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池田小百合 なっとく童謡・唱歌 |
『小学唱歌集』・音楽取調掛の業績 |
あおげば尊し 君が代 櫻 蝶々 埴生の宿 蛍の光 |
内容は「童謡・唱歌 事典」です(編集中) |
【初出】 明治十七年(1884年)三月に公刊された『小学唱歌集』第三編の第五十三「あふげバ尊し」として初出。『小学唱歌集』は、木版・変体仮名で印刷されています。 日本最初の音楽教科書である『小学唱歌集』初編の公刊は、明治十五年四月でした。明治十四年十一月と記してある資料が多いのですが、実際の発刊は文部省からのクレームによって遅れたと山住正己の『子どもの歌を語る 唱歌と童謡』(岩波新書)に記述されています。クレームの内容に関しては『螢の光』の項に記録しました。第二編は明治十六年三月で、第三編は明治十七年三月、文部省音楽取調掛は、初編から足かけ三年の月日をかけて91篇の歌曲を完成させています。成立の事情は別記。 ●藍川由美=校訂・編『日本の唱歌』(音楽之友社)2007年12月第3発行の解説4.あおげば尊し「そのうちの一曲が『小学唱歌集』第二編(明治16年)第53「あふげば尊し」だ」は間違い。『小学唱歌集』第三編(明治17年)第53「あふげば尊し」が正しい。 明治五年(1872年)、日本の近代教育制度を初めて定めた「学制」の中で、小学校の十四番目の教科科目として音楽が「唱歌」という名前で掲げられた。「唱歌」というのは当時アメリカの小学校のカリキュラムにあった「Vocal Music」の訳語だった。「唱歌」は「ショウガ」とも読み、もともとは器楽の譜を「ターラロー」などと声で歌うことを意味した、宮中の雅楽の専門用語だった。・・・「学制」によって近代的な小学校が開設されてからも、日本ではずっと音楽だけは教えられていなかった。・・・この欠陥は、明治十五年四月に最初に音楽の教科書を発行するまで解消されなかった。(安田寛『唱歌と十字架』音楽之友社、1993年、p.11より)。小川和佑『唱歌・讃美歌・軍歌の始源』p.42には、“「唱歌(しょうか)」は、School Songに対応した用語です。”とあります。 【歌詞の成立】 歌詞は音楽取調掛長・伊澤修二(いさわしゅうじ)の原案を、音楽取調掛員で合議・推敲したものです。合議の経緯は資料に残されていました。 山住正己の『洋楽事始』(東洋文庫、1971)p.344によると、合議の経緯は次のようです。
“標題は初め「あふげば尊し」が提出され、それがいったん朱筆で「師の恩」と訂正され、ついで「告別歌」と改められ、さらに「あふげば尊し」が「イキル」とされた。標題について意見を述べているのは里見義(ただし)で、「告別歌」に改められたところで付箋を付け、「この歌バカリ歌トイフ文字ヲイルルモ不恰好也告別トセンカ吾師ノ恩トセンカ」と朱書きしていた。合議のうえ、歌い出しの一節が標題として選ばれたのであろう。一番の原案「学べるうちにも、はや幾とし」については加部厳夫(いずお)が「学びの窓にもはやいくとせ となさまし」と意見を出し、里見は「教への庭にもいく年月」と改め、さらにその「年月」を「文月」とかえるよう提案をしたが、結局「学べるうち」を「教への庭」に、「幾とし」を「幾とせ」と訂正して落ち着いた。「わかれめ」はいったん「いとまを」と改められたが、国語学者の大槻文彦が師に対して「いとま申す」という言い方はあるまいと朱書きし、原案に戻った。二番の「恩」についての大槻の「恩ヲ情ケニ」という意見は容れられなかった。二番については「少々ふそん分に覚ゆ修正ありたし」という意見もあったが、これについてどういう討論があったかは不明である。「やよ忘るな」を「など忘れめや」にせよとの意見も採用されなかった。「身を立て名をたて」については里見が、『孝経』の「立身行道挙名後世」を引きながら、「身をたて名をあげ」に訂正すべしとし、これは採用された。” 初編にあった「螢の光」の他に、卒業式歌としてふさわしい歌をもうひとつと、加えたものです。 ただ、小学生には難しい歌詞で、当時は尋常科四年、高等科四年の八年制で、高等科の高学年でようやく文語文が読めるということを考慮すると、唱歌練習の際には丁寧な歌詞の解釈指導が行われていたに違いありません。 一番は卒業生の斉唱で教師に対する感謝の言葉を延べます。 二番は在校生の斉唱で、同窓の友情を讃えつつ、立身出世の目標を掲げます。 三番は全員の斉唱で、「螢の光」と同じ中国の故事逸話が引用されています。 学校令が施行されたといっても、教育義務を放棄する親も少なくなかった時代でした。親たちにも勉学の必要性を強調する必要があったのでしょう。(小川和佑『唱歌・讃美歌・軍歌の始源』pp.60-63より) 【原曲は外国曲】 原曲は不明ですが、ヨナ抜きではない西洋風のメロディーから、外国曲と推測されています。【次の項参照】
他にも、この曲は(1)八分の六拍子である、(2)弱起で始まっている、(3)フェルマータが使われている、(4)シャープが4つもあるホ長調である(他には第78番『菊』=『庭の千草』もホ長調)など、当時の日本の曲ではあり得ないような特徴を持っています。 例えば、『小学唱歌』初編33曲には八分の六拍子の曲はありません。二編では16曲中3曲、三編では42曲中8曲と増えていきます。弱起で始まる曲は初編には4曲、二編には5曲、三編には18曲、フェルマータのある曲は初編には0、二編には3曲、三編には7曲です。『小学唱歌集』中、これらの特徴を持った曲と外国曲ないしは讃美歌由来の曲と判明しているものについて、下表に注記しました。 「あふげバ尊し」の原曲は、伊澤と彼のアメリカ留学時代の恩師で東京師範学校教授に招聘されたメーソンが選定したものではないでしょうか。 【原曲は「卒業の歌」】 2011年1月24日の朝日新聞(夕刊)に次のような記事がありました。 “唱歌「あおげば尊し」の原曲とみられる歌がみつかった。米国で19世紀後半に初めて世に出た「卒業の歌」の旋律が同じであることを、一橋大学名誉教授(英語学・英米民謡)の桜井雅人さんが突き止めた。” ・1871年に米国で出版された「THE SONG ECHO」に収録。 ・「あおげば尊し」の原曲とみられる歌は「SONG FOR THE CLOSE OF SCHOOL.」(卒業の歌)。 ・作詞はT.H.BROSNAN. 卒業で友と別れるのを惜しむ内容。3番まである。 ・作曲者はH.N.D. とあるが、どのような人物か、はっきりしない。4部合唱で、メロディーは「あおげば尊し」と全く同じ。 (註)この新聞記事は、「童謡を歌う会玉手箱」の会員・小田原市在住の稲葉政子さんから送っていただきました。 連絡ありがとうございました(2011年1月26日)。 【その後の教科書での扱い】 ・「あふげバ尊し」として『小学唱歌集』第三編 の四曲目にとりあげられました。 ・以後の文部省が編纂した『尋常小学唱歌』から 戦後の二十二年に編集された教科書『6年生の音楽』まで掲載されていません。 戦時中はふさわしくないとの事で歌われませんでした。 ・各出版社の検定教科書が始まった昭和二十四年からは一貫して六年生の音楽教科書に掲載され、卒業式の歌の定番になっていました。 ・昭和27年文部省検定(昭和30年発行)教育芸術社『六年生の音楽』掲載の「あおげばとうとし」は、フラット3つの変ホ長調となっていて、原調より半音低い(楽譜・北海道の北島治夫さん提供)。 ・昭和30年文部省検定(昭和33年発行)音楽之友社『小学生の音楽6 』掲載の「仰げば尊し」は変ホ長調。下總皖一編曲の二部合唱と簡易伴奏が付いている。 . ・昭和42年文部省検定(昭和44年発行)教育出版『音楽6』掲載の「あおげばとうとし」は、シャープ二つの二長調で、さらに低くなっている。 ・平成3年文部省検定(平成4年発行)東京書籍『新しい音楽6 』掲載の「あおげばとうとし」は変ホ長調。二部合唱。 ・平成7年文部省検定(平成8年発行)は、出版社により楽譜が異なります。タイトルは「あおげばとうとし」で同じ。 <東京書籍『新しい音楽6』>変ホ長調。二部合唱。同じページに「巣立ちの歌」村野四郎 作詞、岩河三郎 作曲が掲載されている。 <教育出版『音楽6 』>変ホ長調。最初は斉唱で、“おもえば”から部分二部合唱になっている。同じページに「さようなら」倉品正二 作詞・作曲が掲載されている。 <教育芸術社『小学生の音楽6』>二長調。最初は斉唱で、“おもえば”から部分二部合唱になっている。同じページに「さようなら」と「旅立つ日に」秋葉てる代 作詞、大熊崇子 作曲が掲載されている。 ・平成13年文部省検定(平成14年発行) 教育芸術社『小学生の音楽6 』には掲載されていません。平成7年文部省検定(平成8年発行)は著作者 市川都志春ほか8名でしたが、平成13年文部省検定(平成14年発行)は著作者 畑中良輔ほか8名に代わっています。 ・平成16年文部省検定(平成21年発行)教育芸術社『小学生の音楽6 』掲載の「あおげばとうとし」は二長調。最初は斉唱で、“おもえば”から部分二部合唱になっている。平成7年文部省検定(平成8年発行)と同じ。著作者は畑中良輔ほか7名。 ・平成16年文部省検定(平成21年発行)東京書籍『新しい音楽6 』と教育出版『音楽のおくりもの6 』の「あおげばとうとし」は、平成7年文部省検定(平成8年発行)と同じ。 【誤解される歌詞】 「いと疾し」=過ぎ去った日々を回顧して、きわめて早い。「いと年」や「いと しい」と誤解されている事が多い。 「今こそ別れめ」=「別れることになるだろう」、「別れようとしている」の 意。「め」は「こそ」を受けた言葉です。「別れよう」ではありません。「別れ目」と思っている人もあります。 「互いにむつみし」=おたがいに仲よくした。 「やよ」=呼びかける時に用いた言葉。「さあ」の意。 「忘るる間ぞなき」=これで一文です。「忘れる間とてない」の意。 【歌唱の考察】『小学唱歌集』第三編の歌詞は「あふげバたふとし」となっています。金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔上〕』(講談社文庫)には、「文語であるから「オオゲバ」と発音するのが正しいはずであるが、「アオゲバ」と広く歌われてしまっている」と書いてあります。 歴史的仮名遣いでは語頭の「オウ」は「あふ」と表記するそうですから、読み方は「オウゲバ」と読むのでしょうが、小中学校で歌う時は「アオゲバ」と歌われています。 昭和四十四年発行の『音楽6』(教育出版)は、タイトルが「あおげばとうとし」で、「あおげばとうとし」と歌詞付けされた楽譜が掲載されています。 昭和四十九年発行の『楽しい中学生の音楽3』(音楽教育図書)は、タイトルが「仰げばとうとし」で、「あおげばとうとし」と歌詞付けされた楽譜が掲載されています。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ |
