2011年3月28日7時36分
被災後に見つかった虎舞いの装束=岩手県陸前高田市、山本壮一郎撮影
虎舞いの面を手にする斉藤実さん=23日、岩手県陸前高田市、山本壮一郎撮影
町を見守る三陸大王杉。経営する会社を失った佐藤道夫さんは時折、訪れている=岩手県大船渡市三陸町、矢島写す
高台に家が並ぶ吉浜地区。湾沿いの低地は田畑が広がる。木村正継さんは、震災の教訓を伝承し続ける大切さを訴えた=岩手県大船渡市三陸町、矢島写す
東北地方の伝統や信仰が被災者たちの心の支えになっている。
「ジョイワナ、ジョイワナ」。黒光りする虎の面が激しく舞い、黄色と黒のしま模様の布が左右にはためく。
岩手県陸前高田市の大石地区。周囲に倒壊した家屋や逆さになった消防車が無造作に散らばる公民館の前で23日、伝統行事「虎舞(とらま)い」が披露された。本来は、家々を訪ね、暴れ回って邪気を払う小正月の風習だ。虎を操った左官業の斉藤実さん(61)は言う。
「避難所にいても気分が落ち込むだけだもの。おらほの守り神をがれきの下で眠らせるわけにはいかないっぺよ」
160戸あった大石地区は震災で40戸ほどに減り、住民350人のうち80人が行方不明になった。虎舞い用の面や衣装が保管されていた公民館も水没した。七夕祭りで使う高さ8メートルの山車も骨組みが傾き、竹飾りがひしゃげた。
震災から3日後、大工の金野光晃さん(66)は公民館や山車の修繕に取りかかった。
「ここ10年で祭りがまたやれるとは思ってねえ。でも、ちょっこりちょっこりやってれば、孫やひ孫の代では復活するべ。そのときのために残しておくっぺよ」
今では10〜70代までの男女10人ほどが手伝い、金づちやノコギリの音を響かせている。多くは家族を失い、家を流され、避難所で暮らしている人たちだ。家族4人を失った星野功子さん(75)は「いろんなものが流されたけど、地域の絆は残っていることを確かめたいのよ」。
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岩手県大船渡市三陸町の杉下地区には、守り神がある。
高台の八幡神社境内にそびえ立つ「三陸大王杉」だ。高さ25メートル、幹の周囲11.6メートルの巨木は、樹齢1500〜7千年と言われる、市の天然記念物になっている。
地震のあった翌朝、津波で実家を失った佐藤クニ子さん(70)は不思議な光景を見た。神社に向かう道はがれきがふさぎ、階段は崩れ、近くの杉は根元から折れている。それでも、大王杉はどっしりと立っていた。「杉から線を引いたように後ろには津波の被害がねかった。まるで町を守っているみたいだべ」
時折、この杉を見上げ、元気をもらう被災者は少なくない。全壊したガソリンスタンドのがれきを片づけていた経営者の佐藤道夫さん(66)は作業の合間、大王杉を訪ねる。「震災があっても、この杉の葉はみずみずしい。おれらも何度でも立ち上がるしかねえべ」
大王杉が森のように集落を覆う姿から「杉下」という地名が生まれ、漁師は灯台代わりにし、海上安全を願った。腐食が進んだ1990年代には住民の寄付や旧三陸町などが2千万円近くを出資し、蘇生させた。「大王杉を守る会」の山田林さん(73)は「あの杉はこんな津波を何回耐えてきたもんだかね。変わり果てた町を、ずっと変わらぬ存在が見守ってくれる。それが住民の心の支えになる」と話す。
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大船渡市三陸町の吉浜地区は、約1400人の住民のうち行方不明者は1人、倒壊も4棟にとどまった。多くの家は湾を望める高台に建てられ、住民は素早く避難した。
「先祖が100年後の子孫を救ってくれた」。農業柏崎久喜さん(61)は話す。
柏崎さんの自宅にある古びた掛け軸の脇には115年前に地区の約2割の命を奪った1896(明治29)年の「明治三陸津波」の日付が記されている。そのとき亡くなった柏崎家の先祖4人の名前と絵もある。被災の記憶を風化させないようにと描かれたという。
1933(昭和8)年の「昭和三陸津波」の後には「家は今より高台に建てろ」といった教訓が記された和紙が作られた。
津波の被害にさらされ続けた三陸沖の多くの集落では、高台に移り住んでも、漁をする不便さから湾沿いに戻った。しかし、吉浜地区は違った。町史などによると、1896(明治29)年の明治三陸津波の後、当時の村長が、低地にあった吉浜地区の集落を丸ごと高台に移し、低地を田んぼに改造したという。
海を見下ろせる高台に住む歴史愛好家の木村正継さん(66)は言う。「こんな津波は生きているうちにはもうないかもしれない。だからこそ、孫やひ孫の代までしっかりと伝承し、悲惨を繰り返さないための街づくりが必要だ」(矢島大輔)