Epilogue.
クリスマスも近かった頃に急に隣で手を握ったアリスは、それ以来、頻繁にそうして触れてくるようになった。
だが、火村からの手出しは一切拒否し、ちょっとでも動くとすぐに逃げていく。
年も明け、講義も通常どおりに始まったが、アリスの態度は相変わらずだ。
ただ、触れてくる場所が増え、時間が増えた。
それは嬉しいことでもあり、苦しいことでもある。
春の気配がする頃、それはほとんど拷問になった。
触るだけ触って、はいオヤスミでは、その後の朝までの時間をどうにもこうにもぐっすり眠れるとは言い難い気分で過ごすことになるのだ。
手のひらが押し付けられる腕や肩や、映画のエンディングまでずっと握っている手や、とにかくそれきりで、火村からは一切アンタッチャブルなのはいくらなんでも酷い。
酷い、と、思っていながら何も出来ないのは、やはりアリスに対して自分がもっと酷いことをしたという自覚があるからだ。
それでも、そろそろ彼も、最近ではあまり怯える様子を見せなくなったと思う。
こうしてゆっくりと関係を作っていくのも、その先のもっと長い付き合いのことを思えば必要なのかもしれないと納得するようになった。
「火村、待って!」
今日も今日とて、散々に背中を触り倒されそのまま放置された次の日の朝、出勤しようとする火村をパジャマ姿のアリスが珍しく呼び止めた。
そして、いきなり火村の頬に触れた。
朝から何をしやがる、と思ったが、すでに条件反射並みの素早さで、ぴたりと動きを止めてしまった。
少しは、昨夜はアリスもちょっとは寂しかったんじゃないか、と期待した。
結果的に言えば、期待以上だった。
「絶対、動かんでな、火村」
やけに真剣に、そして久しぶりに言葉でそう牽制され、訳が分からないなりに肯く。
アリスの手は、首に触れ、そのまま胸を滑って、さらにその下へと降りていった。
「アリ……!」
「動かんでってば!」
怒ったように言われ、それが少し、怯えて見えたので思わずやっぱり動きを止めた。
その間にも、いつでも逃げられるように身体を緊張させたアリスが、ゆっくりと玄関先で火村の前に膝をつく。
まだ寒い冬のこと、冷えた靴脱ぎのコンクリートは固く痛いに違いない。
だが、ごくりと喉を鳴らしたきり、火村は何も言わなかった。
罵ってくれて構わない。
何が行われようとしているのかを思えば、絶対、誰だって、黙るに決まってる。
「は……」
スラックス越しに触れられただけで、息が漏れる。
一気に硬さを持ち始めたそれに勢いを得たのか、アリスは手早くベルトを外してジップも下げてしまった。
思わず逃げるように後じさったが、靴箱に背中がぶつかって止まる。
それに寄りかかるようにして、肘を突いた。
ずり下げられた下着から顔を覗かせたそれを、アリスが眉を寄せて眺めている。
「……おい。春休みの宿題か? 観察日記をまとめてつけるタイプじゃないだろ、おま……っ!?」
ちろり、と裏側の先端を舐められた。
腰から突き上げてくる痺れに言葉を失い、ぐっと膨らんだ自分に苦しめられる。
鈴口から溢れそうになっている雫に、奇妙な冷静さで下着が汚れてしまうと思った時、アリスの唇がすぼめられそれをチュっと吸っていった。
音を立てた振動と吸い付かれた感覚に、息が荒くなる。
「アリス……てめ、これで放置だったらさすがに俺も」
「いくらなんでも、それやったら虐めやんか」
今までのはそうじゃないのかと詰め寄ろうとしたとたんに、ぬるりと唇に先端を含まれた。
「……ッ」
そのまま、ちゅぷ、と一端離れ、それから、たっぷりの唾液をまぶすように一杯に咥えられる。
なんとなくぎこちない舌先の動きと、上から見下ろすアリスの耳の赤さに煽られた。
「アリス……」
やがてスムーズになっていく動きが、かつての行為に重なって行く。
その髪を撫でたくて、けれど恐くて手が出せなかった。
アリスの口の中は熱くて柔らかい。
限界は早かった。
「……つ、ッ、アリス、出……」
「ん、……ん、ぅ……」