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安田寛「唱歌誕生」『原典による近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント)は、すぐれた研究論文です。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【伊沢修二の音楽の実力】 洋楽を日本の学校へ取り入れる上で重要な役割をはたしたのは、のちに初代東京音楽学校長となる伊沢修二である。 彼は信州高遠藩の出身であり、幕末に同藩がオランダ式の調練をとりいれたときには、年少のため鼓手として採用された。・・・彼の音楽にたいする関心は、若いときからかなりつよかったとみてよいだろう。 明治七年(1874年)、創立後まもない愛知師範学校の校長となったときには、同校附属幼稚園でいくつかの曲をとりあげ、遊戯のさい園児たちにうたわせていた。 たとえば「蝶々」をとりあげ、それに遊戯を振付けながら歌わせた。・・・ここでは遊戯をさせながら地球の自転と公転を教えようという配慮まであった。 このような実践をもとにして、伊沢は唱歌は子どもたちの精神に「娯楽」をあたえるものとして教育には欠くことのできないものだから全国の学校で実践すべきだ、と文部省に進言した。 伊沢は、二年後に師範学科取調員としてアメリカへ留学したさい、「ド・レ・ミ」まではなんとか音がとれたが、「ファ」になるとどうしても音がとれず、アメリカの学生についていくのは非常にむずかしかったと告白しているほどだから、この幼稚園で、はたしてどれだけの仕事をやれたか疑わしい。 しかし、少なくとも、唱歌教育をはじめようと努力していたことだけはあきらかである。 ここで重要な事は、この当時の伊沢が、洋楽だけを直輸入というかたちで子どもたちにあたえようとしたのではない、ということである。 伊沢は、日本古来のわらべ唄から適当なものをえらんで、それを基礎としながら、異質のヨーロッパ音楽をとりいれていこうという、きわめて慎重な態度をとっていた。 伊沢は、やがて音楽取調掛長となって、小学唱歌作成の最高責任者となる。(園部三郎・山住正己著『日本の子どもの歌』(岩波新書)より抜粋) 伊沢が音楽の勉強をしようと奮起したきっかけは、彼自身の言葉によれば、ブリッジウォートル師範学校長が日本人には西洋音楽の習得はまず無理だから授業を免除しようと申し出たことだという。 かれはこのことについてあとになってではあるが、「余は同情深い免除といふ言に対して、却つて非常に残念に感じた、固より校長の芳志は有り難いのであるけれ共、一体余が政府から選ばれて遙々此地まで留学に来た以上、充分に全部を学んで帰らなければ政府に対して面目が立たぬ。何としても唱歌丈けは出来ぬからなど、免除なる片輪修行で国に帰られる者かと、実に三日許は泣いて悲しんだのである」と書いている。 伊沢は、すでに愛知師範学校長時代に、唱歌が将来の教育に「須要」のものとみて実践をこころみていたほどだったから、校長にこういわれてかえって奮起したというのは、大いにありうることだ。(山住正己著『唱歌教育成立過程の研究』(東京大学出版会)より抜粋) 【アメリカで唱歌誕生】 安田寛「唱歌誕生」(『原典による近代唱歌集成』)より抜粋する。
文部省の唱歌制作に関わった人物は、ボストンにあるニューイングランド音楽院長イーヴン・トゥルジェーと留学生監督官目賀田種太郎と留学生伊沢修二、そしてニューイングランド音楽院で「公立学校のための声楽」を担当していたL・W・メーソンである。トゥルジェーは目賀田らの企画を支援し、メーソンを日本へ派遣するのに尽力した人物である。 明治十年(1877年)の7月25日から8月22日までのおよそ一月間、ロードアイランド州のイーストグレニッチで第4回ニューイングランド師範音楽講座が開かれた。この講座は、イーストグレニッチにあったメソジスト派の機関であるグレニッチ・アカデミーで1874年から開始され、学期は夏の5週間であった。最初のパンフレットによれば、音楽教師と音楽生徒が対象であった。参加者は合衆国中から集まってきた。主催していたのはニューイングランド音楽院長イーヴン・トゥルジェーであった。この夏期講座で文部省の唱歌が試作されたのである。 目賀田種太郎は、第4回ニューイングランド師範音楽講座に伊沢を連れて参加した。メーソンの講座を受講するためであった。メーソンが担当していたのは、公立学校声楽教育講座であった。彼は、音楽の経験があまりない教師を支援するという講座の目的のために『音楽掛図第二集及び第二音楽読本入門』という教科書を使っていた。メーソンは講座期間中に、目賀田種太郎と伊沢修二の協力を得て、この教科書の歌唱教材を日本語に翻訳することを始めた。 東京芸術大学付属図書館に目賀田家から寄贈された目賀田種太郎関係資料の中には、この教科書と一緒にメーソンの手書き楽譜メモが残されている。 このメモ楽譜は、実は、日本語唱歌掛図制作中のメモであった。それは、講座教科書にある練習曲の最初の6曲に完全に符合している。 違っているのは、英語の歌詞の付いていた練習曲3番と6番には翻案した日本語歌詞が付けられていることである。日本語の歌詞が付けられた練習曲3番と6番は、のちに《小学唱歌集/初編》で第1番、第2番の唱歌になるのである。 つまり、『音楽掛図第二集及び第二音楽読本入門』こそ、唱歌掛図のこれまで知られていなかった種本であった。 この教科書の中にある練習曲3番と6番の日本語訳こそが最初の日本語唱歌であったのである。 メーソンが使っていた『音楽掛図第二集及び第二音楽読本入門 Preparatory course and Key to the Second Series Music Charts and Second Music Reader』(1873年)は、ドイツ人ホーマンの教科書『国民学校歌唱教育のための実用教程/第二集』の英訳であった。 日本語の数え歌や讃美歌<ハッピー・ランド>などを加え、全15曲の『日本語音楽掛図』が完成すると、メーソンはいよいよ現実のものとなってきた日本への招聘を強く望むようになった。最初唱歌に関わることに慎重であった伊沢が帰国することになり、その機会に、目賀田はメーソンの日本招聘を実現するために伊沢に掛図を持たせることにした。明治十一年(1878年)4月8日に、目賀田は、掛図に添えるため、田中不二麻呂宛に掛図の制作の経過を報告した広報を作成した。広報を伊沢との連名にしたのは、メーソンが来日したあとの唱歌の仕事に伊沢を推薦する目的があったものと推測できる。 目賀田種太郎はこれとは別に、4月20日に「我公学ニ唱歌ヲ興スベキ仕方ニ付私ノ見込」を書いて、おそらく郵送した。これこそが題に延べられてるとおりの、メーソン招聘を柱とした具体的な唱歌導入企画書ともいうべき建白書であった。目賀田報告の要点は、掛図の雛型を作成した経験によって唱歌が可能であるというものである。ここで目賀田は、「音楽ノ功力ハ去ル四月八日附ニテ伊沢修二氏ト共ニ上申セシ広報ニ述ブルガ如シ」とし、目賀田はさらに括弧付きで、「但シ同人此度帰朝ニ付キ此広報並ビニ唱歌教授掛図雛型持参ニ候間着ノ上同人ヨリ呈進可仕候」と述べている。 明治十一年(1878年)五月ニ一日、伊沢修二は田中不二麻呂に進呈する掛図と広報を目賀田より託されて米国より日本に帰った。しかし、帰国した伊沢は掛図雛型に広報を添えて田中に提出することに慎重であった。・・・・田中不二麻呂のもとには目賀田種太郎からの報告書が先に届いていたのである。伊沢は文部省に呼び出されて、師範学校への奉職が決まり、その時、田中の口から、目賀田から報告が届いていて、田中がそれに好意的であるのを確認してから、ようやく掛図を進呈するという行動に出た。伊沢によれば、この時の田中の様子は、「田中公にも殊の外右音楽の科に苦慮の処、右等僕等の一挙、大に嘉納致され候」というものであった。 8月15日に伊沢修二は文部大輔に掛図を進呈したところ「大喜悦の趣」であったこと、秋期に文部省諸官の前で唱歌の実演をすること、メーソン招聘を文部大輔に働きかけていることを目賀田に報告した。 翌年の1月、文部省内でメーソンの招聘が決定された。明治十三年に日本にやって来たメーソンはアメリカで試作した日本語音楽掛図に、いくつかの唱歌と讃美歌を加えて《小学唱歌集/初編》を完成させたのであった。 【和洋折衷の唱歌】 伊沢は留学時代の師メーソンを招聘し、明治十三年(1880年)四月から東京の二つの師範学校とその附属小学校を実験場としながら、『小学唱歌集』の作成にとりかかった。・・・ 伊沢は、ヨーロッパ音楽における自然長音階と雅楽の呂旋とを、自然短音階と律旋とをあまりちがいがないとして強引にむすびつけてしまい、しかも小学校段階の子どもたちには、短音階は軟弱・憂鬱・不健康でふさわしくないから、長音階の曲を中心とすべし、といってのけたのである。 こうしてできあがったのが、「ド・レ・ミ・ソ・ラ・ド」であり、当時「ド・レ・ミ・・・」を「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヒ」とよんだところから、この「ファ」と「シ」のないものが「ヨナ抜き」音階といわれるようになっていった。 小学唱歌調と一般にいわれている歌は、いずれもこの「ヨナ抜き」長音階によってつくられたものである。 ところが、伊沢が長音階と結び付けてしまった呂旋は、もともと日本にはなく、中国からきたものである。 『小学唱歌集』には、この伊沢の「理論」にかなった曲があつめられることになった。(園部三郎 山住正己著『日本の子どもの歌』(岩波新書)より抜粋) 【難しい歌詞】 『小学唱歌集』の歌詞には、まったくあらたに作詞したものと、翻訳をもとにしたものとがあったが、いずれのばあいにも、それを担当したのは、国文学に造詣が深く、和歌をよくした人たちであり、彼らは、詩についての伝統的な考えをもとにして歌詞をつくった。 形式面についていえば、・・・子どもたちには難解な文語・雅語をつかって作詞されていた。 唱歌の歌詞が難しすぎるという批判は、やがて教師たちのあいだからでてくる。(園部三郎・山住正己著『日本の子どもの歌』(岩波新書)より抜粋) 【教師たちは】明治十年代にできあがった小学唱歌は、同二十年代の中ごろまでの約十年間に少しずつ全国へひろがっていった。 