば、どれも説明的になる。多くの人に読まれたいというのは誰しもが思うことだが、理解とは別領域のもので、あきらめなければならない部分が出てくる。

妥協するということ

小説は人間が人間のために書くものだ。そのため、完璧なものは作れない。

たとえば、SF小説の中の恋愛の描写に力を入れたらどうなるだろうか。読者は、その作品がSFなのか恋愛なのか判らなくなってしまう。逆に、恋愛描写をおざなりにした場合、恋愛小説が好きな人は酷評するだろう。

では、どうすればよいのか? それは妥協することである。始めから完璧なものを作ることは不可能だと判っているのだから、妥協しない点、妥協してもよい点をあらかじめ決めておくのだ。しかし、これだけでは解りづらいと思うので、例を挙げよう。

その昔、私がテレビドラマを見ているときに強烈な違和感を覚えたことがあった。それは、ある女性がソフトウェア開発の指導をしているときの一つのセリフだった。

「ソースコードにバグがありますね」

このとき、私は何ともいえない気分になった。あまりにあいまいであり、とてもソフトウェア開発の指導をしている人の発言とは思えない。バグがあるかどうかはコンパイルして実行すれば誰でも判ることである。それに、コーディングのミスの場合は、コンパイラがエラーを吐き出す。「どこか」は別にして、バグがあることは確実に判るのだ。突っ込みを入れたくて仕方なかったが、物語の本筋とは関係ないと判り、考えるのをやめた。これは妥協の一種だと。

芸術は、「むら」があるくらいが上等で、そのため人によって必ず好みが出る。重要でない部分は妥協したほうが、ほかの部分に力を入れられるので効率的なのだ。だが、もっとも重要なのは妥協したということを自分で認めることである。読者から突っ込みが入ったとしても、妥協したのだからこれは仕方ないと思い、受け止めるべきなのだ。

小説以外の文章も書くということ

良い小説を書くために、小説を何本も書くのは当たり前のことである。しかし、小説以外の文も書いていないと、小説しか書けなくなってしまう。その場合、ほかの文章の良い点を小説の中に取り込むことができなくなる。創作の幅を広げることが難しくなり、より早く限界を感じるだろう。

気分転換もかねて、ときには別の文章を書いてみるのがいいだろう。いったん別のことを考えれば、新しいアイディアが生まれる可能性もあるのだ。

ライトノベルから見る今後

昨今(2010年あたり)は、ずいぶんとライトノベルと呼ばれるものが普及している。ライトノベル自体の定義はあいまいだが、いずれも共通しているのは若年層をターゲットとしていることと、挿絵に力を入れていることだろう。

ライトノベルは、比較的文章表現のやさしいものが多く、また自由度が高くなっている。そのため、一般的な小説では見られない表現も散見される。また、ライトノベル作家も若い人が多いため、文章自体に軽さがある。加えて、文章量の割に内容が薄いこともある。これらは、気軽に若年層が手を伸ばせるという条件なのかもしれない。

中高生に古典文学を説いたところで、まるで興味を持たないのに、ライトノベルともなれば途端に飛びつく。読者の敷居を低くしたライトノベルは、特別なものなのかもしれない。なんだかんだ言っても、読者の心をつかむ本が良書となるのだ。

しかし、問題なのはライトノベルの今後のことである。今や、ライトノベルは社会現象と化していて、それに魅了されてライトノベル作家を目指す人もいる。中には、ライトノベルしか知らない人もいる。もしも、ライトノベルしか知らない人がライトノベルを書いたらどうなるだろうか。

結果は見えている。ライトノベルしか知らない人は、既存のライトノベルの世界観から脱することはない。つまり、ライトノベルの中のオリジナリティは現れないのだ。ライトノベルしか書けないことはもちろんだが、それ以上にクオリティを高められない。

では、これが繰り返されたらどうなるか。世界観はより限定的になり、作者の敷居は低くなる。すると、作品全体の質が落ちる。どれも似たり寄ったりのものになり、ライトノベルというものが崩壊してしまう可能性がある。これは恐ろしい事態である。

文化や文明には必ず終わりが来るという。だが、それを悲観するのではない。自分を謳うのだ。行き詰りそうになったら、もう一度初心に戻って、書く理由を確認する。そうすれば、また新しい文化が生まれるかもしれない。形式ではなく、本質を見失わないことが、小説家としてもっとも大事なことではないだろうか。

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