後ろに下がることも出来ず、腰を抱きしめるようにしている彼の口の中に放ってしまう。
アリスはそれを飲み込んだ。
こくりと飲み下す音に、再度導かれるように残りを吐き出す。
残ったものも全て啜りこむようにされて、その時初めて、その髪に触れた。
彼は逃げなかった。
口から出したそれをさらに丁寧に舐めて綺麗にし、そうして、火村を見上げて唇を舐めた。
「アリ……」
「ゴチソウサマ」
真顔で言ったアリスは、下着を上げ、身づくろいを完璧にさせてから、立ち上がる。
そして、呆然としている火村に小首をかしげ、
「次、いつ来る?」
と聞いた。
本当は週末まで来ないほうが楽なスケジュールだったが、即座に、今日、と答えた。
アリスはがちゃりとドアを開け、あれよあれよという間に火村を追い出し、
「ほな、お仕事頑張ってな」
とにっこり笑って消えた。
思わずドアに向き直ったが、素早い錠の下りる音とおまけにチェーンもかけられた。
「お……おま、今日俺はこのまま……この……ッ、やっぱり虐めじゃねぇか馬鹿アリス!」
半端に残った熱と、今夜に期待してしまう不埒な妄想で、今日一日が仕事にならないことは明白だと火村思う。
ちょっとだけ泣けた。
その日、火村の喫煙量は普段よりも少なかった。
逆になるようにも思えたが、実際は、タバコに火をつけたり両手が使えなかったりする手間を省き、一心に仕事に取り組んだために減ったらしい。
代わりに、助手の杉澤がいつになく口数を増やし、次々とやって来る来訪者たちを面会の目的ごとに振り分けたりしていた。
その辺、彼の妙な冷静さは大変に役に立つ。
火村が会う必要はないと思う者をさっさと帰らせる手際など、感心するほどだ。
おかげで、驚異的なスピードで最低限な仕事を終わらせた時には、まだ夕方と言っていい時間帯だった。
挨拶もそこそこに、大阪に車を飛ばす。
マンションのチャイムを鳴らしたのが、時間的にまさか火村だとは思わなかったのだろう、誰何されて名前を応えると驚いたようにチェーンが慌しく外された。
「火村? なんかあったんか、こんな早く」
まだ朝のパジャマのままだ。
まさかあれからずっと寝ていたのだろうか。
アリスならばありうることだし、見ればなんとなく寝起きの顔だ。
だが火村にとってはそんなことは問題ではない。
アリスを引きずるようにして玄関に入り込み、ドアを閉めて鍵をかける。
抱きしめても、抵抗はなかった。
身体の形が腕に馴染み、懐かしささえ覚える。
やっぱり寝ていたのだろう、首筋から薄い汗の匂いがした。
「アリス、こっち見て」
胸に伏せていた顔をあげたアリスに、不意打ちのようにキスをする。
最後にしたのは、去年の春だ。
火村の誕生日だった。
そうしたイベントも、半端な関係のせいかアリスはこれまで通りのスタンスを崩さなかった。
友人だった時のように、そっけなく過ごす。
けれど、あの日、珍しくアリスからキスを仕掛けてきた気がする。
それが彼なりの、精一杯の特別さだったのかもしれない。
その同じ日に、佐倉の妹は殺人者となった。
彼女達と、自分と、何が人生を分けたのだろうか。
それはおそらく一生答えの出ない問題だが、自分はそれを探しつづけるに違いないと火村は思う。
そのためにフィールドワークという手法をとっていることを、間違いではないと信じている。
「……久しぶりや。火村のキス」
「俺の? 俺のはってことか?」
「なんでそうなるんや、耳に変なフィルタついてんのと違うか……んっ、ちょ……」
「……は、うるせぇよ。11ヶ月ぶりなんだ、黙って味わわせろ」
「細かいな、君」
意図せずとも深くなるキスに、互いの息があがっていく。
多少、肩に力の入っているアリスも、怯えてはいないようだった。
それでも、確認したくなり、
「平気か、アリス……?」
「ん……」
彼は唾液に濡れた唇で、火村の顎に軽く吸い付いた。
「気持ちいい……」
うっとりした顔で言われ、有無を言わさず寝室に引きずり込んだ。
風呂が、とか、準備が、とか、アリスはとにかく嫌がっていた。