そして、ラジオもレコードもまだなかったこのころ、耳新しい小学唱歌をひろめるのにもっとも大きな役割をはたしたのは、小学教師であった。 音楽取調掛は、各府県師範学校から音楽教師たろうとする意志あるものをあつめて唱歌とその教授法を教え、その師範学校教師が、各府県へもどって小学校教師およびやがて教師になる師範学校生に、自分の学んできたものをつたえていった。 ・・・この時代においては、小学唱歌という新しい音楽を習得し、それを学校で子どもたちにうたわせようとする情熱のつよさという点では、中央も地方も、また官側も民間側も、けっしてひけをとらなかった。(園部三郎 山住正己著『日本の子どもの歌』(岩波新書)より抜粋) 明治十年代末期の現場では、多くの学校では、どこから手をつけてよいかわからないという状態でした。その中でも「長野県」が先駆けて唱歌教育に取り組みました。すでに明治十六年に長野県下の教師からは、教材が系統立てて配列されていないという批判が出ていました。 『小学唱歌集』を編集した当時は、何学年の子どもにどの唱歌を教えればよいかという問題について、はっきりした方針をもっていなかったのだが、現場の教師は、これをはっきりさせておかないと授業をすすめることができなかった。音楽科の教育課程をととのえようというのは、教師の要求でした。 「石川県」「富山県」「「千葉県」では、だいたい明治二十年前後から一般の公立小学校でも唱歌教育がしだいにおこなわれるようになったのだが、開始のおくれた府県もありました。 「大分県」「三重県」「東北地方」「京都市のばあい」「栃木県のばあい」などについては、山住正己著『唱歌教育成立過程の研究』(東京大学出版会)に詳しく書いてあります。 いずれも、どのように指導したらよいのか摸索し、懸命に取り組んでいたようすがうかがえます。 【子どもたちは】 小学校の教師が教授法の上でいろいろと工夫をこらして教えようとしても、当時の子どもたちに習得させることは、なかなか困難であった。 ・・・圧倒的に多くの子どもたちが俗楽を好み、「学校唱歌、校門を出ず」の根本的原因は、小学唱歌のつくられた最初からあった。(園部三郎 山住正己著『日本の子どもの歌』(岩波新書)より抜粋) まず、学校は俗歌俗曲を禁止し、親たちに対し注意をうながした。しかし、これはなかなか徹底しなかった。次に、楽器を購入したり、不適当な楽器を改良する方法が取られたが、オルガンをすぐに買い入れることは難しかった。結局、『小学唱歌集』の反復教授以外ないという考えが強くなった。 『小学唱歌集』に載っている唱歌の歌詞が難しすぎるという批判は、明治二十年代になるとさかんにだされるようになり、教師の要求にこたえて唱歌歌詞の解釈書も出版されたほどであった。(山住正己著『唱歌教育成立過程の研究』(東京大学出版会)より抜粋)。 教える教師にとって、それほど難しいものを、歌わされた子どもたちは、唱歌の授業が楽しいはずがなかった。 『小学唱歌集』には、沢山の讃美歌が使われている。「アーメン」を削除して花鳥風月や道徳的な日本語をつけて子どもたちに歌わせた。 小学校で教える唱歌集なのに、讃美歌がキリスト教の歌だということには無頓着だったようです。そうではなく、キリスト教を日本に浸透させるもくろみがあったのではないかとする見方もあります(安田寛著『唱歌と十字架』音楽之友社を参照)。 歌った子どもたちは、「ヤソの歌」のようだという感想を持った。この素直な感想は当っているが、讃美歌に日本語の歌詞をつけたものだけでなく、日本の歌以外の外国の曲は全てそう思ったに違いない。 なお、『小学唱歌集』初編の刊行が予定より遅れて一八八二年(明治十五年)四月、奥付より半年近く経っていたことは、山住正己著『子どもの歌を語る』(岩波新書)だけでなく、山住正己編『日本近代思想体系6 教育の体系』(岩波書店)、千葉優子著『ドレミを選んだ日本人』(音楽之友社)や、安田寛著『唱歌と十字架』(音楽之友社)、大塚野百合著『讃美歌・聖歌ものがたり』(創元社)などでも知る事ができます。近年出版される出版物は、『小学唱歌集』初編は一八八二年(明治十五年)四月刊行になっています。 ▼『小学唱歌集』画像は北島治夫さん提供資料による。
【伊澤修二の略歴】 森下正夫の『伊澤修二 その生涯と業績』(高遠町図書館資料叢書第44号、平成十五年)による。
いったん郷里に帰り、明治ニ年(1869年)、十九歳で再び江戸に出て、英語を学んで、明治三年大学南校に入学、明治五年(1872年)九月同校の科程を修め文部省に出仕し同校(改称・第一番中学)監事を命じられたため、退学(明治三年部分は公文書館所蔵の履歴書による)。 ・明治六年(1872年)、二十三歳で文部省翻訳課勤務、雪投げ事件により九月に辞職、工部省製作寮出仕などを経て、明治七年(1874年)、ニ四歳で愛知師範学校校長。 ・明治八年(1875年)に校長職を免ぜられて、アメリカへ師範学科取調のために留学。研讃を積んで明治十一年(1878年)五月に帰国。 ・明治十ニ年(1879年)三月、ニ九歳で東京師範学校校長、十月文部省内に音楽取調掛を創設。 ・明治十四年(1881年)にはその取調掛長に就任しています。 ・明治十五年(1882年)四月、音楽取調掛より『小学唱歌集』『唱歌掛図』出版。 ・明治十九年(1886年)数え三六歳、三月、文部省編集局長に任ぜられる。 九月、教科書『読書(よみかき)入門』出版。 ・明治二十年(1887年)五月、『尋常小学読本』全七巻の出版。十月、東京音楽学校を創立。 ・明治二十一年(1888年)数え三八歳、一月、初代の東京音楽学校校長に就任。十月、『筝曲集』出版。 ・明治二十三年(1890年)数え四十歳、二月十一日、国家教育社を創立。六月、東京盲唖学校校長。 ・明治二十四年(1891年)数え四十一歳、六月十三日、文部省より省内意志不統一を公開の席で論じたという理由で非職を命ぜられ、下野する。 ・明治二十八年(1895年)七月、台湾総督府民生局学務部長心得となり、芝山巌(しざんがん)に学堂を開き、教師と共に台湾で教育活動を行なう。暮れにいったん帰国。 ・明治二十九年(1896年)一月一日、六名の教師と用務員が抗日ゲリラに惨殺される芝山巌事件が起こる。修二はただちに台湾に戻り、四月に学務部長となった。 ・明治三十年(1897年)八月、高等教育会議議員となる。十二月、教育界に尽くした功績により勅任の貴族院議員となった。以後、二十年間、教育問題について議員として活動した。 ・明治三十二年(1899年)八月、高等師範学校校長に就任したが、気管支炎と肋膜炎のため翌年辞職。 ・明治三十六年(1903年)、吃音矯正のための楽石社創立。 ・明治三十七年(1904年)、文部大臣・小松原英太郎宛の書簡で教科書国定制度をきびしく批判。 ・大正六年(1917年)五月三日、脳出血のため死亡。数え年六七歳。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ |
【初出】明治十三年(1880年)、宮内省式部寮雅楽課の伶人(楽師)が、ドイツ人音楽教師エッケルトの参加も得ながら、協力して壹越(いちこつ)調律旋の「君が代」を作曲しました。これが現在の形です。 【歌詞】 『古今和歌集』(延喜五年=905年)の「賀(長寿祝賀)」の歌として、よみ人知らずの一首があります。 わが君は 千代に八千代に 細(さざ)れ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで 『古今和歌集』の撰者のひとり、壬生忠岑(みぶただみね)は天慶八年(945年)『和歌体十種』に「神妙体」の例として、表現を改めた君が代の歌を引用しています。 わがきみは千代にましませ さざれしの巌となりて苔のむすまで もと歌を「千代にましませ」と直接的な表現に改め、「さざれ石の」字あまりを「さざれしの」と改良しています。 「わがきみ」が「君が代」となったのは平安中期の有職公卿(故実に精通した公卿)であった藤原公任(きんとう)撰の『和漢朗詠集』の鎌倉時代の書写本の多く。しかし、すでに平安末期の『古今和歌集註』(歌人・顕昭著)には、「この歌、ツネニハ《キミガヨハチヨニヤチヨニ》トイヘリ」と記されています。(所功「君が代」歌詞の例歴、CD『君が代のすべて』解説より) 【「君が代」の歴史の資料】 以下の記述は主に小川和佑『唱歌・讃美歌・軍歌の始源』(アーツアンドクラフツ、2005年)を参考にしましたが、他に内藤孝敏『三つの君が代』(中公文庫、1999年)、團伊玖磨「五つの「君が代」」『日本人と西洋音楽』(NHK人間大学、1997年)も参照しています。 【第一の「君が代」】 明治二年(1869年)、築地の元海軍操練場で、薩長土で編成された御親兵の観兵式の国歌演奏の曲目を問い合わせたのは、イギリス陸軍の軍楽隊長フェントンでした。 当時の日本には国歌という概念が無く、軍楽隊は困惑しましたが、新陸軍にいた旧幕府出身の士官が、江戸城大奥では新年の礼式に「おさざれ石」という行事があり、耳だらいに小石を入れて洗い、『古今和歌集』の「わが君は千代に八千代に さざれ石のいわおとなりて、こけのむすまで」と賀歌(がのうた)を歌うと語ったことが契機となり、それが旧薩摩藩出身の陸軍幹部、川村純義、野津鎮雄、大山巌らに伝わり、この賀歌は薩摩藩中興の祖、島津日新斎忠良作の琵琶歌「蓬莱山」の一節にあるところから、この一節の旋律を採譜してフェントンが洋楽に編曲したものが、最初の「君が代」でした。この「君が代」は正式な国歌ではなく、明治四年(1871年)以後は演奏されなくなりました。理由は琵琶歌を無理に洋楽に編曲したために歌いにくいことと、歌詞と旋律の不整合だったと團伊玖麿は『日本人と西洋音楽』(1997年)に書いています。 【第一の「君が代」への異議申し立て】 小川和佑『唱歌・讃美歌・軍歌の始源』には“明治九年(1876年)に正式に廃止されました”と記されていますが、実際には内藤孝敏が『三つの君が代』に記した下記のような経緯があったようです。 明治九年、海軍軍楽隊隊長・中村祐庸(二十四歳)が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」という上申書を宮内省に提出しました。国歌は重要であるが、現在のフェントンの「君が代」は「何ノ音楽」だか分らない、天皇を「崇敬スル儀礼ノ主意ヲ失」すると批判、「改訂見込書」を添えたものでした。四条からなる改訂見込書の趣意は、 第一条「日本人の歌は地方によって異なり、どれを正とするか断定が難しいから、宮中で謡われている音節を改訂の正鵠とする」 第二条「改訂係二名を選挙し、宮内省の正音を伝習熟達させる」 第三条「改訂係が正音を伝習熟達した後、教師フェントンに楽譜を送って楽手に練習させる」 第四条「楽譜改訂の上、譜を印刷し、各部所及び海外各国に送って天皇の儀典にはこの楽譜の演奏が望ましいことを伝える」 この中村の上申書は各方面に好意をもって迎えられたそうですが、時期が悪く懸案事項となりました。世情安定せず、翌年西南戦争が起こったのです。海軍軍楽隊も九州各地を転戦して演奏し、官軍の士気を鼓舞しました。
