「癒し」としての情報発信—ネットでは苛烈なあの人が、会うと大人しい理由

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2013/01/07


たまに「イケダさんってブログとリアルだと印象違いますよね」と言われます。


オンラインで全部出し切っているのでおとなしい

これ、僕に限らず言えることだったりしますよね。ネットでは荒くれ者のイメージがある中川淳一郎さんとか、やまもといちろうさんなんかも、会ってみると普通の紳士だったりします。中川さんにいたっては、腰の低さにちょっとびっくりするぐらい。


情報発信って、それ自体に癒しの効果があると思うんです。僕はツイッターなどでイラっとくる瞬間があったら、すぐにそれを咀嚼してブログ記事にするようにしています。すると、不思議なことに怒りは収まっているんですね。

僕に限らず、情報発信を積極的に行っている人って、癒された結果として、おとなしい人が多いのではないでしょうか。


大江健三郎は「あいまいな日本のわたし」のなかで、障害を持つ息子の例を出し、芸術のもつ「癒し」のちからについて言及しています。

とにかく、私は自分としてひとつのかたちを表現してきた。そしていったんかたちをつくってみると、それをつくりかえたり、すっかり新しくしたり、突き詰めてゆかないではいられなかった。

光のように知能に障害を持っていて、イノセントな心の人というしかないような青年にとっても、音楽をつうじて同じことが起こってしまう。

そして、かれの音楽を聴けばいかにもあきらかなことですけれども、そういう苦しいもの、悲しいことをかれは表現しているが、そのように表現すること自体に、かれ自身が癒されている、と私はいいたい。

表現する当人が、そのように自分を表現したことで恢復しているところがあると私は思うわけなのです。それは、表現された者を受け止めてくださる人にとっても、同じではないのか、とさえ感じるのです。これが芸術の不思議さだと、私は呼びたいのでもあります。

大江健三郎の発言が素敵なのは、表現を受け止めた人についても、癒しが発生するのではないかと指摘している点ですね。まさにこれは芸術の提供する大きな価値のひとつだと思います。僕もマーラーの作品に何度癒されてきたことか。


リアルに会って、どこか子どもっぽい人、わがままな人というのは、潜在的に傷を負っているのでしょう。それは幼少期の頃の話かもしれませんし、今現在の家庭・仕事の問題かもしれません。もし仮に、そういう人たちが、ブログやツイッターで自分語りをはじめれば、妙な攻撃性は消え失せて、誠実な人間になるような気がするんですよね。


僕がブログを書いているのは、3割ぐらい、自分を癒すためです。マグマのように煮えたぎった内面を、文章に落とすことで、冷却することができるのです。ブログの運営は、なんというかその繰り返しみたいなものだと思います。

繊細さを失い、傷つくことがなくなったら、僕はブログを書くのをやめてしまうのかもしれません。そうはなりたくないので、ナイーブな部分を積極的に維持するよう努めたいところです。


関連本。終身刑受刑者の更生プログラムを描いたノンフィクション。ここでも「語ること」が重要視されています。重大な罪を犯した受刑者の多くは、過去に性暴力や虐待などの「被害者体験」をもっているそうで。


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