だが火村にしてみれば、それが嫌悪でない時点で右から左だ。
彼の言う通り、便利なフィルタがついているのかもしれない。
「……ぁッ、ぁッ、も、やッ…!」
「冗談。こっからだろ」
口で一回、後ろを解す間に一回達したアリスは、もう嫌だと本気で火村を蹴ろうとした。
それを片手で受け止め、軽く流す。
先端を押し付け、入り口を撫でるようにすると、諦めたように大人しくなった。
ゆっくりと埋め込むが、いくら丁寧にしても久しぶりの挿入はかなりきつい。
アリスはすっかり萎え、ただひたすら痛みに耐えているようだった。
最初の時も、受け入れる瞬間にあげた声は酷くつらそうなもので、けれど大丈夫だと言い張っていた。
火村は半分ほどの位置で動きを止め、それからゆっくりと、アリスの頬を撫でた。
戸惑ったように見上げてくる目が涙ぐんでいて、けれどキスするために屈めば無理な負担がかかりそうだと諦めた。
代わりに彼の手を取り、指先に口づける。
身体に触れ、わき腹から優しく太ももまでを撫でる。
左足を抱えあげ、肩に乗せたふくらはぎに唇を落とす。
舌を這わせ、足首を軽く噛み、つま先を咥えた。
親指から丁寧にしゃぶり、ひくつく脚越しに、呆然としているアリスを見る。
身体の強張りがすっかり解けていて、ゆっくりと挿入を再開すると、今度はなんとか根元まで収まった。
ナカがうねるように火村を包む。
軽く動くと、アリスが喘いだ。
「良くなってきたか?」
「…ッ、い、たいわ、あほぅ……」
「あー、俺はすっげぇ気持ちいい……」
「言うてろ、ヘンタイっ、……ッ!」
「上等だ」
狙った位置に先端を擦りつけると、アリスは声もなくがくがくと仰け反った。
揺さぶられ、乱れる様は、久しぶりの逢瀬のせいか、それとも通じた気持ちの効果だろうか。
身体の間でぬるつくのは、汗とアリスの体液だ。
それすらが火村の肌に痺れを呼び起こす。
「ん、く……ぅッ、ひむ……きつ……ッ」
「すまん、加減……無理」
「ひぁ、……ッあぁぁぁッ!」
達したアリスが落ち着くのも待てず、そのまま突き上げつづける。
涙と涎でぐちゃぐちゃの顔が、ますます火村の歯止めを効かなくさせた。
「アリス、アリス……もうちょっと起きててくれよ」
「は、……んぁ、ぁ、ひ、むら……」
「ああ」
「……、……きっ……」
好きだった、愛してた、恋をしていた。
過去形でいくつもぶつけられた言葉が、耳元で押し付けられるように呼びかけとなる。
散々に悲しませた人が、それでもなおそう言ってくれることに、頭を垂れた。
付き合わせた額の意味を、アリスは知っている。
謝罪の代わりに呟いた同じ言葉に、彼は笑った。
火村が恋をし始めた時のように、その顔で過去を断ち切ったのかもしれない。
アリスが眠っている。
気づいたらなぜか壁に張り付いて寝ているので、冷えてはいけないと腰を抱いた。
引き寄せると、汗の引いた背中と触れ合うのが気持ちいい。
誘われるように目を閉じた。
視界は黒く塗りつぶされ、火村はトンネルを掘っていた。
入り口は知っているが、出口は知らない。
あとどのくらいか、そもそも出口があるのかどうかさえ分からない。
生憎と向こう側から掘り進めてくれる人がいないからだ。
佐倉は壁の向こうに妹を見た。
不器用なやりかたで互いを救おうとしたのだろう。
彼女はそれを、はっきりと光だと言った。
火村はそうは思わない。
彼女らの出口は正しい位置にはなかった。
それを証明するために、火村は一寸先さえ見えない場所を手探りで進む。
突き抜けた場所が美しいとは限らない。
たどりついたものが正しいとは限らない。
そう信じているだけだ。
気が付くと気配があった。
隣に誰かがいた。
その人は、何も言わない。
ただ、その手を土壁に突き立てた。
見えないくせにそう思う。
指先から血が滲み、その温かな血で湿った土が、ぼろぼろと剥がれ落ちていく。
先は遠く、どこへ行くとも知れず、その闇の中で火村は独りをやめる。
目が覚めた。
眠るアリスの指が、しっかりと火村の手を握っていた。
end
本編最終話へ