ドイツから海軍軍楽隊御雇教師としてドイツ海軍軍楽隊長フランツ・エッケルト(二十七歳)が招聘されます。当初二年契約でしたが、彼の任期は結局二十一年という長期にわたるものとなります。エッケルトは陸軍軍楽隊、音楽取調所、宮内省雅楽課などの教師も務め、文部省小学唱歌編集顧問なども兼務し、明治日本の音楽発展に寄与しました。 【第二の「君が代」】 明治十三年一月に、懸案事項だった中村の提案が実施されることとなり、海軍省は直接、宮内省に「君が代」を委嘱しました。宮内省では式部寮雅楽課に属する伶人(楽師)に作曲を命じました。六月に数種の楽譜が宮内省から海軍省に届き、七月、楽曲改訂委員に任命された海軍軍楽隊長・中村佑庸、陸軍軍楽隊長・四元義豊、宮内省一等伶人・林広守、海軍省雇教師・エッケルトが審査・選曲、奥好義(おくよしいさ)と林広守の長男・林広季(ひろすえ)が雅楽の旋律で作曲したものが採用されました。これをエッケルトが編曲したものが現行の「君が代」です。 ●多くの文献では作曲者を林広守としているが、和田信二郎『君が代と万歳』(昭和七年、光風館書店)に収められている林広守の部下、芝忠重と奥好義の談話によれば、実際に作曲したのは好義と広季のふたりで、それを個人の作曲とはしない雅楽部の慣例に従って伶人長・広守の名で発表したのだという(上笙一郎編『日本童謡事典』2005年、東京堂出版での、上笙一郎の解説より)。 【楽曲改訂委員と真の作曲者】 改訂委員が上記の四人であったという正式な書類は残されていない。一等伶人より上席の雅楽部長・芝が任命されていないこと、林は当選者であることなど、疑点が残るものの、今となっては確認できない。また、明治十三年十月の海軍軍務局長の上申書のなかに「図ラス陸軍軍楽長ニモ陪席致シ」と書かれていることから、陸軍関係者は偶然同席しただけだったと考えたほうが自然かもしれない(内藤孝敏の著作より)。 作曲者について文部省が明治二十六年に公布した楽譜の表題には「古歌・林広守作曲」と明記されているが、奥の晩年の談話によると、「林広守に命じられて『君が代』の歌に譜を付けただけで、それが国歌であるとは知らなかった。作譜をしたのは当直の晩で、牛込御門内の稽古場で、林広季と相談しながら作曲をした」、「複数の者が作曲に当った場合、その作品に上級者が代表者として記名し、個人の作品とはしない。それが楽部の慣例である」と言っている(内藤孝敏の著作より)。 以上の記録から、実際の作曲者は明らかです。 【壹越(いちこつ)調について】 團伊玖磨によると、壹越(いちこつ)調という雅楽独自の調性は、“ドレミのレ(D)を根音としてレ・ミ・ソ・ラ・ド・レと上がっていく音階(下降ではレ・シ・ラ・ソ・ミ・レとなります)です。西洋音楽には、壹越調に厳密に対応する音階はありません。しかし、吹奏楽で演奏するには和声をつけなければなりませんから、エッケルトがこれに西洋式の和声をつけて、改訂「君が代」は完成しました。1880年10月25日のことでした。” 【第二の「君が代」の普及】 エッケルト編曲の「君が代」の初演は明治十三年11月3日、明治天皇の誕生日、天長節に宮内省の伶人の吹奏楽で演奏されました。以後、海軍省では「国歌代楽譜」として艦上でも演奏しましたが、文部省はこの「君が代」を無視しました。しかし、海軍省の方は文部省を無視して、楽譜を印刷し、外交文書として諸外国に配布してしまいました。楽譜には「JAPANISCHE HYMNE. nach einer altjapanischen Melodie, von F.ECKERT」と印刷しました。これは「日本国歌。古き日本の旋律によりF・エッケルト作曲」と訳せます。一見、正式な体裁の楽譜に文部省は穏やかではありませんでした。しかし、事情を知らない外国ではこれを日本国歌として演奏しました。 【第三の「君が代」】 明治十五年一月に文部省から国歌制定の下命を受けた音楽取調掛は、各国の国歌を研究し、三月には六編の歌詞の案を作り、四月には四編十一首に改めた『音楽取調掛議案』を文部省に上申しています。音楽取調掛のす早い対応にもかかわらず、文部省が検討を始めたのは翌明治十六年になってからでした。提案された案には懸念の付箋がつき、結局音楽取調掛に差し戻されました。専門学務局長・浜尾新は、「通常ノ唱歌トナシテ、学校其他ニ於テ充分ニ試験シ、後(の)チ果シテ能(よ)ク国体ニ適シ民情ニ合フモノヲ選ンデ、国歌ト定メラレ可然存候」と意見していました。付箋で文部卿・福岡孝弟は、国歌の制定は重大事なので「日本国歌案」とはせず、「明治頌(しょう)」として次の案を作るように命じていました。その後、しばらくは音楽取調掛で作業が続けられたようですが、いつのまにか中止されたようで、記録も残っていません。 既に明治十四年の十一月に出版届をしていた『小学唱歌集』初編の第二十三に「君が代」が選定されていました。ウェッブの曲に『古今和歌集』の「君が代」の歌詞を当てはめたもので、一番の前半は現行の歌詞と同じもの。「こけのむすまで」の後にも「うごきなく。常盤かきはに。かぎりもあらじ」と続き、二番もありました。ウェッブの曲に合わせて音楽取調掛員・稲垣千穎が補足したものです。 この「君が代」は大演習会の二日目、午後の部で披露されました。伊沢修二は「聖代ヲ景仰欽慕スル意ヲ表セシモノナリ」、つまり聖帝への頌歌であると解説しています。 伊沢は明治十七年に「明治頌選定ノ事」と題する文章を書いています。 「夫(そ)レ国歌ハ、上述スル如ク其関係至大至重ノモノナルヲ以テ、我邦音楽ノ現情ニアリテハ、其資料ヲ選定スルノ難キコト、殆ド云フベカラズ。歌作高キニ勤ムレバ、社会一般ニ適シ難キ恐レアリ。低キニ着意スレバ、野鄙ニ失スルノ患アリ。純然タル和風ニ拘泥スレバ、外交日進ノ今日ニ適セザルノ恐アリ。妄リニ外風ニ模スレバ、国歌タルノ本体ヲ謬ルノ患アリ。歌詞ニ得ルトコロアルモ、曲調ニ欠クトコロアリ。曲調ニ得ルモ、歌詞ニ欠クトコロアリ。豈之ヲ難シト云ハザルベケンヤ」。 【式典曲として第二の「君が代」を文部省が追認】 文部省は明治ニ六年(1893年)、8月12日文部省告示第三号に「祝日大祭日歌詞並楽譜」を制定して、『官報』で公示し、エッケルト編曲の「君が代」を追認します。『官報』で示された八曲は式典の歌であって、「君が代」も国歌とは表記されていません。 【国歌の制定】 文部省は平成十一年(1999年)に、国旗国歌法を制定、施行しました。制定に当たって当時の自民党の幹事長は「学校現場の式典での国旗の掲揚や国歌の斉唱の強要は絶対にしないし、あってはならない」と明言しましたが、この約束はまったく守られず、すぐに各県各市町村の教育委員会が各学校に強権を発動し、国旗掲揚・国歌斉唱を強制する事態となりました。 そして、学校現場には、法を「遵守する」という表現と考え方が定着しました。どんな法律でも、法律である限り、従わなければならないという姿勢です。 【5つの君が代】 他にも『君が代』はあり、全部で5種類の『君が代』がありました。それらすべてを収録した音源と資料がCDにあります。(キングレコード。KICG3074) 上記のほかの「君が代」は、手書きの墨譜で作られた『保育唱歌』(文部省)の中に収められた東儀頼玄(とうぎよりはる)撰譜「サザレイシ」と、陸海軍の礼式ラッパ曲「君が代」です。1885年12月、歩兵ラッパと騎兵ラッパが統合されることになり、「陸海軍ラッパ譜」が制定された折の礼式の部第一号でした。 【中田喜直の“君が代は歌曲である”】 作曲家・中田喜直は『君が代』は歌曲であると定義し、『音楽と人生』(音楽之友社、1994年)に次のように書いていた。 “メロDイはいいのだが、言葉とメロDイが全く合っていないのだ。歌詞が短くて、メロDイが長い。それを無理に合わせようとしたので、最低の歌曲になってしまった。「君が代」は、「君があ用は」になり、「君」が音程が反対だから、タマゴの黄身になってしまう”。“要するに、歌曲は、言葉(歌詞)とメロDイがよく合っていて、自然に聞えなければ駄目です”。“私は色々な会で「君が代」が演奏された時、必ず立上がってきちんとした姿勢をとる。しかし決して歌わない。出来そこないの歌だから歌えない”。 「君が代」の歌詞とメロDイについては中田喜直『メロディーの作り方』(1960年)にもっと詳しく書いてあるという。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ |
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【唱歌としての初出】 明治十五年(1882年)四月に発行された、『小学唱歌集』初編の第十七として8分の4拍子で初出。実際の発行日の遅れに関しては『螢の光』の項目を参照。 『小学唱歌集』以前から、伊澤(いさわ)修二が校長をしていた愛知師範学校では、同じ詞の別曲で歌われていたようです。日本のもっとも古い唱歌のひとつということになります。現在、歌われている歌詞は後半が「桜に止まれ。桜の花の 花から花へ」と変えられていますし、二番は歌われていません。 ちなみに、歌詞がひとつひとつ句点で終わり、終止符となっているのは江戸時代の表記法で、明治の日本語文法が確立される以前の表記法です。
【遊戯唱歌の『胡蝶』が歌詞の初出】 山住正己『唱歌教育成立過程の研究』(東京大学出版会、1967)のp.24-26及びp.31の注22-24には、次のようにあります。 “明治七年三月に愛知師範学校校長となった伊沢修二が同校付属幼稚園で始めた指導”は、“外国音楽の直輸入ではなく、また唱歌を徳育の手段とするのではなく、子供の成長にとっての音楽固有の意義を認めて教育をはじめていた。” “伊沢もフレーベルに学んだといい、唱歌教育が必要不可欠な理由として、精神を快楽にし人心に感動力をおこさせ、発音をただし呼法をととのえるということをあげ、遊戯とむすびつけて子どもに教えている。” 伊沢は「愛知師範学校年報」(明治八年ニ月ニ六日付『文部省第二年報』)に、 “遊戯唱歌の例を三つあげている。その一つに『胡蝶』がある。 胡蝶 唱歌 蝶々蝶々。菜ノ葉ニ止レ。菜ノ葉ニ飽タラ。桜ニ遊ヘ。 桜ノ花ノ。栄ユル御代ニ。止レヤ遊ベ。遊ベヤ止レ。 技態 (略) ” “この『胡蝶』の歌詞は、いまでも子どもたちがうたっている『蝶々』の歌詞とほとんど同じであり、また東京女子師範学校の「保育唱歌」にも、おなじ歌詞の唱歌がはいっていた。” 「保育唱歌」では「桜に遊べ」が「桜に止まれ」となっていた(倉橋惣三・新庄よしこ『日本幼稚園史』昭和9年、p.250より)。 詞をよく読むと、後半の桜の花の栄ゆる御代にというくだりが、とってつけたような違和感を与えます。実は、後述しますが、この部分が伊沢修二や野村秋足の意図したところでした。 “「保育唱歌」がすべて雅楽によって作曲され、『蝶々』もその例外ではなかったのに対し、伊沢の唱歌作成の原則はこれとちがっていた。音楽上の問題として大事なのは、伊沢のこの原則である。かれは、「先(まづ)本邦固有ノ童謡ヲ折衷シテニ三ノ古謡ヲ制シ日ヲ累(かさ)ネ年ヲ積テ大成全備ノ効ヲ奏セン事ヲ期セリ」というように、まず日本の童謡(わらべ唄)をつかって遊戯をはじめたのである。西洋音楽の直輸入をさけたのはもちろん、子どもの生活には縁どおい雅楽をつかうのでもなかった。しかし、洋楽をとりいれながら、「大成全備」へすすめる方法になると、ここでもあきらかではなかった。” “伊沢は後年『小学唱歌集』の解説(『唱歌略説』明治15年1月)で、『蝶々』について、「旧愛知師範学校教員野村秋足ノ作ニシテ児戯ニ蝶々々々菜ノ葉ニトマレ云々トイフニ基キ桜ノ花ノ栄ユル御代ニ以下ヲ補足シテ唱歌ノ体ヲナシタルモノニテ(中略)楽譜ハ其出所ヲ詳ニセザレトモ西班国ヨリ伝来シテ諸邦ニテ行ハレタルモノナルベシ」と書き、また伝記にも「今日何処のはてにも歌はるゝ蝶々の歌は、実に此名古屋より出でた」(『楽石伊沢修二先生』、26頁)と書かれており、遠藤宏もこれをそのまま認めている(『明治音楽史考』208-209頁)。しかし、あとで紹介する伊沢自身の音楽上の能力や、当時の洋楽の受容状況からいって、『胡蝶』の曲を現在うたわれている『蝶々』とおなじものとみることはできない。” つまり、山住正己は『胡蝶』の歌詞が『小学唱歌集』の『蝶々』の曲に転用され、『胡蝶』の曲と、『蝶々』の曲は別ものだったと判断しています。 【もとの歌詞はわらべ歌】 一番の歌詞がすべて野村秋足の作というわけではありません。というのは、江戸時代の中期以降に、「蝶々ばっこ 蝶々ばっこ 菜の葉に止まれ 菜の葉に飽いたら この手に止まれ」というわらべ唄があったからです。「蝶々ばっこ」というのは、蝶々への呼びかけの言葉で、このわらべ唄は子供が蝶々をとるときに唄われたものです。(小山章三「蝶々」『日本童謡事典』東京堂出版より)。 【桜は天皇の御代を象徴する】 野村秋足は、“わらべ唄の「この手に止まれ」を「桜に止まれ」と変え、桜に象徴される<天皇>の「さかゆる御世」を楽しく「あそべ」と結論づけたもの”(小山章三「蝶々」『日本童謡事典』東京堂出版より)。 ●この小山章三の記述で、「この手に止まれ」を「桜に止まれ」と変えとありますが、伊沢の「愛知師範学校年報」には該当箇所は当初「桜ニ遊ヘ」と記されています。その後に「栄ユル御代ニ。止レヤ遊ヘ。遊ベヤ止レ」と続けました。『幼年唱歌』で「桜に止まれ」と変更されたそうです。 つまり、江戸時代には単なる蝶々採集の遊び唄だったものを、後半を付け加えることで、国家を思う徳性を涵養する歌に変えたというわけです。 安田寛『「唱歌」という奇跡十ニの物語』(文春新書、2003年)のp.47には、わらべ歌は全国にあったと記されています。“「蝶々」はもともとわらべ歌として全国的に歌われていたらしく、北原白秋編『日本伝承童謡集成』第二巻1949年には山形、群馬、東京から鹿児島県に至るまで多くの歌詞が採集されている。 愛知では、その歌詞は「蝶々とまれ、菜の葉に止れ、菜の葉が枯れたら、木の葉に止れ」であった。徳島では「蝶、蝶、かんこ、なのなへとまれ、いやなら、手んてへとまれ」と歌われていた。” 【伊沢のアメリカ留学と帰国】 伊沢修二は師範学科取り調べのためにアメリカに留学生として派遣されることになり、愛知師範学校をいったん退職して、明治八年に渡米します。明治十一年五月に帰国しますが、この間、音楽の授業にはかなり苦労したようです。謡曲や詩吟を聞いて育った伊沢には、欧米の音楽がわからなかったのです。ボストンのブリッジウォーター師範学校校長ボイデンが、気の毒に思って履修を免除しようと提案したほどでした。しかし、伊沢は校長の提案を拒否、ルーサー・W・メーソン宅に週末ごとに個人的に教わって音楽を習得していきました。(読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』岩波書店、1999年)。 ●小川和佑『唱歌・讃美歌・軍歌の始源』p.48には、「蝶々」の歌詞の後の解説の一節にこうあります。 “明治9年(1876年)、アメリカから帰国した伊沢は愛知師範学校(現・愛知教育大学)校長に就任した。兼ねてから音楽教育の必要性を痛感していた彼は、留学中に学んだアメリカの初等教育教材にある曲(ドイツ歌「小さなハンス」)に同校教員野村秋足に子どもの遊びことばをフレーズとして作詞させ、児童に歌わせた、これが日本で最初の唱歌であった。” この記述は間違っています。明治九年に伊沢が帰国して愛知師範学校に就任したというのは略歴と合致しません。その時期、伊沢は滞米中だったはずです。 【二番の作詞は】 小川の記述には、この後に「蝶々」の歌詞は最初は一番だけだったものを、『小学唱歌集』編集の過程で音楽取調掛の稲垣千穎作詞の二番(おきよおきよ、ねぐらのすずめ)を加えた、メーソンの個人授業を受けている過程で習い覚えたスペイン民謡に日本語の歌詞をはめ込んだのが、「蝶々」であると続きます。この二番は、今では歌われていません。 【原曲は実際にはドイツ民謡】 原曲がスペイン民謡だというのは伊沢修二の「西班国ヨリ伝来シテ」の記述によるものですが、その出所はメーソン本人であるということがわかっています。スペイン民謡だというのは根拠が薄弱で、安田寛 『「唱歌」という奇跡 十二の物語』(文春新書、 2003年)によれば、本当はドイツ民謡だそうです。いろいろな国でいろいろな歌詞が付いて歌われており、そのなかには前述の「小さなハンス(はひとり行く) Hanschen klein ging allein」もありました。他にドイツでは「五月はすべて新しく」、英国では「笑う五月」。アメリカでは「ボートの歌 Boat song」として知られています(毎日新聞学芸部『歌をたずねて』音楽之友社、1983年)。 【唱歌集の目的】 以下も、小川和佑『唱歌・讃美歌・軍歌の始源』アーツアンドクラフツ社より。 歌による国造り、それが『小学唱歌集』編集の大目的であった。伊澤修二は明治12年(1879年)から音楽取調掛という役所で入学試験によって選抜した伝修生に洋楽の演奏を学ばせる一方、彼が選曲し、取調掛員が作詞した学校歌曲を東京師範学校(現・筑波大学)と女子師範学校の附属小学校(現・筑波大学附属小学校とお茶の水女子大学附属小学校)と学習院初等科の児童に歌わせ、その適否を試みて、初編に三十三曲を選定しました。 しかし、『小学唱歌集』完成までにはさまざまな曲折がありました。 【演習会の開催】唱歌の演奏会には附属小学校や附属幼稚園の同意が得られず、文部省官僚に聞かせたところ、散々の不評でした。 明治14年5月14日の東京師範学校への皇后行啓の折り、本科生徒附属小学校児童による唱歌発表を行います。これで、伊澤は大きな自信をえました。 こうしてひとまず完成した『小学唱歌集』は、明治15年(1882年)1月30日・31日両日にわたって、その成果発表会を東京師範学校の昌平館校舎で行います。 この「演習会」は、日本最初の唱歌の公演でした。 演習会には文部省の高官はもとより、皇族、大臣、外国公使、出演の附属小学校児童の父兄までが参観する盛況でした。 公演は午前、午後の二部から成り、初日は伊澤がアメリカから招聘したメーソンの指揮による管弦楽で開始、その後メーソンの講演(唱歌と音楽進歩について)。 午後は児童により十ニ歌曲がピアノ伴奏で斉唱され、伝修生のピアノ演奏をはさんで、五曲の唱歌が発表されました。 二日目は午後一時より弦楽四重奏で開会。伊澤の音楽取調掛の現況報告、幼稚園児による四曲の斉唱、ピアノ演奏。さらに学習院初等科生が笙と胡弓の伴奏で学習院児童百二十八名による「見渡せば」の斉唱から始まり、「蝶々」など八曲が歌われました。 「蝶々」はメーソン自身のピアノで女子師範学校附属小学校児童百四十三名の斉唱で歌われます。 洋楽を終って休憩をはさんで三時からは邦楽演奏発表となります。三味線伴奏の「数え歌」、筝曲、長唄、雅楽の演奏。伊澤が伝統音楽にも配慮していたことは注目してよいでしょう。 フィナーレは邦楽楽器と洋楽弦楽器を合わせての「螢」(後の「螢の光」)、スコットランド民謡「Auld Lang Syne (久しき昔)」を翻訳したものの合奏と斉唱で幕を閉じました。 この演習会は参加者に大きな衝撃と感動をもたらしました。維新後わずか十四年、洋楽をここまで受容摂取した日本人の努力と才能に、参観者は日本の明るい未来を見たことでしょう。 【歌詞についての考察】 『小学唱歌集』初編掲載の時の歌詞は「てふてふ てふてふ。」です。歴史的仮名遣いの「てふてふ」は、「ちょう ちょう」と読みます。 「桜にとまれ。さくらの花の。さかゆる御代に。」の「桜」「さくら」は、前記にもあるように、桜に象徴される天皇の御代を意味し、子供達への教育に使うために作られました。その後、明治二十年、音楽取調掛『幼稚園唱歌集』第二番にも収録されましたが、以後の文部省の音楽教科書には掲載されませんでした。 戦後の『1ねんせいのおんがく』(もんぶしょう)昭和二十二年発行には、三曲めとして、次のような題名と歌詞、4分の2拍子で掲載されました。作詞は不明、作曲はドイツ民謡となっています。 三 ちょう ちょう ちょう ちょう、ちょう ちょう、 なの はに とまれ。 なの はに あいたら、 さくらに とまれ。 さくらの はなの はなから はなへ とまれよ、あそべ、 あそべよ、とまれ。 「さかゆる御代に。」が、「はなから はなへ」となり、蝶を歌っただけの歌 になりました。二番の「すずめ」の歌詞は掲載されませんでした。 昭和六十二年発行の『新編あたらしいおんがく1』(東京書籍)には、タイトル が「ちょうちょう」で、野村秋足作詞、スペイン民謡として、一番だけが掲載されています。「さくらにとまれ さくらのはなの はなからはなへ」の歌詞 です。 平成九年二月発行の『小学生の おんがく1』(教育芸術社)には、作詞者不明 /ドイツ民謡として「ちょうちょう」が掲載されています。
【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ |
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【初出】『小学唱歌集』初編(明治十五年四月発行)の第二十番「螢」として初出。明治十五年(1882年)一月三十日・三十一日両日にわたって、開催された『小学唱歌集』の成果発表、「演習会」のフィナーレを飾る歌として、邦楽楽器と洋楽弦楽器を合わせて「螢」(後の「螢の光」)が演奏されました。 『蝶々』の【演習会の開催】も参照してください。以下の記述は主に、小川和佑『唱歌・讃美歌・軍歌の始源』(アーツアンドクラフツ社)から。。『小学唱歌集』成立の事情は別記。 【曲と詞について】 「原曲はスコットランド民謡と簡単に言われる場合もありますが、詩はロバート・バーンズ(Robert Burns)の「オールド・ラング・ザイン (Auld Lang Syne)」、作曲はジョージ・トムソン(George Thomson)とされる。トムソンはベートーベンにスコットランド民謡の編曲を依頼しているくらいだから、背景に民謡の大きい蓄積があるものと考えるべきであろう。トムソンが 発表したのは一七九九年であったという。ただし、この曲のメロディーは讃美歌三七〇番「めざめよ わが霊 Awake, my soul, stretch every nerve」として知られているものであり、その歌詞はフィリップ・ ダッドリッジ(Philip Doddridge)一七五五年の作である」。(野山嘉正解説 「雑誌 国文学『日本の童謡』(学燈社)第49巻3号」より抜粋)。 『小学唱歌集』(初編)第二十の「螢」は、原曲のスコットランド民謡の詞ではなく、音楽取調掛員・稲垣千穎と里見義らによって新たに創作されたものと推定されます。旋律は、スコットランド地方に多い五音音階(ドレミソラ)でつくられています。ト長調で四分の四拍子。弱起の曲。四小節ずつ四つのフレーズで二部形式になっています。 【螢雪の功】一番は卒業生が在学時代を偲び別離の思いを述べる、二番は在校生が止められぬ時の流れに卒業生に別れを告げる歌です。 「ほたるのひかり。まどのゆき。」は中国の故事「螢雪の功」。つまり、中国の三世紀末から五世紀初頭の晋の時代、車胤や孫康が貧しさのために灯がつけられず、窓辺の雪や螢の光で勉学に励み、後に大成したという逸話から、苦労して学問に励むことであり、勉学に日々を積み重ね、気付いてみればその過ぎてきた歳月はいま杉の戸を開けるように今朝は別れてゆくという意で、「すぎ」は「杉」と「過ぎ」の掛詞。 【誤解される歌詞】 <いつの間にか、年も過ぎて行く> 「すぎのとを」=「杉」と「過ぎ」の掛詞。月日がたつこと、杉の戸の意味もあ わせて、次の「あけてぞ」にも掛っています。 「あけてぞ」=「(杉の戸を)開けてぞ」と「(夜が)明けてぞ」の掛詞。 <止まる人は在校生。行く人は卒業生> 「かたみに」=漢字では「互に」。おたがいに。 「ちよろず」=漢字は「千万」。いろいろたくさん。 <卒業生と在校生とが、互いに思っているたくさんのこと> 「さきく」=漢字は「幸く」。幸せに。 【ナショナリズム】現在は歌われなくなった三番、四番の歌詞には明治政府の悲願というべき思いがこめられています。 三 つくしのきわみ。 みちのおく。 うみやまとほく。 へだつとも。 そのまごころは。 へだてなく。 ひとつにつくせ。 くにのため。 四 千島のおくも。 おきなはも。 やしまのうちの。 まもりなり。 いたらんくにに。 いさをしく。 つとめよわがせ。 つつがなく。 三番は全員の混声合唱で歌ったものでしょう。 四番は女子児童が男子卒業生に送る歌なので、女声合唱で歌われていたのでしょう。 【歌詞の検討】lこれ以降は、山住正己『唱歌教育成立過程の研究』(東京大学出版会、1967年)より、要約して示します。 できあがった歌は、東京師範学校などの生徒に実際に歌わせて、その適否を検討しました。この段階は、初編の場合は、メーソンが着任した明治13年3月から12月までに行われたと思われますが、この過程を知る資料はほとんどありません。 その次の段階で、唱歌の草稿は明治13年12月に取調掛から文部当局へ提出されました。文部省の局員・佐藤誠実と取調掛・稲垣千穎との間で論争が行われましたが、この段階では、「螢」に関してはあまり問題がありませんでしたが、原案では「螢のあかり。雪のまど。ふみよむ日数。かさねつつ。いつしかとしも。すぎのとを。あけてぞ今朝は。わかれゆく。」でした。佐藤の意見もあって、現在のものに改められました。 最終段階で、音楽取調掛がさらにいくつかの学校で歌わせて修正を加え、明治14年11月に出版版権届も行われ、12月には唱歌掛図同様、三つの学校へ贈呈し、次いで各府県へも順に贈りたいがどうだろうかと伺いを立てるところまで来ました。 この段階で唱歌集は強い文部省からの反対意見にぶつかることになったのです。辻新次普通学務局長によって付けられた反対意見は、徳性涵養の観点からみてふさわしくない曲が見受けられる、これを削除しても教育目的にはさほどの不都合もないから削除せよというものでした。 第二十番の「螢」も、三番と四番の歌詞が批判されていました。三番の原案は「つくしのきわみ。みちのおく。わかるゝみちに。かはるとも。かはらぬこころ。ゆきかよひ。ひとつにつくせ。くにのため。」だったのですが、学務局の批判は、「かはらぬこころゆきかよひ」という言葉は主に男女間の契る言葉だから不穏当である、次の言葉とのつながりも不自然であるから削除しては如何というものでした。 (池田注)「・・・しては如何」と書いてあっても、これは「削除したらどうですか」と言っているのではありません。別の全体に係る付箋で「不適当な箇所は削除しないと発売を許可しない」と言っていますから、「削除せよ」と言っているのです。 四番は原案では「千島のおくもおきなはもやしまのそとのまもりなり」でしたが、これに対しては「千島も琉球も日本ノ外藩ナリといふ意ならん果して然らば事実上穏当ならず」と意見がつきました。 取調掛では三番は前述のように「うみやまとほく。へだつとも。そのまごころは。へだてなく」、そして四番は「やしまのうち」と変更しました。 「螢」の他にも、第3「柳すすき」や第22「ねむれよ子」に貼紙が付き、取調掛では修正して再申請し、やっとのことで発行できることになりました。こうして、『小学唱歌集』の実際の発行は明治15年4月になりました。 初案に対する修正の経緯は、『日本近代思想大系6 教育の体系』pp.203-207で見ることができます。また発行に関する期日も解題に書かれています。ちなみに、初案「柳すすき」は、「なびけ。やなぎ」といった詩句には雄々しさが無く、俗間に歌う「何をくよくよ川ばた柳」などと同類で徳性の涵養にあたらないと批判されています。「ねむれよ子」に対する批判はもっと面白くて、初案の「よくねる子には」、ご褒美にいろんな玩具をあげるぞという歌詞だったのですが、文部省の批判は、俗間に行われる「ここまでお出で甘酒進上」の類で、眠れば賞品をあげるというのも必ずしも実行できないのだから、小さいときから子供を欺くことを常にすることになる、成長にとってよくないことだというものでした。そこで、第3「柳すすき」は修正案を経て、結局、文部卿・福岡孝弟の意見を入れて「あがれ。あがれ。広野のひばり。のぼれ。のぼれ。川瀬の若鮎(わかゆ)」となり、第22は父母の教えや情愛を慕う歌詞に変更されました。 【『小学生の唱歌』(信濃版)尋六用では】 井出茂太編纂『小学生の唱歌』(信濃版)尋常科第六学年用』(京文社)昭和五年三月十日発行。 ・四番の歌詞は「臺灣(たいわん)のはても樺太(からふと)も・・・」となってい る。 この歌詞で歌ったレコードが発売されています。 ・オリエント・レコード番号1590 歌手は井上ます子 (北海道在住のレコードコレ クター北島治夫さん所蔵) 北島治夫さん資料提供 【貴重な音源】『螢の光のすべて』 「螢の光」に関する資料と音源が収録されたCDと詳しい解説があります。讃美歌や古い音源などと貴重な資料が満載されています。(キングレコード。KICG3075) 【作詞者・稲垣千穎】 上記CDの解説書に中西光雄が“「螢の光」の作詞者 稲垣千穎”という文章を寄稿しています。 埼玉県士族で、明治の初期から下谷区仲徒町二丁目に住み、明治7年10月、開設まもない東京師範学校の「雇」教師として公職につく。日本の古典文学を講じる一方、国文・国史の教科書を出版。 明治十四年七月助教諭、明治十六年七月教諭。その傍ら、明治十三年六月、東京師範学校校長・伊沢修二の要請で音楽取調掛に就職。明治十七年四月辞職し、その後は公職に就かず大正二年二月九日逝去。 歌人として明治十七年『詠草』を残している。 稲垣は『小学唱歌集』初編の歌詞選定委員として文部省委員の佐藤誠實や島田三郎書記官らに対峙、稲垣の意見の大半は修正意見に対して古典籍から典拠をあげたり、歌詞の音調や言い回しを吟味したりする冷静で端正なもの言いである。 そのなかで、『唱歌掛図』初編第九図第ニ曲の修正意見に対する反論からは、稲垣の肉声が聞えるようだ。原案は「春もなかばを、すぎのとを」であったが、島田三郎書記官は「をの音が重なって聞き苦しいので、春もなかばの、すぎのとを」と修正を要求、佐藤誠實もこの意見に従った。しかし、稲垣は激しく反発した。のに替えると「すぎのと」が掛け言葉であることの効果が無くなってしまう、この一節が掛け言葉でないのなら、戸は杉でなくても、栗でも框でも漆喰ペンキ塗でもなんでもいいのだと。このぶっきらぼうな言葉で稲垣が守ったのは、唱歌に和歌修辞を導入しようという稲垣の強い意志であった。結局、この歌詞は編集の段階で削除され公にされなかったのだが、掛け詞は「閨の板戸」と「螢の光」の二曲の唱歌の中に残された。 【その後の教科書での扱い】 『小学唱歌集』初編(明治15年4月)の第二十番 「螢」として初出。以後の文部省が編纂した「尋常小学唱歌」から戦後の二十二 年に編集された教科書「5年生の音楽」まで掲載されていません。 各出版社の検定教科書が始まった昭和二十四年からは一貫して五年生の音楽教科書に掲載され、卒業式の歌の定番になっていました。 昭和三十五年十二月発行の『小学生の音楽 5』(音楽之友社)では、タイトルが「ほたるの光」になっています。「光」の漢字は二年生で学習しますが、 「蛍」は小学校で学習しないので平仮名です。 しかし、平成十三年二月発行の『小学生の音楽5』(教育芸術社)には掲載されていません。 【奇妙な体験】 私、池田小百合は、1980年代に子供たちと一緒に、町に来たフランスのサーカスを観に行った事がありました。入口にはピエロがいて、手まわしオルガンを鳴らして呼び込みをしていました。オルガンから流れていた曲は、なんと「蛍の光」でした。日本では卒業式など別れのときに「蛍の光」を歌います。これからサーカスを観るのに「蛍の光」で会場入りするのは、奇妙な感じでした。 サーカスはフランス由来なので、日本の歌詞もTPOも知らなかったのでしょう。わかっていれば、終わりに流すはずです。 ちなみに、このフランスのサーカスは大人気で、「初めてサーカスを観た。すごかった」という人が多かったようです。夏が終わると、サーカスもいなくなりました。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 《著者・池田小百合》 |
日本古謡とされていますが、実際には江戸で箏の入門曲として作られたものです。日本の都節(みやこぶし)音階の簡単なリズムで、平調子に調弦した筝の開放弦だけで弾くことができます(註1)。 ただ、もともと能楽や筝曲、三味線音楽には音階という考えはありませんでした(木下牧子『よくわかる楽典』ナツメ社、2008年)。
【『筝曲集』と「櫻」について】 「櫻」は、明治二十一年(1888年)発行の、画期的な『筝曲集』第二曲として収録されて、普及しました。 この『筝曲集』の発行は、文部省の音楽取調掛から昇格したばかりの東京音楽学校(現在の東京芸術大学)です。この本には驚いたことに、英文タイトル「Collection of Japanese Koto Music」、英語序文、全曲楽譜がありました。
序文は「緒言」の英訳ですが、旧筝曲のなかで佳良な曲を選定し、易しい方から順に配列、楽譜と歌詞を一体化して学習者の便宜をはかった、詞曲は一部を修正したが原曲の良いものは潤色しなかったし古来の筝曲の性質を傷つけないように注意を払ったとあります。歌詞の選定は里見義・加部厳夫が、曲調の査定は山勢松韻・山登萬和ほかが担当しました。「緒言」の末尾には「取調掛長伊澤修二ノ統理考定スル所ナリ」と記されています。
「櫻」は、旧筝曲の歌詞としては次のような「咲た桜」として知られていまし た。しかし、どのような曲だったか確かめる江戸時代の資料が見つかっていません。幕末の「箏曲の手ほどき曲であった」という伝聞が伝わっているだけのよう です。 咲た桜 花見て戻る 吉野は桜 竜田は紅葉 唐崎の松 ときわときわ 深緑 東京音楽学校の最初期の出版物となった本書の編纂者・伊澤修二は、この年(1888年)一月に東京音楽学校校長に任ぜられたばかりでした。ただし、『筝曲集』の出版申請は明治十七年(1884年)には出されていました。なかなか出版されなかったのは伊澤らが取り組んだ俗曲=邦楽の「俗曲改良」の企画が、政府の伝統音楽軽視の方向と齟齬をきたすようになったためでしょう。音楽取調掛では長唄、清元、常盤津などの改良の予定もあったのに、明治十八年からは予算が認められず、十九年一月には伊澤をはじめ有力者が御用掛差免となり、御用掛雇として給料も減額されたのである。十九年二月十日の郵便報知新聞には、音楽取調掛の俗曲改良は「一ト先づ中止」と出ています(千葉優子『ドレミを選んだ日本人』音楽之友社よりp.82)。 【伊澤修二の略歴】 森下正夫の『伊澤修二 その生涯と業績』(高遠町図書館資料叢書第44号、平成十五年)によれば、伊澤は嘉永四年(1851年)六月ニ九日、信濃国(現在の長野県)伊那郡高遠城下生まれ。 若くして開国の気運を吸収し、幕府瓦解の慶応三年、十七歳で江戸に出て、英和対訳辞書や英文のウェーランドの経済書を入手、京都で蘭学塾に入り数ケ月学びます。いったん郷里に帰り、明治ニ年、十九歳で再び江戸に出て、英語を学んで大学南校に入学、明治五年九月に大学南校を退学して、文部省出仕となり、第一中学監事となりました。文部省翻訳課勤務、雪投げ事件による辞職、工部省製作寮出仕などを経て、明治七年、ニ四歳で愛知師範学校校長。明治八年に校長職を免ぜられて、アメリカへ師範学科取調のために留学。研讃を積んで明治十一年五月に帰国。明治十ニ年三月、ニ九歳で東京師範学校校長、十月文部省内に音楽取調掛を創設、明治十四年にはその取調掛長に就任しています。 伊澤修二の略歴は別記します。 【『筝曲集』の意義】 『筝曲集』には、日本音楽を西洋音楽の世界へ発信させようという気概が伺われます。また、難易順に並べて学習者の利便を図るなど、日本音楽の教育を重視する姿勢も見られます。 このような姿勢は音楽取調掛が目指していた日本の音楽と西洋の音楽を折衷して、「国楽」を創生するという目的にもかなっていました(山東功『唱歌と国語』講談社、2008年)。 『筝曲集』は大正に入っても、この楽譜集とその続編ともいうべきものが刊行されました。大正三年(1914年)九月に記譜法を修正し、英文とローマ字を削除した『筝曲集』第一編が出版され、「さくら」は四分休符を無くした箇所にド音を四分音符であてこみ1オクターブ上に移して「ミーニ ユーカン」と修正された楽譜が使われています。(千葉優子『ドレミを選んだ日本人』音楽之友社に楽譜あり)。 大正三年二月には音楽取調掛時代の草稿を一部受け継ぐ形で第二編が大日本図書から出版されました。 改良筝曲の影響は大きく、山田流筝曲の最初の手ほどき十曲はいずれも『筝曲集』および『筝曲集』第二編に収載の曲です。
格調高い文章なのでそれを引用しましょう。 教科書国定制度の誤りは極めて明瞭なり。 なんとなれば、真善美は官定すべきものにあらざればなり。(中略) 徳川幕府の朱子学派以外に加えたる圧政が、如何に学問の発達に妨害ありしかは、 我が歴史に明示する処にあらざるや。 思想、信仰、言論等の自由は、文明諸国の殆ど絶対に承認する所なるは、之が為なり。 然るに、教科書国定の制度は、真理を官定して、研究の自由を束縛せむとするもの、 是断じて国家の利益にあらじ。 これはこれで、現代の文科省の官僚や検定制度を批判する文書としても通る内容になっています。 これが、明治時代に文部省で教科書編纂の重責にあった人の主張です。『筝曲集』編纂の意図も明瞭ではないでしょうか。 【オペラでの扱いは】 このようにして、いわば陽を当てられた「櫻」は、十九世紀末に西欧で起こったジャポニズムの際には、日本音楽の象徴というべき利用がされています。例えば、プッチーニの歌劇『蝶々夫人』(初演は1904年)の第一幕で使われました。蝶々さんが嫁入り道具の小物を夫に披露する時に現れます。まず変奏された形で現れますが、帯(una cintura)というところからは完全に「さくらさくら」のメロディーとなってオーケストラで奏され、蝶々さんはそれに乗って別の旋律で歌います。『蝶々夫人』に使用されている日本の音曲を、プッチーニは、駐在イタリア公使大山夫人や、ヨーロッパ巡業中だった川上貞奴(1871〜1946)に取材したようです。(永竹由幸「《蝶々夫人》に出てくる日本のメロディー」『オペラ名作鑑賞8 蝶々夫人』世界文化社、平成ニ一年より)。 【教科書での扱いは】 現在の「さくら さくら」は昭和十六年(1941年)、小学校を国民学校に組織替えしたときに、『うたのほん(下)』で、題名と歌詞と曲の一部を替えたものです。『うたのほん』は、国民学校初等科第二学年用で、 「文語調では子供たちに意味が伝わらない」というのがその理由でした。最後のフレーズ「(四分休符)ミニ ユーカン」のところも、「ハナザーカリ」と休符を無くして、歌いやすくしています。 さくら さくら 『うたのほん(下)』掲載 さくら さくら、 野山も、里も、 見わたす かぎり、 かすみか、雲か、 朝日に にほふ。 さくら さくら、 花ざかり。 戦後、昭和二十二年版の教科書には掲載されていません。 昭和二十四年からは各出版社の発行する民間の検定唱歌教科書が文部省唱歌に代って、全国の小中学校で用いられる事に決まりました。その昭和二十四年に六年生用の教材として掲載されました。 昭和二十九年二月発行の『改訂 新しい音楽 学習指導の研究(小学校用)6年』(東京書籍)には、日本民謡 編曲 平井康三郎の「さくらさくら」が掲載されています。「さくらさくら やよいのそらー は」の歌詞です。 昭和三十三年には小学校音楽共通教材が開設。第二学年用の教材となりまし た。昭和三十三年十二月発行の『改訂しょうがくせいのおんがく 2』(音楽之友 社)には、日本古謡として「さくらさくら」が掲載されています。「さくらさく ら のやまもさとーも」の歌詞です。 昭和五十二年の学習指導要領の改訂で第四学年用の教材に変更されて、現在に至っています。平成十二年二月発行の『小学生の音楽 4』(教育芸術社)には、 日本古謡として「さくらさくら」が掲載されています。「さくらさくら のやま もさとーも」の歌詞です。 ところで、明治ニ十一年の『筝曲集』から昭和十六年の『うたのほん(下)』までの約五十年の間、《弥生の》「櫻」は教科書に載っていなかったのでしょうか。 明治四十四年(1911年)六月発行の『尋常小学唱歌』第二学年用に第一曲「櫻」がありますが、これは、詞も曲もまったく別のものです。「一、霞につづくは花の雲、野山につもるは花の雪、〜」。この別曲の「櫻」は昭和十六年まで教科書に載っていました。 驚くべきことに、岩波文庫の『日本唱歌集』(1958年)には、《弥生の》「櫻」も、《野山も》の「さくら さくら」も収録されていません。もちろん、《霞につづくは》の「櫻」も収録されていません。 《弥生の》「櫻」は、山田耕筰が歌曲に編曲したバージョンがある他、日本旋律の合唱教材として、中学一年生の音楽教科書に出ている場合があります(例えば、三善晃編曲の教育音楽社版、平成八年)。高校の音楽教科書に取り上げた例もありました(小山章三編曲の音楽之友社版、昭和五十年)。宮城道雄の『さくら変奏曲』も有名です。 【『筝曲集』の評価】 「櫻」に関する調査をして、改めて『筝曲集』の重要性を痛感しました。伊澤修二に関する文献は多いのですが、『筝曲集』の意義を評価したものは、千葉優子『ドレミを選んだ日本人』(音楽之友社、2007年)の他には無いように思われます。そこで、詳しく紹介しました。伊澤修二に関しては、主に森下正夫著『伊澤修二 その生涯と業績』(高遠町図書館資料叢書第44号、平成十五年)を参考にしました。この本を提供して下さった小田切勝彦さんに感謝致します。 [註1]日本音楽の音階に関しては、上原六四郎(1848−1913)が「五音音階」であること、それを「都節(みやこぶし)」(陰旋)と「田舎節」(陽旋)の二種に分け、それぞれの音階の上行形と下行形では違う音を用いることを指摘しました。 その後、小泉文夫が民謡調査を通して、日本音楽には旋律中にその音楽を決定する音、「核音」の存在を見出し、その核音を含んだ四種類の音階理論を提示しました。「民謡音階」「都節音階」「律音階」「沖縄音階」の四つです。この小泉理論が現在もっとも普及している音階理論といえます(田中健二『図解・日本音楽史』東京堂出版、2008年より)。 昭和四四年発行の小学ニ年生用教科書『新訂標準 音楽』(教育出版)の教師用指導書の第2曲「さくら さくら」の「教材解説」には、「シド ミファ ラシ」のミを第2主音とする陰旋法と解説しています。 いろんな演奏や歌唱、解説を網羅したCD『さくらさくらのすべて』(キングレコード。KICG3255)があります。
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「埴生の宿」の二番の「床」は、出版物により「ゆか」であったり、「とこ」であったりします。そこで、調査をすることにしました。近年では、「埴生」という言葉は、差別用語という事で、この歌は歌われない傾向にある事は承知しています。 【初出】 東京音樂學校蔵版『中等唱歌集』明治二十二年(1889年)十ニ月二十二日刊行に初出。 ・楽譜は変ホ長調、四分の四拍子。四部合唱曲。二番は「ゆか」となっています。 ・歌詞には、ルビはなく、二番は「床」と書いてあります。 【『中等唱歌集』について】 明治二十年(1887年)十月五日音楽取調掛は、勅令によって東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部の前身)と改称され、翌二十一年一月、伊沢修二がその初代校長に任命された。 明治二十二年(1889年)十二月、東京音楽学校編集の『中等唱歌集』(全一冊)が発行された。これは前の『小学唱歌集』と同じく官選の最も早い中学生用の唱歌の教科書。十八曲が掲載されている。楽譜には伴奏がなく旋律譜。半数は合唱曲になっている。この中のものでは、「埴生の宿」が最もよく歌われた。 【原曲は】十九世紀、アメリカの歌劇作家ジョン・ハワード・ペインとイギリスの作曲家ヘンリイ・ローレイ・ビショップが、1823年に合作歌劇『ミラノの娘クラリ』を作りました。 この中で歌われたのが「楽しきわが家 Home, Sweet Home」という歌曲でした。この歌はその内容の美しさから歌劇を離れて独立した歌曲として広がって行きました。 そして、それを唱歌にしたのが「埴生の宿」です。音楽取調掛にいた里見義(さとみただし)が自然関係を強調した意訳を付けました。刊行時すでに里見は亡くなっていました。 自然と共生しながら質素でつつましい生活を送ることこそ、人生の至福であるというのは、明治の官僚の思想でした。望郷の歌を装った教訓歌でした。現実には明治の元勲たちは競って豪邸に住み、庶民は貧しくあえいでいました。
山住正己著『子どもの歌を語る』(岩波新書)によると、「里見義による原詞にほぼ忠実な訳詞があったのだが、キリスト教系の女学校などでは英語で歌っていた。とくに港町神戸では、これを歌う学校が多かった」。この文は、文献としてあらゆる出版物に使われていますが、出典が明記してありません。ここから引用されていた事がわかりました。 【讃美歌か】 東京藝術大学附属図書館から送られて来た楽譜を見た時、「これは讃美歌だ」と思いました。それで、調べてみました。 讃美歌の「煩いおおき世の中にも」も同曲です。『近代唱歌集成』[三]ミッションスクールの愛唱讃美歌で見る事ができます。解説には次のように書いてあります。 「煩いおおき世の中にも」/ホーム・スイート・ホーム ≪讃美歌第一編≫(1903年)第354番、作詞デビット・デンハム、原歌初行<Mid scenes of confusion and creature complaints>、作曲H・R・ビショップ、曲名<Home, Sweet Home>。唱歌<埴生の宿>(≪中等唱歌集≫1894年)としてよく知られている。 ●《中等唱歌集》1894年は間違いで、1889年が正しい。 賛美歌としてはメソジスト教会系の「基督教賛美歌」(1895年)が初出。 【歌詞の意味】 ・「埴生(はにふ)の宿」=「埴(はに)」は埴土(はにつち・土器などの原料土とした赤みをおびた粘土)、「生(ふ)」は芝生(しばふ)と同じで物が所在するところ。土間にむしろを敷いて寝るような貧しい粗末な家のことです。そのような造りであっても、生まれ育った家は「玉のよそひ」を凝らし、「瑠璃の床」を持った殿堂よりずっと「たのし」く、また「たのもし」い。貧しい家でも、心が富んでいる我家が一番という内容です。 ・「玉のよそひ」=宝石を散りばめたような、すばらしい所。 ・「瑠璃の床」=宝石をはりつめた床。 ・「うらやまじ」=うらやましくない。 ・「オー」=感動詞がカタカナで使われています。 ・「たのしとも、たのもしや。」=金田一春彦の説は次のようです。 「たのし」はよいとして、「たのもし」は不調和な形容詞であるが、古語では、「たのし」にも「たのもし」にも「富んでいる」という意味がある。里見はこのことを知っていて、「心は富めり」という心境を表わすためにこの単語を使ったのであろうか(金田一春彦 安西愛子編『日本の唱歌〔上〕明治篇』(講談社文庫)より)。この文は、文献としてあらゆる出版物に使われていますが、出典が明記してありません。ここから引用されていた事がわかりました。 【結論】 現在出版されている楽譜の中には二番の「ゆか」を「とこ」としたものがあります。これは間違いということになります。理由は、『中等唱歌集』の楽譜も、『新編教育唱歌集』第八集に採録の楽譜も「ゆか」になっているからです。では、なぜ「とこ」と歌われているのでしょうか。理由があります。 【『新編教育唱歌集』の考察】この歌は、教育音樂講習會編『新編教育唱歌集』第八集(東京 開成館)に採録されました。第一集は明治二十九年一月十日発行。第八集は東京藝術大学附属図書館所蔵(明治三十九年一月二十八日訂正六版発行、明治三十九年二月二十日文部省検定済)。 ・楽譜は、ニ長調にさげられ、斉唱曲になっていて、二番は「ゆか」となっている。 ・歌詞には、ルビがふってあり、二番の「床」は「とこ」とルビがふってあります。そのため「とこ」と歌われることもあったのでしょう。しかし、「たのしとも、たのしやな。」に歌詞が改訂されていますから、この歌詞を見て、ここを「とこ」と歌うのでしたら、最後も、この歌詞のとおりに「たのしとも、たのしやな。」と歌うべきです。 おや? 『中等唱歌集』の楽譜と現在歌われているメロディーが違います。 【『中等唱歌集』の楽譜の検証】歌い出しから17小節はA(aa´)B(bb´)の二部形式です。次の「オーワガヤドヨ」は別のまとまりです。最後は、はじめの二部形式で使われた(b´)に一音加えたものが「タノーシトモー タノーモシヤ」という旋律になっています。つまり、ABAの大きなまとまりでできている。 原典に忠実に歌うなら、『中等唱歌集』の楽譜にそって歌います。ダークダックスは、この楽譜のとおりに歌っています。CD『心のうた日本のしらべ』CBSソニーファミリークラブで聴く事ができます。 現在、一般的に歌われているメロディーは、三小節目と十六小節目を変えて、A(aa´)B(bb´)の繰り返されるメロディーを統一し、覚えやすくなっています。この方が、みんなで歌う場合には歌いやすい。楽譜は金田一春彦 安西愛子編『日本の唱歌』〔上〕明治篇(講談社文庫)で見る事ができます。私、池田小百合が主宰している童謡の会ではこの楽譜で歌っています。ボニージャックスも、この楽譜で歌っています。CD『日本のうたこころの歌』(デァゴスティーニ発行)で聴く事ができます。 【里見義(さとみただし)略歴】 ・文政七年(1824年)、福岡県生まれ。 ・明治元年、会津落城後の警衛を命じられる。 ・明治三年、豊津中学教授から校長になる。 ・明治七年、県社香春宮祠官となる。 ・明治十四年、五十七歳の時、音楽取調掛御用掛に就任。 教材の選曲はアメリカから迎えられたメーソンや留学経験のある伊沢修二らがあたり、里見たち国文学者はメロディーにぴったり合う言葉選びに没頭した。里見は豊津時代に英語力を身に付け、西洋文化に目覚めて上京。一時、カナダ人宣教師宅に寄宿し、外国文化を学び西洋音楽に接した。 ・明治十六年、文部省二等属、編集局勤務。 ・明治十九年、依願退官。 在任中、伊沢修二に協力して唱歌の作詞をした。現在知られているのは「庭の千草」「埴生の宿」です。 ・明治十九年八月十二日没。 以上は横田憲一郎著『教科書から消えた唱歌・童謡』(産経新聞社)による。 【映画で使われる】市川崑監督の映画『ビルマの竪琴』の中で望郷の歌として歌われました。高畑勲監督、野坂昭如原作の傑作アニメ映画『火垂るの墓』でもラスト近くで原曲が印象的に使用されています。 また、木下恵介脚本・監督『二十四の瞳』(松竹、1954年)でも、修学旅行の遊覧船のブラスバンドの演奏を始め、夫の戦死、終戦の詔勅、娘の死といった場面に使われています。特に娘の死の場面で、合唱から女声のスキャットに続く効果は大きいのですが、音楽担当の木下忠司の証言によると、外国版では外国民謡由来の曲は外国人には違和感があるので、日本風の今様などの音楽に変更したそうです。 映画『二十四の瞳』は木下恵介が、音楽は全編唱歌で行こうと提案したので、セリフが少なく唱歌事典のような趣向になっています。『埴生の宿』のほかに『仰げば尊し』『アニー・ローリー』『村の鍛冶屋』『電車ごっこ(「蝶々」の替え歌)』『七つの子』『ひらいたひらいた』『あわて床屋』『千引の岩』、『ちんちん千鳥』(これは流行歌)、『故郷』『朧月夜』『春の小川』『荒城の月』『星の界』『金毘羅船々』『浜辺の歌』『みなと』『蛍の光』などが、使われています。(茶色文字は外国曲を原曲とする歌) また、出征のときの人々の歌う軍歌は『日本陸軍』『露営の歌』『暁に祈る』『予科練の歌』。
【大和田建樹も作詞した】 この曲は、里見義が原詩を訳して「埴生の宿」とい うタイトルで、東京音樂學校蔵版『中等唱歌集』(明治二十二年=1889年、十ニ月二十二日発行)に発表する以前に、大和田建樹・奥好義同選『明治唱歌』第三集 (中央堂、明治二十二年=1889年、六月十四日発行)に、大和田建樹が創作詩「千代の聲」というタイトルで紹介しています。今では、「千代の聲」は歌われていません。 古くから皆に注目された曲ですから、現在も名曲として歌い継がれているの が納得できます。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ |
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